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ライブラリアン・コラム

特集

ウェブ資料展:途上国と感染症

感染症と国際協調を考える――Pandemics and peace : public health cooperation in zones of conflict by William J. Long

能勢 美紀

2020年7月

今回紹介する資料
末尾に「(※)」印が記載してある資料はアジア経済研究所図書館で所蔵しています。リンク先はそれぞれの図書の蔵書目録(OPAC)になります。
感染症は国家対立を深化させるのか
新型コロナウイルスによる感染症(以下、COVID-19と表記)の拡大により、昨今、国家間の緊張が高まっていると感じられる場面や報道をよく目にするようになった。本来であれば世界が一致団結して感染症に立ち向かうべきところ、現状は国家間の対立や緊張関係が目立ち、軍事衝突に発展する可能性さえ感じさせる状況にある。多くの人が危険にさらされる国家規模を超えた感染症の拡散、すなわちパンデミックは、国家対立を深化させるのだろうか。
Pandemics and peace : public health cooperation in zones of conflict

本書はこの問いに対する一つ答えを提示する。それも「明るい」答えだ。本書は題名のとおり、国際紛争地域であるメコン・デルタ、中東、そして東アフリカでの感染症に対する国際協調の事例について紹介、分析したものである。ほとんど知られていないが、歴史的な紛争地域である上述の3地域では、感染症に対して情報を共有し、協調して対応する相互的な協力体制が構築されている。

例えば、2002年から2003年にかけて猛威をふるった鳥インフルエンザに対して、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンの医療専門家や厚生官僚は互いに協力し、情報を共有して感染の拡大を防いだ。この3国は「パレスチナ問題」とそれに付随する領有地問題で長年敵対関係にあり、紛争が絶えず、常に軍事的緊張状態にある1。それでも感染症拡大阻止に対しては協調することができた。あるいは、協調せざるをえなかった、という方が正しいかもしれない。

地図 イスラエルが「占領」するヨルダン川西岸地区

地図 イスラエルが「占領」するヨルダン川西岸地区

写真1 ヨルダン川西岸に建設された分離壁。

写真1 ヨルダン川西岸に建設された分離壁。イスラエル人入植地とパレスチナ人居住区を高い壁が隔てるが、
パレスチナ人のもともとの生活圏を分断して建設されているため、日常的な行き来は続いている。

感染症にとって人間は疫学的に「一つ」である。人種や遺伝、環境によるかかりやすさといったことはあるにしても、基本的に感染症は人間および各国を等しく危機に陥れる。感染症にとっては誰がどこの国の人であるかなど関係があるはずもない。そして、敵対関係にある、ということは平和的な関係にあるよりも、場合によっては軍事活動に伴う人や物資の往来を増加させる。特に、集団で行動する「軍隊」はウイルスの格好の的であり、艦隊や地下壕に至っては換気の悪さという点でもウイルスにとって非常に好都合だ。「換気がよい」と思われる地上も、紛争地域、そして開発途上国地域においては、感染症に対する危険性で艦隊や地下壕の環境とほとんど変わりはない。というのは、地上も長年にわたる戦闘あるいは貧困によって公衆衛生資源がほとんど存在しない場所になっているからである。例えば、上述した3国において、こうした場所で一人でも感染者を出せば、その誰にとっても大きな脅威となることは明白だ。誰も相手の国の中だけに感染症を留めておくことなどできないのである。かくして3国は、自国内に限った対応では確保することができなかった利益を得るために国境を超えた取り組みに参加する決断を下す。

イスラエル、パレスチナ、ヨルダンの感染症対策組織「中東感染症監視コンソーシアム Middle East Consortium on Infectious Disease Surveillance (MECIDS)」は、2002年11月に発足した。これは、トルコのイスタンブルで開催された「Search for Common Ground (SFCG)」主催の疾患監視地域協力会議に参加した中東の保健・医療関係者の提言が元になっている。SFCGは従来の敵対的なアプローチではなく、協調によって問題解決を目指すことを目的として活動する国際NGOである2。提言の背景には、2001年に起きた9.11同時多発テロに付随する中東での兵器拡散、特に生物兵器に対する懸念があり、そのことから各国の厚生官僚のコミットメントが求められた。各国政府の側でも、国境を超えた疾病対策についてはその責任と利益のあることであり、関係者は前向きに参加を表明した。こうして、MECIDSは、地域における長期的な衛生、安定、安全を推進することを目指し、参加者は疾病の発生(自然発生も人為的な発生、すなわち生物兵器も含む)に対する地域の脆弱性を低減することと、衛生の専門家たちの間で国境を超えた信頼と自信を培うことをその目的として発足することとなった。

MECIDSのメンバーとそのパートナー組織には、各国の政府機関に加え、大学、NGOなどの民間アクターが参加している。結果として、先に少し言及したように、MECIDSは鳥インフルエンザの流行に際して3カ国間で協調し、感染を抑えることができた。そしてここで培われた信頼関係は、2006年にパレスチナでハマスが第一党となってから激しさを増したパレスチナ内部での抗争、そしてこれと並行して行われたイスラエルによるガザ地区への侵攻とそれに続く2008年からのガザ戦争といった地域での対立の激化にもかかわらず、途絶えることなく続いている。実際、2009年にイスラエルで豚インフルエンザが報告された際も、迅速な情報共有と感染症対策が行われた。

MECIDSは今回のCOVID-19に対してもすぐに対応している。同地域での感染が始まった3月中旬からわずか2週間後の4月4日には“Challenges Facing COVID-19 Pandemic”と題したウェブセミナーを開催し、各国の感染状況やその特徴(感染者の男女比や年齢層など)を報告するとともに、医学的および非医学的な感染症対策とその問題や影響、課題などについて情報共有を行った3。報告者は危機管理の専門家、感染症の研究者、厚生省の役人などで、感染症対策に必要な視点と情報がバランス良く反映されている。報告者とその内容からは、メンバー間での状況の整理と共有だけでなく、このセミナーを通してCOVID-19に対する正確な情報と対策を為政者や大衆に知らせる意図もあることが感じられた。また、国家間協力に重きを置くMECIDSの姿勢を代弁するように、このセミナーでは、「コロナウイルスは国境をものとも思っていないのだから、私たちだってそうすべきでしょう?」という、既存の国境、関係性を超えての協調への呼びけが報告者の一人から行われている4。パンデミックという危機のなかで特に重く響く、しかし希望を感じさせる言葉だと思う。

著者のロングは、本書でとりあげられている3事例の成功の要因として、「国際協力の3つのI」の重要性に言及している。3つのIとは、利益interest、制度institutions、アイデンティティidentityであり、この3つを以下にあげるような形で構築することで、国家間関係が改善される可能性があるという。

重要な国際公共財における共通の利益を確保し(利益)、適切で、包括的、実践的、公平、効果的な制度的取り決めを構築、維持し(制度)、以前は排除されていたアクターをグループ内に包括するようアイデンティティを再定義し、この新しいグループのメンバー間で信頼を築く(アイデンティティ)。

今回のセミナーからも感じられることであるが、本書のなかでも特に印象的だったのは、各国の関係者がMECIDSでの活動を通して互いに信頼関係を築き、相手に対する敬意を抱いているという点だ。敵対関係にあった者同士の間での協調が成功するか否かは、――もちろんそれぞれにとって有益であり、制度設計がしっかりしていることも重要であるが――おそらく活動を通じて共通の新しい、ユニークなidentityの形成が行われるかどうかにかかっている。MECIDSの関係者が述べるように、MECIDSは疾病とその対策の専門家集団であり、人々を疾病から守る、という点で国境を超えて団結している。そこでは従来の「イスラエル人」「パレスチナ人」「ヨルダン人」といったアイデンティティを超越する新しいアイデンティティが形成された。ここで形成されたアイデンティティと国境を超えたネットワークは既存の国家間対立の解決に向けた新しいアプローチを提示する。

さて、本書から離れて、改めて今日の状況を見てみよう。いまだ国家間の対立は激しく、今回取り上げたイスラエル、パレスチナ、ヨルダンが深く関係するヨルダン川西岸地区についても、本来は占領している立場にあるイスラエルが自国領への併合をほのめかせ、3者の関係はいつになく悪化している。一方で、今回のパンデミックによってもたらされたこうした人道危機や安全保障上の危機に対して、人々は国際協力、協調の必要性を痛感している。WHOをはじめ、国家を超えた協調の動きもこれまで以上に出てきている。こうした動きが感染症の広がりとともに今後どこまで制度化、具体化していくかによって国際関係は変化するだろう。おそらく良い方向に。

地図、写真の出典
  • 地図  Israel Palestine Map(Public Domain)
  • 写真1 Justin McIntosh, Israel's "Security Fence", "West Bank Barrier", is a solid wall along 5% of it's length. 10 meters high and reinforced concrete(CC-BY-2.0).
著者プロフィール

能勢美紀(のせみき) アジア経済研究所学術情報センター図書館情報課。担当は中東・北アフリカ、中央アジア(2015年~現在)。最近の著作に「【世界の図書館から】トルコ大国民議会図書館(トルコ)」(『U-PARLコラム』2019年)、「シリア難民のいま――トルコの新聞にみる「アイラン君」後の状況」(『アジ研ワールド・トレンド』No.248,2016年)など。

  1. ヨルダンが「パレスチナ問題」の関係者、というのは日本ではあまり知られていないかもしれない。ヨルダンは、1948年の第一次中東戦争の結果、英国の旧委任統治領パレスチナの中心地であるヨルダン川西岸地区や東エルサレムを併合し、難民を含む多くのパレスチナ人を抱えることになったが、その後1967年の第三次中東戦争で同地域をイスラエルに占領され、現在に至っている。
  2. https://www.sfcg.org/
  3. このセミナーについては以下のサイトを参照のこと。また、セミナーの録画映像も公開されている。http://www.mecidsnetwork.org/content/challenges-facing-covid-19-pandemic
  4. この報告を行ったのはイスラエルのテルアビブ大学危機管理災害医療学部公衆衛生学科のブルリア・アディニ博士(Bruria Adini, Phd. Department of Emergency Management & Disaster Medicine, School of Public Health, Tel Aviv University)である。