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ライブラリアン・コラム

特集

ウェブ資料展:途上国と感染症

パンデミックの最前線に立たされる人々――フィリピン人移民と看護の歴史
 

山下 惠理

2020年8月

今回紹介する資料
末尾に「※」印が記載してある資料はアジア経済研究所図書館で所蔵しています。リンクを開くと蔵書目録(OPAC)がご覧になれます。

写真1 Lost on Front Lineトップ画像

写真1 Lost on Front Lineトップ画像
Lost on Front Line

英国ガーディアン紙は、COVID-19によって亡くなった米国の医療従事者の記録を集めたLost on Front Line特集を組み、現在に至るまで898人のケースを報告している(8月5日現在)。医療システムの脆弱性に焦点を当てることを目的としたこの調査が明らかにしたのは、くしくもフィリピン人移民の犠牲の多さだった。

COVID-19で亡くなったフィリピン人看護師を追悼するオンライン記念碑サイトKanlungan(フィリピノ語で「聖域」)には、開設後世界中から次々に哀悼のコメントがよせられており、葬儀や遺族の生活のためまたたくまに数万ドルのクラウドソーシングが行われた。

パンデミックの語源は古代ギリシア語のパンデモス(すべての民衆)だという。政治的境界を意に介さないコロナウィルスの拡大を前に人類はあたかも平等に感染リスクにさらされる一つの民になってしまったかのようだ。

一方で、コロナの最前線では不平等が生じている。国境をまたいで医療に従事するフィリピン人看護師はいまあらゆる国においてコロナの「最前線」に立たされている。 何故、本来は医療を必要とするはずの発展途上国から先進国への看護労働力の移動が定着したのか。またこれらの背景にある歴史からわれわれはどのようなことを学び取ることができるのか。

今回のコラムでは、当図書館蔵書のEmpire of Care: Nursing and Migration in Filipino American History(『ケアの帝国 フィリピン系アメリカ人の看護と移民の歴史』、以下"Empire of Care")を中心に紹介する。米国とフィリピン人看護師の長く複雑な関係を読み解きつつ、ポストコロナの医療問題や生き方を考えるための足掛かりとしたい。

写真2 Duke University Press版本書表紙。1929年渡米するフィリピン人看護師。

写真2 Duke University Press版本書表紙。1929年渡米するフィリピン人看護師。
ケアの帝国

"Empire of Care"は、フィリピン人と看護移民の歴史を「ケアの帝国」すなわち米国との関係性のなかで読み解いたものである。

著者はカリフォルニア大学バークレー校の民族学の教授で、人種・ジェンダー・移民を中心に研究している。COVID-19の発生以降、The AtlanticをはじめLos Angeles TimesNew York Timesなど名だたる代表紙への寄稿で本書に触れており発行から20年経った今、本書のトピックが改めて注目を浴びていることがうかがえる。

本書は時系列の三部六章で構成されている。読者は豊富な史資料やインタビューを通し、医療に従事するフィリピン人移民が米国に定着するまでの経緯を包括的に知ることができる。

第一部では、米国統治時代(1898年~1946年)、フィリピンに西洋医療が浸透し看護が専門職化する過程に焦点が当てられている。当時熱帯病に苦しめられていた米軍は、現地での感染症対策を最優先事項としフィリピン人を看護にあたらせた。1907年に米国主導で看護学校が開設されると、真っ白なユニフォームのデザインをはじめ英語による実地訓練から看護師認可基準に至るまで、米国と足並みをそろえた看護教育が本格化した。

第二部では、第二次世界大戦以降からマルコス政権期(1965年~1986年)が扱われている。冷戦中の深刻な看護師不足を背景に、米国は1948年にフィリピン政府との交換プログラムを組み積極的に看護師を誘致した。1952年に外国人のための短期就労ビザであるHビザが導入されるとその数はさらに拡大し、フィリピン側におけるマルコス政権下の経済成長戦略もあいまって、労働力輸出は大いに奨励された。当事者であるフィリピン人看護師の大半は中流階級出身であり「ナースキャップはパスポート」という謳い文句のとおり、経済的な理由のみならず文化的・社会的な憧れから渡米を決意したものが多かったという。

第三部では、1990年の改正移民法によって制度化された「H-1Bビザ」や看護師専用の「H-1Aビザ」として知られる在留資格が搾取の構造を生み出したことや、米国に渡ったフィリピン人看護師たちの表象の分析を通し、第一部で触れた植民地期の人種階層のイメージが現在に至っても引き継がれていることが論じられている。

かくして本書は、教育や制度の普及により「衛生の監督者・教育者」であるアメリカ人と「監督対象・学習者」であるフィリピン人看護師との間に人種的な階層構造が作りだされ、「より進歩した米国」への希求心を抱かせることで看護労働移動が定着していったことを明らかにした。

本書の根幹をなす主張は、1990年代以降のフィリピン研究の流れを汲んだものでもある。1991年ピナツボ山の噴火による米軍基地の完全撤廃を発端に 、社会全体のみならずフィリピン研究においても米国との関係史の見直しが行われた。これらの研究は「未開のフィリピン人を規律化して文明に導き慈愛をもって独立へと導く」――いわゆる友愛的同化のロジックにおいて感染症対策や教育の普及は植民地支配を正当化するための装置として機能したと主張する。近年のフィリピン研究における米国との関係は、まさしく感染症と共に見直されてきた。

フィリピンにおける感染拡大

現在、英国のNHS(National Health Service 国民保険サービス)では、およそ2万人のフィリピン出身の看護師が働いており、米国ではフィリピン人看護師の数は全体の4%に上る。国家の枠組みを超えて看護の領域を支配する「ケアの帝国」の手法はグローバルに拡大し、いまあらゆる国でコロナの「最前線」の構造が再生産されている。

フィリピン共和国本国では3月中旬から6月まで世界最長レベルのロックダウンを実施し、感染者数・死者数は東南アジア最悪とまでいわれる水準に達した。2020年3月に正式に共和国法第11469号として制定されたフィリピンの法律(Bayanihan to Heal as One Act)によってドゥテルテ大統領はその権限を拡大した。BayanihanはBayan(国)を構成する共同体としてのつながりを意味し、国内での連帯を強調するものである。同国では、コロナ以前から看護師不足により病院の閉鎖が相次いでおり、海外雇用庁は自国でのコロナ被害の拡大を受け医療従事者の海外出稼ぎを当面停止させることを決定した。出稼ぎを予定していた医療従事者は今後フィリピン国内の防疫施設などに割り振られ、医療現場を補強する役割を担う。海外から国内の医療労働へ――この流れを踏まえればフィリピンにおける甚大なコロナ被害拡大の一因に海外への高度人材の流出があったことは言うまでもない。

フィリピンの出稼ぎ労働者(Overseas Filipino Workers: OFW)は、ホセ・リサールを代表とするフィリピン史の偉人になぞらえてしばしばフィリピン国内では「英雄」とたたえられてきた。一方、一部英国メディアではコロナ禍において医療現場に従事するフィリピン人看護師を「見えざる英雄」と呼ぶ。フィリピン国内では英雄とされてきたOFWは、海外では(パンデミックに至るまで)不可視の存在であり続けた。今回紹介した“Empire of Care”はフィリピン人看護師の移動労働が、歴史的・社会的経緯によって生み出され不可視化される経緯を提示してくれたともいえる。米国ではトランプ政権の移民抑圧政策によりフィリピンからの看護師供給に支障をきたしていたところCOVID-19の問題が発生し医療崩壊に拍車がかかっている。「ケアの帝国」は今その足元から瓦解しようとしている。見えざる英雄がパンデミックの「最前線」に姿を現すとき、われわれはなぜ彼らが不可視の存在となってしまったのかその歴史性自体からも目をそらすことはできない。

Kalunganが作成したGoogle Map上のオンライン墓碑は世界中に広がっている。フィリピン人看護師がグローバルかつローカルに自律的な生を模索してきたその歴史と現在から広がる感染と終わらない隔離を生きるわれわれが学ばなければならないところは大きい。

写真の出典
参考文献
  • 千葉芳広「植民地支配と都市空間:――アメリカ統治初期マニラの公衆衛生――」『東南アジア研究』56巻1号、2018。
  • 日下渉「規律と欲望のクリオン島――フィリピンにおけるアメリカの公衆衛生とハンセン病者」、坂野徹・竹沢泰子編『人種神話を解体する 科学と社会の知』東京大学出版会、2016。
著者プロフィール

山下惠理(やましたえり) アジア経済研究所学術情報センター図書館情報課。担当は東南アジア。