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第4話 ペルーを代表するカリスマ政治家

アラン・ガルシア(ペルー共和国大統領1985~90年、2006~11年)2019年4月17日逝去(享年69歳)

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051486

2019年9月

(3,427字)

ペルー共和国大統領を2期務めたアラン・ガルシア元大統領が、2019年4月にリマの自宅で自殺した。1980年代後半の第1期では経済政策の失敗によりペルー経済を危機に陥れたが、2000年代後半の第2期では資源ブームを追い風にペルー経済を成長へと導いた。

写真:アラン・ガルシア

アラン・ガルシア
2019年4月17日午前6時半、ペルーの首都リマ市ミラフローレス区の閑静な住宅街にあるアラン・ガルシア元大統領の自宅を検察官と警察官が訪れた。ブラジルのゼネコンによる汚職事件に関わる家宅捜索と身柄拘束のためである。検察官らの到着に気がついたガルシアは、弁護士に電話すると言い残して、2階の寝室に入ってドアをロックした。まもなく銃声が聞こえたため警察官がベランダから寝室に入ると、ピストルで頭を撃ち抜いたガルシアがベッドの脇に倒れていた。午前10時すぎ、ペルー政府はガルシアが緊急搬送先の病院で死亡したことを発表した。
最年少大統領の誕生

アラン・ガルシアは、1980年代と2000年代に2期にわたって大統領を務めた現代ペルーで最も著名なカリスマ政治家である。父親の影響で、反帝国主義・基幹産業の国有化・農地改革などを主張するアメリカ革命人民同盟(アプラ)党の活動に関わり17歳で党員となった。国立サンマルコス大学法学部を卒業後、スペインとフランスに留学、法学と社会学を学んだ。軍事政権からの民政移管が進むなかで、アプラ党創設者でガルシアが師と仰ぐアヤ・デ・ラ・トーレに呼び戻されて帰国、1978年には29歳で制憲議会議員に、1980年には下院議員に選出された。大衆を説得する演説の才能を見込まれて、1982年にはアプラ党の書記長に就任した。1985年の大統領選挙に同党の大統領候補として出馬して当選、国民の期待を一身に集めて、ペルー史上最年少の36歳で大統領に就任した。

当時ラテンアメリカ諸国は対外債務危機に苦しんでいた。国際通貨基金や世界銀行は、債務繰り延べや追加融資の条件として、財政支出の削減や税収の拡大を求めた。ガルシア大統領はこれに反発し、債務返済より国民生活を優先するとして、対外債務の返済を輸出収入の10%にとどめることを発表した。そして国際金融機関の意向とは逆に、財政支出を増やして景気を拡大し、物価・賃金の凍結により経済の安定をめざした。その結果、ペルー経済は一時的に大きな経済成長を遂げ、ガルシア政権は高い支持率を得た。ガルシアが官邸のバルコニーで政策を説明する演説は「バルコナッソ」と呼ばれ、国民の熱狂的な支持を集めた。

しかし5年の任期の半ばにさしかかると、国際金融市場からの孤立や拡大する財政赤字に対処するための通貨増発により、1988年末には年率1700パーセントに達するハイパーインフレーションに見舞われた。加えて、勢いを増す反政府組織によるテロ活動が首都リマに及んでも、これを抑えるために有効な手段をとることができなかった。政権末期には支持率が一ケタ台まで落ち込み、失意の中でガルシア大統領は退任した。後任のフジモリ大統領が大胆な改革を続けるなかで、憲法を停止して議会を閉鎖する「自主クーデター」を起こすと、身の危険を感じたガルシアはコロンビア大使館に逃げ込んで亡命した。

大統領への返り咲き

2000年にフジモリ大統領が汚職事件をきっかけに失脚し、翌年に大統領選挙が実施された。ガルシアはこれに合わせて帰国し、アプラ党の大統領候補として出馬した。第1期政権ではペルーの経済や社会を危機に陥れたにもかかわらず、巧みな選挙キャンペーンとカリスマ性のある演説で若年層の心をつかんだ。2001年の大統領選挙では決選投票で敗れたものの、議会で最大野党の地位を確保して党首として影響力を強めた。そして2006年の大統領選挙で当選して大統領の座に返り咲いた。

第2期政権のガルシア大統領は、第1期から大きく方向転換し、フジモリ政権が採用した市場を重視する経済政策を維持した。自由貿易協定の交渉を積極的に進め、前政権が調印した米国との自由貿易協定を発効させたほか、アジアや欧州諸国とも協定を結んだ。2008年にはAPEC首脳会議をリマで開催し、2011年には自由貿易に積極的なメキシコ、コロンビア、チリに呼びかけて、地域経済統合である太平洋同盟の基礎を作った。資源ブームによる輸出の増加とそれに伴う内需の拡大によって、第2期ガルシア政権は年間6~9%台の高い経済成長を達成した。リーマンショックにより域内諸国が軒並みマイナス成長に落ち込んだ2009年でさえもプラスの成長を維持した。世界の主要格付け会社がペルー国債の格付けを投資適格まで引き上げたことで、域内ではチリとメキシコに次ぐ高い評価を得た。

汚名返上を求めて

ガルシア大統領は、経済危機に終わった第1期で失った名誉を、第2期では挽回することができた。しかし汚職疑惑がその後の彼の人生に影を落とすことになる。退任後の2013年、ペルーの議会は大規模な調査委員会を立ち上げて、ガルシア政権下の不正について調査した。このときは証拠不十分としてガルシアが訴追されることはなかった。

しかし、ブラジルの政治家や企業を中心とした汚職事件の捜査「ラバ・ジャト」において、ブラジルのゼネコン、オデブレヒト社がペルーを含むラテンアメリカの国々の政治家や官僚に多額の資金を供与したことが明らかになると、ペルーの検察当局による捜査が大きく進展した。捜査対象となったのが2000年代以降の歴代大統領やフジモリ大統領の娘で野党党首のケイコ・フジモリとその関係者である。ガルシア元大統領については2件が捜査対象となった。1つめは2006年の大統領選挙キャンペーン中にオデブレヒト社から不正な献金を受け取った件、2つめは在任中の大型公共事業の入札にオデブレヒト社が参加できるように便宜を図り、退任後の講演で多額の謝礼を受け取った件である。

2018年11月に事情聴取に応じるためにガルシア元大統領がスペインから一時帰国すると、検察はガルシアの出国禁止を申請して裁判所がこれを認めた。ガルシアは即座にウルグアイ大使館に逃げ込み亡命を申請したものの、ウルグアイ政府がこれを認めなかったため、大使館から立ち退いた。既に拘束されたウマラ元大統領に続き、ケイコ党首やクチンスキー前大統領らが次々と拘束されるなかで、ガルシアが拘束されるのも時間の問題とみられていた。ガルシアは直前まで、汚職疑惑はすべて憶測にもとづくもので身柄を拘束するために十分な証拠はない、と主張していた。しかし裁判所は家宅捜索と本人の身柄拘束を認め、4月17日の朝に検察官と警察官が自宅に踏み込んだ。そしてガルシアは自ら拳銃の引き金を引いた。

ガルシア元大統領の通夜はリマ市内のアプラ党本部である「人民の家」で執り行われた。その席で娘が読み上げた遺書の中でガルシアは、自分がペルー国民のために大きな仕事を成し遂げたこと、にもかかわらず政敵は自分を辱めようとしていること、そして自分にはこのような屈辱を受ける理由はないことを主張した。そして、「子どもたちには私の威厳ある決断を、友人には誇りの証を、そして政敵には侮辱の印として私の遺体を遺す」と締めくくった。

アラン・ガルシア元大統領の冥福を祈る。Que en paz descanse.

写真出典
  • José Cruz, O presidente do Peru Alan García em Brasília /Agência Brasil [CC BY 3.0 br (https://creativecommons.org/licenses/by/3.0/br/deed.en)], via Wikimedia Commons.
著者プロフィール

清水達也(しみずたつや)。アジア経済研究所ラテンアメリカ研究グループ長。博士(農学)。ラテンアメリカの経済開発、農業開発のほか、ペルーの政治経済の動向を研究。おもな著作に、『ラテンアメリカの農業・食料部門の発展――バリューチェーンの統合』アジア経済研究所(2017年)、『途上国における農業経営の変革』(編著)アジア経済研究所(2019年)など。

書籍:ラテンアメリカの農業・食料部門の発展――バリューチェーンの統合

書籍:途上国における農業経営の変革