IDEスクエア

コラム

研究所という生態系――アジ研からみた世界、世界からみたアジ研

第2回 多様性を活かす組織の在り方とは――「組織の誘惑」に負けないために

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050350

吉田 暢

2018年4月

"If a man does not keep pace with his companions, perhaps it is because he hears a different drummer. Let him step to the music which he hears, however measured or far away." Henry David Thoreau (Walden)

「もし、みんなに歩調を合わせないやつがいたとして、そいつはもしかしたら俺たちとは違う太鼓の音を聞きながら歩いているのかもしれない。それがどんなリズムであっても、たとえ遠くから聞こえる音であったとしても、それはやつの自由だ」ヘンリー・デービッド・ソロー(「ウォールデン」より 筆者抄訳)

写真1

多様であることの価値

「多様であることの価値」を私たちの社会が明確に意識をして求めるようになったのは、いつごろからだろうか。生態系について、国連の場で生物多様性条約が採択されたのは1992年。雇用について女性であることを理由に男性と差別的に扱うことを禁じた雇用機会均等法が我が国で施行されたのは1986年。世界で初めて異性同士とまったく同じ婚姻制度を同性同士にも認める法律がオランダで施行されたのが2001年。

何について多様であることの価値を求めるのかによって、その歴史背景や文脈は当然異なるが、どうやら20世紀の後半から終わり近くに、「多様であることの価値」を求める考えや動きが世界中で表面化し市民権を得てきた。生態系のように、実に多様な生き物が生息する研究所においても、当然多様な価値が存在する。多様な価値を活かす組織の在り方とはどんなものだろうか。

筆者は、ヘンリー・デービッド・ソローがいうような「多数に追従しない、独立した個人」にあこがれるし、実際にそんな人がいたら尊敬を通り越して畏怖すら感じてしまう。また、研究所という生態系がもたらす安心や安定に依存し、期待してしまう弱き組織人の一人である。ただ、私という個は弱かったとしても、多様な価値をもった生きものたちがどうしたら活きるのか、ということを考えることには意味があろう。なぜならば、たとえ弱き私であっても生態系の多様性の一部であり、結果としてなんらかの役割をもってその発展に貢献することができるからだ。

会社組織に比べれば、研究所では階層ヒエラルキーは強くなく、多様な働き方が許容される。そもそも考え方や関心の多様性が研究所の「バリュー」の源泉だ。ちなみに、ここでいう多様性とは、研究者の多様性だけを意味しない。研究所という生態系に生きる、あらゆる職能を持つもの全てが対象だ。ただし、研究所という生態系は人間社会の一部分である。より正確には、人間社会において、ある特定の目的を持ってつくられた組織である。組織は、その在り方を自己規定することを求められる。さらには、組織は「どうあったら、よりよいか」ということについて、他者から必然的に問われる。

単にいろいろな人がいるだけで何らコーディネーションもない状態が放置されていたり、一方で組織を必要以上に強固に規定し、過度に「見えやすい、わかりやすいインパクト」や「効率性」を追求したりすると、多様であることの価値は失われる。先に結論を言ってしまえば、多様であることは組織にとって強みになり得るが、やり方を間違えるとその強みが十分に発揮できないこともあり得る。

経験的にではあるが、多様であることそれだけでは大きな価値を生むのに十分ではないと、筆者も分かってきている。多様な主体同士が互いに接触し、刺激し、働きかけ合わないと、面白いことは起こりにくい。個々が勝手に面白いと思っていることを超えて、組織としての「バリュー」を出す、そして組織が生み出した果実の個への還元を追求するには、単に多様であるだけでは足りない。それでは、どのような要素が組織の多様性を活かすのだろうか。

多様性の強み: 補完性と組み合わせ

組織における多様性の強みのひとつは、「補完性」である。ある人では対応できないことが、別の人の得意技かもしれない。多様な専門領域を持った専門家がひとつの組織に集まっているということは、その研究所が対応できるカバレッジが広いということだ。

またこの「補完性」がもつ効用は、ある時点でAがBを補完するという瞬間的な意味に留まらない。ある技がニッチであればあるほど、短期的には需要が起こりにくいために、その得意技は際立っていたとしてもなかなか注目されない。しかし長期にわたって諦めずに技を磨き続けていると、降って湧いたように爆発的な需要が現れることがある。地道な基礎研究に花が咲いて報われる瞬間だ。

この間、彼や彼女のコツコツとした努力、地道な基礎研究が第一に称賛されるべきだが、彼らの傍らで、別の誰かが折々、大小の需要に応え続けていることで組織が成り立っている。このように長期的な視点からも、多様であることが「補完性」を増やし、結果として研究所という生態系に生きるもの全てを守る。

もうひとつの強みは「可能性」が増えることだ。より正確には「組み合わせの可能性」が増えることだ。より多くの「いろいろな人」がいたほうが面白いし、そのほうが思いもつかなかった発想や取り組みが生まれることへの期待が持てる。ワクワクするほうが、しないよりもいい。異能同士が積極的に関わり合い、化学反応が起こって新しい価値が生み出されていくためには、多様性が組織の価値として担保される必要がある。

「組み合わせの可能性」によって増えた異能同士の関わり合いは、新しい価値を生み出す。異能同士に化学反応を起こさせ、そうした機会の創出を促す「カタリスト(触媒)」の存在や、一度生まれた機会を具体的な動きにつなげ、さらに加速させていく「アクセルレーター(加速度装置)」も重要である。

このように、ひとたび「補完性」や「組み合わせの可能性」が発揮されると、研究所という生態系は有効に機能し始める。個としては弱い存在であった筆者も、勇気とやる気を持って異能同士を関わり合わせる「カタリスト」や「アクセルレーター」となれば、生態系の発展に貢献することができるようになる。

写真2

「組織の誘惑」

ここまで多様性の価値を述べてきた。しかし、組織としてなにかを規定することが、多様であることが本来もたらすはずの強みを弱めてしまうというディレンマに、私たちは気が付いているだろうか。自然の生態系では、生き物が神にプログラムされたかのように動き回り(あるいはじっと動かずにいて)、相互に有機的に関係することによってbeauty of natureが成り立っている。

本当は生き物たちにも意思があって、好んで互いに関わり合っているという説もあって、筆者もその説にとても心惹かれるのだけれど、厳しい大自然の現実は生き物たちの「意思表示」をそうたやすく許さないだろう。 

研究所という生態系においては、人びとが多様であることをただ放置しておくだけでは組織としての有機的な連関は生まれない。なぜなら自然の生態系と違って、人間社会の一部である研究所という生態系では、相当程度個人が自分の意思を自由に実現できることになっているからである。

筆者のような組織人からすると、時としてソローがいう「多数に追従しない、自由で独立した個人」を「なんだか分からないけど私たちと違うことをしているやつ」と意地悪に翻訳したくなる。そういう人たちがいる状態を「カオス」などと呼んで不安がり、組織人はなかなか許容できない。多様な研究者たちがただぶらりぶらりと勝手気ままにたゆたっているだけに見える状態は組織の弱点にすら映る。

このように、組織のカタチを規定する必要があるという考え方から組織人は逃れることができない。組織の在り方をあれこれと決めたがる。組織人は、多様性がもたらす「補完性」や「可能性」が有機的に働くような、ほどよいアプローチで組織をデザインできればいいのだが、それを大きく踏み超えて、より強固に組織を規定してしまう。「組織の誘惑」が生まれる瞬間である。

そうすると、どうなるだろうか。たとえば、より短い期間で、より分かりやすく、すぐに役に立つ成果を出すのがこの組織の目指すもの、と規定すると、いくつかの決まった尺度で成果を測ろうとする方向に強い力がかかる。その尺度に収まらないものは相対的に低く見られてしまう。これは生態系が持つ伸びやかさを矯める。分かりやすく、見えやすい成果を過度に生態系に求めると、その生態系が持つ多様性の価値が毀損される。

過度に効率性を追求することも、生態系の繁栄を妨げる。たとえば、ひとりの事務担当者が100人の研究者に関する事務手続きをするのはとても効率的で、人件費を基準とした費用対効果は最大化するだろう。しかしそうすると、運用ルールはどうしても画一的にならざるを得ない。百歩譲って交通費の精算ならばルールは画一的でもよいかもしれないが、これが研究業績の評価や研究資源の配分だったらどうだろう。ひとつの尺度で、100人の多様な専門領域を持つ研究者の仕事の評価や未来の仕事への資源配分を適切に行うことはできるだろうか。

写真3

「アウトオブボックス」の試みを!

多様性を強みとする組織になるためには、「補完性」の効用を最大化すること、「組み合わせの可能性」を高めるような工夫が必要である。つまり、多様だけれどもそのままでは有機的な連関につながりにくい、個々の価値に働きかける工夫だ。

また、強みを阻害するような価値の画一化や過度な効率化の罠から逃れる努力が求められる。つまり、「組織の誘惑」から逃れる努力だ。あるいは、一般には分かりにくく、すぐに役に立ちそうにはみえないものは本当に取り組む意味がないのかといったことについても、多くの人が関わって十分に議論・検討することが必要だろう。ひょっとしたら自分たちが大事だと思っている学術的な研究を、自分たち自身で一般には分かりにくく、すぐに役に立ちそうにはみえないと決めてかかってしまっていただけかもしれない。テクニカルな学術論文は一般には十分に理解されないかもしれないが、そこから得られる含意を工夫された方法で表現すると、そのメッセージが届く層はぐっと広がるかもしれない。

そして、メッセージを伝える方法は書き物には留まらない。「これまでずっとこうやってきたから」、「いままでのやり方はこうだから」……一度その思考の枠から勇気を持って飛び出してみたらよい。ひとりで飛び出すのは怖いから、ぜひ「アウトオブボックス」仲間をつくってチャレンジしよう。

研究者個人がそこまでやる必要はないという意見もある。しかし前述したように、組織を創り、組織に生きることの真の意義――組織として「バリュー」を出し、かつその「バリュー」の果実を再び個に還元していくこと――の有効性を考えた場合には、おのずといくつかの工夫が生まれてくるはずである。こういうところに前述の「カタリスト」や「アクセルレーター」が活躍する場所がある。そうした創意を通じて学術コミュニケーションや組織マネジメントを工夫すると、組織の内外で研究所が持つ多様な価値を、いっそう認めることができるようになる。

効率性の過度な追求は、目先の資源投入の最小化を目指していることが多い。自然の生態系と同じで、研究所という生態系にあっても、多様性維持のための経営資源をケチって一度失われたものを後で取り戻すのは容易ではない。人類が生物多様性の重要性を認識し、自然の生態系の充実を取り戻そうとようやく自覚するまでの間に、どれくらいの数の種が駆逐され、絶滅したのだろうか。一度失われた生態系は、取り返しがつかない。経営資源の「選択と集中」が叫ばれて久しいこの世界において、一カ所くらい「絶滅危惧種」を大事に保存している研究所という生態系があってもいいだろう。カタリストやアクセルレーターとして生態系の充実に寄与できれば、弱き組織人も意外と悪くないと思う。

著者プロフィール

吉田暢(よしだのぶる)。ジェトロ・アジア経済研究所 研究企画部に勤務、研究経営(組織経営と研究プロジェクト企画・運営の双方)に従事。MA(Globalisation and Development)。開発途上国・新興国における開発と民間セクターを含めた農林水産品バリューチェーンの関係、サブサハラアフリカにおけるインフォーマルセクターを通じた栄養改善等についての調査研究に従事。著作に"Local institutions and global value chains: Development and challenges of shrimp aquaculture export industry in Vietnam"(Journal of Agribusiness in Developing and Emerging Economies, 7 (3), 2017)、"Improving the Nutritional Quality of Food Markets through the Informal Sector: Lessons from Case Studies in Other Sectors"[共著](IDS Evidence Report 171, 2016)、「貿易における公的な規制とプライベートスタンダードがグローバルサプライチェーンを通じて企業活動に与える影響」(アジ研ポリシーブリーフNo.61,2015年)など。

写真の出典

著者撮影

【連載目次】

研究所という生態系――アジ研からみた世界、世界からみたアジ研