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タイ・カンボジア国境衝突――その背景と展望、タイ国内政治からの示唆

Provoking “Elephant in the Room”: Thai-Cambodia Border Crush 2025

PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001420

2025年6月

(4,448字)

国境未画定地帯で武力衝突が発生

5月28日、タイ=カンボジア国境付近で両国軍部隊による銃撃戦が発生した。現場となったのは、タイ東北部ウボンラーチャターニー県とカンボジア北部プレアヴィヒア州に挟まれた国境未画定地帯である(タイ名チョンボク、カンボジア名テーチョー・モロコット。図を参照)。撃ち合いは10分程度で終息したものの、両国の間では領土問題をめぐって緊張が続いている。

今回の武力衝突の現場付近。山中での銃撃戦で、カンボジア兵士1人が死亡する事態となった

今回の武力衝突の現場付近。山中での銃撃戦で、カンボジア兵士1人が死亡する事態となった

両国政府は6月半ばに二国間常設協議体である合同国境委員会(JBC)を開催し、問題の平和的解決で合意した。しかしその後も国境通過制限など、不穏な応酬が続く。タイとカンボジアは、2008年から2013年にかけて、プレアヴィヒア寺院遺跡周辺の土地の帰属をめぐって衝突し、国境封鎖にまで至った過去がある。今回も対立が激化し本格的な国境封鎖となれば、インドシナの東西を結ぶ南部経済回廊も寸断され、地域の物流網に大きな影響を与えかねない。

タイとカンボジアの国境対立はどうなるのか。本稿は二国間の国境対立の背景を振り返り、その争点を踏まえて協議の行方や国内政治への影響についての展望を試みる。

図 タイ=カンボジア国境と主な領土係争地

図 タイ=カンボジア国境と主な領土係争地

(注)点線で囲んだ区域は国境未画定地域。
(出所)Matthewedwards(Public Domain)をもとにSovereign Limits を参照して筆者作成
タイとカンボジアはこれまで国境問題へどう対処してきたのか?

タイとカンボジアはこれまで何度か国境をめぐり武力衝突を経験してきた。20世紀初頭のカンボジアの旧宗主国であるフランスとタイ(当時の国号はシャム)との闘争に始まり、1953年のカンボジア独立後は1950年代末と2000年代末の2回にわたり交戦している。戦後の衝突は、いずれもカンボジア北部とタイ東北部の間に位置するプレアヴィヒア寺院遺跡とその周辺領土をめぐるものであった。どちらの事件でも、カンボジアが国際司法裁判所(ICJ)に提訴し、自国の領有権を認める判決を勝ち取っている(初鹿野 2014)。

こうした経緯を経てなお、両国間では海と陸にそれぞれ国境未画定地帯が存在する。こうした地域を二国間協議によって管理する試みが始まったのは、カンボジア内戦終結後の1990年代だった。1994年、97年と交渉枠組みについての合意を重ねた後、2000年に両国は「陸上国境測量および確定に関する覚書」(通称MOU43)に合意した。同覚書は、第5条で国境未画定地帯での一方的な現状変更を禁止する一方、閣僚級協議体であるJBCを通じ漸進的に国境を画定することを定める。対象となる地帯は当時タイの事実上の支配下にあり、MOU43はそれを既成事実化するものだった。さらに2001年には、タイのタクシン政権とカンボジアのフン・セン政権の間で「大陸棚重複領有権に関する覚書」(通称MOU44)が成立する。MOU44は、シャム湾内にある国境未画定海域を北緯11度で南北に分け、北部を両国で分割しつつ、南部を共同開発水域として天然ガスなどの資源開発を進めるものであった(加藤 2019)。

しかしその後、二国間協議による国境管理は、タイ国内の政治混乱のあおりを受け凍結状態に陥る。2006年にはタイ国内で軍事クーデタによりタクシン首相が失脚し、タクシンが締結したMOU44による海上での共同開発計画も停止した1。その後タクシン派と反タクシン派の争いが激化するなかで、カンボジアとの陸上国境問題は両派の対立の火種となった。2008年、タクシン派・人民の力党政権がカンボジアによるプレアヴィヒア寺院遺跡の世界遺産申請へ支持を表明したことに対し、タイ国内の反タクシン派政党や市民団体が反発し、タイ政府を「売国奴」と批判して猛攻撃を行った(青木 2008)。タクシン派政権の退陣後も、遺跡付近では反タクシン派の市民や国軍とカンボジア国軍との小競り合いが続いた。その結果、2011年に遺跡周辺で国軍間の銃撃戦が勃発し、複数の死傷者が出る事態となった(初鹿野 2011)。

プレアヴィヒア寺院遺跡をめぐる紛争は、上述したように、カンボジアの領有権を認めた2013年のICJ判決により終息した。一方、それまで臨時会合を含め10回にわたり開催されてきたJBCは、2012年を最後に休眠状態に入った2。以後、タイとカンボジアはMOU43に基づき国境未画定地域の現状維持を続ける一方、経済分野を中心に関係を強化してきた。タイはカンボジアとの国境問題をあえて取り上げないことで国内政治対立の激化を回避し、国境未画定地域における支配を「現状」として維持してきた。一方カンボジアはタイの「現状維持」を不服ながら受け入れ、関係を安定させ貿易や経済協力などの実利を優先したといえる。

タクシン派の政権復帰で再浮上した国境対立

「現状維持」が続いた国境問題は、2023年にタクシン派が政権に復帰したことで再び政治対立の争点となる。

タイでは長年の政治対立のすえ敵対勢力同士が妥協し、2023年にタクシン派タイ貢献党を中核とする連立政権が成立した(青木[岡部] 2023)。だが政権内部では、タクシン派と反タクシン派、そしてタクシン派を支配下に置き政権の主導権を握ろうとする保守勢力とが熾烈な権力争いを続けている(青木[岡部] ・高橋 2025)。2024年5月には、連立与党の一部であった国軍系政党パラン・プラチャーラット党(PPRP)など反タクシン派が、タクシン派セーター首相の内閣改造人事に違憲の疑いありとして憲法裁判所に提訴した。8月、憲法裁判所は訴えを認めセーター首相を解任した。事態を受け、タイ貢献党は連立内第2党である保守派のタイ矜持党と連携してタクシンの娘であるペートーンターンを後任に選出し、首相ポストを確保した。一方、政争に敗れたPPRPは閣外へ追いやられた(青木[岡部]2024)。

そのPPRPが噛みついたのが、MOU44によるカンボジアとの合同資源開発であった。2024年2月、タクシン派セーター首相とカンボジアのフン・マナエト首相は、2001年のMOU44に基づく開発計画を復活させることで合意していた。10月、PPRP議員らは、MOU44の示す国境未画定海域が1972年にカンボジアの提示した地図に基づいており、現在タイ領とされるクード島(Kud Island)の一部を含んでいることを指摘した。そして解釈によってはタイがクード島の領土を失いかねないとして、政府にMOU44の破棄を迫ったのである。このPPRPの批判に、反タクシン派の市民団体が反応した。彼らは、2001年のMOU44締結時にタクシンとフン・センが密約を交わしたという疑惑を掲げ、タクシンやその娘であるペートーンターン首相を「売国奴」と罵り覚書の破棄を訴えた。

2025年に入るとカンボジア側も態度を硬化させ、MOU44と関係のない陸上の国境未画定地帯で二国間の小競り合いが始まる。2月にはタイ東北部スリン県のター・ムアン・トム寺院遺跡周辺で、両国国境警備隊や市民グループが口頭で挑発し合う事態が発生した。5月半ばには、銃撃戦の現場となった地点でカンボジア国軍部隊が塹壕を建築中であることが報じられ、緊張が高まるなか28日の衝突に至った。数カ月にわたるタイ国内の政治的軋轢が二国間の摩擦を高め、国境での接触を機に発火したのが今回の衝突であった。

13年ぶりのJBC開催と食い違う双方の主張

事件直後、タイとカンボジアの外相はJBC再開で合意した。その後の経緯からは、「現状維持」を主張するタイに対し、カンボジア側が変更を迫る構図が浮かび上がる。

JBCに先立ち、カンボジア政府は二国間協議と並行して、衝突の現場を含むエメラルド・トライアングル地帯やター・ムアン・トム寺院など4カ所の領有権について、ICJへの提訴を決定した(Ministry of Foreign Affairs & International Cooperation, Kingdom of Cambodia 2025)。カンボジアは過去2回の国境紛争でICJ判決により領有権を勝ち取った経験があり、提訴を切り札に強気の交渉を進めるものと思われる。一方タイはICJが問題を審理する権利(管轄権)を否定し、二国間での解決を主張している。管轄権を拒否してICJでの審理開始を阻止する一方、協議の間、MOU43の現状変更禁止条項に基づき、係争地を事実上の管理下に置き「現状」を維持できる可能性があるためだ。

両国は、6月14~15日にJBCを実施し合意文書に署名した。その内容について双方の公式発表は食い違っており、重要な点については結論が出なかったとみられる。例えば最重要事項であるMOU43の現状変更禁止条項について、タイ側は会議でその維持を主張したとする一方、カンボジア側は一切言及せず、議論はなかったとしている(Office of the Council of Ministers, Cambodia 2025; Thai MFA 2025)。また国境画定作業で使う地図についても、双方の発表には齟齬がある3。次期JBCは9月に開催される予定だが、二国間での協議は長期化が予想される。

続く緊張、試されるペートーンターン政権の求心力

一方、短期的には、協議に圧力をかけるため二国間の小競り合いが続くことが懸念される。すでにJBC開催前から、タイ国軍はカンボジア国境での通行を制限し、さらに本格的な軍事行動の可能性を示唆した4。カンボジア政府もまた国境通過を制限したうえ、タイとのインターネットアクセスや電力輸入を一部停止した。国軍同士の全面衝突に繋がる可能性は低いものの、両国間では2011年のプレアヴィヒア寺院遺跡をめぐる衝突の前夜を想起させる応酬が続く。

ペートーンターン首相は記者会見で「タイは平和を愛するも闘いを恐れず」という国歌の一節を引用し、カンボジアとの対決も辞さない姿勢だが、交渉の打開策は見えない。協議がこのまま続けば「現状維持」の可能性は残る一方、ICJが自らの管轄権を認める判断を下し審理が開始されれば、判決で三たび国境未画定地帯をカンボジアに奪われる恐れも大きい。そうなった場合、ペートーンターン首相やタクシン派に対する批判はさらに強まり政権を揺るがしかねない。さらにJBCの後にはペートーンターン首相がフン・セン元首相と「国軍や国民からの圧力」について電話で会話した事実が報じられ、愛国派市民や保守派のタクシン派に対する不信を煽る事態となった。

定期的な社会動向の調査で知られる国立開発行政学院の世論調査機関NIDAポールがJBCの直前に行った調査では、政府よりも国軍を信頼するとの回答が多数を占める結果となった。その調査結果は慎重に受け止める必要があるものの、タイ国内におけるナショナリズム(chat niyom)の高揚がペートーンターン政権への逆風となっている様子をうかがわせる(NIDA Poll 2025)。国軍や国内の対カンボジア強硬派の世論に押され、ペートーンターン首相をはじめタクシン派は、まさに「内憂外患」の厳しい状況に追い込まれている。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
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参考文献
著者プロフィール

青木(岡部)まき(あおき・おかべ・まき) アジア経済研究所地域研究センター動向分析研究グループグループ長代理。専門は国際関係、タイ政治外交。主な著作に、『タイ2019年総選挙──軍事政権の統括と新政権の展望──』(編著、アジア経済研究所、2020年3月)、「『竹の外交』から『多元的外交』へ──戦後タイ外交再考のための論点整理と課題提示」(『アジア経済』第64巻2号、2023年6月)。


  1. 反タクシン派のアピシット政権は2009年にMOU44の破棄を宣言したが、国際法上、相手国の同意のない一方的破棄は原則的に認められない。なお2011年に成立したタクシン派インラック政権は、MOU44の有効性を確認している。
  2. JBCは停止したが、技術的事項を協議する合同国境技術小委員会は継続した。
  3. カンボジア側は、JBCで「1904年のフランス・シャム条約および1907年のフランス・シャム条約に基づき20万分の1縮尺の地図を用いる」ことを主張したと明言しているのに対し、タイ外務省は当該地図について「カンボジアが誤って主張したもの」であり、「議論されなかった」としている(Thai MFA 2025)。
  4. Royal Thai Army Facebook account, 5 June 2025. (Last accessed on 10 June 2025)
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