IDEスクエア

世界を見る眼

「司法介入」によるタイの首相交代――誰が何を目指し動いたのか?

What’s Happening behind Thailand’s “Constitutional Overreach”?

PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001091

2024年9月

(4,996字)

2024年8月、タイの政局は2件の司法判決により大きく動いた。7日に憲法裁判所は革新派野党・前進党(Move Forward Party)の解党を命じ、党首以下幹部11人の公民権を10年間停止した。さらに14日、憲法裁判所は4月に行われた内閣改造人事が憲法の定める倫理規定に違反したと判断し、セーター首相に対し解職の判決を下した1。セーター失職を受けた連立与党は15日、その筆頭であるタイ貢献党(Pheu Thai Party)の党首でタクシン元首相の次女ペートーンターン・チンナワットを新たな首相候補とすることで合意した。ペートーンターンは翌16日の国会下院特別会議で下院議員319人(総数500人)の支持を得て第31代首相に選出された。

今回の首相交代劇は、一見すると政局が大きく転換したかのような印象を受けるが、革新派対保守派の政治対立や司法機関の政治介入という構造そのものに変化はない。以下では首相交代の背景について論じたうえで、今後も保守派による「司法介入」のリスクが続く可能性を指摘する。

首相任命式に臨む「ウンイン」ことペートーンターン新首相 (2024年8月18日)

首相任命式に臨む「ウンイン」ことペートーンターン新首相 (2024年8月18日)
従来の司法介入との違い

2000年代以降、タイ政治は3つの争点が交差するかたちで展開してきた。その3つとは、①タクシン元首相の政治に対する賛否(タクシン派vs反タクシン派)、②選挙民主主義に対する賛否(民主派vs反民主派)、そして③クーデタを許容する現体制への賛否(革新派vs保守派)である(青木 2020, 2023a, 2023b; 重冨 2010, 2020)。

この政治対立のなかで、憲法裁判所はタクシン派政党や王制を含む政治体制改革を訴える革新派政党の解党処分を繰り返し、政局を動かしてきた。そしてタクシン派与党が解党され、首相も解職された場合は、反タクシン派の政党や国軍が政権を掌握するのが常だった2。こうした司法の介入について、国立タマサート大学政治学部のプラチャック准教授はセーターが解任された2024年8月14日にX(旧Twitter)で、「タイ社会は『司法主権』(トゥラカーンティパタイ[tulakanthipatai])というべき状況に直面している。これは、司法府が行政府や立法府から主権を奪取し、さらに上からエリートが司法府を支配するものである」3と書き込んだ。つまり憲法裁判所は中立ではなく、「反タクシン派」であり「反民主派」である国軍や官僚など、王室を擁護しようとするエリート勢力の一翼として、積極的に政治に介入してきたという批判である。

今回の前進党解党とセーター解職もこうした「司法介入」(constitutional overreach)の一環だが、今回はタクシン派の首相が失職した後に同派のタイ貢献党から首相が擁立される事態となった。

「タイ貢献党・保守派連合」の基本構造に変化はない

首相が交代したとはいえ、タイ貢献党が保守派と連携して権力の座を占める構図に変化はない(図)。連立与党各党がわずか1日でペートーンターンの擁立で合意したことも、両者の関係性に変化がないことを裏付ける。そもそも両者はなぜ連立を組んでいるのだろうか。

タクシン派のタイ貢献党が、敵対関係にあった反タクシン派の国軍系政党パラン・プラチャーラット党(Palang Pracharat Party: PPRP)などと連立を形成した背景には、2010年代末に現れた新たな民主派勢力の存在とタクシンの意向がある。2014年の軍事クーデタ後、タクシンは支持しないが軍政の影響力排除を求める新たな民主派が台頭し、民政復帰を求めた。新勢力は2019年の下院選挙後にも憲法裁判所改革や刑法112条(不敬罪)改正などを訴えたものの、軍政の後継であるPPRP政権はこの動きに対抗したため、対立構造は上述③の「革新派vs保守派」に収斂していった(青木2020)。タイ貢献党はクーデタを否定し選挙民主主義を支持する点で民主派だったが、政治体制改革についてはもともと消極的であり保守派に近かった。さらに2019年の下院選挙で保守派に反対する有権者票の一部が政治改革を掲げる新未来党(Future Forward Party)に流れたことで、タイ貢献党は保守派に接近した4。2008年の汚職をめぐる刑事裁判で有罪判決を受け、海外逃亡生活を続けていたタクシンも、恩赦による帰国を狙って保守派との「和解」に積極的になった。その結果、2023年の下院選挙が近づくにつれタイ貢献党はPPRPなど保守派との連携に傾斜していった。

選挙で勝てないPPRPなどの保守派政党にとっても、政権を担うにはタイ貢献党との連立が必要だった。政権交代を求める有権者はタイ貢献党の動きに失望し、2023年の下院選挙で新未来党の後継政党である前進党に投票して下院第1党に押し上げた。しかし前進党は保守派にとって脅威でありパートナーになり得ない。このため、保守派は前進党の党首を憲法裁判所に提訴し政権争いから排除した(青木2023a)5。保守派の連立相手となり得るのは、前進党解党後の下院で第1党となり、政治体制改革をめぐって近い立場にあるタイ貢献党だった。両派はタイ貢献党からの首相擁立で合意し、タイ貢献党と保守派各党の連合が前進党を排除する現在の政治構図が成立した(青木2023b)。

ではなぜ、セーターは解任されたのか。誰が、何を目指して動いたのだろうか。

図 2023年下院選挙後のタイの政治対立構造

図 2023年下院選挙後のタイの政治対立構造

(出所)各種報道などより筆者作成
保守派主流とタクシン派の合意による首相交代

今回の首相交代劇は2つの解釈によって説明できる。ひとつは、セーターに対する違憲提訴は保守派からタクシンやタイ貢献党へのけん制だとする解釈である。

タクシンは2024年2月に仮釈放された直後から、地元チェンマイやバンコクのタイ貢献党本部などを訪問し、4月末には内閣改造に先立ってセーター首相(当時)や党の重鎮と自宅で会談するなど、政治活動を活発化させた。そうしたなか、5月16日に元上院議員40人がセーターを憲法裁判所に提訴した。2019年に軍事政権によって任命されたこの元上院議員らは、軍事政権の黒幕であり現在PPRPの党首であるプラウィット元副首相と近いといわれる。自身が首相就任を望むプラウィットは、2023年のセーター首相選出投票に参加しないなどタクシン派への不満を露わにしていた(Khaosod English 2024)。今回のペートーンターン選出の際もプラウィットは国会を欠席している。また5月29日には、保守派の影響下にある最高検察庁がタクシンを過去の発言をめぐる不敬罪容疑で刑事裁判所に起訴した。こうした経緯から、タクシンとセーターに対する司法への提訴はタクシンの影響力拡大を恐れた保守派によるけん制だとする見方が浮上した。

しかし、この解釈には2つの問題がある。まず、現在のタクシンは保守派にとってかつてほど深刻な脅威ではない。タクシンは起訴直後から活動を控え、7月末に病気治療の名目で刑事裁判所に提出した海外渡航申請が却下されるとその判断に従った。この時点でタクシンに保守派の意向に逆らう意思はなかったと見るべきである。またそもそも、セーター解職の狙いがタクシン派の牽制なのだとしたら、タクシンの娘の首相就任になぜ保守派が同意したのかが説明できない。

これらの問題を解くカギとなるのが保守派の内部分裂説である。首相指名を狙ったプラウィットの動きは、保守派の主流の望むところではなかった。というのも、タクシン派から首相の座を奪ってタイ貢献党が連立を抜けてしまったら、保守派が国会の多数派を維持することはできないからだ。ジャーナリストのマティス・ローハテーパノンは、保守派が一枚岩ではないことを強調し、元上院議員によるセーターの違憲提訴が、彼らとその背後にいるプラウィットによる独断行動だった可能性を示唆している(Ken Matis 2024)。

タクシン派との連立を維持しつつ同派を統制したい保守派主流にとっては、ペートーンターンはタクシンらをけん制し操作するための「人質」として、セーターよりもむしろ好適である(PPTV 2024; Thai PBS 2024)。タクシンが将来的にペートーンターンを首相にすることを望んでいたのは間違いないが、政治経験が十分でないこのタイミングでの首相就任は時期尚早であり、彼らにとって望ましいシナリオではなかった。

このように今回の首相交代は、タクシン派でもプラウィット派でもなく、保守派主流の意向に沿ったものだと解釈できる。プラウィットの首相擁立を狙う元上院議員のセーター提訴を利用して、保守派主流はペートーンターンを表舞台に引きずり出すことに成功した。一方で利用されたプラウィット派は何も得るものがなかった。タイ貢献党もまた、保守派主流の要求を飲まざるを得ない立場だった。仮に拒否すればさらなる圧力がかかったことは容易に想像がつく。ただし、タクシンにとってもペートーンターンは「本命」であり、これを機にプラウィット派の影響力を抑え、娘を介して権力を行使できるというメリットはある。したがってリスクを承知のうえでタクシンはペートーンターンを差し出したとみられる。かくして保守派主流は本命の「人質」を手に入れ、タクシンは高いリスクを背負うことになった。

タクシン派は新内閣の組閣を通じてPPRP内のプラウィット派の排除に乗り出した。今回の首相交代劇の後、PPRP内はプラウィット党首派と、タクシンに近いタマナット幹事長派とに分裂した。タイ貢献党はタイ矜持党やUTNといった他の保守派政党を入閣させる一方、PPRPについては除外することを宣言した(Thairat 2024)。そしてタマナット派の入閣には含みをもたせることで、PPRPの内紛に乗じ分断した。この方向で組閣が完了すれば、タクシン派は保守派主流と一層強固な協力関係を築き、プラウィットなど保守派内の反タクシン勢力を権力から遠ざけることに成功する。

依然として残る司法介入のリスク

「タイ貢献党・保守派主流連合」のもと、ペートーンターン政権やタイ政治自体が安定するかというとそう簡単な話ではない。保守派主流が優位に立つ構造に変化はなく、司法介入という非民主的だが合法的な手段でタイ貢献党をいつでも揺さぶることができる。

今後、司法介入の引き金となり得る要因は大きく2つ考えられる。ひとつはタクシンである。タクシンは仮釈放の立場にあったが、8月18日に国王誕生日に伴う恩赦で正式に釈放された。セーター解任直後には自宅で連立各党の幹部と組閣を協議した様子が伝えられており、娘を介して権勢を振るう意欲を露骨に示している(The Nation 2024)。タクシンが保守派主流の意向に反する行動を取ったりすれば、彼らが司法介入に踏み切る可能性は否定できない。5月にタクシンが起訴された不敬罪違反容疑をめぐる刑事裁判は、現在も継続中である。タクシンがかかわったとされる今回の新内閣人事も、セーター同様に「倫理規定違反」で違憲と判断されかねない。

もうひとつは新内閣による政策実現の成否である。タイ貢献党が現在推進する5000億バーツ規模の景気刺激策「デジタルウォレット計画」が失敗と判断された場合、国家財政へ損害を与えたという理由で首相が民事、刑事の双方で訴追される可能性がある。ペートーンターンの叔母であるインラック元首相が籾米担保融資制度の失敗の責任を法的に追及された先例を想起すれば、あり得ない話ではない。ペートーンターン新首相はこうした司法介入のリスクを警戒し、前首相以上に慎重な政策決定をせざるを得ない。ペートーンターンや閣僚自身の不正疑惑や過去の犯罪疑惑を理由に提訴される事もありうる。このため、ペートーンターンは組閣を慎重に進めている。

今後どのような政局になるにしろ、保守派は憲法裁判所や他の司法機関を介して、自分たちが権力の座から滑り落ちるのを阻止するだろう。保守派内の反タクシン勢力が、プラウィットのように独断で司法介入を仕掛けてくる可能性もある。仮に次の2027年下院選挙で前進党の後継勢力が大躍進すれば、保守派が派閥に関係なく司法を通じて排除に乗り出すことは想像に難くない。いずれにしても、保守派による司法介入を許す制度が改正されない限りタイ政治の真の安定は見込めない。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
参考文献
著者プロフィール

青木(岡部)まき(あおき・おかべ・まき) アジア経済研究所地域研究センター動向分析研究グループグループ長代理。専門は国際関係、タイ政治外交。主な著作に、青木まき編著『タイ2019年総選挙──軍事政権の統括と新政権の展望──』(アジア経済研究所、2020年3月)、青木(岡部)まき「『竹の外交』から『多元的外交』へ──戦後タイ外交再考のための論点整理と課題提示」(『アジア経済』第64巻2号、2023年6月)。


  1. セーター首相解職判決の根拠は、2023年4月の内閣改造人事で犯罪歴のある人物を副首相に任命したことが憲法170条および160条の定める倫理基準に違反しており、首相に任命責任があるというものである。
  2. 2008年9月のサマック首相解任の後は、同じ人民の力党からソムチャーイが首相に選出された。しかし同年12月の憲法裁判所による人民の力党解党判決によりソムチャーイ政権は2カ月で退任、その後民主党のアピシットが首相に選出された。
  3. Prajak KongのX(旧Twitter)(2024年8月14日)。
  4. 新未来党は、2020年2月に憲法裁判所により解党処分を受けた。タナートン党首による同党への1億9000万バーツの寄付が、政党法の禁じる1000万バーツ以上の貸付にあたるという選挙管理委員会の訴えを認めたためだった。
  5. 2023年7月19日、憲法裁判所は、ピター前進党党首のメディア企業株保有が違憲にあたるという選挙管理委員会の訴えを受理し、同党首の国会議員資格を停止する決定を下した。憲法裁判所の決定はピターの首相候補資格に直接影響を与えるものではなかったが、同日行われた国会上下院合同会議ではピターの2回目の首相指名選挙への立候補を認めない動議が提出され、395対 312(棄権8人、欠席33人)で可決された。
この著者の記事