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海外研究員レポート

国境から溢れた内政混乱:
タイの政治混乱と「2008年プレア・ヴィヒア寺院帰属問題」

 

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049982

2008年8月

はじめに

2008年5月、タイとカンボジアの間で国境地帯の領土をめぐる紛争が突如噴出した。タイ語で「ワット・カーオ・プラウィハーン」と呼ばれる同寺院と周辺領土は、1962年に国際司法裁判所の判決に基づき、カンボジア領として国際的に認知されてきた。ところが「プレア・ヴィヒア寺院事件」というカンボジア語名で国際法の教科書にも記載されているこの領土問題が、2008年になってタイ、カンボジア間の懸案事項として浮上し、両国政府が現地に軍隊を派遣する騒ぎとなったのである。タイ国内の事情からこの事件を見るとき、市民による反政府運動と政府の対立に始まり、司法の介入を経て未だ二国間で処理のための協議が続いているこの事件は、最近のタイの政治的混乱状況を知る上で格好の事例と目される。本報告では、タイ国内で続く政局の混乱が隣国との領土紛争に繋がった経緯を整理する1

1.背景

プレア・ヴィヒア寺院は国境を構成するドンレック山脈の東方部に属し、カンボジアはその地域の南方に、タイは北方に位置する。1904年にフランス(当時カンボジアを含むインドシナ3国の保護国)とシャムとの間で締結された条約に基づき、第2次世界大戦終戦までプレア・ヴィヒア寺院と周辺地域はカンボジアに属するものとして扱われてきた。

ところが1946年、立憲革命を経て成立したタイが同寺院に警備兵を派遣したことで紛争が表面化した。1953年の独立後、カンボジアは再三にわたってタイ側へ撤兵と説明を求めたが、タイの返答はなかった。58年にはバンコクでタイ・カンボジア両国による領土問題会議が開催されたが、交渉は決裂する。これを受け、カンボジアは同寺院およびその周辺地域に対する領有権の確認等を求め59年10月に国際司法裁判所へ提訴した。タイは国際司法裁判所の裁判管轄権を否認する抗弁を提起したが、国際司法裁判所は1961年5月にタイの先決的抗弁を全員一致で却下し、62年6月にカンボジアの請求を認める判決を下した。タイは判決を不服とした。しかし、判決を履行すべき国際連合加盟国としての義務を尊重するという立場から、同年7月に国連事務総長に対しプレア・ヴィヒア寺院周辺領土に対する主権回復を達成する権利について留保を維持する意思と判決に対する抗議をのべた通牒を通告し,9月に判決を完全に履行した。

以来2000年代にいたるまで、プレア・ヴィヒア寺院と周辺地域はカンボジアの領土として諸国から認知され、タイが留保した権利に基づき領土に対する主権を回復しようとする動きもなかった。

プレア・ヴィヒアをめぐって新たな動きが現れたのは、タックシン・チンナワット政権期(2001~2006年)以降のことである。2004年、カンボジア、タイ両国の外相は、同寺院を観光資源として共同開発する政府間合意を交わした。クーデタによりタックシン首相が退陣した2007年6月になると、タイ外務省は2008年に予定されていたカンボジア政府によるプレア・ヴィヒア寺院の世界遺産申請を支持するとしつつ、同時に寺院周辺領土の国境画定について作業を進めるよう促した2。2003年にプノンペンで起きたタイ大使館襲撃事件以降、タイとカンボジアの政府は互いに対する両国民の感情を刺激しないよう細心の注意を払っていた。2004年から2008年初頭までの新聞記録から見る限り、両国の政権がプレア・ヴィヒア寺院の世界遺産登録について協力的な姿勢を掲げつつ、同寺院周辺領土の国境画定作業については、実務レベルで慎重に進めようとしていた様子がうかがわれる。

2008年5月6日にカンボジアのソック・アン外務副大臣とタイのウィラサック外務事務次官が作業会議を開き、カンボジアによる世界遺産登録をタイ政府側が容認する共同声明を発表した。この声明の中で両国代表は国境画定について留保したまま世界遺産登録を行う旨を確認している。これを受けてタイのノッパドン・パッタマー外相は5月22日にソック・アン外務副大臣と会談し、6月18日付でプレア・ヴィヒア寺院の文化遺産登録を支持する旨の共同声明を発表した。なおこの共同声明は、5月17日に開かれたタイの閣議で承認されていた。そうした政府間交渉の結果、国連教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産登録委員会は7月7日にプレア・ヴィヒアを新たに世界遺産に加える決定をした。

2.反政府キャンペーンの争点として

プレア・ヴィヒア寺院と周辺領土の帰属問題は2008年の5月に突如としてタイ国内で衆目を集めるところとなった。その直接のきっかけとなったのは、5月初旬にタイの新聞社2社が報じたニュースである。報道の内容は、サマック内閣のノッパドン外相が、プレア・ヴィヒア周辺領土におけるカンボジアの主権を容認することと引換に、サマックがカンボジア領内の油田採掘の利権を得たというものであった。サマック・スンタラウェート首相はただちにテレビ演説で利権の授受について否定したが、民主主義市民連合(People's Alliance for Democracy:PAD.)はこれをサマック政権による「売国行為」だとして糾弾キャンペーンを開始した。

PADは、2005年に結成された反タックシンを唱える市民団体である。2006年のクーデタ以降は解散状態にあったが、サマック政権成立以後に同政権がタックシン元首相の腹心からなる傀儡政権だとの理由から再度結成され、街頭での退陣要求運動を続けていた。PADは外相および外相の決定を閣議で承認したサマック内閣に対して抗議するため、6月18日に外務省前で1,000人前後の集会を開いて、ノッパドン外相の辞任を要求した。さらに20日にはプレア・ヴィヒア寺院世界遺産登録を阻止する署名活動を開始し、世論の関心をひこうとした。また野党である民主党もこの動きに同調し、2008年6月18日に下院副議長へ提出したサマック首相を含む7閣僚を対象とする不信任決議案の中で、ノッパドン外相への不信任の理由としてカンボジアによるプレア・ヴィヒアの世界登録遺産に道を開いた行為を挙げた。

PADや民主党は、ノッパドン外相が署名したプレア・ヴィヒア寺院に関するタイ・カンボジアの共同声明が閣議で承認されたことについて、2007年憲法190条が定める「タイの主権に影響しうる全ての国際条約は、国会で審議されなければならない」という内容に抵触していると主張した。ノッパドン外相はかつてタックシン元首相の法務顧問兼個人スポークスマンとして知られた人物である。「タックシンのエージェント」と目される閣僚の行為を「売国的」として糾弾することにより、PADは、タックシンが国外に逃亡した現在も依然としてタイ王国の敵であり、現政権に影響を及ぼしているという印象を国民にアピールしようとした。タックシンが首相を休職するきっかけとなった2006年のシン・コーポレーション株売却事件も、通信サービスという国家安全保障に直結する事業をシンガポールという外国に売り渡したことが「売国的行為」だとしてPADが糾弾し、10万人の街頭退陣要求運動につながった。今回のプレア・ヴィヒア寺院問題もまた、「利権のために国土を売り渡した」というロジックを用いることでタイ国民の愛国心へ訴えかけ、PADの活動規模を拡大しようとしたものといえよう(実際にはノッパドン、あるいはサマックが国境線承認の見返りに利権を得たと言う事実は確認されていない)。

3.司法の判断

PADは街頭運動に訴えるばかりでなく、タイとカンボジアの共同声明を承認した閣議決定の取り消しを求めて、6月24日にタイ中央行政裁判所に提訴した。そして中央行政裁判所は28日未明、国境紛争地区に立地するプレア・ヴィヒア関連の閣議決定を一時差し止める決定を下した。決定を受け、原告であるPADは、閣議決定によって国家に損害を与えたノッパドン外相及び内閣、国家安全保障会議事務局長、外務省条約局局長らの法的責任の追求を進めていく意向を明らかにした。サマック首相は7月6日の定例政見放送の中で、司法により行政の権限執行が脅かされている状況に強い懸念を示した。さらに7月8日には、憲法裁判所がプレア・ヴィヒアの世界遺産登録支持を謳ったタイ・カンボジアの共同声明にノッパドン外相が署名した行為を違憲と判断した。これはが憲法190条第2項に違反していたとして、上院議員77人及び下院議員151人が提訴していたもので、憲法裁判所の判決はこれを認めた形になる3。結局ノッパドン外相は7月10日に辞任に追い込まれ、後任にはテート・ブンナーク元外務次官が就任した4

PADはさらに7月14日に国家汚職防止取締委員会前に対し、プレア・ヴィヒアの世界遺産登録を支持した閣僚や関係する官僚計42人に対して刑法の規定に則り刑事責任を追及するよう要求する書面を提出した。提訴された関係者の中には、閣僚らを背後で操作したとして、タックシン元首相の名前も挙がっていた。同委員会は、11月13日にサマック首相・ノッパドン外相を含む28閣僚によるプレア・ヴィヒアの世界遺産登録を支持する閣議決定を違憲と判断した。

4.国境での緊張と国際レベルでの対応

こうした中、7月17日にはPADが領土の返還を求めて同寺院に接近し、抗議活動により地域の平穏が乱される事を嫌った地域住民との間で激しい衝突が複数回に渡って発生し、多数の負傷者が出る事態になった。同地には治安維持のためカンボジアとタイ両国から国軍舞台が派遣される事態となり、事態を重く見たカンボジアのフン・セン首相が、サマック首相に対し軍隊の撤退及び両国間協議による平和的な手段による解決を呼びかける書簡をサマック首相宛に送付する事態に至った。22日にはタイのサケーオ県で国軍上層部を含めた関係者による協議が開かれたが、両国とも国境紛争の解決の為に武力行使をしない事を確認するだけに留まった。

一方、シンガポールで開かれているASEAN外相会議に出席中のカンボジアのナム・ホーン外相は、21日に議長国であるシンガポールのヨー外相にタイ・カンボジア間の緊張状態の緩和を目指すために、22日にインドネシア、シンガポール、ラオス、タイ及びカンボジアの外相を交えた緊急会合の招集を要請したほか、国連安全保障理事会に緊急会合の招集を要請する方針を示唆した。

しかしながら、ASEAN外相会議ではこの問題を取り上げることはなかった。ASEAN事務局のスリン・ピッスワン事務局長もまた、ASEANは問題解決のための助力は惜しまないとしつつ、紛争処理の交渉は当事国であるタイ、カンボジアの2国間で行うべきだとの見解を示している。また国連も24日行われた協議で、緊急会合開催の是非に関する判断を保留する決定を下した。

ASEAN外相会議および国連の反応を踏まえ、サマック首相は7月24日、同日行われたカンボジアのフン・セン首相との電話協議で、カンボジア側は国連安保理への緊急会合開催要請を撤回する意向を示し、28日にカンボジアのシェムリエップ県内で緊張緩和に向けた二国間協議を外相レベルで行うことで合意したと発表した。

まとめにかえて

現在、プレア・ヴィヒア問題をめぐってはタイ・カンボジア両国の間で協議が続いている。一方で、サマック政権の退陣問題をめぐってPADが首相府および一部の官庁を占拠する事態が起きて以降、タイ国内では急激にプレア・ヴィヒアについての報道が減った。

PADが「売国行為」のキャンペーンを行っていた当時、筆者の在籍するタマサート大学でも「プレア・ヴィヒア寺院領有問題」をめぐって法学部で緊急セミナーが開催されるなど、少なくともバンコクでは非常な盛り上がりを見せていた。同セミナーでは、フロアに討議を公開したとたん、「カオ・プラヴィハーンはタイの領土なのだ!」と声高に主張する(だけ)の男性がマイクを握ってしまい、壇上の弁者も途方にくれると言うシーンすら見られた。

また法学部の大学院のディスカッションでこの話題を投げた際に「なんとかしてカオ・プラウィハーンをタイの領土にする国際法を探し出してくるべきだ」と発言する大学院生がおり、教鞭を執っていた教授も思わず苦笑いするということもあった。

こうしたショーヴィニスティックな街頭運動が外相の相次ぐ辞任にむすびつき、カンボジアとタイの国際関係政策を停滞させたのは、司法による国家間合意の違憲判決が影響していたものと考えられる。PADをはじめ、政治をめぐる対立勢力が以前に比べて司法の判断を頼るようになった傾向については、2006年のクーデタ当時から認められる。

急性の熱病のように盛り上がり、過ぎ去っていったかのように見えるプレア・ヴィヒア寺院領有問題事件だが、今後のタイの政治情勢を考える上で多くの課題を示唆する事例となりうる。

以上


脚注

  1. 本報告の中では、引用部分を除いて国際的に知られる「プレア・ヴィヒア」に表記を統一する。しかしながら、タイ国内での同寺院をめぐる議論は常に「カーオ・プラウィハーン」というタイ語名で行われたことをここで断っておく。
  2. カンボジア政府はこの時すでに文化遺産申請を行っていたが、2007年の時点でユネスコ世界遺産委員会は申請登録リストからプレア・ヴィヒア寺院をはずす決定を下していた。
  3. 尚、憲法裁判所裁判長を含む9人の判事の内8人が違憲と判断し1人が合憲と判断した。
  4. テート外相もまた9月2日に辞任しているが、その理由としてプレア・ヴィヒア問題をめぐる外相への批判などがあると言われていた。