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(混沌のウクライナと世界2022)第9回 未承認国家 沿ドニエストル共和国――ソ連解体の落し子、ロシア介入の起源

Transnistria: Spawn of the Dissolution of Soviet Union and the Origin of Russian Intervention

 

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053067

2022年6月

(8,712字)

ロシアにとってドンバスと沿ドニエストルは同じか?

ロシア・ウクライナ戦争の終わりが見えないなかで、ウクライナの隣国モルドバのなかに位置する沿ドニエストル共和国が注目されている。そのきっかけは、ロシア連邦中央軍管区副司令官ミンネカエフ少将の発言にある。彼によると、ウクライナにおける「特別軍事作戦」の第2段階は、同国東部のドンバス地方と南部の掌握であり、そこに沿ドニエストルを加えると、クリミアへと向かう陸の回廊が出来上がる1。それによって、ロシアはウクライナ軍や政府を弱体化させられるというものである(Шустрова 2022)。

もっとも、ロシア政府は公式の表明をしておらず、また本稿の執筆時(2022年5月18日)では、沿ドニエストル指導部も、今般の戦争に便乗して武力介入によるロシア編入を求めているわけではない。だが、この発言の真意は定かではないものの、戦況が一進一退するなかで、ロシアの視野に沿ドニエストルが入っていても不思議ではない。

ウクライナ東部と同様に、沿ドニエストルはロシア軍が駐留しており、ロシア語を話すロシア系住民が多いことから「親ロ派」として括られがちである。モルドバ政府の実効支配が及ばず、実質的に独立状態となっている未承認国家という点も、ロシアによるウクライナ侵攻直前までは共通していた(後述のようにロシアはウクライナ侵攻直前にドネツクとルガンスクの両人民共和国を承認した)。このように両地域には似たような特徴を見出すことができる。

しかし、ウクライナ東部の2つの人民共和国と沿ドニエストルでは国家承認の有無もさることながら、ロシアが介入に至った経緯などが異なり、両者は同一の政体ではない。まず、ロシアによるウクライナ東部への介入は、2014年のマイダン政変2やロシアのクリミア併合を契機として起きたドンバス紛争に端を発した。その後、ウクライナ政府と親ロ派分離主義勢力との間で武力衝突が繰り返され、2022年2月にロシアは、ウクライナ東部の2つの未承認国家を承認したうえで軍事侵攻し、ロシア・ウクライナ戦争が勃発した。

これに対して、沿ドニエストルへのロシア介入の端緒は、ソ連解体直後の1992年にモルドバと沿ドニエストルの対立が深まり発生した沿ドニエストル紛争に求められる。そして、それ以前から同地に駐留していたソ連軍をソ連解体後にロシアが実質的に引き継ぎ、介入することとなった。つまり、ロシアはソ連解体期の成り行きで紛争に介入したのである。その後、沿ドニエストルは未承認国家のまま、ロシア政府の考える望ましい世界への願望を満たすうえでのひとつのリソースになり、現在に至る。

本稿では、ソ連解体期の沿ドニエストル紛争の経緯を紐解きながら、いかに沿ドニエストルが未承認国家となったのか、その過程を跡づける。それにより、ソ連解体の落し子だった沿ドニエストルは、いまのロシアにとって自国の影響力を行使する外交資源になっていることを明らかにする。

写真1「ソヴィエトの家」(2019年8月)。

写真1 「ソヴィエトの家」(2019年8月)。1950年代に建てられ、現在では
ティラスポリ市の市庁舎となっており、ソ連のノスタルジーを感じられる建物
として観光名所になっている。
沿ドニエストル共和国とは?

本論に入る前に、沿ドニエストルの地理と基礎的情報を確認したい。沿ドニエストルは、モルドバの以東に位置し、「沿ドニエストル・モルダヴィヤ共和国」として独立国家を主張しているが、他国からは承認されていない未承認国家である。国際法的にはモルドバに属する。ソ連解体期にユーラシアで形成された未承認国家としては、その他にも、アブハジアや南オセチアなどがあり、これらの領域とともに沿ドニエストルは、「古い」未承認国家に位置付けられる3。国土面積は4163 平方キロメートルで、総人口は2021年時点で46万3600人程度となっている(Государственная Служба Статистики Приднестровской Молдавской Республики 2022)。未承認国家は対外主権をもたないものの、対内主権は有しており、沿ドニエストルには独自の通貨や国旗、国歌などがある。また自称だが首都はティラスポリである。

地図1 モルドバと沿ドニエストル 地図2 沿ドニエストル(拡大)

地図1 モルドバと沿ドニエストル 地図2 沿ドニエストル(拡大)

沿ドニエストルの地名は、ドニエストル川に由来する。ドニエストル川は、現在のモルドバと沿ドニエストルを地理的に分けて繋ぐ河川となっており、上流から見て、川の左岸に位置する地域として、日本語では「沿ドニエストル」と呼ばれている4

また同地は「親ロシア」のイメージが強いものの、実は民族的にみると、ロシア人の割合は3割程度となっている。ロシア人はモルドバ人の割合と拮抗し、その他にもウクライナ人やベラルーシ人、ブルガリア人などがいる多民族社会である。とはいえ、ロシア人とモルドバ人、ウクライナ人の割合が比較的高いこともあり、それらの3言語が公用語として公的機関では並列して使用されている。法的にも3つの言語は平等な位置づけである。ただし、日常的にはロシア語を使用する人が多いため、実際にはロシア語がかなり普及している。

沿ドニエストル紛争の発端

このような沿ドニエストルがモルドバからの分離独立を主張するに至ったのは、ソ連末期に遡る5。その歴史を紐解いてみると、ソ連全土においてペレストロイカの政治改革が始まるなかで、1988年中期に言語問題がモルドバ共産党の中心議題となったことがわかる。とりわけ、ルーマニア語とモルドバ語を同一視するのか、モルドバ語を国家語にするのかといった問題が浮上した(ルーマニアとの関係は後述参照)。

モルドバで言語法の制定を主張していた最大のグループは、主に作家や教育関係者、知識人などで構成されていた「マテービッチ・クラブ」と呼ばれる組織である。1988年夏から、同クラブはキシナウ市を中心として、モルドバ語の国家語化などを求めて、大規模な集会を実施した。彼らは徐々に支持者を集め、人民戦線を設立する。当時のモルドバ国内において、共産党はいまだ健在だったものの、次第に人民戦線の運動に妥協するようになり、モルドバ語の国家語化、キリル文字からラテン文字への転換などが模索された。

このようなモルドバの民族主義化は、沿ドニエストルの離反を招くきっかけになる。というのも、前述したように、モルドバのなかでも沿ドニエストルは、ロシア語話者の比率が相対的に高い地域だからである。ロシア語の通用範囲が狭まることは、沿ドニエストル住民の日常生活に支障をきたす問題であったため、モルドバ語の国家語化、キリル文字からラテン文字への転換を規定した言語法案の条項に反対する抗議活動が行われた6。しかし、このような抗議の声が届くことはなく、1989年8月にモルドバ最高会議(議会)では同法や言語に関する関連諸法が採択された。

沿ドニエストルでは、企業の労働集団の集合体であり、のちに同地の分離独立を主導することになる労働集団合同評議会が、このモルドバ政府の決定に猛反発し、同地で言語法を適用させない旨を決めた7。さらに、言語問題でモルドバが妥協しない以上、沿ドニエストルにはその社会的権利や利益を守る必要があると見なし、モルドバのなかに自治共和国をつくる提案がなされた。

モルドバ政府は、このような沿ドニエストル側の動向を分離主義的な運動と受け取り、阻止しようと試みた。言語法の効力停止に関する決定や自治の創設に関する住民投票の実施の決定も無効とされた。さらにモルドバの共産党は、事態を収束させるために、沿ドニエストルの指導部と交渉を行う。だが、沿ドニエストル指導部は言語問題などで民族間の緊張を高めているのは、モルドバの指導部であると主張し、沿ドニエストルでは自治の創設を問う住民投票が実施された。

歴史認識問題

モルドバと沿ドニエストルの対立をより一層促進させたのは、前者とルーマニアの統合をめぐる歴史認識問題である。実はルーマニアとモルドバは歴史的な関係が深い。モルドバはロシアやトルコ、ルーマニアなどの大国の間に狭まれており、その大国間競争の場所となっていた。19世紀のモルドバ公国はルーマニアの一部であるとともに、オスマン帝国の宗主権下にあった。しかし、露土戦争8のときにロシア帝国はモルドバ公国の東部を割譲され、それを他の領域と組み合わせて、ベッサラビアと呼ばれる領域をつくった。その後、ロシア革命の最中に、ルーマニアは同地域に介入し、住民投票をとおしてベッサラビアを合併した。他方で、ロシア帝国の版図をおおよそ引き継いだソ連は、このベッサラビアを取り返そうとして、当時ソ連を構成していたウクライナのなかに自治共和国(おおむね現在の沿ドニエストルに相当)を設立し、ルーマニアに圧力をかけた。

ルーマニアとソ連の争いは第二次世界大戦中も続いた。1939年に独ソ不可侵条約が結ばれた際の秘密議定書において、もしソ連がベッサラビアを占領したならば、ドイツはそれを阻止しないことが合意された。そのうえで、ソ連はルーマニアと合併していたベッサラビアに軍事侵攻した。当然、ルーマニアは抵抗し、武力衝突の最中に同自治共和国を一時的に占領する。最終的にソ連はルーマニアの抵抗を退けてベッサラビアを併合し、その奪った領土と、ウクライナ領内に設置した自治共和国を組み合わせて、ソ連を構成する共和国としてのモルドバをつくった。

ソ連末期において、このルーマニアとモルドバの統合をめぐる問題が再燃し、上記の歴史的経緯から、モルドバのなかにはルーマニアとの統合を望む者もいた。おりしもソ連末期に、ルーマニアでは指導者のチャウシェスクが殺害され、社会主義体制が揺いでおり、モルドバの国内ではソ連から独立して、ルーマニアとの統合を主張する勢力が出現したのである。

沿ドニエストルにとってそのような統合は受け入れがたい一方、自分達の主張を正当化するのには好都合だった。というのも、前述したように、沿ドニエストルは第二次世界大戦の最中、ルーマニアに一時的に占領された過去を持つ。そこで沿ドニエストル指導部は、この歴史認識問題を政治利用し、「ルーマニアとモルドバが合併することで、沿ドニエストルはルーマニアから再度侵攻される」というプロパガンダを普及させたのだった。

モルドバが自国のソ連への加盟は強制的に行われたとして、独ソ不可侵条約を強く批判し、ソ連の構成主体としてのモルドバの創設も不法であると主張すると、沿ドニエストルとの対立はさらに激化した。沿ドニエストル指導部は、モルドバ政府がソ連によるモルドバ創設を不法とするならば、同じくソ連による沿ドニエストルとモルドバの合併も不法だとの見解を示した。こうして、モルドバの存立をめぐる問題へと発展していった。

ソ連からの独立か、残留か

モルドバと沿ドニエストルの対立が深まるなかで、沿ドニエストル指導部は同地をソ連の構成主体として創設することを決定する。これは、ソ連の存在を前提としながら、モルドバとは連邦関係を保ち、沿ドニエストルとモルドバはソ連のなかで別々の構成主体となるということだった。しかし、モルドバの指導部は、ソ連を構成するモルドバの成立を不法なものと見なしていたため、その主張を退け、沿ドニエストルの活動家の拘束を本格化させていった。また沿ドニエストルにはソ連軍が駐留したが、ソ連共産党が求心力を失うなかで、次第に仲裁の余力はなくなっていった。

さらにモルドバと沿ドニエストルの対立は、ソ連とどのような関係を築くのかという側面でも見られた。当初モルドバは、ソ連を国家連合化させ、その枠組みのなかでモルドバの自立性を追求するべきだという立場を取っていたが、モスクワで非常事態国家委員会のクーデター9が起きると、ソ連からの完全独立という方針に転換し、1991年8月27日にソ連邦からの独立を宣言した。

他方で沿ドニエストルは、国家非常事態委員会のクーデターが発生し、モルドバが独立を宣言したあとも、ソ連邦を構成する新たな共和国としてソ連に残ると主張した。当然、モルドバから見ると、自分たちの方向性 (ソ連からの独立) と、この沿ドニエストルの方向性(ソ連残留)は異なる。結果として沿ドニエストルの主張は、モルドバからの分離独立を意味していた。このようなソ連との関わり方をめぐる対立が決定的になるなかで、両者の衝突は武力化する。

沿ドニエストル紛争とロシアの介入

1992年3月から沿ドニエストル紛争が始まった。特に大規模な戦闘となったのが、ドゥボッサルとベンデリ市の戦闘である。その直接的な理由は不明だが、黒海コサック兵10が戦闘に参加し、モルドバと大規模な武力衝突に至ったことが武力紛争の始まりと言われている(松嵜 2021)。このドゥボッサルの戦闘では、ドニエストル川沿いの橋が爆破され、一般市民を含む約100人の死者が出た。モルドバのスネグル大統領は、事態の悪化を恐れて非常事態宣言を発動し、沿ドニエストル指導部と停戦合意に向けた会談をたびたび実施した。さらにルーマニア、ロシア、ウクライナ、モルドバの4カ国外相会談が開催されるなど、事態の鎮静化が模索された。

しかし、武力衝突は継続し、1992年6月にモルドバ軍は沿ドニエストルの経済の要であるベンデリ市を占領する。このようななかで、沿ドニエストルに駐留していた旧ソ連軍(ロシア軍)が軍事介入を開始した。当時の駐留軍は第14軍と呼ばれ、ソ連解体に伴って、ロシアがソ連から実質的に引き継いだ軍であり、約 5000 人程度の兵士だった11

沿ドニエストル指導部は、駐留ロシア軍に軍事介入してもらうことによって、モルドバとの戦闘を有利に進めようとした。そこで同指導部は、前述のソ連への残留構想をもとにして、ロシアの介入を正当化しようとする。それは、ソ連の法的地位を引き継いだロシアは、沿ドニエストルの領域の監督者となり、駐留ロシア軍は沿ドニエストル共和国を防衛する役割があるというものである。さらに第14軍の兵士は同地で招集されており、地元住民とは関係が深く、沿ドニエストル指導部も兵士のためにさまざまな施設をつくった。それも駐留ロシア軍の介入に寄与した。兵力や武器の面で有利な立場に立つロシア軍の介入によって、モルドバ軍は撤退せざるを得なかった。

この戦闘の後、ロシアは公式に沿ドニエストル紛争の停戦へと乗り出した。モルドバ政府は、沿ドニエストル指導部と停戦を合意しても破られていたため、ロシア政府との停戦交渉に舵をきっていた。7月21日にモルドバのスネグルとロシアのエリツィン両大統領はモスクワで停戦合意を行い、約5カ月続いた武力紛争は一時停戦という形で終結した。こうしてモルドバは、沿ドニエストルを実効支配できないまま、一時停戦し、沿ドニエストルは未承認国家となったのだった。

写真2 沿ドニエストルの駐留ロシア軍(2019年8月)

写真2 沿ドニエストルの駐留ロシア軍(2019年8月)
ソ連の遺産とロシアの勢力圏

ロシアは、ソ連解体の成り行きで沿ドニエストル問題に介入することになり、その後もさまざまな和平交渉に関わっている。例えば、ロシアとモルドバの停戦合意以降、モルドバと沿ドニエストル、ロシアと欧州安全保障協力機構(OSCE)の4者協議が開催され、沿ドニエストルもその合意を確認した。この停戦確認では、モルドバと沿ドニエストルがそれぞれ軍事力を用いず、政治、経済的な圧力もかけないこと、またロシアとOSCEが停戦合意の履行を監督することが規定された。この停戦確認は現在のモルドバと沿ドニエストルの関係のベースをつくっており、そこでは、前者が後者を侵攻しないようロシアがそれを監視する旨も明記されている12

さらに1990年代後半、ロシアの仲介のもとで、モルドバと沿ドニエストルは将来的に共同国家をつくることに合意し、「モルドバ共和国と沿ドニエストルとの間の関係正常化の基礎についての覚書」(通称モスクワ・メモランダム)が署名された。これによって、モルドバと沿ドニエストルの関係の正常化が図られ、両岸の人やモノの行き来も可能になった。またモスクワ・メモランダムでは、沿ドニエストルが経済的に自律的な主体であると認められており、未承認国家であるにもかかわらず、諸外国と経済活動を行うことが出来る13。しかし、その後も紛争解決が試みられているものの、沿ドニエストルの地位をめぐる問題は、モルドバと沿ドニエストルの間で折り合いがつかず、完全解決されるには至っていない。

紛争の大きな争点のひとつは、ソ連との関わり方をめぐる問題だった点で、沿ドニエストル共和国はソ連解体の落し子といえるが、それと同時にいまのロシアにとって、モルドバに自国の影響力を行使する資源ともなっている。例えば、2005年には、欧州連合(EU)の欧州近隣政策の一環で、モルドバ・ウクライナ間の国境支援ミッション(EUBAM)が設置され、両国の国境管理能力の向上や、沿ドニエストルから諸外国への輸出入の透明化などが目指された(EUBAM 2006)。EUは沿ドニエストルの非合法な資金や税関の汚職などを問題視したのだが、その際ロシアは介入し、EUとモルドバ、ウクライナの国境管理政策を牽制した。

さらにロシアは沿ドニエストルの内政にも大きな影響力を行使している。例えば同地では、権威主義体制が敷かれ、その支配政党の革新党は、ロシアの統一ロシア党とパートナー関係にある。2011年の大統領選挙では、20年にわたって大統領の座にいたスミルノフが、対立候補のシェフチュクに敗れるという事態が起こった。ロシア政府がスミルノフの汚職などを問題視し、彼を見限ったことがこの大統領の交代に繋がったとも言われている(松嵜 2021)

また、沿ドニエストルはモルドバに影響力を及ぼすだけでなく、ロシア政府にとっての望ましい世界を実現する外交資源のひとつにもなっている。ロシアは、国際社会における米国の覇権を望ましくないとし、その力の分布を変えたいと考えている (Sakwa 2017)。なぜなら、米国やそのパートナーの欧州諸国の他国への介入は、民族や宗教上の対立を喚起させ、国際社会を不安定にしているためであるという。例えばロシアは、米国によるイラク戦争後の紛争管理の失敗が、結果的にイスラーム国の台頭を招いたと見なす(Giles 2019)。むしろ、世界の各地に大国が存在し、その大国間同士が協調する多極世界が好ましく、ロシアは、米国が西欧諸国やオーストラリアなどに影響力を及ぼせるのと同じような「他国に自国の影響力を行使する権利」を持つべきだと考えている (Giles 2019)。

その点で、ソ連の遺産だった沿ドニエストル共和国は、ベラルーシなどとともに、ロシアにとって「米国と肩を並べられる影響圏を持つべき」という発想を支えるリソースのひとつになっていると言えよう。ソ連解体の余波はこんにちまで続いている。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 写真1、2 筆者撮影
  • 地図1 TUBS, Location of Transnistria in Europe, 17 March, 2011.(CC BY-SA 3.0
  • 地図2 Bogic, Own work.(CC BY-SA 3.0)(originally came from the United States Central Intelligence Agency's World Factbook[Public Domain])
参考文献
著者プロフィール

松嵜英也(まつざきひでや) 津田塾大学学芸学部国際関係学科専任講師。博士(国際関係論)。主な著作に「オレンジ革命後のウクライナにおける半大統領制の機能不全――執政部門内の紛争の発生過程の解明」(『ロシア・東欧研究』第47号、2018年)、「ウクライナにおける政軍関係の構造的変容――紛争後の国軍改革と自警団の台頭」(『日本比較政治学会年報』第23号、2021年)、『民族自決運動の比較政治史――クリミアと沿ドニエストル』(晃洋書房、2021年)。

  1. 本稿では、ウクライナ東部という場合、ドンバス地方、ドネツィク州とルハンシク州(ウクライナ政府の表記)を指し、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国(分離主義的勢力の表記)とは使い分ける。
  2. マイダン政変では、当時のヤヌコヴィチ大統領がEUとの連合協定締結の署名を撤回したことに端を発して、抗議運動が拡大し、最終的にヤヌコヴィチ体制が崩壊した。
  3. ただし、ロシア・ジョージア戦争後にロシアはアブハジアと南オセチアを国家承認するなど、紛争の性質やロシアの承認の有無などは、沿ドニエストルとは異なる。この古い未承認国家に対して、ウクライナ東部のドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国は、ユーラシアの新しい未承認国家に位置づけられる。
  4. その他にも「トランスニストリア」(Transnistria)や「プリドネストロヴィエ」(Приднестровье)とも呼ばれている。前者は、モルドバ国内で使われるラテン文字のモルドバ語表記であるのに対して、後者は沿ドニエストル国内で使われるキリル文字のロシア語表記である。
  5. 沿ドニエストル紛争までの経緯については、拙著の『民族自決運動の比較政治史――クリミアと沿ドニエストル』の第3章を本解説向けに再構成したものである(松嵜 2021)。
  6. なお抗議運動は、主に労働者が担っていた。モルドバのなかで、沿ドニエストルには主要な工業企業が集中し、重工業地帯であり、そのことも抗議運動の拡大に寄与した。
  7. 労働集団合同評議会については、松嵜 (2015) を参照。
  8. 露土戦争とは、17世紀末から20世紀にかけて、ロシア帝国とオスマン帝国の複数回にわたって行われた戦争の総称である。
  9. このクーデターはソ連共産党の守旧派が引き起こし、結果的にソ連を構成する各共和国は独立宣言へと舵を切った。
  10. 黒海沿岸の半軍事共同体である。
  11. もっとも、ロシア軍といっても、その多くの兵士は沿ドニエストルで召集されていた。
  12. Соглашение о поддержании мира и гарантиях безопасности между Республикой Молдова и Приднестровьем(モルドバ共和国と沿ドニエストルの平和維持と安全保障についての合意)。モルドバ共和国外務省ウェブサイト参照。5月18日最終閲覧日.
  13. 沿ドニエストルの経済活動については藤森(2012)を参照。