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(混沌のウクライナと世界2022)第1回 なぜゼレンスキーはウクライナの大統領になったのか?――人気タレントから大統領就任への社会的背景

Why did Zelensky become the Ukrainian President?: From the Comedian to the President

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052992

2022年3月

(7,324字)

ポピュリストとしてのゼレンスキー大統領

ロシア・ウクライナ戦争が勃発しているなかで、こんにちヴォロディミル・ゼレンスキー大統領(2019年―)ほど、知名度の上がった人物はいないだろう1。ゼレンスキーは、軍事介入に及び腰な西欧諸国の指導者達とは対照的に、ロシアのウクライナ侵攻に徹底抗戦する姿勢を示しながら、自国民の前だけでなく、米国や英国、そして日本の議会でも、Tシャツ姿でウクライナの窮状や支援の必要性を訴える。その姿は「西欧の道徳的リーダー」と言われるほど、大きく注目されている。

ゼレンスキーは社会運動家や著名人としての活動はあるものの、政治家としての経験がなく、人気タレントから大統領になったという異色の経歴を持つ。彼は1978年に東部のドニプロペトロウシク州で生まれ、大学卒業後、テレビ番組やイベントなどを手掛ける「第95街区」(KVARTAL 95)の共同創業者となり、数々のメディアに出演した。なかでも国営放送のドラマ「人民の僕」では、教師から大統領に転ずる役を演じ、著名人としての地位を確立した。その後、2019年の大統領選挙に出馬し、圧倒的な支持を得て当選したのである。

現在、ゼレンスキーはウクライナの指導者としてロシアと対峙しているが、そこでは、後述するように彼が大統領になったときに展開していた、大衆とエリートを峻別して善悪をつけるポピュリストとしての姿が見られる。すなわち自由を守るウクライナ人が、それを脅かすロシア政府と戦うという構図が描かれているのである。そして彼は、戦争終結の案を国民投票で決めると主張し、人民の意思を直接政治に反映させる姿勢を示している。

このポピュリストとしての姿勢を解く鍵は、ゼレンスキーが大統領になった経緯や既成政治への国民の不信という社会的背景にあり、それは、今般の戦争における彼のメディア戦略を理解するうえでも有益な手掛かりになる。なぜ、いかにして、人気タレントだったゼレンスキーは大統領になったのか。本稿では、2014年以降のウクライナ内政を踏まえながらその過程を跡付ける。

マイダン政変、ロシアのクリミア併合、ドンバス紛争

2022年2月24日からのロシアのウクライナ侵攻は、突然始まったように見えるものの、ウクライナからすると、それは2014年のロシアのクリミア併合や東部のドンバス紛争から続いており2、既に2014年の時点で主権が侵害されていた。紛争の始まりはヴィクトル・ヤヌコヴィチ体制(2010―2014年)が崩壊したマイダン政変であり、その発端は当時のヤヌコヴィチ大統領がEUとの連合協定締結の署名を撤回し、野党や市民の間で、それに抗議する運動が始まったことだった。抗議運動は、当初平和的なデモだったが、政府が武力で運動を鎮圧させようとすると、デモはより過激化した。政府と野党は事態の沈静化を模索したが、一部の過激化した勢力は武装闘争を展開し、ヤヌコヴィチはロシアに逃亡した3

このマイダン政変が起こると、今度はウクライナのクリミア自治共和国で、ヤヌコヴィチの失脚は暴力によって引き起こされた点で不当であり、同様の政変がクリミアでも起こるという主張が掲げられ、ウクライナからロシアへの帰属変更を求める運動が拡大した。そして2014年3月、ロシアはウクライナ政府の合意なしにクリミアを併合した。さらにウクライナ東部のドンバス地域は、ロシアの後ろ盾を得て、ドネツィク州とルハンシク州の一部が「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」という国家の樹立を宣言した。

2014年以降の政治改革

こうしたロシアのクリミア併合や東部の分離独立運動は、ウクライナの主権や領土の一体性を侵害するものであり、ウクライナ政府には受け入れられなかった。そこで、ヤヌコヴィチ体制の崩壊後に発足した暫定政権は軍事組織を総動員し、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国をテロリストと見なしながら、反テロ作戦を開始した(松嵜 2021)。その後、2014年にポロシェンコが大統領に選出され、議会選挙を通して、人民戦線とポロシェンコ選挙ブロック、自助党と急進党、祖国党からなる連立政権が成立した。新たなウクライナ政府の最優先課題は、クリミアと東部の諸問題を解決させ、主権と領土の一体性を回復させることだった。

とはいえ、ウクライナとロシアの間では、軍事力をはじめとする国力の差があり、ウクライナだけではそれらの問題を解決できない。そこで、ポロシェンコは「改革の戦略―2020」というプログラムを掲げ、さまざまな制度改革を通して市民の生活を欧州の水準に引き上げながら、EUと北大西洋条約機構(NATO)加盟の方向性を定めた。「改革の戦略」は、60の改革プログラムと特別プログラムから構成され、西欧から多大な支援を獲得して実施された4

写真1 ウクライナのゼレンスキー大統領、アメリカ連邦議会でオンライン演説(2022年3月16日)

写真1 ウクライナのゼレンスキー大統領、アメリカ連邦議会でオンライン演説(2022年3月16日)
政治改革を阻害する非公式ネットワーク

だが、そのような政治改革は十分に進展しなかった。その大きな原因とされるのが汚職である。トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数によると、2012年度のウクライナの順位は176カ国中144位であり、マイダン政変を経て司法制度改革などが実施されたにもかかわらず、その順位は大きく変化していない5

汚職はウクライナ社会の根強い問題となっており、特にオリガルヒに対する理解は欠かせない。このオリガルヒは、ビジネス上の利益を優先し、政治に深く関与する特徴を持っている。ここでは便宜的に「政治権力と癒着する大資本家」という意味で、オリガルヒの用語を用いる6

ウクライナのオリガルヒの起源はソ連末期に遡り、国有企業の私有化の過程で、一部の実業家達が富を蓄えたことに始まる(Konończuk 2015; Rohozinska and Shpak 2019)。ソ連から独立した後、オリガルヒは政権と癒着して利権を守ろうとするあまり、ビジネスマンから政治家へと転向した者も数多くいる。

ウクライナには数多くのオリガルヒがおり、なかでもリナト・アフメトフとイホール・コロモイシキー、ドミトロ・フィルタシュはその資産を含め、最も強力なオリガルヒと言われている(Wilson 2016; Konończuk, Cenușă & Kakachia 2018)。本稿執筆時でアフメトフは、フォーブス誌の世界ランキングの327位に入る大富豪であり、その事業は石炭エネルギーやガス、農業、メディア、通信など多岐に渡る7。コロモイシキーは、ウクライナ最大の石油ガス国営企業ウクルナフタ社の利害関係者であるほか、プリヴァト銀行の元共同所有者、国営メディアの1+1をはじめ、化学や冶金、輸送などを手掛ける。フィルタシュは、主に化学とガス部門、メディアの事業を展開していた(Konończuk, Cenușă & Kakachia 2018)。

オリガルヒは、エネルギーやメディア産業などを独占しただけでなく、マイダン政変以前は、ヤヌコヴィチ大統領の地域党の中枢に食い込み、政治を動かしていた8。マイダン政変後には、フィルタシュが米国の連邦捜査局(FBI)に汚職の罪に問われ、オーストリアで逮捕されるなど、その影響力は減退したが、オリガルヒ自体がいなくなったわけではなく、政治家との非公式的なネットワークは依然として持続していた。例えば、2014年の議会選挙において、地域党の後継政党であった野党ブロック党は、ヤヌコヴィチ時代の人的資源を駆使し、アフメトフなどから支援を得て、第4党になった(Ogushi 2020)。

もっともオリガルヒは、特定のイデオロギーを持っているわけではなく、自分達の利益が重要である。そのため、彼らは野党ブロック党のみならず、連立政権を構成するさまざまな政党も支援していた。その支援はポロシェンコ大統領にも及んだが、彼としても分離独立問題に対処するうえでは、資金が必要であり、オリガルヒの支援は軍事部門にまで渡っていた(Konończuk 2015)。例えば、対テロ作戦には国軍だけではなく、地元住民やマイダン政変の参加者、外国人兵士などから成る多数の自警団がかかわっている。著名な自警団としては、アゾフ大隊やアイダール大隊などがいるが、そのいずれもコロモイシキーの資金によって設立されている(松嵜 2021)。このオリガルヒから支援を得たアゾフ大隊などは、現在のロシア・ウクライナ戦争において、マリウポリの防衛などに携わっている。コロモイシキーはドンバスにも利権を持っており、武力制圧には批判的だったものの、不透明な方法でその資産を築き上げてきたため、政府に財産を没収される恐れがあり、むしろ政府を支援しながら自身のビジネスを拡大させようとした(服部 2014; Wilson 2016)。ポロシェンコはその見返りとして、コロモイシキーをドニプロペトロウシク州知事に任命している。

こうしてマイダン政変後も、オリガルヒと政治家の癒着は続いた。政治家は西欧向けのアピールとして「脱オリガルヒ」を叫び、反汚職裁判所を設置するなど、形式的には汚職撲滅のための制度を作る。だが、それはオリガルヒの利益に抵触し、彼らにとっては脅威となる。政治家は米欧の支援と同時にオリガルヒの支援も必要であるため、そもそも制度を運用する誘因が働かない(Konończuk, Cenușă & Kakachia 2018)。ウクライナ政治では、このような非公式ネットワークが強く作用しており、オリガルヒがマイダン後の改革を阻害してきたとも指摘される(Wilson 2016)。

写真2 ドネツィク州のマリウポリにあるドンバス紛争の慰霊碑(2018年4月)

写真2 ドネツィク州のマリウポリにあるドンバス紛争の慰霊碑(2018年4月)
高まる国民の不満

さらに東部のドンバス紛争も継続していった。2014年9月には、ロシアとウクライナ、欧州安全保障協力機構(OSCE)、ドネツク人民共和国とルガンスク人民共和国の間で、ミンスク議定書、2015年2月にはミンスク合意が定められたが、分離独立問題が解決されたわけではなかった9。ミンスク合意を肯定的に捉えたウクライナ国民は1割にも満たず、ポロシェンコは和平合意を通して、ドンバスの分離主義者に妥協したと批判された。

ドンバス紛争は継続し、経済も落ち込み、国民の生活は苦しくなり、国民はこのような状況に不満を高めた。世論調査機関のラズムコフセンターによると、国民の第一の関心は東部の紛争にあるが、公共料金の引き上げや失業、そして汚職や社会格差にも不満を持っていたことが浮き彫りになっている(表1)。

表1 社会的課題

表1 社会的課題

(注)2018年度の「あなたにとって、国家のどのような問題がいま最も重要ですか」との問いに対する回答の集計結果。
調査では18歳以上が対象、対面のインタビュー形式で実施、2018年度では1万5人の回答を集計。
(出所)ラズムコフセンターの調査結果より、筆者作成。

表2 社会機関に対する信頼度

表2 社会機関に対する信頼度

(注)「どの程度、あなたは社会的な機関を信頼しますか」との問いに対する回答の集計結果。
クリミアとドネツク人民共和国、ルハンスク人民共和国を除いて、
ウクライナ全国の18歳以上を対象に、2018人を無作為抽出のうえ、実施。
(出所)ラズムコフセンターの調査結果より、筆者作成。

次第に不満の矛先は、既成政治へと向けられていった。表2は2018年度の社会機関の信頼度である。国軍や国境警備隊などの軍事組織への信頼度は相対的に高いものの、大統領や議会、裁判所、検察などの政府機関に対する信頼度は軒並み低い。軍を除いて、政府の諸機関が信頼出来ないと答えた国民は、7割から8割にまで及んでいる。2018年時点のポロシェンコ大統領の支持率も約13%しかなかった。

ゼレンスキーの登場

こうしたなかで実施されたのが、2019年の大統領選挙であり、突如登場したのがゼレンスキーだった。大統領選挙では計39人が立候補し、現職のポロシェンコとアウトサイダーのゼレンスキーが決選投票に進んだ。このときにゼレンスキーは、既成の政治エリート達をオリガルヒと癒着する「民衆の敵」に仕立て上げながら、ポロシェンコの汚職を痛烈に批判し、政府の安定や正義などを訴えた(Demydova 2020)。その政策綱領の具体的な中身は不透明だったが、彼は汚職や戦争の継続に伴う生活の逼迫と、国民の既成政治への不満を上手く結びつけたことで、7割以上の票を得てポロシェンコを破り、新たな大統領となった。

さらにゼレンスキーの圧勝は大統領選挙に留まらず、同年の議会選挙でも見られた。ゼレンスキー出演のテレビドラマでもある「人民の僕」は政党名となり、彼はウクライナ語で緑を意味する「ゼレーニー(Зелений)」を基調カラーとしてメディア戦略を駆使し、「ゼ!人民の僕党(Зе! Партія Слуга Народу)」などをメッセージとして発信していった。「人民の僕」という言葉に見られるように、ゼレンスキーの政治スタイルは、ウクライナの人々の意思を直接政治に反映させようとするものだった。これは、既成政治に不満を持っていたウクライナ国民には新鮮に映り、同国では彼の姓の頭文字である「ゼ」旋風が巻き起こった。その結果、人民の僕党は小選挙区と比例区を合わせて56%もの議席を獲得したのだった。従来、多党制が常態化していたウクライナにおいて、単独政党が過半数を獲得するのは異例のことであるが、そこでは民衆の側に立脚し、政治経験のないゼレンスキーが、「悪い」既成の政治エリート達を破るという構図が描かれていたのだ。これはまさにエリートと民衆を峻別し、善悪をつけるポピュリズムの典型であろう。

ポピュリストとしてのゼレンスキーの対ロシア戦争

こんにちのロシア・ウクライナ戦争では、西欧とロシアの地政学的な対立に注目がいきがちだが、ゼレンスキーがポピュリストであることは、今回の戦争の重要な側面であり、西欧からの支持調達のあり方を考えるうえでも、そのことを把握する必要がある。例えば、ゼレンスキーはYouTubeで「ゼ!大統領(Зе!Президент)」というチャンネルを持ち、ロシアの軍事侵攻によって、ウクライナの人々の生存が脅かされていることを強調し、自国の窮状と支援の必要性などを訴える。そこでも、自由を守るウクライナの大衆と、それを脅かす敵のロシア政府が峻別され、善悪が明確になっている。さらに大統領は、終戦に向けた案についても国民投票で決めると主張し、ウクライナの人々の意思を直接政治に反映させる姿勢も見せている。その点で、今回の戦争におけるゼレンスキーのメディア戦略は、2019年の大統領や議会選挙のときのエリート対民衆の構図と類似していると言える。

ただし、こんにちの戦争では、2019年選挙と大きく異なる部分もある。それは、ゼレンスキーのメディア戦略がウクライナ国内だけではなく、国際社会でも展開されていることである。そしてそこでは、彼の述べる善悪と国際社会の善悪が結びつき、ロシアの軍事侵攻が国際社会の重要な規範である主権国家体系を阻害している反面、ゼレンスキーはそれを擁護しようとしている構図が描かれる。

いまや彼は日本の国会でも、ウクライナの窮状と支援の継続について演説し、メディアを通して世界中の人々に訴えながら、ウクライナという「民衆」の側に立つように求める。ロシア・ウクライナ戦争は、まさにポピュリストのゼレンスキーが示す善悪と、国際社会における戦争の善悪の結びつきを示していると言えるだろう。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 写真1 President of Ukraine from Україна, Address by President of Ukraine Volodymyr Zelenskyy to the US Congress.(Public Domain)
  • 写真2 筆者撮影
参考文献
  • 服部倫卓 2014. 「ウクライナ政変とオリガルヒの動き」『ロシア・東欧研究』第43号、2-20頁
  • 松嵜英也 2019a. 「ウクライナ」松尾秀哉ほか編『教養としてのヨーロッパ政治』ミネルヴァ書房、381-399頁。
  • 松嵜英也 2019b. 「ウクライナの連立合意――最高ラーダの多数派を巡る支持調達の分析」『ロシア・ユーラシアの経済と社会』第1043号、2-13頁。
  • 松嵜英也 2021. 「ウクライナにおける政軍関係の構造的変容――紛争後の国軍改革と自警団の台頭」『日本比較政治学会年報』第23号、139-157頁。
  • 松里公孝 2021. 『ポスト社会主義の政治――ポーランド、リトアニア、アルメニア、ウクライナ、モルドヴァの準大統領制』ちくま新書。
  • Demydova, Viktoriia 2020. “2019 Presidential Election in Ukraine: How Zelensky was elected”, Karadeniz Araştırmaları, vol. 67, pp. 581-603.
  • Konończuk, Wojciech 2015. “Oligarchs after the Maidan: the Old System in a ‘New’ Ukraine, OSW Commentary, no. 162, p. 1-8.
  • Konończuk, Wojciech, Denis Cenușă & Kornely Kakachia 2018. “Oligarchs as Key Obstacles to Reform”, Emerson Michael, Denis Cenușă, Tamara Kovziridze, Veronika Movchan(eds.), The Struggle for Good Governance in Ukraine, Georgia and Moldova, London: Centre for European Policy Studies, p. 56-87.
  • Ogushi, Atsushi 2020. “The Opposition Bloc in Ukraine: A Clientelistic Party with Diminished Administrative Resources”, Europe-Asia Studies, vol. 72, no. 10, pp. 1639-1656.
  • Rohozinska, Joanna and Vitaliy, Shpak (2019) “Ukraine’s Post-Maidan Struggles: The Rise of an ‘Outsider’, Journal of Democracy, vol. 30, pp. 33-47.
  • Wilson, Andrew 2016. “Survival of the Richest: How Oligarchs block Reform in Ukraine”, European Council on Foreign Relations Policy Brief.
著者プロフィール

松嵜英也(まつざきひでや) 津田塾大学学芸学部国際関係学科専任講師。博士(国際関係論)。主な著作に「オレンジ革命後のウクライナにおける半大統領制の機能不全――執政部門内の紛争の発生過程の解明」(『ロシア・東欧研究』第47号、2018年)、「ウクライナにおける政軍関係の構造的変容――紛争後の国軍改革と自警団の台頭」(『日本比較政治学会年報』第23号、2021年)、『民族自決運動の比較政治史――クリミアと沿ドニエストル』(晃洋書房、2021年)。


  1. ウクライナ語では、ヴォロディミル・ゼレンシキー(Володимир Зеленський)だが、ゼレンスキーの用語が定着しているため、この用語を用いる。
  2. クリミアでは、モンゴル帝国やロシア帝国、ソ連の一部だった歴史があり、マジョリティのロシア系住民やマイノリティのクリミア・タタール人などが住んでいる。ドンバスは、ウクライナのなかでも相対的にロシア語話者が多く、石炭や鉄鋼をはじめとして最も工業化された地域だった。このクリミアとドンバスは、ヤヌコヴィチ大統領の地域党の地盤でもあった。
  3. マイダン政変の最中に、ヤヌコヴィチと野党は事態を収束させるために、1996年憲法体制から2004年憲法体制への変更に合意した。ウクライナには1996年憲法体制と2004年憲法体制があり、それが大統領ごとに入れ替わる。前者はレオニード・クチマ(1994―2005年)のときに成立し,ヤヌコヴィチ時代にも採用された。2004年憲法体制では、2004年のオレンジ革命の際に成立し、ヴィクトル・ユシチェンコ(2005―2010年)やペトロ・ポロシェンコ(2014―2019年)によって採用された。両体制の違いは大統領の権限であり、前者の方が権限は大きい。詳細は、松嵜(2019a)や松里(2021)を参照。
  4. 脱集権化や軍改革、反汚職や裁判所、税制度の改革などである(松嵜 2019b)。
  5. Transparency International, Corruption Perceptions Index 2012(2022年3月23日最終アクセス日)。
  6. もっとも、「政治権力と癒着する政商」(服部 2014)とされるように個人を指すのか、それとも「少数の個人が非公式的に国家の政策を統制する非公式的な制度」(Konończuk, Cenușă & Kakachia 2018)のように制度なのか、その定義は確立されていない。
  7. Forbes(2022年3月23日最終アクセス日)。
  8. 地域党のなかには、有力な派閥として、ヤヌコヴィチのグループとアフメトフのグループ、フィルタシュのグループがあった(服部 2014)。
  9. ミンスク議定書では、武器使用の停止や OSCE の監視、ドネツィクとルハンシクの地方分権化などが定められ、ミンスク合意では重装備の撤退、停戦に対する OSCE の監視、捕虜の解放などが定められた。