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(混沌のウクライナと世界2022)第2回 ウクライナ侵攻とロシア国内の反戦デモ

War in Ukraine and Anti-war Protests by Russian Citizens

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053021

2022年4月

(7,312字)

ロシアの国内情勢と反戦デモ

2022年2月24日、ロシアはウクライナへの侵攻を開始した。この侵攻は世界に強い衝撃を与え、戦争をどのようにすれば止められるのかが一大関心事となった。戦況の行方と並んで多くの観察者が注目したのはロシアの国内情勢であった。観察者は政権中枢やオリガルヒ(新興財閥)の動向などから分裂の兆しやクーデターの可能性を読み取ろうと、またロシア国民が今回の侵攻をどのように受け止めているのかをつかもうと、さまざまな努力を重ねてきた。しかし、その核心に迫ることは容易ではない。なぜなら、ロシア国内では政府の公式見解からの逸脱に対しては厳しいペナルティが科されるようになっており(OVD-info 2022)、人々の「本音」を知ることがこれまで以上に困難になっているためである。

このような状況のなかで、侵攻直後の時期においてとりわけ関心が高かったのがロシア国内の反戦デモであった。一般市民が当局からの厳しい抑圧にもかかわらず戦争反対を訴える姿は、この侵攻にロシア市民が必ずしも賛成しているわけではないことを世界中に知らしめ、こうした動きが拡大していくのではないかとの期待を持たせもした。ところが、反戦デモの勢いは続かず、その実態や国内的なインパクトについての議論も不十分なものにとどまっている。

本稿ではまず、侵攻後から3月にかけてロシア国内で展開した抗議運動の経過をまとめる。そのうえで、その規模と特徴を可能な限り客観的に評価するため、今回の反戦デモをプーチンが大統領に再登板した2012年以降のロシアの抗議運動の文脈に位置付ける。
なお、プーチンが大統領に再登板した2012年以降、ロシアにおける抗議運動は厳しい取り締まりの対象とされてきた。抗議運動の統制は、集会の許可、抗議運動の組織者や参加者に対する罰則の強化、インターネットの制限など、さまざまな方面から行われており、時を追うごとにその内容が厳格化されていった(Amnesty International 2021)。また、2020年以降は新型コロナウイルスの感染防止を理由に、集会の実施はさらなる制限を受けるようになった(OVD-info 2020)。本稿では主に侵攻後の経過を取り扱うが、抑圧は今に始まったことではないという点はあらかじめ強調しておきたい。

写真1 雪の上に「戦争反対」と書かれている。ペトロザヴォーツク市、3月5日。

写真1 雪の上に「戦争反対」と書かれている。ペトロザヴォーツク市、3月5日。
反戦デモの経過(2022年2月~3月)

反戦デモは2月24日の侵攻直後から始まり、その日のうちに数十の都市においてデモが行われた。同日には、特に人数の多かったモスクワとサンクトペテルブルクにおいては数千人が参加したと見積もられている(Радио Свобода 2022a)。この日からすでに多くの参加者が拘束されており、ロシアにおける政治的迫害の監視を行っている人権団体のOVD-infoによると、拘束件数は全国で2006件であった1

反戦デモはその後も続いた。そのなかでも特に大きな動きとなったのは2月27日であった。同日は7年前に野党政治家のボリス・ネムツォフが暗殺された日であり、その記念行事と重なったのである。なお、モスクワ市で予定されていた記念行事は市行政府の許可が下りなかったため、暗殺場所となった橋を歩く形で行われることになった(Старикова 2022)。この日には全国で2855件の拘束が確認されている。

この頃から、反戦デモを大規模に組織しようとする動きも見られるようになった。2月末、石油業界の元実業家で、亡命先の英国を拠点にプーチン政権への批判を繰り広げているミハイル・ホドルコフスキーらが「反戦争委員会」を組織し、団結を呼びかけた(Радио Свобода 2022b)。それに続いて、モスクワ市クラスノセリスキー地区議会議員のイリヤ・ヤーシンも、政治的な見解の違いを超えて連帯する「幅広い反戦同盟」の必要性を訴えた(Хейфец, Рожкова 2022)。現在収監中の反体制派活動家アレクセイ・ナヴァリヌィも3月2日にメッセージを出し、毎日デモを続けるよう呼びかけた(Навальный 2022)。

こうして呼びかけを行っていた諸勢力がさしあたりの目標としていたのは侵攻後2度目の日曜となる3月6日であった。実際に、この日には各地で抗議運動が実施され、多いところで数千人が路上に出たとの報道もある(Гармоненко 2022a)。この日の拘束件数は、反戦デモが行われていた期間中最多の5560件に上った。そして、その翌週の日曜日にも抗議運動を行うことが呼びかけられた。

しかし、抗議運動の規模はその後縮小していった。侵攻後3度目の日曜となった13日の段階ですでに抗議運動の参加者は目に見えて減ったと指摘されている(Гармоненко 2022b)。この日は拘束件数も937件と、前週の5分の1以下であった。そして、この日を境にデモは目立たないものとなっていった。その後も路上に出る人はいたが、多くの場合は個人でプラカードを掲げるといった小規模な活動であり、すぐに拘束された。

この反戦デモに関してある程度網羅的に明らかになっているのは拘束件数のみである。すでに述べたとおり、拘束件数は3月上旬にかけて増加の一途をたどったが、拘束される参加者の割合も高まっており、参加者数がその分増加していたというわけではない。3月までの反戦デモは、モスクワやサンクトペテルブルクなどの大都市でも1万人に達することはなく、他の地方都市でも数百人、数十人程度の規模であったとみられている(de Vogel 2022)。

プーチン大統領再登板後の抗議運動

この反戦デモの規模はどのように評価できるのだろうか。ここでは、プーチン大統領再登板後の抗議運動を振り返り、その文脈に今回の反戦デモを位置づけることにする。以下、2011年から2021年までの抗議運動の参加人数を推定2したロゴフとシュキュロフの研究を手がかりに(Рогов, Шукюров 2021)、彼らが分類した「4つの波」に沿って抗議運動の経緯を概観する(それぞれの波の概要については以下の表を参照)。

まず、第1波(2011年12月~2012年9月)は、2011年下院選挙時の選挙不正疑惑に端を発したものであった(Gabowitsch 2016)。最大規模となった2011年12月10日にはモスクワ中心部のボロトナヤ広場周辺を中心に全国で集会が行われた。この時の参加者数の推計値は12.6万人であった。その後も、プーチンが出馬を予定していた大統領選挙に向けたキャンペーンと並行する形で抗議運動が続いた。このデモはプーチンの再選を妨げることこそなかったものの、政権は事態の収拾に追われることになった。

2011年から12年にかけての盛り上がりが落ち着くと、プーチンの大統領再登板後に統制が強化されたこともあり、抗議運動は下火になった。第2波(2013年3月~2017年2月)においては、2014年のウクライナへの軍事介入に反対する「平和の行進」、2015年2月のネムツォフの暗殺など、象徴的な事件が起こるたびに人々が路上に出てデモを行ったが、第1波のような規模になることはなかった。

抗議運動の第3波(2017年3月~2019年9月)は2017年春のメドヴェージェフ首相(当時)の汚職疑惑をきっかけとした抗議運動や、2019年夏、モスクワ市議会選挙前の候補者の登録拒否に抗議するために行われた一連のデモを含んでいる。この時の抗議運動も第1波ほどの規模にはならなかったが、路上に出た参加者が手当たり次第に拘束されることもあり、拘束件数は増加した。

第4波(2020年7月~2021年4月)のハイライトはナヴァリヌィの逮捕を受けて行われた抗議運動であった3。ナヴァリヌィの逮捕直後に行われた2021年1月23日の参加者数の推計値はそれぞれ14万人、31日は7.4万人であり、第1波以来の大規模な抗議運動となった4。このデモに対する当局の取り締まりは非常に厳しく、この2日間だけで1万人近い拘束者が出ている。これを機にナヴァリヌィ陣営に対する締め付けは強化され、4月21日のデモを最後にそれ以上の活動を続けることができなくなった。

今回の反戦デモは、抑圧の度合いが増すなかで当局と抗議運動の参加者が厳しく対峙し、多くの拘束者が出たという点では第4波の延長線上にあるものと捉えられるが、両者の間には重要な違いもある。それは、反戦デモに参加した人の数が2021年と比較して大きく減少したとみられる点である。第4波の際に最大規模のデモとなった2021年1月23日にはモスクワだけでも4~5万人が抗議運動に参加したと言われる。今回のデモの参加者はモスクワなどの大都市でも1万人には満たない規模と考えられていることを踏まえると、その差は明らかであろう。

表 抗議運動の4つの波(2011年12月~2021年4月)

表 抗議運動の4つの波(2011年12月~2021年4月)

(注)Дурново и др. (2021)による。
(出所)Рогов, Шукюров (2021), Таблица 4(С. 67)を一部改変のうえ筆者作成。
反戦デモが小規模にとどまった理由

今回の反戦デモが拡大しなかったのはいったいなぜなのだろうか。2021年の抗議運動が大規模になった背景にはロシアの長期政権や抑圧的な政治体制への不満があったと考えられる。しかし、政権はデモを力で抑え込むのみであり、状況は改善するどころか悪化する一方であった。また、ウクライナ侵攻をめぐっては賛成一色ではなく、若い世代――彼らこそが2021年の抗議運動の主な担い手でもあった5 ――ほど侵攻に反対する人が多いことが明らかになっている6。侵攻やさらなる抑圧強化への反発が再び人々を路上に駆り立てても不思議はないように思われるが、デモは小規模にとどまった。

まず挙げられるのは、侵攻開始後、抗議運動に対する抑圧がこれまでになく強化されたことである。すでに触れたとおり、2012年以降のロシアにおいては着々と統制が強まり、2021年の時点でかなりの強度に達していたと言えるが、侵攻後の抑圧強化は桁違いであった。とりわけ、3月4日に、ロシア軍に関する「虚偽情報」の拡散7、ロシア軍の信用失墜、ロシアに対する制裁の呼びかけを取り締まる法改正(Федеральный закон 2022)が行われたことの影響は大きかった。これによって戦争反対を訴えること自体がロシア軍の信用を失墜させる行為とみなされるようになり、デモの組織および参加に伴うリスクはより高まった8。また、抑圧は当局によって行われるだけとは限らず、「裏切り者」と認識された人々に対する嫌がらせや脅迫の例も報告されている(Спектр 2022)。戦争に反対する声を上げることへのハードルはきわめて高くなっているのである。

次に、過去の抑圧の結果が今になって現れている面もある。この観点から目立った変化となったのが、それまでの抗議運動において大きな役割を果たしてきたナヴァリヌィの組織が第4波の後に壊滅状態に陥ったことである9。活動家の一部は亡命して活動を継続しており(Хейфец, Тарабукин 2021)、侵攻の開始後もYouTubeや各種SNSを通じて反戦デモを呼びかけるなどしていたものの、抑圧が一層厳しくなるなかで、国内の組織なしでデモを実行に移すことは容易ではなかったようである。3月6日にモスクワ市の抗議運動で拘束された参加者の証言は、市内中心部の広場(ナヴァリヌィのチームによって指定された場所も含む)は治安部隊によって封鎖され、そこで抗議運動を行う余地はなかったこと、また、その他の組織者はそれぞれ別の待ち合わせ場所や時間を設定しており、抗議運動が分散的になっていたことを明らかにしている(openDemocracy.net 2022)。現在は運動「ヴェスナー」などが反戦デモを続けているが、かつてのナヴァリヌィのようなリソースはなく、その活動は小規模にとどまっている10

最後に、これまでプーチン政権に批判的だった人々の考え方が侵攻を受けて変化した可能性も指摘しておきたい。留意が必要なのは、このような変化は必ずしも戦争に対する熱狂によるものではないという点である11。それではいったい何が変化のきっかけになりうるのか。この点から重要な指摘が、世論調査機関レヴァダ・センターのデニス・ヴォルコフによってなされている12。彼は、同センターの調査結果から、多くのロシア人が、「包囲されているロシアは指導者の下に集まらなければならない」という信念を受け容れているとし、侵攻開始後の対ロシア経済制裁――航空機が止まり、ビザの発給が停止され、欧米の人気企業が次々と撤退する――に対する反発がこれをより強めている面もあると指摘する。実際に、それまでは政権に批判的であったが、今回の侵攻を機に政権支持に転じた人々のエピソードも紹介されている(Troianovski et. al 2022, Lapenkova 2022)。直近の抗議運動に参加するほど活動的でもあった人々の間でこのような見方がどの程度広がっているのかについては慎重な検討が必要だが、世界中が敵になったという感覚が政権に対する不満や戦争への反対を覆い隠しうる点は念頭に置いておく必要がある。

写真2 2022年3月18日のクリミア併合8周年を記念する集会でのプーチン大統領

写真2 2022年3月18日のクリミア併合8周年を記念する集会でのプーチン大統領。
会場のスタジアムとその周辺には20万人が集まったとされる。
抗議運動の今後

ここまでの検討からは、ウクライナ侵攻後のロシアにおいては抗議運動が拡大する余地がほとんど残されていないことが明らかになる。それでも声を上げようとする人がいないわけではないが、反対意見を表明することに伴う抑圧のリスクがあまりにも高い状況下では、抗議運動への参加は現実的な選択肢とは言えなくなっている。

国内での異議申し立てに代わって注目されているのは国外脱出の動きである(Demytrie 2022)。侵攻開始後、多くのロシア人がトルコ、アルメニア、ジョージア、中央アジア諸国などに向かった。侵攻から10日余りが経過した3月7日の段階で、ジョージアの経済大臣は、同国に2~2.5万人のロシア人が入国したことを明らかにしている(Коммерсантъ 2022)。移動の背景にはさまざまな事情があり、政治的な理由による脱出とは限らないが、政権に批判的な人々が国外に出れば、国内における政権批判の機運はさらに弱まるかもしれない。

しかし、ロシア国内における抗議運動はもはや注目に値しないと結論付けるのは早計である。本稿では3月までを主な検討対象としたが、4月2日には再びデモが呼びかけられ、規模はそれほど大きくはなかったとみられるものの、全国で200件を超える拘束があった(Радио свобода 2022c)。今のところは国内での混乱はそれほど大きくなっていないが、経済制裁の影響次第では政権の方針に不満を持つ人も増えると予想される。今後戦争の実態や犠牲の大きさが明るみに出れば、それに対する反発も強まるだろう。もし何かをきっかけに多くの人々が路上に出るような事態になれば、現段階で抗議運動を難しくしている要因の一部は取り除かれるかもしれない。政権を転覆するほどの力はないにしても、このような大衆行動が何らかの形でロシアの今後に影響を与える可能性は残されている。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 写真1 Катя Златыя, The inscription on the snow "NO WAR", Petrozavodsk, 2022.(own work)(Public domain)
  • 写真2 www.kremlin.ru., President Vladimir Putin giving speech during a celebration marking the anniversary of Crimea’s reunification with Russia at the Luzhniki Sports Centre in Moscow 2022(CC BY 4.0
参考文献
著者プロフィール

油本真理(あぶらもとまり) 法政大学法学部教授。博士(法学)。著作に『現代ロシアの政治変容と地方――「与党の不在」から圧倒的一党優位へ――』(東京大学出版会、2015年)、“The Politics of Anti-Corruption Campaigns in Putin’s Russia: Power, Opposition and the All-Russia People’s Front”(Europe-Asia Studies 71(3), 2019)、「プーチン期のロシアにおける官製反エリート主義とその限界:『全ロシア人民戦線』の活動を中心に」(立教法学106号、2022年)など。


  1. 以下、拘束件数はOVD-infoの集計(4月13日時点)に基づいている。多くの場合は拘束後短期間の勾留で済むが、なかには刑事訴追に至るケースもある。
  2. 彼らは各種報道、主催者・内務省の発表、写真・映像、専門家の評価、拘束者数などの情報をもとに、参加者数(主催者・内務省の発表を除く)の最大値と最小値を割り出し、その間をとって推計値を出している。
  3. 2020年夏に極東・ハバロフスク地方のセルゲイ・フルガル知事の逮捕を受けて相次いだ抗議運動も第4波に含められている。
  4. ただし、地域的な広がりは大きく異なっている。第1波ではモスクワとサンクトペテルブルクの参加者が全体の75%を占めていたが、第4波では両都市の参加者は全体の20~30%に過ぎなかった(Рогов, Шукюров 2021)。
  5. 抗議運動の場で参加者を対象に行われた調査によると、7割超が30代以下だった(Архипова, Захаров, Козлова 2021)。
  6. 独立した専門家グループによる研究プロジェクト「ロシア人は戦争をしたいのか?」が侵攻後最初の1週間で行った調査によると、18-29歳は40%、30-41歳は30%が侵攻に反対であった。同プロジェクトのウェブサイト参照。
  7. 「虚偽情報」の拡散には最長で15年の自由剥奪刑を科すとされたことが注目を集めた。
  8. 同法成立後の3日間で、この新法に基づき、全国で少なくとも60人が拘束された(Медуза 2022)。
  9. ナヴァリヌィは2016年末に2018年大統領選挙への出馬の意思を表明し、各地に選挙本部を開設した。抗議運動は彼の政治活動の重要な柱と位置付けられており、地方本部はその組織化も担った(Dollbaum, Lallouet and Noble 2021)。
  10. この点については、同運動の共同創設者であるボグダン・リトヴィンのインタビューを参照(Холод 2022)。
  11. 複数のロシアの研究者が、今回は侵攻に賛成する人の間でも2014年のクリミア併合時のような熱狂は見られないと指摘している。そのひとつの証左として挙げられるのが、2014年のクリミア併合時には多くの車が聖ゲオルギーのリボン(愛国心のシンボルとされる)をつけていたが、今回、ウクライナ侵攻の象徴とされる「Z」の文字を付けている車はほとんどないという点である(Troianovski et. al 2022)。
  12. この発言はTroianovski et. al(2022)から引用した。