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不可視化されたクルド・ナショナリズムの多様性——IISHが所蔵するクルド系社会主義組織の資料から
The Invisible Diversity of Kurdish Nationalism
PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053526
能勢 美紀
Miki Nose
2022年11月
(5,281字)
国際社会史研究所とクルド関係資料
1935年にアムステルダムに設立された国際社会史研究所(International Institute of Social History: IISH)は、労働運動、社会民主主義運動など、労働社会史を主な研究対象とし、研究所にはこれらの研究を支える図書館が附属している。IISHが収集対象とする資料の多くは社会運動やそれら運動に関連する人々についての資料であり、こうした資料は国立図書館をはじめとする公的な図書館の資料収集対象から外れ、時に中央政府による押収や毀損の危険さえある。IISHは、これら資料を滅失から守るという重要な役割も果たしてきた。
IISHによって収集され、守られてきた資料群のひとつにトルコのクルド系組織や関係者に関する資料がある。IISHは特に政治活動の制限や思想統制の厳しかった1980年クーデター後のトルコにおける資料保存の状況に危機感を抱き、クーデター前に活動した組織の出版物や、トルコ国外で刊行されたものも含めて重点的に収集したために、多くのトルコ・クルド関係資料が滅失を免れて保存されることになった。これらの資料は1980年クーデター前後のトルコ社会の状況と政府の政策により公の場から排除され、不可視化されてきたものである。
本稿では、IISHが所蔵するクルド関係資料の特徴やこれらの資料を発行していたクルド系社会主義組織について、1960年代にトルコにおいて社会主義運動のなかからクルド人運動がうまれてきた背景も交えて紹介する。そうすることで、今日見過ごされがちなクルド人運動の多様性に目を向けたい。たとえば、現在、トルコのクルド系組織として最も知られているのは、1984年からトルコ政府との武装闘争を開始したクルディスタン労働者党(Partiya Karkeran Kurdistan: PKK)である1。PKKに関する論考は多くあるが、PKK以外のクルド系組織についてはほとんど言及されることがない。この結果、PKKがトルコのクルド系組織の意見を代表しているように思われがちである。しかし、PKKが登場する以前から、多様な組織によりクルド人運動が展開されてきたことが、IISH所蔵の資料から分かるのである。
トルコにおける社会主義運動の発展
トルコでは、クルド人を含む非トルコ系のムスリム・マイノリティーに対して組織的な同化政策が行われたことはよく知られている。クルド・アイデンティティを伴う活動も厳しく制限されたが、クルド人運動は1960年代に、都市部に移動した大学生や労働者たちによる社会主義運動として出現することになる。この背景には、1961年に制定された憲法の存在があった。
1961年憲法は、それまでトルコに存在したものよりはるかに広い市民的自由を認めた。報道や表現の自由が拡大し、政府に批判的な労働組合や政治団体の設立が可能になった。都市部では左派組織が生まれ、仕事を求めてイスタンブルやアンカラといった大都市に移住してきた労働者たちや、高等教育を受けるために都市部へ出てきた大学生たちが左派組織、特にトルコ労働者党(Türkiye İşci Partisi: TİP)に加わった。当時、TİPをはじめとする左派勢力は、クルド問題を地域的不平等に基づく経済問題、社会主義的な文脈で言えば、ブルジョワジーによるプロレタリアートへの搾取の一形態と捉えていた。
クルド・ナショナリズム組織の登場
しかし、次第にTİPのクルド人メンバーは、党にこの問題が民族的な不平等と文化的抑圧の側面も持っているという見解を受け入れさせることに成功した(Bruinessen 1984)。TİPは1970年の第4回党大会において、トルコ議会で代表される合法的な政党として初めて「トルコの東部にはクルド人がいる」と述べてクルド人の存在を認めた。また、さらに踏み込み、クルド人が受けている民族的抑圧を糾弾する決議を採択した(Bruinessen 1984; Gunter 1988)。
当初、左派の学生や知識人にある程度限定されていたこうした議論は、1960年代後半、一部のクルド知識人がトルコ東部の主要都市で大規模な集会を組織することによって、クルド人の一般大衆の間にも広まっていく。特に、1969年、アンカラのクルド知識人を中心に、クルド系組織として初めて合法的に設立された革命的東部文化クラブ(Devrimci Doğu Kültür Ocakları: DDKO)は左翼的なクルド人運動を先導し、東部で大きな影響力を持つようになった(Bruinessen 1984; Gunter 1988)。これ以降、1970年代にはさまざまなクルド・ナショナリズム組織が誕生することになる。
DDKOの関連資料について、IISHは現在のところ1970年にアンカラで刊行されたDDKOの機関誌D.D.K.O. yayın bülteniの6号と7号、そして1973年にスウェーデンで刊行された図書1点を所蔵するのみだが、いずれもリプリントではなく原版である点が貴重と言える2。
1971年クーデターとクルド・ナショナリズム組織の再結成
1960年代のトルコは、民主化が進展した時代であったと同時に、左派の反政府運動や社会主義運動が過激化し、治安が急激に悪化した時代でもあった。1971年、軍部はトルコ社会に蔓延したテロと社会的不安を収拾するため、クーデターを起こした3。クーデター後には、当時治安悪化の原因とされた「急進的な」組織が閉鎖され、そうした組織のなかにはTİPやDDKOも含まれていた。同時に、多くの活動家も拘束された。一方で、クーデター後の正常化は早く、1973年には政党による政治活動が再開された。これに伴い、拘束されていた活動家の多くが釈放され、クルド系左派組織の活動は再び活発になった。1974年から1975年にかけて、旧DDKOは革命的民主文化協会(Devrimci Demokratik Kültür Dernekleri: DDKD)の名で活動を再開し、すべてのクルド人運動を統合しようと試みた。しかし、この試みは失敗に終わり、DDKDは政治的な見解の相違や個人的な対立から分裂した(Bruinessen 1984)。
IISH所蔵の資料のなかから、DDKDから派生した数ある組織のうち、クルド・ナショナリズムに大きな影響を及ぼした以下の二つの組織に関するものを紹介する。
クルディスタン社会主義者党(PSK)
DDKDの分派から最初に現れた政治組織が、1960年代にTİPで活動していたケマル・ブルカイ(Kemal Burkay)4らクルド人メンバーを中心とする[トルコ・]クルディスタン社会主義者党(Partîya Sosyalîsta Kurdistan: PSK)である。PSKが1975年から発行していた雑誌Özgürlük Yolu(『自由への道』)は、トルコ語に加えてクルド語が使われていたことが画期的だった。PSKは、TİPの比較的穏健な社会主義思想をひきついでおり、クルド人被抑圧階級と革命的トルコ労働者階級の同盟を重視していた(Ballı 1991: 362-412; Bruinessen 1984; Gunes 2013)。IISHは、アンカラで発行されたÖzgürlük Yoluの初号から発行が禁止された1979年の44号までの全号を所蔵している。
ただ、PSKは、労働者と知識人による典型的な都市組織であり、労働組合と教職員組合にある程度の影響力はあったものの、トルコでは特に大きな組織というわけではなかった(Bruinessen 1984)。むしろ、PSKは、のちにドイツを中心にクルド人労働者を組織していたクルディスタン労働者連合(Komela Karkerên Kurdistan: KOMKAR)と協働したことで、ヨーロッパのクルド・ディアスポラの間で大きな影響力を持った。PSKは1970~80年代のトルコでは祝うことが難しかったクルド人の伝統的な新年祭であるネウロズをヨーロッパ各地で開催するなど、PKKが1980年代後半にヨーロッパでクルド人の支持を得る以前はヨーロッパで最大規模の組織だったと言える。
PSKはKOMKARのスウェーデン支部を発行者として、1978年からスウェーデンでRoja nû(『新しい日』)の発行を始めている。Roja nûは、発行当初はトルコ語とクルド語のバイリンガル雑誌だったが、1983年からはクルド語のみを用いた新シリーズに変わっている。IISHにはどちらのシリーズも所蔵がある5。他にもIISHにはPSKがヨーロッパに拠点を移してからの会報誌やチラシ、映像資料の所蔵もあり、PSKについてのかなりまとまったコレクションを有している。
革命的民主文化協会(DDKD)
1970年代後半にトルコのクルド人のなかで最も大きな影響力を有したのは、先に分裂したDDKDの支部のいくつかを配下に組み込んだグループであった。彼らはDDKDの前身であるDDKOと直接の関係はなかったが、組織の名称にDDKDを使用した。DDKDは1978年までに40以上の支部を持ち、約5万人の会員を抱え、PKKの台頭以前においては、トルコのクルド系組織のなかで最大のものになった。DDKDは、マルクス・レーニン主義を掲げ、親ソ連的なトルコ共産党との協力関係を模索した。DDKDの出版物は、主に知識人と若者を対象にしていたが、会員にはあらゆる階層の人々が含まれていた。また、多くの重要な問題に関して、明確な立場をとることはなかった(Bruinessen 1984)。
IISHには、DDKDがスウェーデンで発行していたArmanc(『目標』)が、1979年の初号から欠号を含みつつ所蔵されている6。Armancは1980年クーデターでトルコのDDKDが閉鎖された後もトルコから亡命したメンバーを編集部に加えながら、1997年までスウェーデンで発行されている。Aramncの記事は当初そのほとんどがトルコ語で書かれていたが、1986年からはクルド語のモノリンガル雑誌に変わっている。
IISHの資料にみるクルド人運動の多様性
1970年代後半には、他にも多くのクルド系組織が生まれたが、この頃に組織されたほとんどすべてのクルド系組織が社会主義を掲げ、クルド人をトルコ人とは別個の民族とみなし、自決権を主張していた(Ballı 1991; Bruinessen 1984)。この点で1971年クーデター以降のクルド人運動は、それまでのものとは大きく違う。1960年代に経済的格差の問題として立ち現れてきた運動は、クルド人の民族性を主張するようなものになっていたのである。ただ、このことは必ずしも別個の国家を作ることを意味したわけではなく、PSKとDDKDを含め、その活動は主に文化的権利の達成に向けられていた。また、PSKもDDKDも、PKKが主張していたような武装闘争には批判的であったことが彼らの出版物から読み取れる。
これらのIISHの資料からは、各組織が政治的な活動のほかに、クルド音楽や歌による文化的な集会を催したり、クルド語の識字教育に力を入れたりしていたこと、また、こうした活動を合法化しようとする試みが数多く行われたことがわかる。しかし、こうした試みがクルド語とクルド文化への承認に結びつくことはないまま、最終的に、1980年クーデターを迎える。
1980年クーデターは、1971年クーデターとは異なり、トルコ全土に戒厳令が敷かれ、政治的組織の閉鎖と活動家の逮捕がこれまでにない規模で行われた。多くのクルド系左派組織も閉鎖され、クーデター前後に活動家の多くがヨーロッパ、特にスウェーデンへと亡命することとなった。クーデター後は、政治活動の禁止はもちろん、トルコ語以外の言語の使用禁止や民族音楽の禁止といった施策がそれまで以上に厳格に適用され、大学等の研究機関が政府の管理下に入ることで、思想統制も行われた。こうした状況に危機感をもったIISHがトルコでの資料収集活動を喫緊の課題と捉えたことは前述したとおりである。
今日、PKKの運動や思想のみが取り上げられる傾向にあるが、トルコで社会主義的な左派運動が盛り上がった1960年代から現在まで、PSKやDDKDのように、武装闘争とは距離を起き、政治的過程を通してクルド人の権利拡大を目指す活動が続いていることは忘れるべきではないだろう。民族的文化的権利を掲げるクルド・ナショナリズム運動は、1980年クーデターを機にその中心をトルコからヨーロッパへと移し、クルド・ディアスポラやヨーロッパ社会も巻き込みながら、今日までクルド問題に対して一定のプレゼンスを保持している。IISHの資料は、ともすればPKK一色に染まりがちなクルド・ナショナリズムについて、かつて行われた膨大な議論を我々に提供し、クルド人運動の多様性に気づかせてくれる。
(付記)本記事は、JSPS科研費 21K12421の成果の一部です。
※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
本稿で紹介したIISH所蔵資料
以下、タイトル、出版者、出版地の順に資料情報を記載。出版者が[ ]付きのものは、資料に出版者としての明確な記載がないことを表す(タイトルをクリックするとIISHの所蔵情報にリンクする)。
- Armanc. [İsveç-Kürt Kültür ve Dayanışma Derneği]. Stockholm: PKK台頭以前にトルコで最も影響力のあったクルド系社会主義組織DDKDが1979年から1997年までスウェーデンで刊行していた雑誌。
- D.D.K.O. yayın bülteni. Devrimci Doğu Kültür Ocakları. Ankara: 1969年、トルコでクルド系組織として初めて合法的に設立されたDDKOの機関誌。
- Dünyada Kürt vardır : Sen faşist savcı iyi dinle ! DDKO'nun savunması. [Devrimci Doğu Kültür Ocakları]. Uppsala: 1971年クーデターによって閉鎖されたDDKOが1973年にスウェーデンで出版した書籍。クルド人の民族性を認めないトルコ政府を「ファシスト」と呼び、「クルド人は存在する」と主張しており、「クルド問題」は経済問題から民族問題へと変化していることが読み取れる。初期のナショナリズム資料として重要。
- Özgürlük Yolu. [Türkiye Kürdistanı Sosyalist Partisi]. Ankara: PSKが1975年から1979年まで発行していた雑誌。PSKは、トルコでは都市部以外での影響力はそれほど大きくなかったが、ヨーロッパではクルド人コミュニティに大きな影響力を持ち、クルド文化の発展と普及に尽力した。
- Roja nû. [Komela Karkerên Kurdistan li Swêd]. Stockholm: 上記PSKが1978年からヨーロッパで刊行していた雑誌。
写真の出典
- 写真1 筆者撮影
- 写真2 Mahmut Bozarslan, VOA.(Public Domain)
参考文献
- Ballı, R. (1991). Kürt Dosyası. Cem Yayınevi. Istanbul.
- Bruinessen, M. v. (1984). “The Kurds in Turkey,” MERIP Reports, (121). (2022年10月アクセス)
- Gunes, C. (2013). “Explaining the PKK's Mobilization of the Kurds in Turkey: Hegemony, Myth and Violence,” Ethnopolitics, 12(3), 247-267.
- Gunter, M. M. (1988). “The Kurdish Problem in Turkey,” Middle East Journal, 42(3), 389-406.
- Mandıracı, B. (2016). “Turkey’s PKK Conflict: The Death Toll,” International Crisis Group(2022年10月アクセス)
著者プロフィール
能勢美紀(のせみき) ジェトロ・アジア経済研究所海外研究員(在オランダ)。2015年ライブラリアンとしてアジア経済研究所に入所。中東・北アフリカ、中央アジア地域を担当。最近の著作に「資料を守るライブラリアン――マイクロフィルム編」(『ライブラリアン・コラム』2021年6月)、「感染症対策と資料保存の両立――換気の意外な悪影響と図書館の対応」(『ライブラリアン・コラム』2021年4月)、「所蔵マイクロフィルムの状態把握と保存計画:アジア経済研究所図書館の事例」(『図書館界』72巻5号, 2021年)など。
注
- PKKとトルコ政府との抗争の結果、2016年までに3万から4万人が犠牲になったと推計されている(Mandıracı 2016)。
- ただし、これらの資料はパリのクルド研究所図書館に、よりまとまった所蔵がある。
- このクーデターの際、軍部は軍事介入せず、当時のデミレル内閣に書簡を通じて圧力をかけることで総辞職に追い込んだため、「書簡によるクーデター」と言われる。
- ケマル・ブルカイは1980年クーデター直前にトルコからスウェーデンに亡命し、以後、2011年までスウェーデンを拠点に活動した。2011年にスウェーデンからトルコに戻り、2012年から2014年まで、トルコのクルド・ナショナリズム政党HAK-PARの党首を務めた。
- 1983年からの新シリーズの一部は、パリのクルド研究所がデジタル化のうえ公開している。
- ただし、発行者名はスウェーデン・クルド文化連帯協会(İsveç-Kürt Kültür ve Dayanışma Derneği)である。筆者がDDKDの関係者に行ったインタビューによると、当時のスウェーデンでは、文化的活動を行う団体に対する公的支援があり、Armancの発行やクルド語やクルドの歴史に関する講座を開催していたとのことである。
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