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クルド・ナショナリズム揺籃の地としてのスウェーデン――二つの社会制度と民族性の承認

Sweden as a cradle of Kurdish nationalism

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053061

2022年6月

(5,355字)

注目されるスウェーデンのクルド人

スウェーデンとフィンランドのNATO加盟について、トルコのエルドアン大統領が反対の意向を表明している。反対の理由は、両国が「(クルド人の)テロリストを匿っている」ことと、2019年のトルコ軍による北東シリアへの越境攻撃を機にトルコへの制裁(武器の禁輸措置等)を行っていることの主に2点である。トルコが越境攻撃を行ったのは、PYD(クルド民主統一党)へ打撃を与えるためで、トルコは、PYDを米国、EUがテロ組織と認定しているPKK(クルディスタン労働者党)の姉妹組織とみなしている。すなわち、この2つの理由は「クルド人勢力の拡大に対する懸念」という点でつながっている。なかでもスウェーデンに対して、エルドアン大統領は、2022年5月16日の会見でテロ組織の「揺籃の中心地」(kuluçka merkezi)であると呼び、スウェーデンに(PKKと結びつきがあるとエルドアン大統領が考える)クルド系国会議員がいることや、クルド系の活動家らがスウェーデンの国会に招致されたことなどを強い口調で非難した1

両国へのNATO加盟反対は政治的駆け引きと思われるが、スウェーデンにおけるクルド人コミュニティについて、エルドアン大統領がこれまでも一定程度警戒してきたことも事実であろう。なぜなら、スウェーデンのクルド人コミュニティはその規模と影響力の双方の点で大きく、クルド人のナショナリズムや人権運動の展開と発展に決定的な役割を果たしてきたと言えるからである。本稿では、ヨーロッパ、特にスウェーデンがクルド問題を論じる際になぜ注目を集めてきたかについて、クルド人にとってのディアスポラ・コミュニティの意味、ヨーロッパにおけるクルド人のディアスポラ・コミュニティ形成の歴史、そして、特にスウェーデンの社会制度がクルド・ナショナリズムの形成に果たしてきた役割の順にみていく。

写真1 スウェーデンとフィンランドのNATO加盟申請を受けて両首脳と会談するバイデン米大統領

写真1 スウェーデンとフィンランドのNATO加盟申請を受けて両首脳と会談するバイデン米大統領
クルド人にとってのディアスポラの役割

クルド問題においては、中東のホームランド以上に、ディアスポラのヨーロッパのクルド人コミュニティが大きな役割を果たしてきた。なぜなら、最大のクルド人口を抱えるトルコにおいて、クルド人の民族アイデンティティを表立って表現することは比較的最近まで難しかったからである。1923年のトルコ共和国建国以来、トルコ民族を核とする国民国家の建設が目指されるなかで、クルド人は同化政策の対象になるとともに、差別や抑圧を経験してきた。なかでも、一般のクルド人に対する抑圧と同化において重要な役割を果たしたのが言語政策である。トルコではクルド語の公的な場所での使用禁止はもとより、クルド語での表現、すなわち出版や放送も禁止されていた時期が長くつづき、1980年の軍事クーデター前後を抑圧のピークとして、クルド語地名のトルコ語への変更やクルド語書物の没収と焚書などを通じた「トルコ化」が試みられた(Zeydanlıoğlu 2012, 100)2。このような状況にあったクルド人たちに、トルコ人やトルコ語とは異なる自らのアイデンティティを意識させ、それを表現する舞台を提供したのがヨーロッパであった。多くのクルド人が、クルド語やクルド文化の表出が制限されたトルコをはじめとする中東のホームランドではなく、ヨーロッパで民族意識に目覚め、クルド問題に関わるようになっていったのである(Bruinessen 2000)。

ヨーロッパにおけるクルド人コミュニティの形成

多くのクルド人がヨーロッパに渡ったのは1950年代以降であるが、移住の背景としては大きく2種類に分けられる。

1つ目は、労働移民としての移住である。これは、1960年代、北西ヨーロッパの国々が第二次世界大戦後の復興に伴う労働者不足を補うために労働移民を大量に受け入れたことによる。労働者の移住は1973年のオイルショックで景気が後退したことにより下火となるが、特にドイツとオランダには戦後の復興期にクルド人を含む多くのトルコ国籍の労働者が移住した。その後の家族呼び寄せ等の結果、現在でも数としてはドイツが最も多くのトルコ系およびクルド系の移民を抱えている。

2つ目が難民としての移住である。1970年代中頃以降の移住者の多くが政治難民あるいは戦争難民に該当する。労働移民としてクルド人を多く受け入れたドイツやオランダと異なり、スウェーデンやフィンランドなどの北欧諸国には難民として受け入れられたクルド人が多い。特にスウェーデンは、1970年代のトルコにおける右派と左派による活動の先鋭化と治安の悪化、そして1980年の軍事クーデター前後の活動家への弾圧によってトルコから亡命した政治難民を多く受け入れた。彼らの多くは左派の知識人、文化人であった(Bruinessen 2000, 14)。

写真2 ドイツでクルド語の雑誌(『難民の声』)を売るクルド系と思われる移民の子どもたち

写真2 ドイツでクルド語の雑誌(『難民の声』)を売るクルド系と思われる移民の子どもたち
クルド・ナショナリズムを育てたスウェーデンの社会制度

こうして、スウェーデンに移住したクルド人の知識層を中心として、クルド人の言語や歴史文化、そしてクルド問題について取り上げた雑誌が1970年代から発行されるようになる。1970年代に発行された雑誌の多くは1960年代に移住した大勢のクルド人労働者に向けたものだったが、そのほとんどがクルド語の読み書きができなかったことから、トルコ語で書かれた記事が多かった(Bruinessen 2000, 14)。ただ、トルコ語が使用されていたとしても、こうした雑誌がクルド人労働者たちの民族意識に与えた影響は大きい。それまで自らをトルコ人として意識することの方が多かったクルド人労働者の少なくない人々が、これらの雑誌等をとおしてクルド・アイデンティティに目覚め、積極的にクルド語やクルド文化を学ぶようになっていったからである(Bruinessen 2000, 13-16)。

クルド語やクルド文化への関心の高まりに合わせるように、スウェーデンにおけるクルド語での出版は1980年代後半に急速に増加する。これは1980年の軍事クーデターによって、膨大な数のクルド人文化人と知識人がトルコから政治亡命したことに加え、スウェーデンがマイノリティー言語に対する支援という枠組みで出版助成を行ったことが影響している(Bruinessen 2000, 14)。クルド語の十分な知識があった亡命クルド人たちはトルコ語や英語、そして移住先の言語に加えてクルド語でも多くの創作・著作活動を行い、クルド語の発展と普及に大いに貢献した。クルド系の出版社は零細なものが多く、商業出版ではない出版(self-publishing)も一般的であったため、正確な出版点数の把握は困難であるが、スウェーデンでは、2000年前後には毎年40から50点程度のクルド語書籍が刊行され(Bruinessen 2000, 15)、2000年頃までに数百のタイトルがクルド語で刊行されたと推計されている(Muhammed 2020)3

加えて、クルド・アイデンティティの形成に大きく貢献したのがスウェーデンのクルド語による母語教育の承認である。スウェーデンでは、スウェーデン語以外の言語を母語とする児童生徒に母語教育を受ける権利が認められている。具体的には、1985年から、基礎学校と就学前学校において、スウェーデン語以外の言語を第一言語とし、家庭ではスウェーデン語を使っていない児童生徒、もしくは両親がスウェーデン語以外の言語を母語とする児童生徒は、母語教育を受けることが可能になった(澤野・小川 2020, 28)。母語教育自体はヨーロッパのほかの一部の国でも認められているが、多くは出身国の公用語による母語教育である。ドイツで活動を開始し、オランダやフランスなど西欧各国に支部を持つクルディスタン労働者連合(Yekîtî Komala Karkerên Kurdistan: KOMKAR)は、各国において、クルド人の移民の子どもの母語教育をトルコ語ではなくクルド語で受ける権利があるとしてロビー活動を行ってきたが、実際にクルド語の母語教育を認めたのはスウェーデンとデンマークの2カ国であった(Bruinessen 2000, 13-14)4

このように、スウェーデンのクルド人は、クルド人としてのアイデンティティを「取り戻してきた」と言える。トルコ政府は、民族自決を旗印とする分離独立運動が生まれることを危惧し、クルド人を「山岳トルコ人」、クルド語を「トルコ語の方言」であるとして、その民族性を認めてこなかった。したがって、クルド人が自らのアイデンティティに目覚めること自体がトルコ政府にとっては潜在的な脅威であった。そして実際に、例えばクルド系左派組織である革命的民主文化協会(Devrimci Demokratik Kültür Dernekleri: DDKD)が1979年からスウェーデンで発行していた雑誌Armancなどには、クルド・アイデンティティの主張にとどまらず、自治といったクルド人の民族的権利を要求する記事がたびたび掲載されており、クルド・アイデンティティはクルド・ナショナリズムに結びついていた。こうして、ヨーロッパ、特に1980年代のスウェーデンは、クルドの出版物とクルド語を保護することで、結果的にクルド・ナショナリズムの発信地としての役割を果たすようになっていったと言えるだろう。

また、スウェーデンのクルド・ディアスポラに特徴的なこととして、彼らは、受け入れ先であるスウェーデン社会の一員としてのアイデンティティを持って積極的に社会や政治に関与しつつ、それと矛盾しない形でクルドのアイデンティティを保持し、その社会・政治活動にも関与していると言われる(Khayati and Dahlstedt 2014)。クルド語による母語教育の保証は、出版助成によるクルド語やクルド文化の保護と相まって、クルド人としてのアイデンティティの確立に貢献しただけでなく、自分たちをクルド人として承認したスウェーデン社会への愛着を生み出し、このような特徴的なディアスポラ・コミュニティの形成につながったのではないだろうか。

クルド・ナショナリズムの発展に果たしたスウェーデンの役割

1990年代半ば以降、ヨーロッパを拠点とする衛星テレビの出現により、出版物に代わって衛星テレビがクルド・アイデンティティの形成とナショナリズムへの動員において大きな役割を果たすようになった。クルド語の出版物が少なくともトルコ語あるいはクルド語を読めるだけの教養のある層に限られていたのに対し、衛星テレビは何百万というクルド人を聴衆とすることができた(Bruinessen 2000, 17)。さらに、現在では衛星テレビに加え、インターネットを通じて多様なメディアに世界各地から発信およびアクセスができるようになり、かつてのようにスウェーデンがクルド・ナショナリズムの旗手として顕著な地位にあるわけではない。しかし、出版と教育というスウェーデンの2つの社会制度が、1970年代以降のディアスポラ・コミュニティの形成期において、クルド人としてのアイデンティティの確立と、クルド・ナショナリズムの発展に果たした歴史的役割は大きい。こうした経緯によって、スウェーデンはクルド・ナショナリズムの中心的な場所として注目されるようになり、すでに半世紀近くも、クルド人の存在と問題を世界に発信しつづけているのである。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
  • 写真1 Office of the President of the United States(Public Domain)
  • 写真2 Bablekan(GNU Free Documentation License, CC BY-SA 3.0
参考文献
  • 澤野由紀子、小川早百合(2020)「スウェーデンにおける難民・移民の子どもに対する言語教育の現状と課題」、『聖心女子大学論叢 = Seishin Studies』(136), 138-182.
  • Ayata, B. (2008). “Mapping Euro-Kurdistan,” Middle East Report, (247).(2022年5月アクセス)
  • Bruinessen, M. v. (2000). “Transnational aspects of the Kurdish question,” Working paper. Robert Schuman Centre for Advanced Studies, European University Institute. Florence
  • Khayati, K., and M. Dahlstedt. (2014). “Diaspora formation among Kurds in Sweden,” Nordic Journal of Migration Research, 4(2), 57-64.
  • Muhammed, H. (2020). My Language, My Homeland. Recommendations for the Improvement of the Kurdish-Nordic Literary Field, English edition, The Culture for All Service. Helsinki
  • Zeydanlıoğlu, W. (2012). “Turkey's Kurdish language policy,” International Journal of the Sociology of Language, (217), 99-125.
著者プロフィール

能勢美紀(のせみき) ジェトロ・アジア経済研究所海外研究員(在オランダ)。2015年ライブラリアンとしてアジア経済研究所に入所。中東・北アフリカ、中央アジア地域を担当。民族運動と紛争、資料保存をテーマに研究している。最近の著作に「所蔵マイクロフィルムの状態把握と保存計画:アジア経済研究所図書館の事例」(『図書館界』72巻5号、2021年)、「【世界の図書館から】トルコ大国民議会図書館(トルコ)」(『U-PARLコラム』2019年)など。


  1. 会見はトルコのニュースチャンネルHaber Globalの動画を参照した(2022年5月アクセス)。
    エルドアン大統領の発言について、PKK自体はNATOメンバーである米国やEUもテロ組織と認定しており、2019年の制裁もフランスやドイツ、また規模は小さいが米国も参加したものであるから、スウェーデンとフィンランドに対する非難はやや説得力に欠ける。クルド系の国会議員や親クルド的な組織もドイツやオランダといったクルド系住民の多いヨーロッパ各国でみられる。またクルド系の組織のすべてがPKKの関連組織というわけではなく、反PKKの組織や、人権問題に力点をおく組織も多い。
  2. クルド語やクルド文化に対する制限は、1990年代のトルコのEU加盟交渉の過程で多くが解除されたが、いまだにクルド語による初等教育は達成されていない。
  3. スウェーデンでのクルド語出版は、2000年代以降はオンライン・メディアの登場、トルコでのクルド語出版の解禁、イラクでのクルド自治区の成立など複数の要因から次第に減退し、現在ではトルコとイラクがスウェーデンの出版点数を凌ぐクルド語書籍を出版している(Muhammad 2020)。
  4. ドイツの場合は国としてクルド語の母語教育を認めていないが、連邦制のため、地域によってクルド語教育を認めている。Ayataによれば、ブレーメン州、ハンブルク州、ニーダーザクセン州、ノルトライン=ヴェストファーレン州でクルド語による教育が行われている(Ayata 2008)。
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