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論考

続くタイの政治混乱――あぶり出された真の対立軸

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051538

2020年1月

(10,244字)

2006年以降、現在に至るまで、タイの政治は混乱のさなかにある。大規模な街頭デモが繰り返され、国際空港すら群衆によって占拠されたことがあったし、軍事クーデタが2回も起きた。2014年以降は、軍部による支配が2019年5月まで5年間も続き、その後の民選内閣も軍部の影響力下にある。本稿では、重冨(2010)で示した混乱の構造をおさらいした後、2014年クーデタ以降の変化に注目して、現在のタイにおける政治対立がどのような状況にあるのか、何をもたらしたのかを考えてみたい。

写真1 首相在任当時のタクシン氏(左・2005年)、プラユット現首相(右・2016年)

写真1 首相在任当時のタクシン氏(左・2005年)、プラユット現首相(右・2016年)
サイクルをなす政治混乱

現在に至る混乱はサイクルをなして現れてきた。混乱の軸にあるのはタクシン・チナワットという人物である。

タクシンはもともとIT企業の創業者社長で、ビジネスの世界で大成功した人物だった。それが2001年の総選挙で新党を立ち上げ、議席の過半数を獲得するという離れ業を成し遂げた。それを可能にした一つの、そして最も重要な要因は、選挙戦略にあった。タクシンは農村住民や都市下層の人々が直接裨益する具体的な政策を提案した。それまで政治にほとんど期待をもたず、選挙では金品を配った候補者に投票するという行動をとっていたこれらの人々は、タクシン新党の政策に期待し、票を投じたのだった。政権を握ったタクシンはそれらの約束を次々に実行した。農村や都市下層の人々はタクシンが首相ならば、自分たちの生活が良くなると信じるようになった。

ところがタクシンが2005年の総選挙でも大勝利をおさめた直後から、都市部で叛乱が始まる。タクシンの政策や政治姿勢に何らかの不満を持つ知識人やマスメディア関係者、社会活動家らが反タクシンのキャンペーンを張りだして、それに都市の中間層・上層の人たちが賛同し、大規模な街頭行動に発展した。タクシンは再度の選挙で打開しようとしたが、2006年9月、混乱を理由に軍がクーデタを起こし、政権は崩壊したのである。

しかしその後おこなわれた選挙では再びタクシン派の政党が政権を握る。またもや都市の中間層・上層の不満が高まり、大規模な街頭行動が起きた。その最中、裁判所が法律違反を理由に首相の辞職を命じ、代わって反タクシン派の政権ができた。自分たちが選んだ政府を二度にわたって壊されたと感じた人々(「赤」がシンボルカラー)が街頭行動に出たが、軍によって叩き潰された。ここまでの経緯は前稿(重冨2010)で詳しく述べたところである。

その後、2011年に選挙がおこなわれ、やはりタクシン派の政党が政権を握った。首相になったのはタクシンの妹、インラックである。ところがその政策を理由に、2013年の末からまたもや都市中・上層が数十万人の単位で街頭に繰り出した。混乱のなか、2014年5月、再び軍がクーデタを敢行し、インラック政権は崩壊した。これで3回目のサイクルが回ったことになる。

対立の構造

タクシンは農村住民や都市下層など、タイ社会において相対的に下層に位置する人々の支持を得ることで権力を獲得した。その方法は選挙で多くの票を得る=多くの議席を得るという、代議制民主主義ではあたりまえの方法であった。これに対して反タクシン派は、選挙による政治では、票を「買い集める」政治家と「金で票を売る」大衆の衆愚政治になるとして、市民のなかから「良き人」を選んでおこなわれる政治こそ真の民主主義と主張した。

このように反タクシン派は、社会の中・上層によって構成され、「良き人」の政治、質の政治、あるいは熟議の政治を民主的な決め方の論理だと主張した。両派の支持層と決め方の論理を対比させると図1のように描くことができるだろう。

図1 タクシン-反タクシンの対立の構図

図1 タクシン-反タクシンの対立の構図

(出所)筆者作成。
王室というファクター

両派の対立がエスカレートする過程で、上記の基本構造に「王室」という要素が絡む。そもそもタクシン全盛の頃から、当時の国王(プーミポン国王)はタクシンをあまり好きではないといううわさが広まっていた。反タクシンの人々は、国王のシンボルカラー、黄色を旗印にし、タクシンや取り巻きの言動をあげつらった。

その政治的な意味を理解するには、プーミポン国王のことを少し説明しておかねばならない。この国王が即位したのは1946年である。その当時は、絶対王制を倒した人民党の流れをくむ人々が政府の要職にあった。政府の姿勢は王室の政治的影響力をできるだけ排除する方向に向かっていたから、プーミポン国王はいわば国王の権威が落ち込んだ時に即位した国王である。

ところが1958年に軍事クーデタで政権を握ったサリットは、国王の位置づけを逆転させる。サリットは国王の権威を高めることで、自らの権力を強めようとした。またその時代はタイの開発の時代でもあった。国王は地図とカメラを手に農村や僻地に出向き、時には地面に膝をついて民衆の話を聞き、インフラ整備や農業開発を指示した。こうして次第に国王は、「民衆の苦悩の理解者」「徳目の体現者」と見なされるようになる。1973年に軍事政権と民主化を要求する学生が対峙した時には、学生側に立ち位置をとりつつ、混乱を収拾した。1992年に再び民衆と軍が対立したときにも、類似の対応をとった。民のために国を守る国王のイメージがこうして作られた。その他、国王は折に触れて理念や徳目を語り、個人的なカリスマ性を高めた。立憲君主制であるから政治上の権限はもたないが、強力な政治的影響力をもつようになったのである。

その国王にタクシンは嫌われた(と思われた)。これを使わない手はないだろう。しかし反発も起きる。それがいろいろな形で現れ始めた。

匿名性の高いインターネットの世界では、露骨に王室や国王を揶揄するものすら現れた(Bangkok Post 2007)。タイには現在も不敬罪があり、タクシンをめぐる対立が激化するにつれて、インターネット上での不敬行為についての摘発が急増した。市民による告発が起きて、不敬罪が市民の亀裂を深刻なものにした。

タイの政治における王室の意味と役割を再考する人たちもでてきた。「国王は国王であるが故に正しい」ということは、社会的地位によって正義が決まるということである。近代化とか民主主義とかいう社会の発展は、そうした身分で決まる社会からの解放を目指していたのではないのか。国王の権威、影響力を高めることで、歴史の針を逆に回しているのではないか。これはタクシンを支持する・しないの問題ではなく、国家のあるべき姿に関わる問題である。

こうして、反タクシン派がタクシンを反王室的と批判した結果、現代タイ国家における王室のあり方について批判的な視点をもつ人々を、タクシン派の中に含み込むことになった。ここまでくると、タクシン派が反王室的だったから批判されたのか、批判されたからタクシン派が現在の王室制度に批判的になったのか、どちらが原因かわからない。すくなくとも王室を政治的対立のなかに巻き込んだことが、王室制度に批判的視点をもつ人をむしろ増やした側面は否めない。

軍の立ち位置
軍の立ち位置も、タクシン-反タクシンの対立のなかで変化していった。軍はタイの1932年立憲革命の立役者である。その時から、長らく軍は政治の中心にあり続けた。1938~44年、1948~57年のピブーン首相、1958~73年のサリット首相、タノーム首相、いずれも国軍をバックにして政権を掌握していた。1932年以降のタイ現代政治史のなかで、前半部分のほとんどを軍がおさえていたのである(図2)。

図2 タイ現代政治史における軍の支配

図2 タイ現代政治史における軍の支配

(凡例)緑:軍部によって立てられた政権。黄色:半分の民主主義。白:民主主義。
(出所)筆者作成。

しかし1973年10月、民主主義を求める学生・市民の叛乱で軍政が倒れ、それ以降、「民主主義」が政治における正当性の基準として現れる。軍は長期にわたり政権を担うことを正当化できなくなり、政権の背後にあって力を持ち続けることを選択した。1980年から88年まで首相であったプレームは、元国軍トップであったが、首相の間は選挙をおこない、議会を開き、政党の連立内閣を組織した。軍の影響力を保ちつつ、議会制民主主義の制度を採用したから、この時期をタイでは「半分の民主主義」と呼ぶ。プレームが首相を退いた後は、ベースラインが代議制民主主義で、時々、軍がそれをひっくり返すというパターンになった(図2)。

なぜ軍がいまだに政治にこだわるのか定かでないが、自分たちこそ国家を正しく導けるという自負が、軍人とくにそのエリート層の発言から窺える。政治家は私益のために国を利用するが、純粋に国に尽くすのは我々だ、というのである。民主主義が正当性をもつ以上、背後に退くのはやむを得ないにしても、軍が「ちょっと何か言えば聞いてくれる」政府が望ましい。逆にタクシン政権のような、強い政府は軍にとって好ましくない。タクシン-反タクシンの対立が激化したとき、軍が常に反タクシン側に立ち位置を置いたのは、そのためである。

しかし、政治の意思決定に軍が影響力をもつということも、民主主義の発展という歴史の針を逆に回すことに他ならない。タクシン派が軍の介入に反対し、反タクシン派が容認するという立場をとることで、ここでも歴史の方向性、国家のあるべき姿についての対立が現れた。

このようにして、タクシン派と反タクシン派の争いには、階層対立と民主主義観の対立に加えて、王室と軍をめぐる評価の対立が加わった(図3)。前者は、王室の権威や軍事力で政治に影響を及ぼすことを批判し、後者はそれを容認するかあるいは望ましいものと見る。「タクシン派」とみられる人々のなかには、タクシンを支持するというよりも、王室と軍に関する批判的な見方をする人たちが加わった。

図3 王室、軍とタクシン派・反タクシン派の関係

図3 王室、軍とタクシン派・反タクシン派の関係

(出所)筆者作成。
2014年以後の変化

2014年クーデタ以降、混乱のサイクルにいくつかの変化が起きた。まずタクシン派政権を倒した軍が、一時的な危機管理ではなく、恒常的な政権の担い手として登場したことである。2006年にタクシン政権を倒した際には、早々と軍による政権が暫定的なものであることを表明し、実際1年3カ月後には選挙を実施したのとは対照をなす。

クーデタ後、国軍と警察幹部は国家平和秩序維持評議会(NCPO)なるものを立ち上げた。憲法を破棄し、議会を解散し、国家権力を一手に握った。戒厳令が敷かれ、クーデタを批判する知識人や社会活動家は軍の施設内で拘束された。集会は禁止され、集まって反クーデタの意思表示をした人々は逮捕された(青木 2015)。NCPOは、民選議会に代わって自らが指名した議員による立法議会と、新憲法を制定するための委員会を設置した。

反タクシン派は軍の介入による政権打倒を歓迎した。そして軍による政権の長期化にも批判的な態度をとらなかった。NCPOのやっていることは、暴力による独裁であって、「熟議の民主主義」どころか、「民主主義」の「み」の字もない。それを「歓迎」しているということは、「民主主義」は反タクシンの理由として「表向き」に過ぎなかったということである。

変化の2つめは、プーミポン国王の逝去である(2016年10月13日)。先述のようにプーミポン国王は個人的なカリスマ性を非常に高め、道徳的な価値観を体現するだけでなく国の安定をも支える存在であると、タイ国民の間で信じられてきた。現在の王室に対する人々の思いは、かなりの部分がプーミポン国王に対する敬愛であったからこそ、「タクシン=反王室」というレッテル貼りの心理的効果があった。国王の逝去はタクシンを批判する強い心理的理由付けが消えたことを意味する。

3つめの変化は、タナトーン・ジュンルンルアンキットという若い政治家の登場である。タナトーンは1977年生まれの現在42歳。タイの自動車車体製造大手、タイサミット・グループを所有する家族の息子で、学生時代から社会運動などに関わってきた。23歳からグループ企業の経営に携わってきたが、そうした地位を投げ捨てて、政治に参入した。

タナトーンは新未来党という政党を立ち上げた。他の政党とコントラストをなす主張は、「民主主義の回復」と「反軍」である。そしてタナトーンは若い世代に訴えかけるキャンペーンを次々におこなった。

前述のとおり、タクシン派のなかにはタクシンを政治的に支持するというよりも、議会制民主主義を尊重すべき、軍による政治介入はおかしい、という人々が混ざっていた。あるいはタクシン派には与しないが、反タクシン派の主張もおかしいと思っていた人たちがいた。そういう人たちがこの新しい政党に引きつけられた。

選挙後の議会で、政府が提出した緊急勅令(国軍部隊の一部を国王の部隊に移すという内容)に対して、唯一反対票を投じたのはこの新未来党であった。王室に関わることに「反対する」というのはいわばタブーであるのだが、それをあえておこなったところに、この新政党の理念的特色があり、その支持者の意識も反映しているであろう。なお、この緊急勅令にはタクシン派のプアタイ党も賛成している。その点でも従来のタクシン派とは違った政党の登場を印象づけた。

写真2 タナトーン新未来党党首(2018年)

写真2 タナトーン新未来党党首(2018年)
選挙へ

2019年5月に、国政選挙がおこなわれた。NCPO側はクーデタ後の5年間で、選挙をしてもタクシン派が勝たない工夫を凝らしていた。まず下院であるが、小選挙区比例代表連用制を採用し、小選挙区で議席をとった政党は比例代表であまり議席がとれないような仕組みを取り入れた。しかも小選挙区の定数を減らしたので、小選挙区で選挙に強い政党、とりわけ広い地域で強い政党には不利に働く。さらに上院が選挙制から任命制に変えられた。今回の選挙では250議席があてられて、その全員の選任にNCPOの意向が働く。首相選出は下院と上院の合同議会でなされるとされたので、すでにNCPO側は250票を得たようなものである。このように選挙をしてもタクシン派が首相を選べないような制度設計がおこなわれた(詳しくは、今泉2019を参照)。

選挙結果はほぼNCPOの思惑どおりとなった。プアタイ党は議席を大幅に減らした(前回265→今回129)。一方NCPOが作った代理政党パランプラチャーラット(PPRP)党が116議席を獲得した。新未来党は大躍進で81議席を獲得したが、反軍系2政党の議席を合わせても210であるから、PPRP党と上院250議席を上回ることはできない。結局首相はクーデタ後の軍事政権を担ってきたプラユットの続投となった。

この選挙結果で注目したいのは、これらの政党がどういう地域で議席をとったかということである。タイの小選挙区は各県ごとに選挙区が区切られ、どの県でも第1区は県庁所在地を含んでいる。そこでプアタイ党、新未来党、PPRP党それぞれについて、当選者のうち第1区で当選した人の割合を計算してみた(1県1区の県を除く)。するとプアタイ党が15%であるのに対して、新未来党、PPRP党はそれぞれ35%、28%であった。あいかわらずプアタイ党は農村で、他の2党は都市で比較的強いことがわかる。地方別に見ると東北地方と北部地方は圧倒的にプアタイ党、中部(西部、東部を含む)はPPRP党となっている。そしてバンコクは、これら3政党が議席を分け合った形になっている(PPRP党が12、他の2党が9ずつ)。

このようにタクシン派のプアタイ党は農村、とくに北部、東北部の農村で支持を集め、軍事政権を引き継いだPPRPは都市部あるいは中部で支持を得ている。新未来党は都市部での支持が厚い。農村住民や都市下層の支持を集めてきたタクシン系とそれに反発する都市中・上層の支持を集めたPPRP党、という構図が大まかながら見て取れる。そして新未来党は、都市部においてタクシンを支持するわけではないが軍による政権に不満を持つ人々の票を集めたといえる。現在もタイ社会の亀裂は、ほぼ以前と同様の形で残っていると推測できる。

残った対立要素は何か

だとすると混乱の火種は消えていないということだ。ここで分からないのは都市中・上層がなぜここまでタクシンを嫌うのか、である。選挙すら否定し、暴力で政権を握った軍部を支持するという彼らの行動が変わらない限り、タイで民主主義制度は安定しないだろう。

図3に戻って考えるならば、タクシンという軸に結びつけられていた他の要素のうち、「民主主義」というものは、(本音では)反タクシン派が求めていたものではなかったということが明らかになった。王室という要素は、プーミポン国王亡き後、それほど強い要素として働くとも思えない。タクシンが反軍だから、というのはタクシンを批判する元々の理由ではなかった。そもそも民主主義、王室、軍という対立軸は、新未来党が「持って行って」しまった。

そうすると残っているのは、階層という要素しかないのである。タクシン自身はもともと企業家であるから、都市中・上層と発想の点で大きな違いはない人物である。タクシンの恐ろしさは、おそらく、議会の圧倒的多数を背景に一時的とはいえ強大な権力を保持したところにあるだろう。そう考えてみると、結局のところ、票数で圧倒的な多数を占める農村や都市下層の人々とタクシンが結びついていることこそ、都市中・上層の反発をもたらしているといえるだろう。

このような階層対立感は現在の日本人には理解できないかもしれない。今の日本で、農村に生まれたからといって大学に行くのが難しいとか、トップの大学にはまず入れそうもないとか、思うことはないだろう。しかしタイでは、2005年の時点で、いわゆる中間層(専門職、管理職、技術職、事務・販売・サービス従業員)の大卒比率は53%であったのに対して、農民はわずか1%であった(重冨2010)。日本の農家と非農家の1人あたり所得格差は1970年頃にほぼなくなり、その後は農家の方が非農家を上回っている(重冨 2015)。ところがタイでは、2017年時点でも農家の所得は工場・建設労働者よりも低く、専門職・管理職の4割にとどまる(NSO 2018)。

この格差は、これまで都市中・上層にとっていくつかのメリットをもたらしてきた。そもそもこの賃金格差こそ、所得の高い者が低い者を家事労働その他のサービス労働に使うことのできる経済的基盤であった。タイに赴任した日本人が、お手伝いさんや運転手を雇うなどという(日本では夢のような)「贅沢」ができるのは、この格差ゆえである。学歴格差があるから、よい大学を出れば、下積みなどせずにすぐ会社で上の方にあがっていける。これも格差がもたらす中・上層の特権である。しかし何といっても重要なのは、この国を握っているのは自分たちという自負であろう。タクシン以前も政治家の多くは農村部から選ばれてはきたが、中小政党ばかりで強い政府は作れなかった。政治が弱ければ、行政(公務員)と民間の領域が大きくなる。そこは都市中・上層の領域なのである。

その「常識」をタクシンは覆してしまった。タクシンに対する恐怖感は、自分たちが享受してきた利得が根本から覆されるのではないか、という不安感から来ているように思われる。

これからのタイ社会と政治

2006年以降の政治混乱を振り返ってみれば、タクシンが下層の人々と結びついて強い権力を手にしたことに中・上層が危機感を覚えた、というのが問題の核心であったことがわかる。下層を代表しているからダメだ、とは(表向き)言えない中・上層は、「良き人」の民主主義(熟議の民主主義)を持ち出し、反王室のレッテルをタクシンに貼り付けた。とにかく選挙では勝ち目がないから、選挙以外の方法でタクシン派政権を倒すしかない。だから軍の介入すら歓迎してしまう。こうしてタクシン-下層というコアに、民主主義、王室、軍という付属品がついて対立軸が複数になると、議会制民主主義を守るべき、軍の政治介入は許されない、国王の政治利用はおかしい、と思う人たちが、反タクシンの反対、つまりタクシン派側につく。

その結果、タクシンを支持するかどうかだけでなく、タイの国家のあり方、民主主義のあり方、政治発展の方向性について、新しい対立軸が出てきた。これは政治のあり方を考えるうえでは、タクシン-反タクシンよりも、より本質的な対立軸である。この対立軸にすら背を向けているのが、現在のタイ中・上層である。それは民主主義、王室、軍に対する評価への挑戦が、彼らを上位に置く既存の社会価値体系への挑戦につながるからであろう。

さて、これからであるが、軍が長期政権を維持する構えを見せている以上、今後はいままでのようなサイクルは起きにくい。現在の選挙制度が大きく変えられない限り、今後の選挙でタクシン派の圧勝ということも起きにくい。「次の選挙では負けるかもしれない」程度のタクシン派政府ならば、中・上層も怖くはない。しかもそのうちタクシン自身が政治の舞台から消えていく。タクシンは1949年7月生まれで、現在70歳なのである。タクシンという「総元締め」のいなくなった後に、階層を集合的なアイデンティティでまとめるのは相当に困難である。

より長期には、タイ社会の階層格差が縮小し、階層の違いがあまり意味をなさない社会に変わっていく。2010年人口センサスをもとに22~24歳人口の学歴を都市部住民と非都市部住民で比べてみると、高等教育/大学卒の比率はそれぞれ44.2%、23.4%とかなり近づいてきている。1980年時点ではそれぞれ15.9%、3.0%であったのと比べれば、ずいぶんと差が縮まった (NSO 1980; 2010)。農民の子弟が公務員、看護婦、国営企業職員など、反タクシンが多くいる職種に就くのはもはや珍しくないのである。このようにみると階層が亀裂の根源となる状況は次第に消えていく。

残るのは、タクシンではなく、民主主義、王室、軍という軸である。この軸をめぐる議論を、タイ国民は軍がコントロールする新たな「半分の民主主義」下で始めねばならない。

写真の出典
  • 写真1 (左)DoD photo by Helene C. Stikkel, Thailand’s Prime Minister Thaksin Shinawatra in a meeting at the Pentagon (Public Domain).
    (右)Пресс-служба Президента России, Vladimir Putin discussed bilateral cooperation prospects with Prime Minister of Thailand Prayut Chan-o-cha (CC-BY-4.0[https://creativecommons.org/ licenses/by/4.0/deed.ja]).
  • 写真2 Pitpisit, Thanatorn 2018 (CC-BY-SA-4.0[https://creativecommons.org/ licenses/ by-sa/4.0/deed.ja]).
参考文献

[日本語文献]

[英語文献]

  • Bangkok Post (2007). "Govt block on YouTube website stays," 6 April.
  • National Statistical Office (NSO) (1980).1980 Population and Housing Census Whole Kingdom. Bangkok: NSO.
  • National Statistical Office (NSO) (2010). "The 2000 population and housing census." (2019年12月10日取得).
  • National Statistical Office (NSO) (2018). The 2017 Household Socio-Economic Survey, Whole Kingdom. Bangkok: NSO.
著者プロフィール

重冨真一(しげとみしんいち) 明治学院大学国際学部教授。タイや東南アジアの農業農村研究を専門とする。近著に「政治参加の拡大と民主主義の崩壊――タイにおける民主化運動の帰結――」(川中豪編『後退する民主主義、強化される権威主義――最良の政治制度とは何か――』ミネルヴァ書房、2018年所収)など。