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論考

「新自由主義の墓場」の行方――チリ・ボリッチ政権による「適正な労働」改革の実績と次期政権への課題

The Fate of the “Grave of Neoliberalism”: Achievements of Decent Work Reforms under the Boric Administration and Challenges for the Next Government

PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001946

2026年5月

(10,663字)

2026年3月11日の退任式で、ガブリエル・ボリッチ(Gabriel Boric)はチリ大統領の座から降りた。彼は2019年の大規模な社会騒乱時に国政において頭角を現し、「チリは新自由主義の揺りかごであったが、その墓場ともなるだろう」といった扇動的な政治スローガンで既存の政治体制に批判的な層を味方につけ、36歳という若さで2021年の大統領選挙で選出された。かつて、SNSのハッシュタグ風に「#No TPP(環太平洋パートナーシップ協定反対)」と大きなロゴがプリントされたTシャツを着て街頭演説をしていた左派学生運動家が国家の舵取りをする事態に、国際社会は自由貿易の旗手と目されてきたチリの劇的な変化を感じることとなった。

しかし、大統領としてのボリッチは、かつて学生運動を率いていた頃の過激さは後退し、在任期間の後半では、むしろ関係者間の対話による調整を重視した現実的な政策実現を特徴とした。その間、チリの政治環境にはどのような変化が生じていたのか。また新自由主義を覆すことを目指した政権が実現した政策は何だったのか。本稿では、特に政権自らが「レガシー(歴史的遺産)政策」と位置づけ、政策綱領の根幹にある「適正な労働」を実現するための具体的な政策である最低賃金の大幅引き上げ、および週40時間労働制の導入による効果の分析を中心に、4年間のボリッチ政権の成果と課題について検討する。

ボリッチ政権誕生の背景

2019年10月に発生したチリの「社会の暴発」は、国際社会に大きな衝撃を与えた。それまで「ラテンアメリカの優等生」、あるいは「安定した経済成長を遂げてきた」といった常套句を冠して称されてきた同国であったが、10月18日に始まった大規模な社会運動は、全国規模でのデモ行進にとどまらず、地下鉄や教会といった公共施設などの破壊や放火、略奪にまで発展した。警察では対応が困難なレベルまで暴徒化が進み、軍が動員されて市街地の治安維持に当たるなど、国の根幹を揺るがす事態となった1。民衆の要求は、当時中道右派政権を率いていたピニェラ大統領の退陣から、民営化された年金制度、環境問題と多岐にわたり、主謀者と呼べるリーダーも不在で交渉相手も明確でなく、政府は対応に苦慮することとなった[北野 2019]。

この混乱のなかから左派を代表する政治家として台頭してきたのが、2022年3月から政権を担うことになるボリッチである。「社会の暴発」から約1カ月が経過した11月半ばになると、政権内に「新憲法制定」プロセスの進行を認めることで、危機的状況の鎮静化を図る考えが浮上してきた。現行憲法は1980年のピノチェト軍事政権期に制定され、軍事政権に批判的な勢力からはチリの「新自由主義2」政策の根幹とみなされてきた。「1980年憲法」の廃止は、従来左派から要求が強かったものであるが、今回の政権側からの提案に対しては、多くの左派野党議員はピニェラ政権存続のための表面的なガス抜き策に過ぎないとして非協力の立場をとった。しかし、広域戦線(Frente Amplio)に属するボリッチは、唯一の左派陣営議員として新憲法制定プロセスの実現に向けて調整を図り、積極的に混乱の収拾に協力する姿勢をみせた。それまでは、やや過激な学生運動家からの転身者としてみられていたボリッチであったが、これを契機に中道左派からも支持を得て左派勢力の代表格としての地歩を固めた。

ボリッチ政権への国民からの支持の推移

2020年代前半のチリ政治は、新憲法制定の動きと密接に関連している。図1は、世論調査3に基づく政権支持率の推移を、新憲法制定に関する政治イベントと関連させて示したものである。2019年10月18日の「社会の暴発」はピニェラ政権2年目に発生したが、政権発足当時に37%あった支持率は、「社会の暴発」2カ月後にはわずか6%にまで低下しており、政権が危機的状況にあったことがわかる。2021年5月に実施された制憲会議4の議員選挙では左派・独立系が全体の3分の2を占め、圧倒的多数の議席数を獲得した。その勢いに乗る形で大統領選挙を勝ち抜いたボリッチは、新政権発足時には支持率を32%にまで高めている。しかし、その後の新憲法案に関する審議では、急進的過ぎる制憲会議メンバーの議論に国民の多くが拒否反応を示し、国民投票において否決されるに至った。その後の第2回制憲会議議員選挙では右派が圧倒的多数を握り、中道議員らが左派の与党グループを離脱した。新憲法により新自由主義政策を終焉させることを公約としてきたボリッチ政権は、その重要な政治的足場を失うことになり、これは第1回制憲会議後の支持率が20%台に低迷したことにも反映されている。

図1 政権支持率と政治イベント

図1 政権支持率と政治イベント

(出所)CEPアンケート調査のデータベース、新聞報道等をもとに筆者作成

2025年9月の大統領選挙では過半数を獲得する候補はなく、労働制度や年金制度改革が評価された労働・社会福祉大臣であったジャネット・ハラ(Jeannette Jara)と、移民・治安対策の強化を訴える右派のホセ・アントニオ・カスト(José Antonio Kast)との間で12月に決選投票が戦われた。右派だけでなく中道層からも支持を受けたカストは終始優位に選挙戦を進め、58.1%という高い得票率で勝利した。ハラ候補は、支持率が歴史的にみても低水準のボリッチ政権と距離をおく選挙戦略をとり、政権の移民政策の甘さを批判することもあった。しかし、最終的には移民犯罪の拡大への懸念と、元主要閣僚であったという呪縛から離れることができなかったことが敗因といえる。

「新自由主義の廃止」から現実路線への転換
(1)「適正な労働」の実現に向けて

 1990年の民政移管以後のチリ政治は、中道左派と中道右派の政党グループにより、ほぼ交互に政権が担われてきた。「二名制」と呼ばれる特殊な選挙制度の産物ともいわれるが、それが安定した政治体制の維持に貢献してきた半面、民意と政治との乖離にもつながった[三浦 2022]。こうした政治状況を否定する形で登場してきたボリッチの政策綱領には、ジェンダー、公正な環境、地方分権、そして「適正な労働」という4つの柱が示されている[Apruebo Dignidad 2021]。綱領の具体的な政策は、58もの多岐にわたる項目が列挙されているが、いずれもこれら4つの基本方針を横断的な軸とするものとして位置づけられている。

大統領選挙戦が本格化する2021年半ばにはすでに第1回目の制憲会議も設立されており、政策綱領の多くは、思想的にボリッチに近い左派政治家・社会運動家が多数参加した制憲会議で議論され、新憲法案に盛り込まれていた。例えば、立法・司法制度における男女同数の原則、気候変動対策・生物多様性の保護の条項が加えられ、一定の支持も得ていた。しかし、多民族国家制度の制定や中絶の権利など、中道左派からも異論が強い条項も多く含まれ、2022年9月の国民投票では新憲法案は20%という大差で否決された[三浦・北野 2023]。その後、第2回目の制憲会議が発足することになるが、それ以降新憲法制定は右派・保守系政治家主導で進められることとなり、ボリッチ政権が自らの綱領で示した改革を実現することは、著しく困難になった。

「新自由主義」政策の根幹をなす「1980年憲法」を廃止し、自らの政策綱領に近い新憲法を制定することで、ボリッチの言葉を借りるならば、「新自由主義を墓場に葬る」目論見であった政権にとっては、新憲法制定の失敗は大きな痛手となった。この時点で、ボリッチの「新自由主義」を終わらせる野望は実質的に潰えたといえよう。

しかし、第1回の新憲法案否決の時点で、政権には任期が2年以上残されていた。この頃から、新自由主義を終わらせる、といったイデオロギー色の強いスローガンは抑制され、自らの綱領のなかで実現可能な政策を議会の各会派と意見調整を進めながら実現していく現実路線へと舵が切られた。

そのような政治状況におかれた政権が、自らのレガシーとして政策立案の最優先に位置づけたのが、綱領の最後に掲げられた「適正な労働」である。これは、英語の “decent work” に相当する概念であり、権利が保護され、十分な収入を生み出し、適切な社会保護が与えられる仕事を意味する5。労働組合の結成や団体交渉の権利などに加え、年金・医療など社会保障、生活賃金の保証、そして生産的な雇用の創出を含む。なかでも、民間企業が運営する基金化された公的年金制度から、税収からの移転をベースにした非拠出型年金制度への部分的な移行に成功したことは、ボリッチ政権が誇りとするものである[北野 2026]。

この年金制度改革と同時期にハラ労働・社会福祉大臣の優れた調整力によって実現したとされるのが、最低賃金の大幅引き上げと週40時間労働制の導入である。就任直後の2022年3月に労働者側から最大労働組合の中央統一労働組合(Central Unitaria de Trabajadores: CUT)、経営者側から商工業者連合(Confederación de la Producción y del Comercio: CPC)など経営者団体と政府の三者協議を行い、ボリッチ大統領の任期期間中に最低賃金を月額50万ペソ(約8万円)とし週40時間労働制を達成できるよう協力を要請している 6。いずれも、労働者の生活支援という側面がある一方、実際には中小企業への負担増加や、その結果低賃金雇用が減少するといった反対意見も出やすい制度である。これをうまくまとめたハラ大臣は、左派政党グループから広く支持を得て、次期大統領選挙の左派側の統一候補となった。以下では、まず改革の前提となるチリの労働市場の特徴を示し、続いて最低賃金改革と、週40時間労働制度の詳細を示す。

(2)チリの労働市場の特徴――女性と若者の高い失業率

チリ経済の主要な課題のひとつに、失業率の高止まりがある。2010年代の失業率は6~7%台を推移し、ラテンアメリカ諸国の平均とほぼ同様の水準であった(図2)。コロナ禍では、チリも他のラテンアメリカ諸国と同様、外出の禁止など厳しい行動制限が長期間続いた影響で経済活動は停滞し、失業率も11.2%まで上昇した。しかし、その後の労働市場の回復状況は大きく異なり、ラテンアメリカ諸国全体では失業率が5.3%にまで大幅に低下したのに対し、チリでは8~9%台で高止まりしている。2024年時点でみると、日本の2.5%や先進諸国で構成されるOECD加盟国平均の4.9%と比べても、チリの失業率は高い水準にあり、しかも低下傾向も示していない。コロナ禍に伴う一時的な変動を除けば、チリの失業率は上昇傾向を示しており、他国の動向とは対照的である。

図2 失業率推移

図2 失業率推移

(出所)世界銀行. 世界開発指標(WDI)データベースから抽出して筆者作成

失業者の構成を詳細にみていくと、ふたつの特徴が浮かび上がる。ひとつは、女性の失業率が高いことである。図3には女性失業者割合の推移を示しているが、チリは9.5%であるのに対し、ラテンアメリカ諸国平均値は6.4%、OECD加盟国平均は5.1%と大きな開きがある。女性の労働参加率はいずれも50%台前半で同程度の水準であることから、女性労働の需要が特に低い傾向がみられる。もうひとつの特徴は、若年層失業者比率の高さである。全失業者に占める15~24歳失業者の割合は、チリは2024年の21.1%に対し、ラテンアメリカ諸国平均とOECD加盟国平均はいずれも11%台にとどまっており、約2倍の開きがある(図4)。全体の失業率と同様、他地域と異なりチリの女性および若年層の失業率は、コロナ期の変動を除くといずれも上昇傾向にある。

図3 女性失業者割合の推移

図3 女性失業者割合の推移

(注)全失業者に占める女性失業者の割合
(出所)世界銀行. 世界開発指標(WDI)データベースから抽出して筆者作成

図4 若年失業者割合の推移

図4 若年失業者割合の推移

(注)全失業者に占める15~24歳失業者の割合
(出所)世界銀行. 世界開発指標(WDI)データベースから抽出して筆者作成
(3)最低賃金の大幅引き上げ

最低賃金を2026年3月の任期末までに50万ペソに引き上げることは、ボリッチ大統領の主要な選挙公約のひとつであった。しかし、この目標を前倒しで2023年に実施した背景には、急激な物価の上昇があった。コロナ禍後の反動的な消費拡大や生産・物流の停滞、対ドル為替レートの低下のために食料品や輸入品価格を中心に値上がりし、消費者物価指数(CPI)の上昇率は2022年8月には年率で14.1%に達している。

公約実現のための最低賃金引き上げに関する交渉では、民間事業者と彼らを支持基盤とする右派政党UDI(民主独立連合)や共和党から強い反対意見が示された。しかし、最大労組であるCUTとの合意に至ったことで事態は大きく進展し、ボリッチが属する左派政党グループだけでなく中道や一部の右派議員も支持にまわり、国会での承認に至った。ハラ大臣や、国民の信認が厚いマリオ・マルセル(Mario Marcel)財務大臣の粘り強い交渉が奏功した形であるが、合意形成の鍵となったのは、引き上げを段階的に実施すること、ならびに最低賃金引き上げに伴う企業負担を補填するため、中小企業に対する補助金が導入されたことである7

最低賃金の引き上げと、中小零細企業に対する最低賃金支払いのための補助金のスケジュールは、表1に示したとおりである。最低賃金の引き上げは段階的に実施され、初回は2023年5月にそれまでの41万ペソから44万ペソと7.3%引き上げ、次いで9月は46万ペソ、さらに2024年7月に目標の50万ペソに達することとなった。その後は、物価変動に応じて調整されることになり、翌年5月に52万9000ペソ、そして2026年1月に53万9000ペソまで引き上げられている。2023年5月から2026年1月までの名目賃金引き上げ率は22.5%に達するが、これは同期間のCPIの上昇率12.4%と比べてもかなり高い水準である。

表1 最低賃金引き上げ・労働時間短縮制度の導入

表1 最低賃金引き上げ・労働時間短縮制度の導入

(注)18~65歳の労働者の賃金
(出所)法令21578、法令19756、新聞報道、Marcel y Boccardo[2025]等をもとに筆者作成

最低賃金の引き上げと、後述する週40時間労働制の導入による中小零細企業の賃金支払い負担増を緩和するために導入したのが、法令21578で定めた補助金である。補助の対象となるのは、引き上げ前に最低賃金である41万1000ペソから50万ペソまでの賃金を受け取っていた低賃金労働者を雇用している雇用主である。本制度は、財務体質の乏しい企業における急激な賃金支払い負担軽減が目的であるため、企業規模が小さいほど補助率は高く設定されている。例えば、制度導入時の零細企業の補助額は低賃金労働者一人当たり4万5000ペソ(賃金の約10%)で、中規模になると1万4500ペソ(同3%)に当たる額が補助される。なお、本補助金は移行的措置として位置づけられており、約2年かけて段階的に縮小され、2025年4月をもって終了した。

(4)週40時間労働制の導入

最低賃金引き上げと並ぶ、もうひとつの「適正な労働」実現に向けた主要政策が、週40時間労働制の導入である。チリでは従来、週45時間労働が法定労働時間として定められてきたが、これを段階的に短縮するための法改正が実施された。本制度改革は、OECD加盟国のなかでも長時間労働が常態化してきたチリの労働環境を是正することを目的としている。日米などOECD加盟国の多くが週40時間制で、フランスの35時間を筆頭にベルギーやオーストラリアなどはさらに進んで38時間制に移行していた。そのなかで、チリはメキシコやコロンビアの48時間と並び長時間労働の国のひとつであった。

労働時間短縮に関連する法案の国会提出自体は2017年と早く、当時下院議員で政権の中心人物で政府広報官であるカミラ・バジェホ(Camila Vallejo)らによるものだった。バジェホ自身もそうであったようにチリにはシングルマザー世帯も多く、勤務時間の縮減は女性労働者世帯のワークライフ・バランス維持のためという側面が強調された。しかし、中小零細企業にとっては、労働時間の縮小は時間当たり給与支払いの増加につながるため、反対意見も強かった。エコノミストの間でも、一人当たりGDPの水準や労働生産性からみてチリは45時間労働が適切な水準であり、コロナ禍からの回復が十分でない経済状況のなかでの導入には適切でないとする論調が支配的だった[Jones 2022]。

週40時間労働制も最低賃金引き上げと同様、ボリッチ政権発足直後からハラ大臣によるイニシアチブで開始され、関係諸団体との対話と調整が続けられた。中小企業経営者からの懸念については、導入には5年間という長い時間をかけ、時期も段階的にするなど柔軟な対応をみせ、支持を取り付けた。初回は2024年4月に1時間の短縮で、その後は2年ごとに2時間短縮というスケジュールとなっている。利害調整の対話は、上述の最低賃金引き上げと同じ構造であったため、交渉は並行して行われた。

写真 最低賃金大幅引き上げ法の議会通過報告を祝う与党連合議員や関係団体。中央はハラ労働相、その左はマルセル財務相。チリ労働厚生省のホームページより

最低賃金大幅引き上げ法の議会通過報告を祝う与党連合議員や関係団体。中央はハラ労働相、その左はマルセル財務相。チリ労働厚生省のホームページより
労働制度改革の効果と課題
(1)労働制度改革で失業者が増加

最低賃金引き上げが労働市場に及ぼす影響については、国や時期、制度設計によって結果が大きく異なることが、既存研究から示されている。雇用への負の影響が確認される研究がある一方で、影響は限定的、あるいは統計的に有意でないとする結果も少なくない。米国の州別データや各国のデータをもとに行われた実証研究では、最低賃金を引き上げることにより雇用や賃金、そして企業の生産性の増減について、様々な結果が示されている8。ボリッチ政権が期待しているように、最低賃金を引き上げれば低所得労働者の生活が改善するという見方は、学術研究の蓄積からみると一概にいえることではない。  

チリの労働制度改革では、ハラ大臣による対話型政策形成の調整能力の高さが評価された一方で、エコノミストらからは、財政負担の大きさや、導入時期のタイミングについて批判も示された。Marcel y Boccardo[2025]によると、補助金支給による財政負担は2037億ペソ(財政支出全体に占める割合で2.4%)に上ると試算されている。年金に対する国家補助の拡充と合わせ[北野 2026]、これまで健全な財政運営で知られたチリの財政赤字拡大の一因といえる。

政権にとって、財政悪化への懸念にも増して大きな打撃となったのは、2025年9月の中央銀行総裁による報告であった。国民の注目度も高い3カ月に1回の定例報告のなかで、ロサンナ・コスタ(Rosanna Costa)総裁は中銀エコノミストであるAlbagliらの研究[Albagli et al. 2025]を取り上げ、法定最低賃金引き上げの影響を強く受ける企業の給与支払いは平均で4.8%上昇した一方、雇用者数は約9.8%低下し、正規雇用の1.5%が失われたとして、労働環境の悪化は最低賃金の大幅引き上げおよび週40時間労働制の導入がその一因であるとの見解を示した。チリの中央銀行は独立性の高さで知られているが、この報告のもとになった研究は、失業保険や税務署が有する個票データを用い、最低賃金近くの低賃金労働者を多く雇用している企業とそれ以外の企業との差分の差分法(Difference-in-Differences)によって因果関係を実証的に示した学術性の高いものである。

この中銀定例報告がなされた時期は次期大統領選挙戦の最中であり、ボリッチ政権のレガシー政策のひとつとして最低賃金の大幅引き上げと週40時間労働制の導入を看板政策に掲げていたことから、政権にとってはまさに冷や水を浴びせられるものであった。経済閣僚らは中央銀行の高金利政策こそが雇用の縮小を招いていると反論しているが、経済学者や右派の政治家らからは中銀見解に対する支持が表明されている9

(2)どういう労働者が失業したのか――ロジット回帰による実証分析

Albagliらの研究は、行政が有する個人データを用いており検証は困難であるが、ここでは、チリ統計局が個票を公表している収入補助調査(Encuesta Suplementaria de Ingresos: ESI10を用い、最低賃金の大幅引き上げと週40時間労働制が導入された時期に失業した労働者の属性がどのように変化したのかを検討する。

ESIの対象となるのはチリの居住者全体であり、2024年のデータベースには8万5172人の個票データが含まれる。ここでは2022年から2024年のESIデータを、個人IDを用いてパネル化し、前年からその年の間に失業した労働者を抽出して、その要因の分析を行った。失業状態を1、就業者を0とし、失業状態にあることを被説明変数として、賃金、年齢、性別(女性を1、男性を0とした)、教育年数、民族属性(チリ人を1、それ以外の先住民族や外国人を0とした)を説明変数とするロジットモデルによる回帰分析を行った11。ロジット回帰分析は、ある労働者が「失業状態にあるか否か」という2値の結果に影響を与える要因を分析するための手法である。分析結果として示される限界効果は、各変数が失業確率を何パーセントポイント変化させるかを表しており、値が大きいほど影響が強いことを意味する。

失業確率への各要因の影響の大きさを、最低賃金の大幅引き上げと労働時間短縮が導入される以前の2023年と2024年で比較するために、それぞれ3つのモデルで推計を行った。その結果を表2に示す。いずれの年も教育年数、民族属性、地域、業種、職種のダミー変数を加えたモデルと、それらを除いたモデルを挙げた。もっとも説明力が大きい各年1つめのモデルをみると、賃金については、限界効果は2023年のマイナス1.9%から2024年にはマイナス1.1%とややマイナス値が小さくなっている。これは低賃金ほど失業確率が高くなる傾向が、2023年から2024年にかけて緩和されていることを示している。年齢も同様で、年齢が低いほど失業する確率が高くなる傾向がみられるが、2024年はわずかであるが緩和されている。女性労働については、(23-2)でみると2023年には女性であることは失業確率を約2%引き下げる効果を持っていたが、2024年には男女差はなくなっていることがわかる。一方、教育年数で測った人的資本の水準や、外国人労働者や先住民といった民族属性の影響はみられない。

表2 ロジット回帰分析による失業の属性確率分析

表2 ロジット回帰分析による失業の属性確率分析

(注)カッコ内は標準誤差。係数は限界効果に変換した値。地域は16の州、業種は国際標準産業分類(ISIC)の21業種、職種は11職種のダミー変数を利用
(出所)ESI個票データを用いて筆者作成

ボリッチ政権は、若年層と女性の労働条件向上を政策のプライオリティとした。2022年から2024年の労働制度改革は、低賃金労働者の賃金を大幅に引き上げ、労働時間の短縮化を実現した。一方で、全体としては賃金コストの上昇から雇用者数の縮小につながったが、その影響は低賃金層と若年層でやや緩和されたものの、女性の雇用維持には必ずしもつながっていないことが示唆される。

まとめ――ボリッチ政権からの揺り戻し

「社会の暴発」後の混沌とした政治状況のなか頭角を現した史上最年少のボリッチ大統領は、ジェンダーや環境、地方分権、「適正な労働」といった新しい価値観を前面に打ち出し、新たな世界を切り開く希望と、同時に、チリの伝統的価値や秩序が破壊されるのではないかという不安も抱かせた。

大統領選挙戦を通じて、学生運動家出身という経歴を覆い隠すように、歴代の中道左派政治家らの支持を取り付け、広い左派層の支持を得て当選した。しかし、政権発足と同時進行で進んでいた、制憲会議での過激な議論による国民感情の離反とその結果の新憲法案の2度の否決により、ボリッチ政権のイニシアチブは頓挫することになる。ボリッチが2021年の大統領選挙運動時に前面に打ち出していた「新自由主義を葬り去る」という野望は、この時点で実質的には潰えたといえるだろう。しかし、その後は議会や業界団体、労働組合など関係諸機関・団体との調整を通じた政策実現路線に転じ、この試みは特に「適正な労働」分野のレガシー政策として結実した。

本稿では、ボリッチ政権がレガシー政策と位置づけた最低賃金大幅引き上げと週40時間労働制の導入を取り上げ、その影響を分析した。これらは、低賃金労働者層や左派政治家からは支持されやすい制度であるが、中小零細事業者や右派政治家、そしてエコノミストらからは、雇用の縮小と中小零細企業への負担増加に対する反対意見が強い政策である。中立的とされる中央銀行の研究では、雇用の縮小につながったことが示されたが、本稿では統計局の労働調査ミクロデータを用いたロジット分析を行い、若年層の失業化は緩和しているものの女性の雇用維持にはつながっていないことも示された。

冒頭に示したボリッチ政権の支持率の変化でみても、労働制度改革と年金改革という、自らがレガシー政策と位置づける政策が実現した2023年の時期でも、大きく改善していない。これは、本稿の分析結果で示したように、所得格差の是正につながるような、低所得層と女性労働者の厚生を大幅に拡大するという当初の期待に応える結果を生む政策でなかった可能性を示す。

2025年の大統領選挙では、12月の決戦投票の末、保守系政治家として知られるカストが当選し、2026年3月から4年間、大統領に就任する。ハラは、労働・年金という看板政策実現の功労者として与党連合候補者と上り詰めたが、支持率の低いボリッチ政権の元閣僚というくびきから抜け出ることができなかったことが敗因といえる。

一方のカストは、選挙戦では外国人移民による組織犯罪や麻薬取引、暴力犯罪に対して厳しい姿勢で挑むことを強調して支持を集めた。しかし、カストの決選投票後の勝利宣言スピーチでは、対抗的な姿勢から一変し、ハラの民主主義への貢献を称え、分断をこえた国民の「大きな合意」を訴える、安定した統治をめざすものであった。

チリの社会は急進左派の政権への期待が後退し、「安定した国家」への回帰傾向がみられる。カストの選挙スローガンを揶揄する "Make Chile Boring Again"(チリを再び退屈な国へ)というフレーズは、もちろん米国トランプ大統領の "Make America Great Again"(米国を再び偉大な国へ)をもじったものであるが、諦めにも似た現在の国民心理を、自嘲気味にうまく表現している。ボリッチの「適正な労働」の実現をめざした諸改革は、政権が期待したほどの成果をあげることができず、国民の期待は霧散した。チリ国民は再び「安定」を求めていることは確かだが、かつて「社会の暴発」につながった、チリ社会の根本的問題である「新自由主義」が作り出したとする所得格差の問題は、依然として未解決のまま燻り続けることになる。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。

写真の出典
  • Ministerio del Trabajo y Previsión SocialCC BY 2.0 CL
参考文献
著者プロフィール

北野浩一(きたのこういち) アジア経済研究所新領域研究センター・センター長補佐。専門は地域研究(チリ、ラテンアメリカ経済)。おもな著作に『ラテンアメリカ経済入門』アジア経済研究所[2024]、『次世代の食料供給の担い手――ラテンアメリカの農業経営体――』アジア経済研究所[2021](いずれも章分担執筆)、「チリ・ボリッチ政権の年金制度改革―非拠出型年金拡充の効果と限界」『ラテンアメリカ・レポート』第43巻、2026年など。


  1. 暴動の鎮静化には時間がかかったが、2020年4月からチリでも大流行となった新型コロナ蔓延防止のための緊急事態宣言による外出禁止令により終息した。
  2. 新自由主義の意味するものは政治的立場によって異なるが、歴史的な変遷も含めたチリ国内の議論についてはEdwards[2023]を参照。
  3. 民間の有力シンクタンクである公共研究センター(Centro de Estudios Públicos: CEP)が継続的に実施しているアンケート調査で、サンプル数は1500程度。
  4. 制憲会議は、新憲法制定プロセスで定められたもので、新憲法の草案を作成することを目的とし、2021年5月の選挙で選ばれた185名の議員で構成された。詳しくは三浦・北野[2023]を参照。
  5. 1999年のILO総会に提出された事務局長報告で初めて用いられた概念。ILO[1999]を参照。
  6. El Mercurio, 2022年3月22日。
  7. El Mercurio, 2023年5月11日。
  8. IDEスクエア』のコラム「途上国研究の最先端」の「最低賃金引き上げの影響」シリーズでは、伊藤が最低賃金引き上げに関する研究論文を数回にわたって取り上げ、各国の事例研究をわかりやすく解説している。
  9. La Tercera, 2025年9月17日。
  10. ESIは、統計局が毎月報告している全国労働調査(Encuesta Nacional de Empleo: ENE)の補助調査という位置づけで、毎年8月に公表される。
  11. ロジット回帰モデルは Pr (失業=1 | X) = F (a + b*X).
       (X: 賃金 (対数値)、年齢、教育年数、および女性、民族ダミー等)。
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