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専攻医たちはなぜ職場を去ったのか?――医大定員の増員計画にみる韓国医療の問題
Why did Korean residents leave hospitals? Medical issues concerning an increase in medical students in Korea
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001130
2024年10月
(4,982字)
専攻医の大量離脱をめぐる疑問
韓国では現在、大学医学部の定員増加をめぐって政府と医療界の対立が長期化し、医療現場では混乱が続いている。事の発端は今年2月初めに、政府が医大の定員拡大を含む、必須医療(産婦人科、小児科、救急医療など)と地域医療の強化策を発表したことであった。将来的な医師不足1を理由とする医大定員の増員は、必須医療や地域医療を担う人材の拡充にとって中心的な施策と位置付けられた。
しかし、現在3000人ほどの入学定員を5年間にわたって毎年2000人増員するという大胆な計画であったため、医療界はこれに対して猛反発した。とりわけ、専攻医(日本の研修医に相当する)らが集団で辞表を提出して一斉に職場を離脱したほか、医大生の多くも授業をボイコットしたり、休学届を提出したりして抗議の意を表明した。
政府は職場を離れた専攻医に対して免許停止などの行政処分を予告する一方、専攻医たちは医療行政の幹部らを告訴し、大学病院の教授陣も集団辞職や無期限の集団休診をちらつかせるなど、事態は一時泥沼化した。そうしたなか、専攻医の多くが所属していた首都圏の大型病院では、彼らの大量離脱によって診療や手術の遅延、部分休診が相次ぎ、受け入れ先が決まらずにたらい回しにされた救急患者の死亡事例も発生するという深刻な状況に陥っている2。
研修中の身分である医師といえども、医療者が集団で臨床の現場を離れるという前代未聞の事態は、諸外国では衝撃をもって伝えられたに違いない。しかし、自己目的の実現や集団利益の追求が優先されがちな韓国の国内では、これまでも医療者によるストライキがたびたび発生してきたこともあって3、患者団体を中心に批判や非難の声は上がるものの、そこまでの驚きをもって受け止められてはいなかったようである。
専攻医の集団行動が起きた当初、韓国に研究滞在していた筆者は事態を目の当たりにして、以下のような素朴な疑問を抱いた。
- 医療界が医大の定員増加に反対する理由は何なのか? とりわけ、医師の集団のなかでも比較的弱い立場にある専攻医が主体的に反対行動をとったのはなぜなのか?
- 専攻医の集団離脱だけで、大型病院の臨床現場が混乱に陥ってしまうのはなぜなのか? 韓国の医療サービス需給に関する構造的な問題と何か関連があるのだろうか?
- 医師の不足や偏在を受けて、すでに医大の新設や医学部の定員増員を行ってきた日本にとっては、韓国の状況を単なる対岸の火事としてみてよいのだろうか?
本稿では、今年5~6月にかけて韓国で実施した医療者や研究者らへのヒヤリング調査、韓国内での報道、各種資料などをもとに、上記の疑問を明らかにしていきたい。
韓国の医療制度と医療市場の特徴
韓国の医療制度は、保険料拠出による社会保険方式を基本とした国民皆保険制度を軸に、日本の制度と類似した特徴をもっている。日本と同様に、公的医療保険(国民健康保険)でカバーされる医療サービスや医薬品には全国で同一の公定価格(診療報酬)体系が敷かれ、出来高払い(fee-for-service)により医療機関に支払われる仕組みになっている4。医療サービスの提供については、公的機関よりも民間の医療機関が主体となっており、患者となる被保険者側には医療機関を自由に選択し受診できるフリーアクセス権が保障されている。
ただし、外来診療の場合、患者の自己負担割合は医療機関の規模や地域によって3割から6割と大きく変化し(入院診療の場合には2割)、都市部に立地する大型の病院になるほど自己負担割合は大きくなる。それにもかかわらず、医療機関が集中する首都圏の大型病院、とりわけ「ビッグ5」5とよばれる最大手の大学病院には、重症度に関係なく地方からも患者が押し寄せる問題が続いている。
日本の制度と大きく異なる点としては、韓国の公的医療保険は適用される診療範囲が相対的に狭く、診療報酬の水準も低いことがあげられる。また、国民健康保険の適用対象となる保険診療と、適用対象外となる自由診療の併用を許容する混合診療が認められている点が大きな違いである(日本では一部の医療サービスを除いて原則禁止)。低水準な診療報酬と出来高払い制によって、医療機関にとっては保険診療を薄利多売で提供する一方、価格設定の自由裁量度が高い保険外診療を拡大させるインセンティブが働く(チェ・キム 2024)。
医師の診療科選択においても、必須医療科のように保険診療項目が多く利益の少ない診療科は敬遠され、逆に保険外の自由診療を設定・提供しやすい診療科(皮膚科、眼科、整形外科、リハビリテーション科など)に偏るという現象が起きている。それによって、非効率な医療サービスの提供や公的医療保険によるカバレッジの低下が起こり、患者や家計にとっては医療費支出の負担が増大する傾向にある。
他方で、患者の自己負担の大きさを背景に、近年では民間の医療保険が急速に発達し、費用負担の軽減を図るために実損型の民間医療保険に加入する人が増加している。しかし、こうした民間医療保険の普及は、加入者による不要不急な医療サービスの過剰利用を促すという、いわゆるモラルハザードの問題をはらんでいる。
医大増員の反対理由
公私の医療サービスが混在し、患者側の需要も大きいなかで、医師の既得権益はとりわけ大きいとされる。そうした既得権を死守するために、医療界は医大の定員増加に反対しているのだろうか。そもそも、政府が前提として掲げた医師不足という認識から、両者には隔たりがある。
韓国では、高齢化が今後急速に進んでいくものの、すでに少子化にともなう人口減少局面に入っているため、高齢者層の医療需要が増大するといっても、毎年の医師数の自然増で対応可能であるとして、医療界は政府の医師不足という認識には根拠が乏しいと主張する。仮に医師数を増やせば、それにかかる追加的な医療費も増えるため、国民医療費や健康保険料の増大につながるとして、国民の負担増を逆手にとった主張も行っている。また、医大生を抱える大学側は、定員拡大にともなう教員の不足や講義・実習施設の不足といった受け入れ体制の問題をあげて、医学教育の質低下を招くとしている。
医療者側は、医師の地域偏在や診療科の偏在については問題として認識しているが、医大定員の増員がそれらの根本的な解決策にはなりえないという。今回の政府の計画では、実際に増員されるのは地方の医大が大部分であるものの、医師数の増加分が必須医療や地域医療の人材へどのように供給されるのか、肝心な具体策が示されていない。
しかし、これらの主張は表向きの反対理由にすぎない。とりわけ、研修段階にある専攻医たちが起こした集団離脱については、これだけでは十分に説明できない。反対理由の核心は、やはり既得権益であり、注目すべきは世代間による経済的利害の違いである。
来年から医大の定員拡大が実施されれば、医療市場に新規参入する医師数は今後6~10年の間に追加的に増大することになる。そうなれば、首都圏を中心に保険外診療を提供しやすい診療科などでは競争が激化して、将来的な利益が減少することが予想される。その直接的な影響を受ける世代が現在の専攻医や医大生であるため、彼らが集団行動を起こす本質的な要因になったと考えられる。彼らより上の世代にあたる病院の勤務医(教授や専門医・専任医)や開業医などが専攻医らほどの積極的な行動に打って出ていないのは、自分たちの期待利益に及ぼす影響が相対的に小さいためである。
専攻医の大量離脱によって、現場のオペレーションで最も影響を受けるのは彼らを指導する立場の教授陣であり、莫大な経済的損失を被る病院側である。したがって、上からの圧力や扇動があったとは考えにくく、既得権益の剝落を憂慮した専攻医たちの本意によって集団行動は引き起こされたとみるべきであろう。
大学病院の問題と労働者としての専攻医
専攻医が集団離脱を起こした背景には、経済的利害だけでなく、大型病院で働く労働者としての特性も大きく関係していたとみられる。
韓国では、専攻医は国が指定する一定の基準を満たした医療機関でのみ研修を行うことができる。通常は大学病院や、病床数が400床以上の総合病院が研修機関として指定される。地方の医大出身者であっても、首都圏の大学病院などで研修を行う専攻医が多いが、これは首都圏の病院への選好度が高いことに加えて、地方には指定機関での枠が少ないこともある6。
また、専攻医を受け入れる大学病院などでの(勤務医全体に占める)専攻医の割合は4割程度と、研修医やレジデントの割合が1割程度にすぎない日米に比べて、韓国では相当に高い水準になっている。「ビッグ5」 のような最大手の病院では専攻医への依存が特に進んでいる一方で、そうした首都圏の大学病院での彼らの労働環境は、長時間勤務と低賃金が常態化する劣悪なものであることが知られている。
大学病院の歪(いびつ)な人員構成を認識する専攻医たちは、下層の労働者として病院に搾取される現状への不満を募らせていた。大量離脱という集団行動を起こした場合の効果を、彼らは十分に理解していたと考えられる。多くの専攻医が去った大型病院をはじめとする医療現場での混乱は先述のとおりであるし、大幅な経営赤字に陥った病院も多い。
つまり、首都圏の大型病院への患者の受診過多、保険診療の薄利多売と自由診療の過剰提供で利潤を生み出そうとする病院経営、人件費の削減を重視する大学病院の専攻医への依存体質といった医療市場や医療資本の構造的な問題が下地となって、政府の医大定員の増員策をきっかけに専攻医らが反旗を翻したとみることもできる。
専攻医の集団行動が示唆するもの
専攻医たちの集団行動にはさまざまな背景や要因があったとはいえ、現実問題として医療現場に多大な混乱を招き、患者被害が多数発生していることに鑑みれば、決して支持や容認はできるものではないだろう。研修中の医師が起こしたことから、高度な専門性の修得や技術的能力の養成に偏重し、医療がもつ公共性や医療者としての職業倫理観を蔑ろにしてきた医学教育のあり方に警鐘を鳴らす識者もいる。
また、韓国の医療供給体制は過度な利益追求に走りがちな民間部門主導になっており、医療市場では不健全な競争が繰り広げられている。そのため、政府の医療介入の余地を公的保険や保険診療だけでなく、供給主体においても拡大させるべきとする根強い意見がある。現在は医療機関全体の5%程度しかない公立病院(日本では約20%)の地方での増設が一例であり、そこに必須医療や地域医療の機能を集約すると同時に、それらを担う医師の受け皿になるように市民団体などが積極的に提起している。これらの議論からみえてくるのは、医療の公共性や公益性の再定義に他ならない。
最後に、日本の医療への示唆について考えてみたい。日本では全般的に保険診療が中心で、混合診療が原則禁止されているために、保険外の自由診療を提供できる余地が少ない。医療機関の首都圏への集中度合いや大病院への患者集中についても、韓国ほど深刻ではない。地域医療への取り組みでは、医大の新設や医学部の入学定員の増員のほかにも、医学部に地域枠を設けて奨学金を付与したり、研修医の受け入れで都道府県別の募集定員上限を設定したりするなどしてきた。
しかし、高齢化や人口減少で先行する日本は、近い将来には逆に医学部の定員縮小を含めて医師数の需給調整に直面することが予想される。そうしたなかでも、韓国と同様に医師の地域偏在や診療科の偏在問題は、抜本的な是正の糸口を見出せないままになっている。病院勤務医の長時間労働の改善を図るべく、今年度から実施されている「働き方改革」も道半ばである。
国民皆保険制度の持続可能性が問われる日本にとって、韓国の事例は混合診療の部分導入や民間医療保険の拡充を検討するうえで、重要な示唆を与えてくれる。医療市場の特徴は違えども、同様の医療制度をもつ韓国は、医師を取り巻く共通の諸問題や医療における政府の役割(供給面での介入拡大やガバナンス強化、規制改革など)について、お互いに知恵を出し合い、議論を重ねていける貴重な相手ではないだろうか。
写真の出典
- 本文写真 Integral(CC BY-SA 2.0 KR)
- インデックス写真 Kevin.B(CC BY-SA 4.0)
参考文献
- 公共運輸労組 医療連帯本部・研究共同体 健康と対案・人道主義実践医師協議会 2024.『刃の上に立った‘韓国医療’改革課題と対案』シンポジウム資料.(韓国語)
- チェサンウク・キムジョンフン 2024.『ピークアウト・コリア』コネクティッド・グラウンド.(韓国語)
- 保健福祉部 2024.『必須医療政策パッケージ』2月.(韓国語)
- OECD 2023. Health at a Glance 2023: OECD Indicators, Paris: OECD Publishing.
著者プロフィール
渡邉雄一(わたなべゆういち) アジア経済研究所地域研究センター東アジア研究グループ研究員。博士(経済学)。専門は医療経済学、少子高齢化と社会保障の経済分析、韓国経済。近年の論文に“Long-run measurement of income-related inequalities in health care under universal coverage: evidence from longitudinal analysis in Korea,” Health Economics Review, 14 (86), 2024、「文在寅政権の社会保障改革と財政負担の増大」(安倍誠編『韓国文在寅政権の経済政策』アジア経済研究所、2022年)、“How efficient are surgical treatments in Japan? The case of a high-volume Japanese hospital,” (with Haruko Noguchi & Yoshinori Nakata) Health Care Management Science, 23 (3): 401-413, 2020など。
注
- 2021年現在、人口1000人当たりの医師数は2.6人と、OECD平均の3.7人よりは低く、日本(2.6人)やアメリカ(2.7人)、中国(2.5人)などと同水準にある。ただし、直近10年間で韓国の医師数は30%程度増加しており、同じく医師不足といわれる日本(約10%増)よりも大きく伸びている(OECD 2023)。韓国政府は国策研究機関の推計結果をもとに、2035年には医師数が1万5000人程度不足するとして、医大定員の増員策を発表した(保健福祉部 2024)。
- 専攻医が抜けた穴は、政府の要請で派遣された軍医官や公衆保健医などが部分的に担っているほか、政府は医師業務の一部を看護師が担えるように看護師業務を拡大させた診療支援(Physician Assistant:PA)看護師のモデル事業を3月から開始した。8月28日には、PA看護師の制度化などを盛り込んだ「看護法」が国会本会議で可決された。
- 2020年には同じく医大の定員拡大や公立医大の新設などに反対して、医療界はコロナ禍にもかかわらず大規模なストライキを実施した。また、2014年にはオンライン診療などの遠隔医療の導入に反対して、2000年には医薬分業に対する反対で、医師団体らは大規模なストライキを行った。
- 韓国では、医療機関の種類や所在地に応じた相対価値点数方式がとられている。実際には医療行為別の診療報酬点数に、医療機関種別の加算率や点数当たりの単価を示す換算指数を乗じて、最終的な支払い額が決定される。
- 旧現代グループ系のソウル峨山病院(蔚山大学校系列)、サムスングループ系の三星ソウル病院(成均館大学校系列)、セブランス病院(延世大学校系列)、ソウル大学校病院、カトリック大学校ソウル聖母病院の5大病院を指す。
- 首都圏か地方か、大学病院か市中病院かにかかわらず、研修医側と病院側の双方の希望がマッチングによって成立する日本の医師臨床研修制度とは、韓国の専攻医制度は基本的に異なる仕組みになっている。
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