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(2024年インドネシアの選挙)第4回 ナフダトゥル・ウラマー新議長の「政治的中立」
“Political Neutrality” under the new leadership of Nahdlatul Ulama
PDF版ダウンロードページ:https://hdl.handle.net/2344/0002001029
2024年6月
(6,262字)
2024年2月に実施されたインドネシアでの大統領選挙は、大方の予想どおり、ジョコ・ウィドド(以下、ジョコウィ)大統領の支持を得たプラボウォ・スビアントの勝利に終わった。選挙戦も比較的平穏であった。宗教的アイデンティティが前面に出され、インドネシア社会の分極化が危惧された2019年選挙とは対照的な展開であった。
本稿ではまず、第2期ジョコウィ政権によるアイデンティティ政治の抑制策について概観する。そのうえで、ジョコウィ大統領にとっての「誠実なパートナー」となった国内最大のイスラーム組織ナフダトゥル・ウラマー(NU)の動向に注目しながら、2024年選挙をめぐる展開と結果について論じていきたい。
アイデンティティ政治の封殺
まずは、2019年の大統領選挙におけるインドネシア社会の深い分極化の原因となったイスラーム諸勢力の配置の変化について見ておこう。
前回の選挙前には、インドネシア社会におけるイスラーム法(シャリーア)適用を目指すイスラーム主義勢力の急速な台頭が、政権の懸念事項となった。その発端となったのは、2016年9月の華人キリスト教徒のジャカルタ州知事(当時)バスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック)による迂闊な発言であった。アホックは州内の離島での視察において、ムスリムの有権者がイスラームの聖典クルアーンの章句に「騙されている」とも受け取られる発言を行い、その様子を収録した動画が瞬く間にソーシャルメディア上で拡散された。
これを機に、以前からアホックを敵視していたイスラーム防衛戦線(FPI)やインドネシア解放党(HTI)など急進的なイスラーム主義勢力がアホックの発言を「宗教冒涜」だと訴えた。そして彼らの非難は、政府の諮問機関であるインドネシア・ウラマー評議会(MUI)からのファトワー(法学裁定)によるお墨付きまで得た。イスラーム主義勢力は、2016年の年末にかけて、首都での数十万人のムスリムを動員した抗議デモの開催に成功し、翌年の州知事選挙でのアホック再選を阻止した。その後、これらの勢力は2019年大統領選挙を前にしてプラボウォの強力な支持基盤を形成し、再選を狙うジョコウィ大統領を脅かしたのであった。
これに対してジョコウィ大統領は、ジャカルタでのアホックに対する抗議デモ以降、上記のイスラーム主義勢力に対する取り締まりを強化してきた。インドネシア解放党にいたっては2017年に解散を命じられ、彼らと共闘した一般の知識人や活動家たちも治安機関の監視の対象となった。加えて、スシロ・バンバン・ユドヨノ前政権下においてイスラーム主義勢力の拠点となっていたウラマー評議会や国営モスクの指導部も、2019年大統領選挙を境に政権に靡きやすい「穏健派」に入れ替えていった。こうしてジョコウィ政権が2期目に突入する頃には、プラボウォの支持基盤となったイスラーム主義勢力のネットワークは政治的に無力化されていた。すなわち、宗教的アイデンティティに基づく分極化の源が封殺されたのである。
同時に、ジョコウィ政権は上記のような勢力に対抗する盾として、NUに接近してきた。NUとは1926年に東ジャワ州でイスラーム寄宿学校(プサントレン)を主宰する指導者(キアイ)たちによって創設された国内最大の宗教組織である。この組織は、ジャワを中心に地域社会において多大な影響力を持つキアイたちに加え、青年団体のアンソール、女性団体のムスリマットなど、強力かつ機動性の高い複数の下部ネットワークによって構成されている。
これらNUのプサントレンおよび構成団体はそれぞれ高い自律性を持っており、一つの指導体制の下に意思決定を集約するのは至難の業である。そこで歴代のNUの中央指導部は柔軟な法解釈を背景に、政治権力者と協力関係を構築することで、宗教省の人事や補助金といった資源を分配しながら、組織内の権力基盤を安定させようと腐心してきた。
2014年の大統領就任以前から、「世俗的」イメージの払拭という課題を抱えてきたジョコウィ大統領もまた、国内最大の宗教組織としてのNUとの連携に価値を見出していた。そして、両者の蜜月関係は2024年選挙を前に頂点を迎えることとなる。
サイド・アキル・シラジとの政治的駆け引き
ジョコウィ政権は、2016年末からのアホックに対する大規模な抗議運動を目の当たりにし、すぐにNU中央指導部への接近を試みていた。当時のNU議長サイド・アキル・シラジは、宗教的少数派との共存を重視する穏健派の知識人として知られ、イスラーム主義の台頭を強く警戒してきた。ジョコウィは自らの世俗色を攻撃してきたイスラーム主義への脅威認識を共有する存在として、NUの支持をあてにしたのである。
しかしながら、サイド・アキルとの関係は一筋縄ではいかなかった。ジョコウィがジャカルタでの抗議デモ後にNU中央指導部で会合した際にサイド・アキルは、NUは政府からほとんど直接的な恩恵を受けていない、と不平を述べたという。そこでジョコウィは、次期選挙での再選に向けてNUとの関係をいっそう強化しようと尽力してきた。彼はNUのイベントや会合に頻繁に出席し、年配のキアイたちへの表敬を怠らなかった。また、政府からのNUへの支援を演出するため、閣僚たちにもさまざまなプログラムを実施するよう、要請してきた(Fealy 2018; Fachrudin 2019)。加えて、2019年大統領選ではNU総裁のマアルフ・アミンを自らの副大統領候補とした。こうしてジョコウィは、NUの指導者たちの顔色を窺いながらなんとか協力を取り付けた。そして、プサントレンや組織のネットワークが集中する東ジャワ州および中ジャワ州で支持を固めながら、同選挙で再選を決めたのであった(茅根 2020)。
それにもかかわらず、ジョコウィは選挙後の組閣において、サイド・アキルの頭越しに、重要な利権が集中する宗教大臣ポストに元軍人のファフルル・ラジを据えた。これを受けてサイド・アキルは、社会的に大きな反発を呼んだ2020年雇用創出法(2020年10月成立)への抗議運動の支持をはじめ、大衆の利益保護を名目に政権批判を行ったのである。
その結果、ジョコウィ政権とNU中央指導部との関係は一気に冷却化していった。そこでジョコウィはNUとの関係を修復するため、2021年に議長の任期を終えるサイド・アキルに代わる次期指導者として、野心的なNUの中堅幹部ヤフヤ・ホリル・スタクフ(通称グス・ヤフヤ)に白羽の矢を立てたのであった。
写真1 大統領宮殿でインタビューを受けるサイド・アキル・シラジ
ヤフヤ・スタクフNU新議長誕生とそのリーダーシップ
「グス(キアイの息子の意)・ヤフヤ」の通称で呼ばれるスタクフは、NUの伝統文化や慣習のなかにどっぷりと浸ってきた、いわゆるNUの名門の出自である。父親は中ジャワ州レンバン出身で長年開発統一党(PPP)所属の政治家だったホリル・ビスリであり、組織内で広く敬愛されるキアイ、そして詩人としても知られるムストファ・ビスリ(通称グス・ムス)は叔父である。ただし、血統が重視されるNUといえども、「親の七光り」のみでは議長の座にまで上り詰めることはできない。巨大なNUという組織の中に、彼のレベルの「グス」は数えきれないほど存在する。加えて、彼はサウディアラビアの大学で博士号を取得したサイド・アキルのような宗教的権威でもない。
スタクフは、1998年の民主化後、NUの指導者たちが設立した民族覚醒党(PKB)に父親のホリル・ビスリと共に入党した。そして、NU随一の思想家であり、カリスマ的な指導者であったアブドゥルラフマン・ワヒド(通称グス・ドゥル)の大統領就任に伴ってその広報官に抜擢された。当時まだ30代半ばであった。彼はグス・ドゥルの台頭と凋落を間近に観察しながら、政治的嗅覚を磨いた。しかしその後、2004年の父親の逝去とともに、議会での政治活動にあっさり区切りをつけた。スタクフは地元レンバンのプサントレンを拠点にしながら、「穏健なイスラーム」のスローガンを掲げ、持ち前の度胸と話術で海外の知識人や政治家と交友して国際的なネットワークを開拓し、次第に外交に舞台を見出すようになっていく。
写真2 米前国務長官マイク・ポンペオ(左)と対話するヤフヤ・スタクフ
そのようななか、2019年大統領選挙では、スタクフの実弟ヤクット・ホリル・コウマスがNUの青年組織アンソール会長としてイスラーム主義勢力に対する盾となってメンバーを動員し、ジョコウィの再選に貢献、2020年12月には宗教大臣のポストを与えられた。このヤクットの宗教大臣就任こそが、翌年のNU全国大会でのスタクフ議長選出の下地を作ることとなる。
2021年12月、スマトラ島南部のランプンで開催されたNU全国大会での議長選挙において、スタクフは「1926年の精神への回帰(Kembali ke Khittah)」を掲げ、NUの政党政治からの脱却と次期選挙における「政治的中立」を表明した。「1926年の精神への回帰」とは、元々スハルト政権との合意を背景に、1984年のNU全国大会において宣言されたスローガンであった。NUはこの時、結成時の社会に根ざした宗教組織としての活動に回帰することを謳い、野党開発統一党からの撤退を表明したのである。この大会の実施を指揮し、NUの議長に選出されたのがグス・ドゥルだった。
2021年の全国大会では、スタクフもグス・ドゥルに倣い、政権との協力関係強化を念頭に次期選挙での「政治的中立」を掲げることでジョコウィからの支持を取り付けた。そして大統領と宗教大臣となった弟の強力な後援を背景に、現職のサイド・アキルに圧勝したのである(Dinata 2022)。
NU議長に就任したスタクフは手始めに、「政治的中立」を名目にNU中央指導部内の民族覚醒党党首ムハイミン・イスカンダルの影響力を排除していった。というのも、サイド・アキル体制のもとでは民族覚醒党が実質的なNUのパトロンとなっており、ムハイミンの息のかかったメンバーが多数参入していたからである。NUの中央指導部が常に同党の利益を勘案する必要があったことも、しばしばジョコウィ政権との交渉を難航させていた。そこでスタクフは民族覚醒党のNUへの関与を徹底排除することで、政権との安定的な関係構築を約束するとともに、組織内の権力基盤を固めていったのである。
2024年選挙を前にしたNU票へのアプローチ
ジョコウィに限らず、2024年の大統領選挙を見越したNUへのアプローチは候補者が決定する前から行われていた。例えば、有力な副大統領候補として取り沙汰されていた実業家出身のエリック・トヒル国営企業大臣は、2023年2月に東ジャワ州のシドアルジョで開催されたNU百周年記念大会のスポンサーを買ってでた。さらに、「NUメンバーによる経済発展」を支援することを目的に、国営企業大臣の権限で、既存の国営企業とNUを基盤とする事業体との共同事業プログラムの実施まで約束した。その後、彼はアンソールの民兵組織バンセルの「名誉会員」となり、2023年12月にはNUのシンクタンクである人材研究開発機関(LAKPESDAM)所長にも任命された。エリックは副大統領候補としての指名を目指して、NUの後ろ盾を求めたものと見られる。しかしながらエリックは、地方で行われるNUの会合にほとんど顔を出さないことから、末端のメンバーたちの支持を取りまとめるキアイたちの支持にはまったく結び付かなかった。
また、大統領候補ガンジャル・プラノウォ(前中ジャワ州知事)の副大統領候補として出馬した、マフッドMD政治・法務・治安担当調整大臣もNUのメンバーであった。法学者で憲法裁判所長官を務めたマフッドは、都市部を拠点とするNUの知識人や活動家たちの多くから信頼を得ていた。また、グス・ドゥルの長女イェニー・ワヒドも、ガンジャルとマフッド陣営に付いた。しかしながらマフッドは、地方で草の根の票を固めるためのプサントレンや政治家への「献金」を嫌った。そのため、地元のマドゥラ島(東ジャワ州)ですら十分な支持を得られなかった。
NUを主たる支持基盤とする民族覚醒党のムハイミン党首は、アニス・バスウェダン(前ジャカルタ州知事)とペアを組み、副大統領候補として出馬する意向を2023年9月に発表した。しかしその後、早々に労働力・移住大臣時代の汚職に関して汚職撲滅委員会(KPK)の捜査が始動するなど、政権からあからさまな圧力が加えられた。また、スタクフもムハイミンに選挙前の支持動員のためにNUの組織名を掲げないよう再三警告するとともに、彼個人に対する挑発的な発言を繰り返した(Tsauro and Susilo 2023)。NU中央指導部からの明確な敵対姿勢を演出することで、ムハイミンへの組織票の動員を妨げようとしたのである。
さらに2024年2月の選挙を前にスタクフは、NUの「政治的中立性」を何度も強調し、特定の候補者の陣営に名を連ねた中央指導部のメンバーを停職処分にしていった。ただし、プラボウォ陣営への協力姿勢を示した現職の東ジャワ州知事のホフィファ・インダル・パラワンサは例外だった。彼女は、NUのなかでも最も高い結束力を誇る女性組織ムスリマット会長として2024年1月までNU中央指導部に留まり続け、プラボウォへのムスリマット票動員を確実にしたのである。ホフィファは州知事としての再選を望んでおり、プラボウォへの支持は次期州知事選での後援を見返りにしていたとされる。また、グス・ヤフヤの側近であるNU中央指導部のサイフラ・ユスフ幹事長(元アンソール会長、前東ジャワ州副知事、現東ジャワ州パスルアン市長)に至っては、プラボウォ支持のためにあからさまにアンソールのメンバーたちを動員した。
こうしてNU中央指導部は「政治的中立」を恣意的に使い分けることで、ジョコウィ大統領からの後援を受けたプラボウォを確実に勝利に導くためのインフラを築いた。その結果、プラボウォは特に、NUの最大の拠点である東ジャワ州で65.2%の得票率で圧勝し、前中ジャワ州知事のガンジャル大統領候補のお膝元である中ジャワ州でも53.0%を獲得した。そして、両州でのNU票がプラボウォの勝利を確実にすることとなった。
注目される今後の展開
2期目を迎えたジョコウィ政権ではイスラーム主義勢力の封じ込めが徹底された結果、2024年選挙での分極化は効果的に抑制された。その一方で、ジョコウィ大統領はスタクフの議長選出を後援することでNUとの協力体制を強化していった。こうした背景のもとで2月に迎えた大統領選挙では、東ジャワ州および中ジャワ州に拠点を持つNUが「政治的中立」を宣言することで、プラボウォの対抗馬に組織票が流れるのを防いだのであった。
他方で、NU中央指導部による牽制にもかかわらず、民族覚醒党は議会選挙において健闘し、国会では10議席を増やした。NUの拠点である東ジャワ州での地方議会選挙では、闘争民主党が票を減らした結果、民族覚醒党が第1党に躍り出た。大統領選挙では敗北したムハイミンだが、東ジャワ州における同党の支持基盤を頼りに、次期州知事選挙での再選を狙うホフィファ州知事のほか、スタクフのNUにおけるリーダーシップを脅かす可能性も指摘されている。今後の展開によっては、NUの権力闘争が新政権発足後の国政にも影を落とすことになるかもしれない。
写真の出典
- 写真1 Unknown author, published by Cabinet Secretariat of the Republic of Indonesia(Public Domain, Article 43 of Law 28 of 2014 on copyrights, Government of Republic of Indonesia)
- 写真2 Ron Przysucha, U.S. Department of States(Public Domain)
- インデックス写真 著者撮影(2023年2月)
参考文献
- 茅根由佳 2020. 「イスラーム票の動員──ナフダトゥル・ウラマーの結束」(川村晃一編『2019年インドネシアの選挙──深まる社会の分断とジョコウィの再選──』日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所).
- Dinata, Septa. 2022. “The dynamics of political contestation within Nahdlatul Ulama’s 34th Muktamar.” New Mandala, 10 Febrary.(最終アクセス2024年5月13日)
- Fachrudin, Aziz Anwar. 2019. “Jokowi and NU: the view from the pesantren.” New Mandala, 11 April.(最終アクセス2024年5月13日)
- Fealy, Greg. 2018. “Nahdlatul Ulama and the politics trap.” New Mandala, 11 July.(最終アクセス2024年5月13日)
- Tsauro, Ahalla, and Fakhridho Susilo. 2023. “NU factionalism on show after Anies-Muhaimin surprise.” New Mandala, 12 September.(最終アクセス2024年5月13日)
著者プロフィール
茅根由佳(かやねゆか) 筑波大学人文社会系助教。博士(地域研究)。専門はインドネシア現代政治。おもな著作に、『インドネシア政治とイスラーム主義──ひとつの現代史──』(名古屋大学出版会、2023年10月)、“Historical formation of Islamist ideology in Indonesia: the role of the Indonesian Islamic Propagation Council (DDII)” (Critical Asian Studies, 54(1), 47-66, 2022), “The Populism of Islamist Preachers in Indonesia’s 2019 Presidential Election” (The Muslim World, 110(4), 605-624, 2020)など。