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ベトナム国家主席辞任劇にみる反汚職闘争の論理

The logic of Vietnam’s anti-corruption fight observed from the “resignation” of the President

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00053579

2023年2月

(4,670字)

電撃的な国家主席の辞任劇

2023年の旧正月を1週間後に控えた1月14日、ベトナムのメディアは、グエン・スアン・フック国家主席が夫人とともに湖に鯉を放す伝統の儀式を行う様子を報じていた。しかしそのたった3日後、フック国家主席の辞任というニュースが世界を驚かせた。1月17日、ベトナム共産党中央委員会の臨時総会は、2021~2026年任期における党政治局員、党中央委員等の役職を辞し、引退したいというフック国家主席の申し出に同意した。翌18日に召集された臨時国会は、同様に本人の辞職願にもとづき、フック国家主席を免職1することを決議した。

国家主席はベトナムの国家元首であり、共産党指導部内の序列では党書記長に次ぐ第2位とされる。ベトナム最大の祝祭日である旧正月を目前にした国家主席の電撃的な辞任劇は、これに先立つ2人の副首相の辞任とも相まって、国内外で大きな注目を集めた。その背景や予想される影響についてはさまざまな議論があるが、ひとつの論点はこれを党指導部の反汚職闘争の新たな一歩と捉えるか、党内の権力抗争激化の表れとみるかである。実際、反汚職闘争と権力抗争とは密接に関連しており、問題はむしろどちらがより根源的とみるかであると思われる。本稿では、今回の国家主席辞任を党指導部による過去10年間にわたる反汚職闘争の展開のなかに位置づけることを試みる。そのうえで、この出来事がベトナム政治の不安定化を示唆するものであるのかという問いについても若干の検討を行うこととする。

辞任したグエン・スアン・フック国家主席(2022年9月)

辞任したグエン・スアン・フック国家主席(2022年9月)
「誰でも、いつでも、処分されうる」

ベトナムで、政府に代わって党指導部が反汚職闘争の主導権を握ったのは2013年のことである。2005年制定の汚職防止法の下で設置された汚職防止中央指導委員会は、当初、政府の管轄下にあり、首相が委員長を務めていた。これが2013年に党政治局に移管され、党書記長が委員長を務めることになったのは、当時のグエン・タン・ズン首相とグエン・フー・チョン書記長の間の確執だけが理由ではなかった。党が国家を指導する立場にある一党独裁制のベトナムでは、国家機関においてのみならず党内でも高い地位を占める幹部を糾弾するには、政府の権威では十分でなかったのである。

以来、チョン指導部は、「禁止区域も例外もない」という方針を掲げて反汚職闘争を推進してきた。これまでの展開をみると、この「聖域なき反汚職闘争」は、幹部の不正を明らかにし、違反者の責任を追及し、国家が被った損失を可能な限り回復するとともに、すべての幹部・公務員に緊張感をもたせ、新たな汚職の発生を抑止することを意図していると考えられる。

「聖域なき反汚職闘争」とは、平たく言えば、「誰でも、いつでも、汚職に対する責任を問われうる」ということである。というのも、従来はこのことが自明ではなかったからである。「誰でも」に関して言えば、チョン指導部はそれまで汚職の責任を問うことが困難であると思われてきた部門や職位などにも処分の対象を広げてきた。2016年の第12回党大会で政敵ズン首相を破って権力基盤を固めたチョン書記長が最初に取り組んだ事案のひとつが、ディン・ラ・タン政治局員兼ホーチミン市党委員会(党委)書記が関与する一連の汚職事件であった。タン政治局員は、2009~2011年に最大の国有企業グループであるベトナム石油ガス経済集団(ペトロベトナム)の会長を務めていた際に多くの規定違反を行い、同社に巨額の損失を生じさせたとして2017年5月に政治局員を解任2され、同年12月に逮捕された。政治局員が経済管理上の理由で解任され、逮捕されたのは前例のないことであった。タン元政治局員はこれまでに4つの事件でそれぞれ10年以上の拘禁刑3を宣告されている。この他にも、チョン指導部の下では、党中央委員でもある現役大臣や地方の党委書記を含む多くの高級幹部が懲戒処分を受け、その一部は刑事処分の対象ともなってきた。そのなかには、軍・公安(警察)の幹部や有力者の子弟も含まれている。

「いつでも」に関しては、チョン指導部はまず、公職引退後の元幹部・公務員の責任追及に道を開いた。ベトナムではドイモイ期に入って幹部・公務員の年齢や任期の制限に関する規定が整備され、個人による党や国家の主要職位の長期にわたる独占が起こりにくくなった。このような制度は人事に一定の公平性と予測可能性をもたらし、安定的な世代交代を可能にする一方、ポストの長期独占に伴う弊害をある程度抑制するものとも期待される。しかしながら、1期5年間ないし2期10年間というのは汚職官吏にとっては十分に長い期間でもある。無事に任期を終えて引退することは「ソフトランディング」と称され、引退後に現職当時の疑惑が蒸し返されることは稀であった。このような実態を改めるべく、チョン指導部は、2016年、大臣在職中に人事上の決定において多くの違反を犯したとされるヴ・フイ・ホアン元工商相を過去にさかのぼって党の役職から罷免(革職)するという前例のない処分を行った。退職後の幹部・公務員の処分の可能性については、その後、党の規則および幹部・公務員法で明文化されている4

「辞任の文化」という新機軸

最近、チョン指導部は、汚職に関与した疑惑などにより威信が失墜した幹部については、任期途中でも自ら辞職することを奨励している。これもまた幹部が「いつでも」責任を問われうるという方針に沿ったものである。

従来、党・国家幹部は、管轄下の諸問題に関し追及を受けて謝罪することはあっても、辞任という形で責任を取ることはなかった。2012年、グエン・タン・ズン首相は、大規模国有企業の相次ぐスキャンダルを受けて、自らの政治責任を認める一方、自分は党員として党に与えられた首相の職責を果たしているのみであると述べて辞任の意思を否定した。これに対し、チョン指導部は、2021年11月、機関や単位の長は、その管轄下の組織において重大な汚職事件が起きた場合には、辞任を検討すべきであることを党の規定で明文化した5。2022年9月にはさらに、警告または譴責処分を受けた高級幹部で、能力が低く、威信が失墜している者に対しては辞任を奨励することとし、もし自ら辞任しない場合には免職されることもありうると定める党政治局の文書も出されている6

このように党指導部は幹部の間になかば強制的に「辞任の文化」を根付かせようとしている。「辞任の文化」の奨励には主として2つの目的があると考えられる。ひとつは、幹部が道義的責任を自ら引き受けるというリーダーとしての模範を示すことで、党の体面を保つことである。もうひとつは、複雑でセンシティブな汚職事件への対処を簡易化、迅速化することである。いかに党指導部が旗を振っても、高級幹部を司法手続きにより有罪に追い込むためには多大な時間と労力がかかる。汚職防止中央指導委員会は事案処理の進行を管理し、司法手続きが遅滞なく行われるよう関係各部を指導するが、実際には重大事件であるほどその処理には時間がかかりがちであり、また高級幹部であるほどその責任を立証するのは困難である。そこで、監督責任などを理由として幹部に辞任を迫るという一種の便法が採用されたと考えられる。

「辞任の文化」推進の契機となったのは、2020~2021年にかけて発生した2つのコロナ禍絡みの大規模汚職事件である。第1は新型コロナウイルスの簡易検査キットの開発・販売にかかる不正事件である。これは民間企業ベトアー社が、科学技術省や保健省のお墨付きを得て、質の低い簡易検査キットを水増し価格で全国の疾病管理センターに納入していたもので、この事件に絡んではこれまで2人の元大臣を含む100人以上が逮捕されている。第2は国際商用便が停止されていた間に運航された帰国者向け特別便の認可をめぐる贈収賄事件である。この事件では、外務省などの関係機関の幹部・職員が特定の旅行業者による帰国便の運航に便宜を図ってこれらの業者に不正な利益を得させており、関与したとされる元外務次官や元駐日大使ら40人以上が逮捕されている。

この2つの事件は、これまでの反汚職闘争の抑止効果が不十分であることを衆目にさらした。党指導部は、闘争をさらにステップアップさせる必要を感じたのであろう。「辞任の文化」推進の効果は早速現れている。2022年12月から2023年1月にかけて、まずは事件当時、保健省と外務省をそれぞれ指導する立場にあった2人の副首相が、事件に関する監督責任を理由として辞任した。次いで今回、事件当時は首相として政府全体を統括していたフック国家主席までが引責辞任するに至ったのである。

ベトナム政治は不安定化しているのか

以上のように、このたびの国家主席の任期半ばでの辞任は、異例ではあったが、見方によってはこれまでの反汚職闘争の延長線上にあるということができる。ただ、ここへきて反汚職闘争が一層強化されている背景には、現在異例の3期目を務める今年79歳のチョン書記長の後継問題が絡んでいることも想像に難くない。フック国家主席は第13回党大会前の中央委員会総会における参考投票で最も多くの支持を集め、第13期党書記長の有力候補であったが、チョン書記長が書記長の座を譲らなかったとみられている(石塚 2022, 34-35)。2023年後期には中央委員会による党政治局員・書記局員に対する信任投票が予定されており、その結果はチョン書記長引退後の指導部の陣容に影響することが予想される。そのようななかで、チョン書記長が問題ありと考える幹部の処分を急いでいる可能性はある。フック国家主席は、前首相として2つの大規模汚職事件に関する監督責任があるのみならず、親族がベトアー社事件に深く関与していたという噂が広く流布している7

任期半ばで政治家が辞任すること自体はどのような政治体制の下でも起こりうる。しかし、特に人事にかかる決定が密室で行われる一党独裁体制の下では、高級幹部の突然の失脚はさまざまな憶測を呼び、政治の先行きへの不安をひき起こしやすい。政治的安定はドイモイ期ベトナムの順調な経済社会発展の基礎であり、外国政府や投資家にも高く評価されてきたが、フック国家主席の辞任は、ベトナム政治の不安定化の兆候であるとみられるのだろうか。

これまでのところ、ベトナム政治が直ちに不安定化する恐れはあまり大きくないようにみえる。まず、現在、共産党一党独裁体制自体が動揺するような兆しはみえない。体制を維持するという目的においては、チョン書記長も他の指導者たちも一致しているものと思われる。また、政策路線の急激な転換なども起こりそうにない。国家主席という役職は党内序列第2位といっても実質的な権限はそれほど大きくない。さらにいえば、ベトナム共産党の集団指導体制においては、国家主席に限らず、個々の指導者の交代の政策決定への影響は限定的である。そのことは、これまで党大会ごとに指導者の顔ぶれが変わっても基本的な政策路線の継続性は相当程度保たれてきたことからもうかがわれる。

他方、反汚職闘争の激化に伴い、国家機関人事の不確実性が高まっていることは事実である。国際情勢変動の影響などベトナム経済を取り巻く環境も決して楽観を許さない現在、行政活動の遅滞や断絶などによる負の影響への懸念は残る。当面は、国家主席の後任人事と新任の幹部たちのパフォーマンスに注目したい。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
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著者プロフィール

石塚二葉(いしづかふたば) アジア経済研究所新領域研究センター・ガバナンス研究グループ。専門はベトナム地域研究(政治・行政)。おもな著作に、『ベトナムの「第2のドイモイ」──第12回共産党大会の結果と展望──』(編著)アジア経済研究所(2017年)など。


  1. 「免職」(miễn nhiệm)という言葉は「解任」とも訳されるが、同様に職を解くという意味合いをもつ「罷免」(bãi nhiệm)や「革職」(cách chức)とは異なり、懲戒処分ではない。フック国家主席の事例はあくまでも「辞任」という形をとったことが新しい点のひとつであるため、ここでは懲戒処分のひとつともとれる「解任」という訳語をあてなかった。
  2. この時の「解任」は党の懲戒処分の一形式である「革職」ではなく、異動などの場合と同じ「職務を解く」(cho thôi giữ chức)であった。その後、逮捕され、有罪判決を受けたタン元政治局員は、2018年5月に党除名処分を受けている。
  3. ベトナムの刑法では刑務所への収容を行う刑罰に関して懲役と禁固の区別がないが、これまで筆者は「懲役」と訳してきた。2022年に日本でも拘禁刑が法定されたことから、本稿では「拘禁刑」の訳語を用いる。
  4. Cán bộ không còn được "hạ cánh an toàn" khi về hưu?” LuatVietnam, 22/11/2021.
  5. 「非常に重大な汚職」が起きた場合は、当該幹部が免職されうることも規定されている。
  6. 2019年のグエン・ティ・キム・ティエン保健相の免職も、実質的には任期途中の(強制された)辞任に近い事例であったと思われる(石塚・荒神 2020)。同氏は医薬品販売会社VNファーマ社による偽造癌治療薬輸入事件に関する監督責任を有する一方、親族が同社幹部であったことが問題視されていた。なお、キム・ティエン元保健相は第3代党書記長ハ・フイ・タップの孫である。
  7. Le Hong Hiep “Red Card” for the President? Vietnam’s Biggest Political Drama in Decades,” Fulcrum, 17/01/2023.
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