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米中貿易摩擦の混乱が中国にもたらすもの

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051472

箱﨑 大

2019年9月

(4,096字)

米国の貿易赤字をめぐる米中の対立が激しさを増している。米国は8月1日、第4弾の対中関税賦課を発表し、消費財を含むほぼすべての対中輸入品の関税引き上げを決めた。その後、スマートフォンやノートパソコン、玩具など555品目は発動が12月15日に先送りとなったが、3243品目については予定どおり9月1日に引き上げられた。

これに対し中国も9月1日、農産品などの関税率を10%引き上げたほか、12月15日に自動車をはじめとする750億ドル規模の輸入品の関税を引き上げることを発表し、対米輸入品のほぼすべてについて関税を引き上げることとなった。米国は、第4弾の関税に5%を上乗せしたほか、第1弾から第3弾までの追加関税についても10月に25%から30%へ引き上げることを明らかにしている。

写真:トランプ米大統領と習近平中国主席(G20大阪)

トランプ米大統領と習近平中国主席(G20大阪)

米中の関税戦争については当初、中国の対米輸入(年間約1500億ドル)に対し米国の対中輸入規模(同5500億ドル)が圧倒的に大きく、中国が先に「弾切れ」となるため米国に有利と言われていた。さらには、米国の経済が好調であるのに対し、中国では景気が減速し雇用が悪化しているとの声もあった。

標準的な国際貿易の理論に従えば、保護貿易措置としての輸入関税賦課は、国際価格に影響を与えることができる「大国」とそうでない「小国」とで影響が異なる。「小国」がこれを行った場合は貿易量縮小により損害を被るが、「大国」の場合は輸入を制限することで交易条件(輸出価格指数と輸入価格指数の比)を改善し、利益を得ることが可能な最適関税率があることが知られている。しかし「大国」がそうした利益を得られるのは相手国が報復関税措置を採らない場合であって、相手国が関税引き上げで応じれば双方が貿易量縮小により損害を被る。

中国からの輸入を関税賦課で制限すると、価格上昇により輸入が減退するようにもみえる。しかし、他の国からでも輸入できてしまう財ばかりなら、中国からの輸入が他国からの輸入で代替されるだけで米国の赤字は総額としては減らない。逆に価格が上昇しても中国から輸入するしかない財なら、輸入金額は価格上昇に応じて拡大してしまう。貿易収支(正確には経常収支)はその国の貯蓄・投資差額に一致するもので、そもそも経済学は二国間の貿易をバランスさせることに意味を見出さない。

貿易赤字や失業は減少しているのか

トランプ政権は貿易赤字削減に強いこだわりがあるが、対中関税引き上げによって米国は貿易赤字や失業を減らすことができたのだろうか。

貿易赤字の推移は図1のとおりである。2018年7月に第一弾の関税引き上げが行われ、以来2019年の上期にかけ、貿易赤字は減少したようにみえる。

図1 米国の貿易赤字

図1 米国の貿易赤字

(出所)Global Trade Atlas.
もっとも、季節変動を除くため前年同期比をみると、2019年上半期は対中赤字については178億ドル減少(1923億→1746億ドル)したが、中国以外に対する赤字は270億ドル増加(3382億ドル→3652億ドル)しており、米国の貿易赤字は総額で92億ドル増加(5305億ドル→5397億ドル)している(表1)。

表1 米国の輸出入と貿易赤字

(単位:億ドル) 表1 米国の輸出入と貿易赤字

(出所)Global Trade Atlas.

雇用をみると、失業率は現状、1969年以来という低さであるが、過去1年(2018年8月~2019年7月)は3.6~4.0%の間を上下し、低下が停滞しているようにもみえる。すでに歴史的な低さでありこれ以上の低下は難しいとも考えられるが、いずれにせよ、昨今の対中貿易赤字縮小の影響は明らかという状況にはない。

輸入関税の引き上げの影響として想起されるのはインフレの加速だが、失業率が10年にわたり低下し続けるなかにあっても、消費者物価上昇率は8年ほどのあいだ2%前後で推移してきた。

理屈から言えば奇妙なことである。失業率が低下するときは人手が不足しており賃金が上昇しやすい。また賃金の変動はインフレ率を大きく左右する。このため、インフレ率を縦軸、失業率を横軸にとって推移をグラフにすると、右下がりの線になると考えられる。これをフィリップス曲線と言うが、今の米国は失業率とインフレ率の関係を示すフィリップス曲線が横一文字になっており、インフレ加速を想像しにくい。

消費者物価指数の推移をみると、サービスを除いた消費財全般にあたる「コモディティー(変動が大きい食料・エネルギーを除く)」に限れば、2012年以来の低下が2017年に止まり、上下に変動するようになってきている(図2)。関税引き上げはほぼすべての輸入品が対象となり、貿易戦争が続けば、これから先は税率を引き上げていくだけであり、インフレの芽のようにも見える。貿易戦争長期化の予想が米国の株価を押し下げると、市場は株価下支えのための利下げを予想するようになる。利下げでドル保有の魅力が低下するとなればドルは売られ、ドル安が進めば米国で輸入品の価格が上昇し、それもインフレ圧力となる。

図2 消費者物価指数(コモディティー)の推移

図2 消費者物価指数(コモディティー)の推移

(資料)CEIC.

しかし米国の物価変動を決めるのは、6割強を占めるサービスの価格である。「コモディティー(除く食料・エネルギー)」のウエイトは2割強に過ぎず、またそのすべてが中国から輸入されているというわけでもない。対中関税賦課が原因で大変な輸入インフレになるという事態は、簡単には起きそうにない。

中国経済に取りざたされているリスク

中国にとって輸出減・生産減からくる労働需給の緩和や雇用不安は、経済面の一つのリスクである。しかし昨今は生産年齢人口が減少しているため、労働需給の緩和が表面化しにくい。

また中国では、貿易戦争を機に製造拠点の周辺国への流出の問題も取り沙汰されているが、製造拠点の流出それ自体は以前から認識されている課題であり、2015年に打ち出された「中国製造2025」はいわばその対応策といえる。

「中国製造2025」は中国の製造業が置かれている状況について、国際的には「先進国が『再工業化』戦略を実施し、製造業における競争優位を新たに構築し、グローバルな貿易・投資の新たな構造の推進を加速させる一方、開発途上国も産業の国際分業体制の再構築に積極的に参画し、産業・資本の移転を引き受けるなかで、中国の製造業は板挟みという厳しい挑戦に直面」していると捉えていた。他方、国内的には、「中国の経済発展が新常態(ニューノーマル)に入り、製造業は資源・環境の制約、労働力など生産要素コストの上昇、投資・輸出の伸びの鈍化など、新たな挑戦に直面している」という状況にあった。製造大国から製造強国へ進化を遂げるため、自主イノベーション能力、基幹・コア技術およびハイエンド機械設備の対外依存、世界的な有名ブランドの不足、資源・エネルギー効率、情報化水準、企業のグローバルな経営能力などを課題に挙げていた。

関税戦争が中国にもたらすもの
経済学に基づけば、関税賦課は商品の価格を引き上げ、輸入国側に生産者余剰の増加と関税収入をもたらす。消費者余剰の減少も勘案すれば総余剰としては減少になるが、消費者の声よりも企業(=生産者)の声の方が政府に届きやすく、また輸入国側政府にしてみれば関税収入を得ることができる。輸入関税による貿易保護が行われる所以である(図3a、b参照)。中国・習近平政権が欲するのは、大国意識の芽生えた国内を説得することが可能な、米国との平等で尊厳ある協力の形であるが、米国がそれに応じるか定かではない。

図3 関税賦課による総余剰の減少

図3 関税賦課による総余剰の減少

(出所)筆者作成
(注)図aは関税がない場合の消費者余剰と生産者余剰を示し、青と緑の部分を足したものが総余剰となる。図bでは関税が賦課され、財の価格がP0からP1に上昇している。これにより生産者余剰は増え、政府も関税収入を得たが、消費者余剰は減ったため、関税収入の両隣の2つの三角の部分は白くなっている。この分、総余剰は減少したことになる。
中国の対米輸入に比べ米国の対中輸入規模が圧倒的に大きく、その点で中国の「不利」は変わらない。しかし「不利」は関税戦争上の不利に過ぎない。賃金上昇と生産年齢人口の減少が進む中国は既に、経済政策の重点を成長から生産効率の引き上げと産業構造の高度化に移している。関税戦争は、中国の産業構造の転換と輸出先の多角化を後押しすることになる。それは「中国製造2025」が目指す製造強国に中国が一歩近づくことでもある。
写真の出典
  • The White House from Washington, DC, President Donald J. Trump joins Xi Jinping, President of the People’s Republic of China, at the start of their bilateral meeting Saturday, June 29, 2019, at the G20 Japan Summit in Osaka, Japan(Official White House Photo by Shealah Craighead)[Public Domain].
著者プロフィール

箱﨑大(はこざきだい)。アジア経済研究所新領域研究センター主任調査研究員。都市銀行に入行後、日本経済研究センター、銀行系シンクタンク出向、香港駐在エコノミストを経て、2003年にジェトロ入構。北京事務所次長、海外調査部中国北アジア課長を経て2018年より現職。編著に『2020年の中国と日本企業のビジネス戦略』ジェトロ(2015)、『中国経済最前線:対内・対外投資戦略の実態』ジェトロ(2009)がある。また、最近の著作として「中国の就業者数、57年ぶりに減少」「中国で地場企業からの調達を増やす日系企業」「内需の不振が続く中国経済」がある(すべて、地域・分析レポート[ジェトロ・海外ビジネス情報])。

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