ライブラリアン・コラム
貴重資料を使い倒す──我妻榮『支那都市不動産慣行調査報告書』を例にして
早矢仕悠太
2024年11月
9月のライブラリアン・コラムでは、アジア経済研究所(以下、アジ研)図書館の貴重書庫で保管されている東亜研究所(以下、東研)による『支那都市不動産慣行調査報告書』(以下、『報告書』)、その来歴をめぐるアジ研設立初期の資料収集活動を紹介した(コラムを見る)。東研という組織の性質や、彼らによる「支那慣行調査」と『報告書』の位置づけについては、先のコラムを参照されたい。本コラムでは視点を変えて、資料の性質や、資料を活用した最近の研究動向を紹介しながら、『報告書』がもつ研究上の可能性やさらなる利活用の展望について考察する。
『報告書』解題
『報告書』の構成は大きく4つの部、「北京」「青島」「天津」「杭州・蘇州・南京及び漢口(以下、中支)」の部に分けられ、それぞれの内部は統一して3編、「支那人間の権利関係」と「条約及び国内法上認められたる外国人の不動産権益」「外国人の不動産権益の発展」に分けられる。ただし、この地域設定は当初の計画とは異なっていた。井村(1987)によれば、『報告書』は南満州鉄道株式会社調査部(以下、満鉄調査部)の現地調査を基礎資料として執筆されたが、上海や済南のように現地調査されながら執筆されていなかった地域もある。一方で、満鉄調査部の現地資料にはない資料が『報告書』に添付されている場合もある。たとえば、天津の部では、「不動産登記册」や「永租地券」など、実際の土地取引や運用で用いられていた文書が同封されている。これは東研が満鉄調査部から送付された現地情報の精査・要約するだけでなく、自ら現地調査に赴き、独自資料を入手して執筆していた、もしくは満鉄調査部の逸失資料を保存していたことを示唆する。
『報告書』そのものにも着目してみよう。4つの地域の執筆は「支那慣行調査」に東研の学術委員として参画した東京帝国大学の我妻榮(わがつま さかえ、1897–1973)が全体を統括し、それぞれ当時の彼の門下の若手研究者に割り振られた。北京は四宮和夫と伊藤真一、中支は工藤進、天津・青島・済南は伊藤、上海は磯田進が我妻とともに担当した。既述のように、上海と済南については、満鉄調査部の現地資料しか残っていない。また、中支の部の第1編「支那人間の権利関係」は執筆されたものの、散逸したと思われる。
また、調査を率いていた我妻の貢献が名貸しにとどまっていたわけではない。『報告書』には、地域間の分析の水準や論点を整理するために我妻が手を入れたり、彼の中国法理解を窺える箇所が散見される。たとえば青島の部冒頭では、不動産制度に関する書出しが墨消しされ、別の筆跡で次頁に及ぶ修正・加筆がされている。『報告書』の執筆分担を鑑みれば、伊藤が執筆した初稿に我妻が朱を入れたと考えるのが妥当であろう。
『報告書』を用いた研究動向
以下では、「支那慣行調査」と『報告書』をめぐる先行研究の評価を概観して、この資料をめぐる研究の進展可能性について検討する。井村(1987)は、東研による「支那慣行調査」のうち『報告書』をめぐる都市不動産慣行調査研究の嚆矢である。彼の慣行調査関連文書への評価は2つ、1つは東研と満鉄調査部との間で調査手法や予算面で衝突が多かったことを指摘したうえで、従来の東研と満鉄調査部間の「協働」関係の再検討を促していることと、もう1つは、慣行調査のうちで農村を対象とした「中国農村慣行調査1」での成果に依存していた従前の「支那慣行調査」全体の評価を相対化し、多角的に分析できる可能性を有していることであった。
前者の可能性について加藤(2003)は、都市不動産慣行調査における我妻の役割を重視しながら、満鉄調査部の現地資料も含めて幅広い資料から、『報告書』執筆のための調査過程を明らかにした。また加藤は、『報告書』の内容と執筆者らの中国法理解の関係について、土地を家屋の一体性を例に挙げながら考察している。最近では荒武(2014)が、民国期南京の土地調査事業について、『報告書』と満鉄上海事務所調査室の現地資料を活用している。このように、少数ながら際立った研究によって、「支那慣行調査」の過程は再構成された。しかし、都市不動産慣行調査や『報告書』をめぐる研究は、これ以上大きな進展が見込めず、停滞している(加藤 2014)。
『報告書』の利活用の展望と課題
しかし『報告書』には、さらなる利活用の余地がある。1つの焦点が、我妻の中国法制史研究と『報告書』の関係である。これまでの『報告書』を用いた研究が、従前の「中国農村慣行調査」との比較の上で、その調査過程における事実解明に関心が寄せられた一方で、『報告書』が我妻の中国法制史研究の事績の1つとして位置づけられてきた例は少ない。我妻と中国法制史研究との関係は、1930年に始まる中華民国法制研究会での活動を含め、戦後初期に至るまで官民問わず精力的に続けられていた(小口 1997; 西 2018)。1941年、すなわち『報告書』執筆と同時期には、上記研究会から『中華民国民法物権(上)』が上梓された。2002年には東洋文化研究所の我妻文庫から、原稿用紙2000枚に及ぶ我妻の『中華民国民法物権(下)』の未整理草稿が発見され、校訂作業が進められている(高見澤 2014)2。これが出版された折には、我妻と中国法制史への注目が高まるだろう。
一方で、『報告書』が前段の研究動向のなかで新たな知見を生むには、2つ課題がある。1つは現在多く利用されているのが、アジ研制作のモノクロ複写資料である点にある。『報告書』には未完成の手稿として、多くで改稿・校正の過程が保存されている。なかには既述のように、朱ペンで我妻によるコメントが挿入されていることもある。モノクロ複写では、こうした資料の特徴を反映させることはできない。そこで、フルカラーによる画像公開が望まれるが、同時に構造化されたテキストデータの公開(後述)がもう1つの課題である。というのも、『報告書』は我妻含む4人の研究者によって執筆された。各部における執筆者はすでに明らかとなっているが、部編内において我妻と若手研究者の執筆箇所の区別は、一読しただけでは容易ではなく、『報告書』全体の我妻の貢献も定量的に評価することは難しい。『報告書』をText Encoding Initiative(TEI)よる構造化されたデータ3として公開することは、『報告書』を多角的な観点から分析すること、ひいてはその成果を我妻の中国法制史研究のそれと接続させることに貢献するだろう。
写真の出典
- 筆者撮影
参考文献
- 荒武達朗(2014)「満鉄上海事務所調査室の南京不動産慣行調査」『近代東アジア土地調査事業研究ニューズレター』第5号、pp. 3–34。
- 井村哲郎(1987)「東亜研究所『支那慣行調査』関係文書──解題と目録──」『アジア経済資料月報』第29巻、第1、4号。
- 小口彦太(1997)「満州国民法典の編纂と我妻栄」池田温・劉俊文編『法律制度』(日中文化交流史叢書2)大修館書店、pp. 325–360。
- 加藤雄三(2003)「東亜研究所第六調査委員会支那都市不動産慣行調査概観」比較法史学会編『比較法史研究:思想・制度・社会(法生活と文明史)』未来社、pp. 316–337。
- 加藤雄三(2014)「戦間期研究機関研究の展開と民国時期都市不動産慣行研究」『近代東アジア土地調査事業研究ニューズレター』第5号、pp. 68–70。
- 高見澤磨(2014)「我妻榮の中華民国民法典註解と満州国民法への言及:『新発見』資料の紹介を中心に」『法政論集』第255号、pp. 183–198。
- 西英昭(2018)『近代中華民国法制の構築:習慣調査・法典編纂と中国法学』九州大学出版会。
※特に言及のない限り、本コラムで参照したウェブサイトの最終閲覧日は2024年10月31日である。
著者プロフィール
早矢仕悠太(はやしゆうた) アジア経済研究所学術情報センター図書館情報課。担当は中東・北アフリカ、中央アジア。最近の著作に、東京第一弁護士会現代中近東法研究部会著『エジプト民法典』東京:第一書房(共訳と訳語表担当)がある。
注
- 「中国農村慣行調査」は、我妻と同じく東研の「支那慣行調査」の学術委員であった末弘厳太郎と満鉄調査部の杉之原舜一の協働のもと、1940年から44年にかけて行われた。戦後その成果は、「支那慣行調査」のなかでもいち早く公刊され、中国法制史における法社会学の観点からの議論の下地を提供した。中国農村慣行調査刊行会(1952–1958)『中國農村慣行調査』全6巻、岩波書店。
- 当該校訂作業の進捗や最新の成果については、同研究所における高見澤報告を参照されたい。東洋文化研究所「2023年度第4回定例研究会『我妻榮氏原稿「中華民国民法物権(下)」の整理について』高見澤磨教授最終研究発表会」2024年。https://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/news/news.php?id=MonJan221148082024 (最終閲覧日2024年10月27日)
- 「テキストを構造化」するとは、文字の羅列でしかない文章に対して、コンピュータがその文章の段落や語句の意味を理解できるように処理を行うことである。本コラムで例示するTEIは、構造化処理をマークアップと呼ばれる手法で行う枠組みである。最近では、TEIガイドラインの邦訳と普及が進められ、人文情報学研究所を中心に、TEIを用いた計量的な人文学研究の方法論の模索と研究事例の蓄積が活発である。その一例として、人文情報学研究所監修『人文学のテキストデータの構築入門:TEIガイドラインに準拠した取り組みに向けて』文学通信、2022年、が挙げられる。
この著者の記事
- 2024.9.13 [ライブラリアン・コラム] アジ研図書館所蔵、我妻榮『支那都市不動産慣行調査報告書』の半生