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ライブラリアン・コラム

アジ研図書館所蔵、我妻榮『支那都市不動産慣行調査報告書』の半生

早矢仕 悠太

2024年9月

満鉄資料と貴重書庫のとある「箱」

アジア経済研究所(以下、アジ研)図書館の貴重書庫に入るとすぐ右手、「支那慣行調査関係資料」と掲示された一角に4つの箱がある。この箱に入っているのは、1939年から南満洲鉄道株式会社調査部(以下、満鉄調査部)と後述の東亜研究所(以下、東研)によって実施された「支那慣行調査」の事務書類綴と『支那都市不動産慣行調査報告書』草稿(以下、『報告書』)である。とある法学者のコレクションの一部として収められるはずのところ、アジ研に行き着いたこれら資料のうち、本稿が焦点を当てるのは、『報告書』のほうである。

写真1 この4箱のうち3つが『報告書』であり、1つが事務書類綴である。

写真1 この4箱のうち3つが『報告書』であり、1つが事務書類綴である。

その法学者こそ、我妻榮(わがつま さかえ、1897–1973年)である。東京帝国大学で民法学の教鞭を執って以降、多岐にわたる立法事業や執筆活動で業績を残した彼以上に、戦後日本の法学に影響を与えた法学者はいない。東京大学東洋文化研究所(以下、東文研)は、彼の蔵書や立法事業に関連する事務・会議資料を収蔵した我妻文庫を設置している1。しかし、彼が統括して調査・執筆を進めた先の『報告書』はここには収蔵されておらず、この調査研究の基礎資料となった満鉄調査部による現地調査資料のみが収められている。

我妻の中国法研究の重要な業績であるはずの『報告書』が、なぜアジ研に行き着いたのか。本コラムでは、我妻が使用した資料が東文研に、執筆した資料がアジ研にと分かれてしまった来歴を紹介する。なお、資料の内容や研究上の価値については、稿を改めて紹介したい。

東亜研究所による「支那慣行調査」

『報告書』は、先述のとおり、東研による「支那慣行調査」の成果の一部である。東研は1938年に国策研究所として設立され、アジア各地域における技術開発と社会経済調査を進めていた2。東研に対して1939年10月、当時の対中政策を担っていた興亜院が、拡大する中国占領地の行政整備を目的として調査研究を委嘱したことが、慣行調査の発端である。調査は①農村慣行、②商慣行、③鉱工業慣行、④不動産慣行、⑤外国行政地域に関する慣行、⑥治外法権の慣行という6つの分野に関して、満鉄調査部が現地調査を担当し、その資料に依拠して研究者を交えた東研の調査委員会が学術的見地からとりまとめることとなった。我妻はこのうち、項目④を対象とする学術委員として参画し、当時の若手研究者を率いて慣行調査にあたることになった。

こうして実施された不動産慣行調査だが、その成果が刊行されることはなかった3。第1の要因は、東研の秘密主義的性格である。国策研究所として、東研の成果は政府機関に第一に還元されるべきであり、所外秘の資料も多く、広く公表することは前提とされていなかった。その機密性は組織内部にも浸透しており、隣接する部局の活動すら知る機会は限られていた。

第2は、満鉄調査部との出版交渉の難航である。東研は当初、『報告書』に満鉄調査部の調査資料を付録として併せて刊行しようと計画していた。しかし、満鉄調査部から調査多忙につき編集作業に加われないこと、紙不足などで出版のための便宜を図れないことが伝えられて計画は頓挫した。奇しくも、「支那慣行調査」は国家総動員法施行の翌年から開始され、その成果がまとめられる1940年代初頭は戦時下統制経済の只中であった。『報告書』でも多くは、東亜研究所と印字された原稿用紙を使用しているが、なかには出版社の原稿用紙や、罫線紙を分割した用紙が使用されていることからも紙不足が窺える。

第3にしておそらく最大の要因は、そもそも『報告書』が未完だということである。『報告書』では、上海と済南のように調査計画で予定され、満鉄調査部による現地調査が実施されたものの、執筆されていない地域がある。報告書が完成せず、当初3年だった調査期間の延長が求められていたことも、『報告書』が未完であることの傍証になろう。以上の事情で、『報告書』は刊行されないまま、草稿の状態で終戦へ向けた混乱と東研解体を迎え、我妻らが執筆時に用いた満鉄調査部の現地調査資料は彼の手元に残ることとなった。

写真2 北京の部(左)では岩波書店の、青島の部(中央)では東研の原稿用紙が使用されているが、天津の部(右)では原稿用紙でなく、分割された罫線紙に書かれている。

写真2 北京の部(左)では岩波書店の、青島の部(中央)では東研の原稿用紙が使用されているが、天津の部(右)では原稿用紙でなく、分割された罫線紙に書かれている。
終戦と『報告書』の放浪

終戦の少し前から、東研では敗戦が予想され、機密資料の多くが処分された。終戦後、東研は解体したが、処分を逃れた資料の一部は、1946年に設立された後継の政治経済研究所が引き継いだ。しかし、同研究所が1962年に神田、1964年に江戸川橋へと拠点を移転する過程で、研究所や事業の規模も縮小したため、旧蔵資料の保管が難しくなった。そこで、戦前東研にて中国の動向調査に携わっていた江副敏生(えぞえ としお、1912–)が、自ら所属する中央大学の駿河台図書館を説得して寄贈を受け入れた。「支那慣行調査」の事務書類綴と『報告書』もここに含まれており、それを発見した江副は、貴重書としての取扱い希望を添えて図書館に保管を打診した。しかし図書館は、1967年に竣工する新図書館への多忙な移転業務と、未製本資料の保管が困難であることを理由に、冊子体以外の資料の受入れを拒否し、事務書類綴と『報告書』は江副が自らの研究室で保管せざるを得なかった。

1983年、江副が退職を機にこれらの移管先を探していたとき、満鉄調査部に関連する資料として目をつけたのが、当時市ヶ谷を拠点としていたアジ研の井村哲郎(いむら てつお、1943–)であった。両者の関係については、少し説明を要する。江副は1962年から1969年の間、設立間もないアジ研所蔵の中国関係資料の総合目録作成を指導し、その後1975年に至る6年間は「中国関係新聞・雑誌研究会」主査として、戦前の中国で出版された新聞と雑誌の網羅的調査と目録解題に従事していた。

一方井村は、1966年アジ研図書資料部に配属後、国内外に分散する満鉄資料の網羅的収集に関心を寄せ、1975年から2年間、海外派遣員として米国議会図書館所蔵の満鉄資料調査を行った。彼はアジ研における満鉄研究の意義について、満鉄調査部は「戦前の日本におけるアジア研究、中国研究の中心の一つであり、また到達点」として「その成果には現在のアジア研究に正当に引き継がれるべきものが多い」(井村 1985, 59)と述べる。帰国後は、国内外の満鉄資料の所蔵状況を『旧植民地関係機関刊行物総合目録:南満州鉄道株式会社編』にまとめた。1982年からは、満鉄研究における文献調査に限界を感じ、満鉄調査資料分科会を設置して、満鉄調査関係者へのヒアリングを行っていた4

以下は推測であるが、井村の海外派遣以前、両者は戦前の中国関連資料の刊行物調査という点で共通項を有しており、彼らが研究会などで面識・交流を持っていたことは想像に難くない。さらに海外派遣後になると、井村の満鉄調査部に関する資料調査の先駆性は研究者の間で広く知られていただろう。これらを加味すれば、江副が『報告書』の寄贈先として、当時組織的に満鉄資料を調査していたアジ研と井村を選んだことにも説明ができよう。以上の経緯を経てアジ研に寄贈された『報告書』は、一部劣化が激しい箇所を修復したうえで、井村による解題と目録が付された。その整理の際、資料保存の観点から、資料は閲覧のために複写され、アジ研には製本版が、中央大学と東文研、京都大学人文科学研所にはマイクロフィルムが寄贈された。

写真3 製本版『報告書』もまた、貴重書庫内の旧植民地コーナーで保管されている。

写真3 製本版『報告書』もまた、貴重書庫内の旧植民地コーナーで保管されている。

かくして、我妻が慣行調査に使用した満鉄調査部からの現地調査資料のみが東文研の我妻文庫には残り、肝心の『報告書』は草稿のまま、終戦の混乱のなかで東研から政治経済研究所へと引き継がれ、江副が発見し、井村を筆頭に満鉄資料を収集していたアジ研が受け入れて現在に至るわけである。

写真の出典
  • すべて筆者撮影
参考文献
  • アジア経済研究所(1980)『アジア経済研究所20年の歩み』アジア経済研究所。
  • アジア経済研究所図書資料部編(1979)『旧植民地関係機関刊行物総合目録:南満州鉄道株式会社編』アジア経済研究所。
  • 井村哲郎(1985)「満鉄調査関係者に聞く──特別連載にあたって」『アジア経済』第26巻第4号、pp. 59–60。
  • ————(1987)「東亜研究所「支那慣行調査」関係文書:解題と目録」『アジア経済資料月報』第29巻第1、4号。
  • ————(2009)「満鉄研究の現在──調査活動を中心に」『近現代東北アジア地域史研究会NEWSLETTER』第21号、pp. 114–131。
  • 江副敏生(1998)「東亜研究所と『支那慣行調査』関係文書」『研究者用CUL中央大学図書館だより』第49号、pp. 1–5。
著者プロフィール

早矢仕悠太(はやし ゆうた) アジア経済研究所学術情報センター図書館情報課。担当は中東・北アフリカおよび中央アジア。最近の著作に、東京第一弁護士会現代中近東法研究部会著『エジプト民法典』東京:第一書房(共訳と訳語表担当)がある。

  1. 我妻文庫については、東文研図書室が目録を作成している。東京大学東洋文化研究所図書室(1982)『我妻栄先生旧蔵アジア法制関係文献資料目録』。その一部は現在、オンラインでも閲覧可能である。ジャパンデジタルアーカイブスセンター(2020)「オンライン版我妻栄関係文書」 https://j–dac.jp/wagatsuma/index.html (accessed on 12th Sept. 2024)。
  2. 東研の組織や活動の詳細は、非公開の情報も多く、公式の文書から追うことは難しい。現状では、以下の関係者の証言がまとまった資料である。柘植秀臣(1979)『東亜研究所と私:戦中知識人の証言』勁草書房。江副敏生(1999)「20世紀日本人の中国認識と中国研究(11)幻の研究所──東亜研究所について」『中国研究所月報』第620号、pp. 10–27。
  3. 同じ支那慣行調査であっても、外国行政地域と治外法権に関する調査と、農村慣行と商慣行に関する調査の一部は、東研によって刊行されている。東亜研究所第六調査委員会学術委員会特別調査部編(1941)『治外法権に関する慣行調査報告書』東亜研究所。東亜研究所(1942)『支那に於ける外国行政地域の慣行調査報告書』。同(1943)『支那農村慣行調査報告書』第1輯。同(1943)『商事に関する慣行調査報告書 : 合股の研究』。
  4. ヒアリングの成果は、『アジア経済』で1985年から90年にかけて全35回の特別連載として掲載されたうえ、単行書としてまとめられ、アジ研から刊行された。井村哲郎編(1996)『満鉄調査部──関係者の証言』アジア経済研究所。