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海外研究員レポート

シンガポールの中台バランス外交

 

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00051597

2020年3月

(5,123字)

何をどう発信するか――台湾総統選挙に対するシンガポールの反応

2020年1月11日に台湾で総統選挙および立法院選挙(国会議員選挙に相当)の投開票が行われた。結果は周知のとおり、蔡英文総統が過去最高の得票数である817万票を獲得して再選を果たした。立法院選挙においても与党・民主進歩党が過半数を獲得しており、蔡英文政権の基盤を固める結果となった。

この選挙結果に対する各国の反応は興味深いものであった。まず日米英の3カ国は、足並みをそろえて祝意を示した。マイク・ポンペイオ米国務長官、茂木敏充外相、ドミニク・ラーブ英外務・英連邦大臣らは即座に、蔡英文の再選と台湾での民主主義の実施に対する賛辞を贈り、3カ国がこの点で認識を共有していることを示した。また1月12日の台湾の中華民国外務省の発表では1、60以上の国・機関から祝賀のメッセージが届いたとされる。

同様のメッセージを送ったかは不明であるものの、シンガポール政府は選挙結果に鋭敏に反応し、翌日には外務省ホームページ上に「報道声明」を発表した。内容は以下に詳述するが、翌13日に国内の主要報道機関が同「声明」について概要を伝えており2、国内に対するメッセージという意図もあったと考えられる。他方、管見の限りでは他の東南アジア諸国が何らかの「声明」を出した形跡はなく、シンガポールの独自色を印象づける結果となった。例えば先述の中華民国外務省の発表には、祝賀メッセージを送った東南アジア域内国としてフィリピン、インドネシア、ベトナムの3カ国が挙げられているが、少なくともこれら3カ国の外務省は公式コメントを出していない。

では、一体どのような声明だったのか。シンガポール外務省のコメントの骨子は以下の3点である3

  1. 1月11日に台湾で行われた選挙の成功と蔡英文博士と与党の勝利に祝意を表する。
  2. シンガポールと台湾の長年にわたる緊密な関係を、シンガポールの「1つの中国」政策4 に基づいて引き続き発展させる。
  3. 平和で安定した両岸関係は、双方のリーダーの知恵と現実主義なしには不可能である。それは両岸の利益にもなる。シンガポールや国際社会は次世代と地域の繁栄のための努力を歓迎する。

この文書は「報道声明(Press Statement)」ではあるものの、「2020年1月11日の台湾での選挙に対するメディア質問への回答にある外務報道官のコメント」という、かなり説明的なタイトルがつけられている。選挙結果に対し祝意を示す趣旨ではあるが、あくまで「メディアが質問したから答えた」という受動的な立場が明示されており、中華人民共和国(以下、中国)と正式な国交を有しながら台湾とも友好関係にあるシンガポールの微妙な立場が浮かび上がる。また蔡英文に対する敬称を「総統(President)」ではなく「博士(Dr)」とするなど、公式な立場を踏まえて練られたコメントであったと考えられる。

では、シンガポール政府がこうしたコメントを発した目的は何だったのか。考察に進む前に、そもそも同国の台湾選挙に対する関心が比較的高かった点を指摘しておきたい。例えばシンガポールの報道機関は、選挙結果についてかなりの情報提供をしていた。選挙翌日には華字主要紙である『早報』が、一面トップで「台湾の『抗中』意識が完全発酵 蔡英文が再選 得票数は史上最高」を掲げた。英字紙『ストレーツ・タイムズ』も「台湾選挙――蔡英文が最終得票率57%で総統に再選、中国は武力による脅威を止めるべきと発言」と報じ、蔡英文の「地滑り的勝利」をもたらした主要因は対中関係だと解説した。翌週末の17日に国際報道専門局Channel News Asia(CAN)は、専門家による対談形式の特番を組み台湾情勢の展望について詳しく解説した。これらの背景には、以下に論じるような中台関係におけるシンガポールの特殊な外交戦略があるものの、各報道は事実に基づいて客観的に選挙結果を評価するバランスの取れたものであった。

写真:台湾総統選挙を伝える主要華字紙『早報』の一面記事

台湾総統選挙を伝える主要華字紙『早報』の一面記事
シンガポール式の「1つの中国」政策

シンガポール政府の「報道声明」には、2つの政治的インプリケーションがあるだろう。第1に、台湾との関係は「シンガポールの『1つの中国』政策に基づく」という表現に現された、中台関係に関する方針の表明である。そして第2に「知恵と現実主義を求める」という文言が示す、シンガポール・イズムの表明である。

順に検討していこう。まずシンガポール政府がいう「1つの中国政策」とは何を意味するのか。実は、「シンガポールの1つの中国政策」を規定する文書は、公式にはおそらく存在しない。例えば、日本と中国の間では、1972年の国交正常化において「日本国政府は、中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」と共同声明に明記した。これに比し、シンガポールと中国の両政府が1990年10月の国交正常化にあたって署名したコミュニケは、1パラグラフに過ぎない短い文書で、台湾や「1つの中国」に関する記述は全くない。中国とシンガポールの二国間関係は「平和共存五原則5と国連憲章に記された原則」に基づいて構築すると記されるのみである。

中国が国際連合に言及する際に、国連機関に加盟できるのは主権国家のみであるという原則に基づいて台湾排除を意味することは、少なからずある。だが、中国のみが加盟可能な主権国家である論拠となるのは、1971年に中華民国の国連脱退を決めた「第26回国際連合総会2758号決議」(いわゆるアルバニア決議)であり、国連憲章そのものではない(ただしアルバニア決議は国連憲章に言及している)。国連憲章はむしろ、安全保障理事会常任理事国として「中華民国、フランス、ソヴィエト社会主義共和国連邦、グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国及びアメリカ合衆国」の5カ国を記載しており、「中華民国」政府を真っ向から否定するものではない。つまり、安全保障理事会が設立した当初の文言のままであるため、現在の中国は当時の「中華民国」の権利を継承した国家として常任理事国の任にあるのである。

「中華民国」をめぐる国連憲章のあいまいさは、シンガポール政府の立ち位置に合致する部分がある。シンガポールは1965年にマレーシアから分離独立して建国する以前から、中国や台湾と共通の華僑・華人ネットワークを形成していた。中国とは、共産主義への警戒を強める隣国を考慮して国交成立は遅れたものの、1970年代に交流を開始し、1976年5月にはリー・クアンユー首相が訪中して毛沢東主席と会談、1978年11月には中国の最高指導者である鄧小平がシンガポールを訪問していた。一方で台湾との関係においては、台湾独立に反対する立場をとり正式な国交を結ぶこともなかったが、実質的には経済・軍事を軸に外交関係を深めてきた。例えば広く知られているように、1975年から現在までシンガポール国軍は台湾で軍事訓練「星光作戦」を実施している。すなわち、建国後に表立って関係を深めた相手は台湾であったが、実態としての中国との交流は早い段階から始まっていたのである。シンガポールがバランス外交を目指す元来の所以である。

このような経緯からシンガポールの「1つの中国」政策の眼目は、中国と台湾が自らを同一国家であると認めることを前提に、双方と良好な関係を維持することに置かれている。2004年に訪台したリー・シェンロン副首相(当時)は「1つの中国」について「シンガポールは『1つの中国』政策を一貫して維持し、台湾の独立に反対してきた。我々は中国(PRC)と外交関係を確立する前からこの基本的な立場を取ってきた」と説明した6。同時にリーは「我々は中国(Mainland)と台湾の双方の長年の友人であり、我々の『1つの中国』政策と一致する方法で両者との関係を実施する」とも述べており、中国と台湾のいずれを「1つの中国」の主体と捉えるのかはあいまいにしていた。

複合的な効果を目論む一手――「報道声明」の狙いとは

では、なぜシンガポールは現在もバランス外交を目指すのか。1つには、国力を増す中国への過剰な傾斜に対する警戒があるだろう。特に華人が人口の74%を占めるシンガポールでは、物心両面で中国依存が進みやすい環境にある7。だが、2016年に台湾での訓練に使用した装甲車が運搬途中に香港で中国当局に差し押さえられた経験を踏まえ、シンガポール政府は中国の高圧的な外交をかわす必要性を認識している8。中国からの政治的距離を保つうえで、台湾との実質的な友好関係は重要な外交資源になるのである。

もう1つの重要な要因として、中台双方と良好な関係を維持することで、シンガポールの外交上の地位を向上させることがある。振り返れば、1993年4月に中台の初めての政治的接触が図られた舞台がシンガポールであった9。2015年11月には、馬英九総統(当時)と習近平国家主席もまた同国を訪れ、国家分断後初めての中台首脳会談が実現した。このように中・台双方から信頼されることが外交資源となり、ASEANにおけるシンガポールの立場を強めることにも繋がる。

こうした観点からすれば、台湾の総統選挙や立法院選挙は、シンガポールの外交スタンスをアピールする好機であった。文言の上では、中国側の批判を招かない形式と表現で蔡英文に対する祝意を表明した。だが同時に、「1つの中国」政策を強調することで、蔡英文政権が独立志向に傾くことへの懸念を示したのである。このうち「知恵と現実主義」を重視するという文言は、政治的には大きな意味はないが、非常にシンガポールらしい表現であった。実のところ、アジアの国際情勢は加速度的に複雑になり、域内で協力すべき課題は多い。現実主義をもって台湾海峡での火種を不必要に大きくしないで欲しい、知恵をもって矛を収めて欲しいという願いは、大いに共感され得る。その意味で今次の「報道声明」は、中国や台湾に対するのみならず、国際社会や自国民に対してシンガポール・イズムを示したパブリック・ディプロマシーの一手だったといえるだろう。

写真の出典
  • 筆者撮影
参考文献
  • 田村慶子「『中国』と対峙するシンガポール――小さな『華人国家』の選択」『北九州市立大学法政論集』第45巻第3・4合併号、2018年3月。
著者プロフィール

江藤名保子(えとうなおこ) アジア経済研究所在シンガポール海外研究員。博士(法学)。専門は中国政治外交、日中関係、東アジア国際政治。おもな著作に、『中国ナショナリズムのなかの日本――「愛国主義」の変容と歴史認識問題』勁草書房(2014年)、「中国の公定ナショナリズムにおける反『西洋』のダイナミズム」『アジア研究』第61巻第4号(2015年)、「日中関係の再考――競合を前提とした協調戦略の展開」『フィナンシャル・レビュー』138号(2019年)など。

  1. 台湾を実効支配する中華民国政府の機関を指す名称で、本稿では固有名詞として使用する。なお中華民国の支配地域および政府について、基本的に「台湾」の表記を用いる。
  2. 例えば『ストレーツ・タイムズ』は"Singapore congratulates Taiwan's Tsai Ing-wen and her party on election win"と報じた。
  3. MFA Spokesperson's Comments in Response to Media Queries on the Elections in Taiwan on 11 January 2020.
  4. 中国政府が主張する「1つの中国原則」と異なり、政策として採られる方針を指す。詳しくは小笠原欣幸「『一つの中国原則』と『一つの中国政策』の違い」を参照。
  5. 「平和共存五原則」は「領土と主権の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存」の5つの原則を指す。
  6. Transcript of Questions and Answers with DPM Lee Hsien Loong on His Visit to Taiwan.
  7. この点について詳細は、拙稿「シンガポールにおける華人アイデンティティと中国」IDEスクエア、2019年、を参照されたい。
  8. 田村(2018)は、これを機にシンガポール政府は中国との経済関係を深化させつつも、中国からの増大する圧力をかわす必要性を感じた、と論じる。
  9. 台湾の辜振甫・海峡交流基金会理事長と中国の汪道涵・海峡両岸関係協会会長による窓口機関のトップ会談が実現した。
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