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キューバ研究者が見たハイチ(1)――キスケヤ大学での講演

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050762

2019年3月

(6,242字)

ハイチとの出会い

筆者は2018年11月、カリブ海に浮かぶ島国であるハイチを訪問した。研究地域としてキューバを30年近く担当しているが、キューバのすぐ隣にあるハイチには、ずっと近寄れずにいた。「中南米の最貧国(人心が荒れていそう)」「公用語がフランス語かクレオール語(言葉が通じない)」「スペイン語圏と異なり、アフリカ文化が主流の国。公用語のフランス語はスペイン語と同じラテン語から派生した言語だが、文化的にはラテンアメリカではなく、アフロアメリカ。全然違うよ(不安)」「ブードゥー教が支配的(ゾンビは怖い)」……等々、無知と偏見に固まって、近寄れないままに長い時間が経過していた。

2015~16年に、ついに意を決してハイチとドミニカ共和国(この2カ国はイスパニョーラ島を分け合っている隣国同士である)の研究会を立ち上げ、調査のために両国を訪れる機会に恵まれた。マイアミで初めてハイチ行きの定期便に乗るとき、搭乗口の前の待合スペースは里帰りのために集まっていたハイチ系米国人でいっぱいだった。ようやく空いている席を見つけて、隣に座っていた女性に、「ここ座ってもいいですか?」と英語で尋ねたときの控え目な優しい対応に、「貧しさのために荒んだハイチ人」のイメージはひっくり返った。

機内でも自分さえよければいい、という態度を取らず、スペイン語圏の厚かましさがないことに感動していた。でも中高年の人たちは自分の名前が書けないので、フライトアテンダントに代わりに入国書類を書いてもらっている。字を書けない人に飛行機で会ったことがなかった私は、思わずびっくりした顔をしてしまい、それを感じた彼らが本当に恥ずかしそうにしているのを見て、自分の無遠慮さを恥じた。

1950年代から30年続いたデュバリエ独裁の恐怖政治の時代に、多くの人は学校に行く機会がなかったのだ。今もハイチの教育は民間部門頼りで、小学校すら9割が私立である。つまりあれだけ所得が低い国民が多いのに、子どもを学校にやるために小学校から学費を支払わなければならない。しかしそれでも、街角ではきれいにアイロンのかかった制服を着て、髪を整えた子供たちが山道を上り下りして通学するのを多く目にした。これらの子供たちは、学校に行けなかった祖父母世代にとっては未来の希望に違いない。毎年新学年の前になると、子供たちの学費や教材費を捻出するため、両親だけでなく親戚一丸となって金策に走り回ると聞いた。

キューバを担当してきた筆者は、キューバについては過去30年近くにわたり、ほぼ毎年調査に訪れているが、ハイチは今回がまだ3回目、しかも1回の滞在が1週間未満で、とてもいろいろ知っているとはいいがたい。地域研究者の間では、ある国を訪問するときに、「1週間の滞在で本が1冊書け、1カ月の滞在で1章が書けるが、1年滞在すると何も書けなくなる」という言い回しがよく言われる。新しくある国を表面的に知ることは、エキサイティングでいろいろ書いてみたい気持ちにかられるが、よく知れば知るほどめったな表現でその国を描写することができなくなっていく、ということだろう。

ただ、キューバとの長い付き合いで思うのは、初めて同国を訪れた時の第一印象というのは、決して間違っていなかったということだ。確かにその裏にあるものは全然わかっていなかったが、かといってあの第一印象が間違っていたとは思わない。

キューバとの出会いは1991年10月のことで、乗っていたパナマ発のキューバ国営航空の飛行機は大幅に遅延したために夜明けに到着した。ソ連製の、薄暗い蛍光灯がついた機内、ソ連崩壊直前の経済不振の中でも、エコノミークラスの機内食に小さいながら牛肉のステーキを出していて驚いた。知的で礼儀正しい、公務員の鏡のような客室乗務員の女性が思い出される。若さと美貌で勝負していた他のラテンアメリカ諸国の航空会社の客室乗務員女性たちとは、一線を画していた。

日の出のために赤く色づいた美しい空と海に囲まれ、真面目に革命のために働いていた公務員の方々の実直さ、社会主義国として女性の地位向上に努めていた政府の姿勢といったものは、30年近くたった今もやはり存在しており、最初の旅で触れたこの国の本質は変わっていないと感じる。そういうわけで、今回よく知らないはずのハイチについても、よく知らないまま書いていることは承知の上で、あえて取り上げてみたい。

2018年11月 ハイチ再訪

ハイチを訪れるのは3回目である。最初の2回は、2018年3月に出た『ハイチとドミニカ共和国――ひとつの島に共存するカリブ二国の発展と今』(アジア経済研究所)の執筆のためだった。今回は、2回目の調査で大変お世話になったキスケヤ大学(キスケヤというのは、ハイチがあるイスパニョーラ島のことで、先住民が名付けた呼称)の学長ルマルク先生に提案され、出た本について講演をするための訪問であった。

ハイチは「中南米でもっとも貧しい国」であり、乱伐のためにはげ山となった山々や、山腹にびっしりと小さな家が建ち並ぶスラム街の光景がよく紹介される。しかし同時に、ハイチにはカリブ海の島らしい美しい風景もたくさんある。昨年全米オープンで優勝して注目を集める女子テニス選手、大坂なおみさんの父上はハイチ出身である。大坂さんがハイチを2017年3月に初訪問したとき、自身のツイッターで、「ハイチは美しい小さな国。ネガティブな話は現実を反映していません」と書き込んでいたが、私も彼女に同意する。ハイチの美しい風景については、前駐ハイチ日本大使の八田善明さんが、「ハイチだより」という連載の中で、美しい写真をたくさん掲載しておられるので、そちらをご参照いただきたい。

個人的にハイチの国土で気に入ったのは、山が多いことだ。海より山が好きな筆者にとっては、山らしい山が少ないキューバよりも風景を楽しめる。さらに2,000メートル級の山々があるということは、上に登れば涼しいということでもある。外務省安全情報で滞在OKとされる富裕層の街ペシオンヴィルは首都ポルトープランスの隣に位置するが、海に近いポルトープランスと違い、山の中腹にあり、海抜約1,000メートルなので涼しくて過ごしやすい。筆者がよく知るキューバでは山が少ないので、ハイチ同様に暑いのに、上に登って涼む場所があまりない。キューバ島南部のエスカンブライ山地と、東部のマエストラ山地はかろうじて1,000メートル強まで高さがあるが、首都ハバナからは遠いし、山間部には人はあまり住んでいないので、観光客が訪れるには不便である。ハイチなら首都から車で30分登れば、涼しい高地の市町村へ移れる。治安が回復して観光産業が復興すれば、キューバよりも過ごしやすい気候でいいかもしれない。

今回のハイチ訪問の目的である講演は、到着日の翌日に設定されていた。そのため到着日はホテルで講演(英語)の練習をして過ごした。当日は朝9時開始と聞いていたので、日本人らしく8時半には会場に到着した。しかし会場には設営を任されたらしい事務職の人たち2,3人と、通訳の人1人しかいない(実際には通訳は2人おられて、交代で同時通訳してくださったが、このときは1人しか到着していなかった)。この英語とフランス語の通訳の人は、米国など時間にうるさい国に住んだ経験があるに違いない。きょろきょろしている私にすぐ近寄ってきて、「9時には始まりませんよ」と言ってくださったので納得。結局始まったのは1時間遅れの10時であった。

こうした事態は社会主義国キューバではありえない。9時開始なら9時きっちりに講演は始まる。共産党の鉄の規律というべきか。ちなみに今回、ハイチの後にキューバを訪れ、ハバナ大学で日本の自然災害対策について講演した。10時開始であったところ、時計が10時になった瞬間、所長が立ち上がり挨拶を始めた。聴衆は20人弱でハイチの講演ほど来なかったが、彼らも時間通りに始まるとわかっているので、10時より前に着席して待っていた。遅れて来た人は1人しかいなかったと記憶している。

キスケヤ大学での講演時間は2時間あったので、聞きに来てくださった方々は入れ替わり立ち替わり、空いた時間に来てくださった印象である。だいたい40人くらいは常時おられたように記憶している。講演の後に質問やコメントの時間をとったが、そのときに出席されていた人たちは私の講演のせいぜい最後の3分の1くらいしか聞いておられないはずなので、出された質問は、私の執筆した最後の章、ハイチとドミニカ共和国の関係に集中した。

私の章では、ハイチとドミニカ共和国の関係を19世紀までさかのぼって論じた。今のハイチの困窮ぶりを考えれば信じがたいと思われるかもしれないが、ハイチは、18世紀は世界最大の砂糖とコーヒーの生産地であり、王制フランスの財政の3割を支えるほど繫栄する植民地だった。19世紀初めに独立すると、ハイチはイスパニョーラ島統一を目指し、まだスペインの植民地だったドミニカ共和国を占領・併合した。19世紀まではハイチのほうがドミニカ共和国よりも軍事面・経済面ともに圧倒的にまさっており、ドミニカ共和国の反ハイチ派エリートは、自力では独立を達成できず、ハイチの侵攻も防げなかった。

そもそもドミニカ共和国の反ハイチ派エリートは、とくに強い独立志向があったわけではない。とにかくハイチの一部になりたくないために、かれらはスペインや米国による併合を望んだ。ところが当時ドミニカ共和国は人口が少なく、今の高成長からは想像できないかもしれないが、経済的にはみるべきところもなかったので、スペインは2年間だけ形式的に植民地にした後放り出し、そのあと反ハイチ派エリートに頼まれた米国も植民地にはしてくれなかった。ただし奴隷制を継続していた欧州や米国は、ハイチ革命の影響が自国に及ぶのを防ぐため、ドミニカ共和国のハイチからの独立を支援した。こうしてナショナリズム不在のまま、ハイチへの恐怖とレイシズムから、列強の支援を得て独立に至った。

このような私の報告に対して、ドミニカ共和国にもナショナリズムはあった、という意見があった。またドミニカ共和国の国民アイデンティティはアフリカ的な部分を否定しているとした私の見方に対して、ハイチ国立大学の教授から、ドミニカ共和国の1844年の最初の独立時(ハイチから独立した)のナショナリズムとムラート指導者の存在についての言及がない、とのご批判を受けた。ただし講演後に教授とお話ししたときには、基本的に私の見方を否定はしないとおっしゃった。ドミニカ共和国ではムラート(白人と黒人の混血)をムラートと呼ばず、「インディオ」と呼ぶ。この「インディオ」部族の創作は、コロンブス以前にアメリカ大陸に住んでいた人々(インディオという呼称は本来こちらの意味。先住民)とスペイン人しか承認していない、という意味で、確かにアフリカ的な部分を排除していると述べておられた。

ハイチでの調査でいつもお世話になった、アフリカのギニア共和国から来ているD博士に、今回もお目にかかった。今回彼は非常にフラストレーションをためている感じだった。前回までは、私が講演したキスケヤ大学で経営学を教えていたのだが、あまりに非効率な大学運営に嫌気がさしてやめてしまったという。各学年に履修が必要な講座を必要なだけ開講することができず、にもかかわらず学生からはしっかり学費を取る(キスケヤ大学は私立大学)。必要な講座が開講されないので、4年たっても必要な単位を全部取得できず(これは学生にはまったく責任がない)、結果、卒業に5年も6年もかかるそうだ。公務員の給料支払いが1年以上も遅延するハイチでは、国立大学ならいかにもありそうな話だが、ハイチのトップ大学である私立のキスケヤ大学にそのような問題があるとは驚きだった。

大学を辞めた博士は、経営学の知識を生かしてハイチで日用品や車の部品を輸入する貿易ビジネスを始めたそうである。しかし「ハイチは自分が住むようになって5年間、まったく改善しない。毎月か2カ月に1度はストライキがあり、経済が停止する。お互いに譲歩するというところがなく、自分たちの争いが国にどんな悪影響を与えるか、まったく配慮していない。アフリカ諸国にとって、ハイチは自分たちの独立のための象徴だった。でも今や、ルワンダは1994年の大虐殺があったにもかかわらず、高成長を遂げて非常に発展している。南アフリカも、社会的矛盾はあるが発展を続けている。ボツワナはもちろんだ。でもハイチはずっと変わらない。この調子だと100年後、アフリカのすべての国は、ハイチよりはるかに発展しているだろう」と断言された。

その後日本大使館で八田大使にその話をしたところ、「ハイチに長くかかわる人は、ハイチ疲れを起こす方が多いのですよ。ハイチはなかなかいい方向へ変わらないですから。ハイチに役立ちたいと思って来られる外国人は、自分が役に立った、と思いたいですから、無理もないことなのですが」とおっしゃった。ハイチに1週間以上滞在したことがない私には想像するしかないが、1994年にキューバに住み始めた時、とてもよかったキューバの第一印象が、最初の2週間で見事に崩れ去ったことを思い出す。一時的な訪問ではなくその地に腰を落ち着けると、キューバはまったく違う顔を見せ始め、恐ろしくストレスとフラストレーションを感じたものだった。おそらくハイチも住めば同じような、まったく違う顔を見せるのだろう。

ただ、たまたま今回、事前には予想できなかったほど、政府高官の汚職に抗議するデモが盛り上がりつつあり、ちょうど私がハイチを出る翌日の11月18日が、そのデモのスタートの日になっていた。ベネズエラが提唱し、ベネズエラ原油が原資となっているペトロカリベという中米・カリブ諸国支援プログラムがある。ハイチ政府はこのペトロカリベから20億ドルの低利の借款を受けたのだが、この20億ドルがすべて、政府高官たちの懐に入ってしまったらしい。私の講演の後にお昼をご一緒したハイチ国立大学のT教授によれば、同年7月のガソリン値上げデモよりもずっと国民の怒りが強く、どんな事態になるかわからないとのことで、デモの前日にハイチを出るのはいいことだとおっしゃった。(つづく)

写真:ペシオンヴィル市の中央広場

ペシオンヴィル市の中央広場(左側の木が植わっている場所がその一部)を囲む道路に掲げられた、クレオール語の横断幕。
「ペトロカリベのお金はどこへ行った?」と書かれ、11月18日の抗議行動への参加を呼び掛けている。(2018年11月16日、筆者撮影)
著者プロフィール

山岡加奈子(やまおかかなこ)。アジア経済研究所地域研究センターラテンアメリカ研究グループ長代理。修士(国際関係論)。専門は国際関係、比較政治、キューバ地域研究、カリブ研究。おもな著作に、『ハイチとドミニカ共和国――ひとつの島に共存するカリブ二国の発展と今』(共編著)アジア経済研究所(2018年)、『岐路に立つキューバ』(共編著)岩波書店(2012年)など。

書籍:アジ研選書

書籍:アジア経済研究所叢書

写真の出典
  • ペシオンヴィル市の中央広場 筆者撮影。