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スリランカ――内戦終結から1年

 

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049582

2010年6月

ポスター=民族衣装を着た子供たちが兵士をたたえている。

ポスター=民族衣装を着た子供たちが兵士をたたえている

2009年5月、スリランカで1983年より続いていた民族紛争が反政府勢力タミルイーラム解放のトラ(LTTE)の指導者プラバカラン死亡で終結した。その内戦終結から約1年が経過した。その間大統領選挙や国会議員選挙が実施され、国内政治の安定も確保された。また国内避難民(IDP)の帰還もすすみ、北部の開発も徐々に動き出している。スリランカは開発に向けて体制を整えたところである。

ここでは、内戦終結に至る経緯と終結直後のスリランカの課題について取り上げた。急展開をたどった大統領選挙、民族間の和解問題、国際社会との交渉については別稿で取り上げる。

最終戦争に至るまで

スリランカ政府とLTTEはこれまでに何度か停戦と交渉を繰り返した。しかしいずれも実を結ぶことはなく、双方の不信感を高めただけだった。最近では2002年にノルウェーの仲介の下、当時の首相ラニル・ウィクレマシンハとの間で停戦合意が締結され、交渉が展開された。日本も、明石康氏を代表に任命し、アメリカ、EU、ノルウェーとともに共同議長国としてスリランカ和平に関与してきた。交渉の途中でLTTEは従来要求していたイーラム国家の独立を放棄し、連邦制で妥協する態度を見せたが、その後態度を硬化させ、停戦合意違反を繰り返した。

2004年末にはインド洋津波がスリランカを襲った。LTTEが支配していた北部・東部も甚大な被害を受けた。復興にはLTTEの協力も欠かせなかったことから、当時の大統領チャンドリカ・バンダラナイケ・クマラトゥンガは、北・東部における復興事業を、公平性を保ちつつLTTEも含めて共同で実施するための提案を行ったが、最高裁判所の違憲判決で実現しなかった。

現大統領のマヒンダ・ラージャパクセが就任した2005年末からは、LTTEの停戦協定違反は深刻さを増していた。この頃の状態は、戦争状態でもないが平和でもない、「低強度の戦争状態」と表現されていた。国際社会からのプレッシャーもあり、政府としても何らかの方法でLTTEとの和平を模索していた時期であった。

イーラム戦争Ⅳ

写真:スリランカ軍60周年記念イベントで、戦地のジオラマを前に説明をする兵士

スリランカ軍60周年記念イベントで、戦地のジオラマを前に説明をする兵士

スリランカ政府側が低強度の戦争状態から決別したのは、LTTEの攻撃の強化に対応したものでもある。LTTEは、2006年4月にコロンボ中心部の陸軍病院に女性自爆テロを送り込み、陸軍トップのサラット・フォンセカ司令官殺害を試みた。7月にLTTEが東部バティカロア県北部で生活・農業用水に用いられるマウィルアル水路をせき止めたのを契機に、軍はLTTE殲滅に本格的に乗り出す。自爆テロによる負傷から回復したフォンセカが指揮を執った。大統領の弟で、軍を退職しアメリカに在住していたゴタバヤ・ラージャパクセも国防次官として参加した。陸軍だけでなく海軍、空軍、警察、民間警備隊なども総力を挙げている点がこれまでと異なる。今回の作戦では、陸軍の人的拡充、海軍における高速艇の強化、空軍の空爆実施など作戦面で強化されただけでない。大統領や国防次官らが作戦の実施を全面的にバックアップした。作戦の実施に際して、これまでは選挙などの政治日程やイベントの関連から政治家から横やりが入ることがままあったが、それを排除したことが現場の軍人らに評価されている。

2007年半ばまでは、LTTEは、シー・タイガー(LTTEの海上部隊)によるゴール港襲撃(2006年10月)、航空部隊によるカトナヤケ空軍基地を夜間空襲(2007年3月)など、南部に侵入し、重要インフラを攻撃するなど大胆な攻撃を仕掛け、LTTEの戦闘力を見せつけていた。2006年12月にはコロンボの中心部でゴタバヤ国防次官暗殺(未遂)を試みている。

しかし、2007年7月に軍が東部を制圧したのをきっかけに徐々にLTTEの弱体化が始まった。東部の制圧は、2004年3月にLTTEから分裂した東部司令官のカルナらの勢力が政府軍に協力して可能になった。そのほか北部のLTTE支配地域の基地・塹壕などを破壊し、和平交渉のキーマンの一人だったタミル・チェルヴァンも死亡するなど軍が優位に立ち始めた。

2008年1月、政府が停戦協定を正式に破棄した。国際社会は政府を非難したが、政府の作戦を本気で止めようとはしなかった。それだけLTTEによる停戦協定違反が深刻であり、国際的テロ組織としてのLTTEの脅威が明白だったからだろう。

  • イーラム戦争I:1983~87年(暗黒の7月~インド平和維持軍派兵)
  • イーラム戦争II:1990~95年(IPKF帰還以降~和平交渉)
  • イーラム戦争III:1995~2002年(交渉決裂~停戦協定)
  • イーラム戦争IV:2006~2009年(水門閉鎖~LTTE殲滅)
LTTE掃討まで

スリランカ北部地図

スリランカ北部地図(出所:defence.lk)

LTTEはこの地に塹壕と3メートルほどの高さの防御壁を築き、そこに地雷を埋め込み、タミル人民間人らを「人間の盾」にして立てこもった。その数は約20万人に達していた。彼らを巡って情勢が複雑化し、その後の復興にまで影響を及ぼしかねない事態に発展することになる。

彼らは、LTTEが北部において撤退するとともに数カ月にわたりLTTEとともに何十キロも移動してきたタミル人である。ほとんどは強制的に移動させられてきた人々、つまり国内避難民(IDP)である。しかしこの中には自主的にLTTEについて移動してきた民間人がいないとは言い切れない。タミル人の中にはLTTEに共感して、あるいはシンハラ中心の政府軍に恐怖を抱いてLTTEについて行った人々もいるだろう。これほどまでに大量の民間人を強制的に移動させながら戦闘するのはLTTEにとっても負担だったはずである。

苦労して連れてきたタミル人たちはLTTEの思惑通り「人間の盾」として最後までLTTEを守った。LTTEはこうした民間人を人間の盾に利用しただけでない。14才以上を兵士として徴兵していた。以前は家族から一人出せばそれ以上は免れていたが、戦争の末期にはそれも関係なく連れて行かれていたようだ。IDPの多くは食糧の不足する塹壕の中で弾丸とLTTEの徴兵に怯えながら過ごさざるを得なかった。LTTEはタミル人の唯一の代表、と主張し続けてきたが、LTTEは彼らを最後まで解放することはなかった。

軍は南北からLTTEを挟むようにして追い詰めていった。厳重な海上警備もしかれた。LTTEは徐々に後退し、4月20日から数日間、軍は大規模なIDP救出作戦を敢行し、15万人あまりを脱出させた。

2008年は、北部におけるLTTEの支配地が確実に小さくなっていった。8月には軍が西部沿岸のシー・タイガーの拠点を獲得し、海上におけるLTTEの行動範囲を狭め、武器輸送の道を絶った。11月には西部の最北端プーネリンを奪取した。そして2009年1月はじめにLTTEの行政上の首都として機能していたキリノッチを追われたLTTEはさらに後退し、東部沿岸部に追いやられていった。一月末にはシー・タイガーの拠点であったムライティブを失った。LTTEはしばらく踏みとどまっていたが、4月以降ムライティブの北に位置する海とラグーンに囲まれた南北に細長いわずか20数平方㎞の地域に囲い込まれた。2007年には1万5000平方㎞がLTTEの手中にあったことからするとまさに風前の灯火である。

強まる国際社会のプレッシャー

写真:スリランカ軍60周年記念イベントの入り口

スリランカ軍60周年記念イベントの入り口

国際社会からの介入が強まるのは、この脱出劇以降である。イギリス、フランスは外相をスリランカに派遣し、人道上の理由から停戦を要求した。しかしスリランカにはそれを真に受ける素地はなかった。なぜなら、LTTEを追い詰め、戦争終結が目前であることが誰の目にも明らかだったからだ。ほとんど手中に収めた獲物をみすみす手放すなどあり得ない。またスリランカには西欧諸国はタミルよりであるとの疑念があり、「LTTE、もしくはプラバカランを逃がすために停戦を要求している」と信じられていた。

そのような疑念を差し引いても、国際社会の行動には疑問点がいくつかある。なぜ多くのIDPが脱出してからの、保護の呼びかけなのか。IDPの状態を懸念しているのなら一月以降いつでもチャンスはあった。狭い地域に囲い込まれる前の方がIDP保護はより容易であったはずだ。

遅くても、4月にLTTEがムライティブの20数平方㎞の地峡に20万もの民間人を連れて立てこもったすぐの段階ならば理解できる。しかしイギリス・フランスの外相が訪れたのは、LTTEが人間の盾と陣地を大幅に失い、圧倒的な劣勢に陥ってからまるでLTTEを救出するかのようなタイミングで現れている。特にミリバンド英外相の「スリランカ軍は、民間人に対して無差別に発砲している」などと言う発言はスリランカの感情を逆撫でした。彼らは、帰国前に「LTTEを救出するための停戦ではなく、あくまでタミル人保護を目的としている」と主張したが、タミル人IDPの惨状をなんら改善することはできなかった。

5月になると、国連安保理で議題としてスリランカ問題を取り上げるかどうかが議論された。しかしこれは中国、ロシア、日本などの反対で実現しなかった。

国際社会のプレッシャーの中でも作戦は粛々と継続し、5月半ばには沿岸部を制圧し、5月18日にはプラバカランの死亡が確認され、IDPも解放され、翌19日には大統領が国会で勝利宣言を行った。

戦争が終結しても国際社会のスリランカに対するプレッシャーは続いた。5月には、ジュネーブで国連人権委員会(UNHRC)が開催され、スリランカが戦争犯罪に関わったとしてスリランカの現状について調査すべきだとする主張がなされた。しかし最終的には、スリランカの主張が賛成29、反対12、棄権6で認められた。賛成した国々の多くはアジア・アフリカ諸国であった。これらの国々は西欧諸国のダブルスタンダードに反対票を入れたといえよう。テロ撲滅を主張し実際に行動しているにもかかわらず、一方で人権を振りかざして小国のテロ撲滅を阻止しようとする矛盾への拒絶である。

ただ、スリランカ側が国際社会の訴えに対して全く誠実だったとは言い切れない。すでに3月の段階でアメリカの議員らおよびクリントン国務長官がスリランカ問題をとりあげた。このとき、彼らはIDPに対する発砲があることを根拠に政府に対して保護を求め、LTTEがIDPを人間の盾としている点について指摘した。同時期に国連人権委員長らもスリランカ政府に対して重大な懸念を表明し、戦争犯罪の可能性を指摘し、LTTEによる少年兵の徴兵を非難し、IDPの保護を求めている。

しかし、国内メディアは国際社会がLTTE批判をしている部分を小さく報道し、逆にスリランカ政府に対する要求部分を扇情的に報道することによって、国民に反発を抱かせた。確かにこれらの国際社会の主張がLTTEのニュースソースをそのまま用いている点に非がなかったとはいえないものの、公正さは欠いていた。さらにスリランカ政府は、戦闘地域や難民キャンプへの立ち入りを許可しなかった。戦闘地域に関しては、治安上の理由を挙げ、難民キャンプに関しては最善を尽くしていると言いつのった。LTTEよりの情報を流されないためにも立ち入りを禁止し、同時に外部からのプレッシャーをはねのけ、国民一丸となってLTTEを殲滅するという意識を高揚させるためにも、戦略上必要な選択だったかもしれない。

その後もスリランカに対する国際社会の介入は続いている。現在スリランカが欲しているのは、こうした監視ではなく復興のための支援であるが。

復興に向けて

勝利宣言でもある大統領演説は、一部がタミル語で行われ、タミル人へ直接呼びかけるなどタミル人への配慮を見せている。全ての人に受け入れられる、スリランカ由来の解決策を強調しており、ここでも国民の意識の高揚を利用している。戦争終結宣言前後のスリランカは国中がお祭りムードに満たされていた。喜びをかみしめているように見えた。しかし戦後のスリランカには解決すべき課題が山積している。

国内避難民のケア、帰還

まずはIDPの復興がまず問題となる。国内避難民は約30万人で、このうち20万人は4月末に一気に解放した人々である。バヴニヤ県の29カ所の施設に分散して政府の保護下にある。難民キャンプの写真を見る限り、テントが整然と並び、とりあえずの夜露はしのげる状態になっているが、やはりトイレやシャワーなどの施設、食事などが圧倒的に不足している模様だ。

LTTEからは解放されたIDPだが、彼らの苦悩はまだ続いている。スリランカ政府は、IDPの帰還を180日以内に行うとしている。その間に地雷を撤去して安全を確保するという趣旨である。しかし、IDPをキャンプに留めておくのは、LTTE要員のあぶり出しという目的もあるようだ。キャンプは鉄条網に覆われ、自由な出入りができない。政府は、60才以上に関してはキャンプを離れ、親戚などの元に戻ることを容認した。こうした場所で活動を希望する国際NGOも多いが、これに関してもスリランカ側の不信感が強い。津波支援の際に援助資金がNGOを経由して支出されたが、それが有効に使われなかったと信じられているためである。今回のケースでは国際NGOがLTTE支援グループと関連があるのではないかとの疑念もある。

地方への権限委譲

地方への権限の委譲が最大の焦点である。まず考えられることは、東部州で解放後まもなく選挙を行ったように、北部州でも選挙を行うことである。これだけなら憲法改正などを行わず、現行の制度の下で実施することができる。

州評議会議員や州政府の行政能力の質に問題がありそうだが、実施することはできそうだ。しかしこれは多くのタミル人にとって解決策とは見なされない。最も穏健なタミル政党でさえ、一歩踏み出した解決を望んでいる。

州評議会制度は、1980年代後半のインド・スリランカ合意とともに導入された。州評議会は民族問題解決のために導入されたにもかかわらず、治安上の理由および実質的にLTTE支配下にあったために、肝心の北・東部では選挙が行われてこなかった。北部・東部以外のいわゆる「南部」において州評議会制度が運用されてきたが、それが実質的な権限委譲になっていないという側面がある。州評議会の選挙でも州内のイシューはあまり議論されない。立候補者に重要なのは知名度である。

規定によれば、州もある程度は権限を行使することができるはずだが、予算不足等の制限がある。したがって予算や人員の不足などの制限を取り払うことにより地方への権限委譲はある程度可能であるように見える。問題は中央政府がどこまで本気で地方に権限委譲をする意思があるかである。

心配されるのは政治的な障害だ。現在野党の統一国民党(UNP)政権時にジャヤワルダナとラジーブ・ガンディーとの間に締結された合意なので、UNPのおおっぴらな反対はないだろうが、第三政党の人民解放戦線(JVP)はインドから押しつけられたものであると反対する可能性は高い。そして、人々の認知度にも問題がある。これほど政治的イシューになりながら、具体的な内容を把握している人々は非常に少ないらしい(Daily Mirror 5月30日付)。

経済復興

大統領は終結宣言で北部開発計画を発表し、それに民間セクターなどの参画を呼びかけた。多くの国内民間セクターが北部にビジネスチャンスを見いだしている。北部には資源もあり、人々も勤勉だと口を揃える。ただ、北部において移動の自由が確保されていない現状では、確実なことは何もいえない。

大統領はまた、海外に流出した人々への帰国を求めた。長く続く紛争に将来を悲観して国を離れた人々が数十万に達する。スリランカでは専門職の不足が自覚されている。海外からの援助によってインフラを建設するのはもちろん重要だが、このような人材の確保ができるかどうかも「スリランカ由来の解決策」による復興にとって鍵となろう。

期待の実現

写真:軍の60周年記念イベント。民衆には戦争が終わった開放感がみられる

軍の60周年記念イベント
民衆には戦争が終わった開放感がみられる

タミル人IDPをケアし、権限委譲や経済復興など高度に政治的な判断を下すとともに、普通の人々に、早急に戦争の終結を実感させる必要もある。

一般市民はこの十数年間テロの脅威にさらされてきた。もしかしたら爆弾が仕掛けられたかもしれないバスに乗って職場や学校に行かざるを得ず、列の隣に並んだ女性が自爆攻撃を仕掛けるかもしれない不安定な状況だった。もちろんそのような確率は必ずしも高くはない、しかし不安は蔓延していた。それこそがテロの狙いだった。人々は不安と共存せざるを得なかった。

今、多くのスリランカ人はテロとの戦いに勝利したことに誇りを持ち、国際社会と渡りあう政府に支持を表明している。政府に対する期待は大きい。

2002年の停戦の時も人々の期待は大きかった。しかし、当時の政府は具体的な果実を示すことに失敗した。それも停戦合意が失敗した背景として指摘できる。従って、スリランカ政府としては人々の期待を早急に形のあるものにしていかねばならない。

(本稿は、『アジ研ワールド・トレンド』No.167(2009.8)に掲載した「現地レポート『スリランカ――内戦終結』を一部修正し、転載したものである。)