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海外研究員レポート

「アカデミズムにおけるエイブルイズム(非障害者優先主義)」シンポジウムから

 

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049822

2017年10月

当地(米国・バークレー)に到着してから、これまでにいくつかのシンポジウム、また研究発表等に参加してきた。そのなかでもっとも障害学的に重要であると思われる以下の一日がかりのシンポジウムについて報告したい。

  • テーマ:Academic Ableism and Alternatives
  • 開催日時:9月30日(土) 10:00~17:00
  • 場所:Alumni House, Toll Room, University of California, Berkeley.
  • 主催:Disability Studies Research Cluster, HIFIS, Equity and Inclusion, Vice Chancellor, Graduate School of Education, College of Environmental Design, Department of Ethnic Studies, Department of Gender and Women's Studies, Department of Rhetoric, Department of Sociology
  • 登壇者:Margaret Price, Associate Professor of English, The Ohio State University; Wanda J. Blanchett, Distinguished Professor and Dean, Graduate School of Education, Rutgers; Stephanie Kerschbaum, Associate Professor of English, University of Delaware; Jay Dolmage, Associate Professor of English, University of Waterloo.

本シンポジウムは、Academic Ableism(Jay Dolmage, University of Michigan Press, 近刊)をきっかけとして開催されたものである。エイブルイズム(ableism)とは非障害者優先主義を意味する。障害学では、障害者が抱えている問題は障害者自身の個人的な機能不全によるものではなく、むしろ、社会環境がそうした機能不全に対応できない非障害者の基準を前提に作られていることが問題であるというスタンスをとる。つまり、障害問題は社会問題なのだという考え方である(したがって、経済発展段階、つまり社会環境の状況が障害にも大きく影響し、それは開発途上国の障害者の問題が開発問題でもあることを示している)。

上記の著書のなかでDolmageは、大学におけるエイブルイズムを批判して次のように述べている。「あまりにも長い間、障害は高等教育機関のアンチテーゼとして構築されてきており、気をそらすべき問題、あるいは浪費のもとであると見なし、つまり解決すべきなのに解決されていない状態が続いていた。高等教育における倫理によれば、学生や教師は能力差を明確にせず、皆完璧なように見せ、知的、精神的、あるいは身体面で脆弱だとほのめかされるようなものはなんであってもそれにスティグマを与えるよう奨励されていたし、そのことは、多様性や技術革新の有用性を重視するような一方で起きていた」。

こうした見せかけの姿勢を超えること、それが今回のシンポジウムが目指していたものである。カリフォルニア大学バークレー校の社会的貢献で重要なのは、同校が障害当事者のために、そして何よりも障害当事者たちが実質的に統治する形での「自立生活のためのセンター」を作ることを早期から支援していたということである。数十年にわたって、バークレーは「高等教育」と「障害」の双方で重要な役割を果たしてきた。しかし、今日、一連の機関的な決定や制度的な問題により、現状改革、アドヴォカシー、障害学の授業等は続いているものの、このレガシーが脅かされているという現状がある。このエイブリストのアカデミーに取って代わる新しいものを共に見つけようということで企画されたのがこのシンポジウムである。

かつてバークレーは、アメリカで始まった障害者自立生活運動の本拠地として、全米の障害者運動を引っ張る拠点であったことは関係者にはよく知られている。1970年代から始まったその運動は、1990年のアメリカ障害者法として結実し、それが世界の障害者法のモデルとなった。障害者を慈善や福祉の対象としてではなく、権利を持つ主体として描くという同法の精神は、ひいては、2006年の国連障害者権利条約の考え方の土台のひとつともなった。この米国の障害者運動のリーダーの多くがバークレー校で学んだ。そこで学生としてきちんと支援を受けながら自己決定し、卒業後も自主的に自らの生活を運営していくという自立生活を社会のなかで実現できる制度をつくりあげたのは、米国の障害者運動の大きな成果である。

今も学内の各所はバリアフリーのための諸設備が整っており、建物には必ず車椅子でアクセス可能な入り口があり、車椅子が利用できるエレベーターやトイレ、寮には車椅子で利用可能なシャワー・ルームなどが備え付けられている。火災報知器もすべてフラッシュライト付きであり、報知器の音が聞こえない聴覚に障害がある人でも非常時には警報が鳴っていることが分かるようになっている。個人の部屋についても光と振動で来客が来たのがノックの音が聞こえなくても分かるようなタイプのドアベルが寮でも研究室にも備え付けられている。のみならず、大学学内で開催される諸研究会、諸講演会・シンポジウムだけでなく、研究者同士のコミュニケーションのための懇親会にも事前に連絡をすれば(予算の制約によるセメスター単位での上限はあるが)手話通訳が付くようになっている。

写真:フラッシュライト付きの火災報知器

フラッシュライト付きの火災報知器(著者撮影)

写真:車椅子で利用できるトイレ

車椅子で利用できるトイレ(著者撮影)

そうした環境を率先して実現させてきたバークレー校で、なぜ"Academic Ableism"、つまり、アカデミック空間における非障害者優先主義についてのシンポジウムが開かれるに至ったのか、またなぜエイブルイズムという障害学の最大の問題提起がアカデミズムそのものを標的としているのか、興味を引かれることは数多い。

同シンポジウムは午前2本、午後2本の合計4つの報告で構成された。午前の最初の講演は、Margaret Price(The Ohio State University)による"Working in Intolerable (Space)Times: Mixed Methods Research on Academic Ableism"であった。これは、これまで主としてエイブルイズムの時空間について論じてきたPriceならではの内容である。具体的には、階段の有無、照明の状況、手話通訳・文字通訳の設置状況、人の混雑状況、空調など、自由に自分の行きたいところに行けるどうか、十分に情報を得られるかどうか、自分の身体状況と空間を調和させられるかどうかという、まさに障害を創り出す社会環境をひとつひとつ取り上げていこうという彼女のアプローチである。大学というアカデミズムの中心となる空間では、これらがある程度はいくつかの障害についてフレキシブルな対応を可能にしている一方、全く対応できていない部分もあるというちぐはぐな面や、障害ゆえに各人に必要とされる諸行動の際の時間のありようが違ってくる問題などについて論じた。

二つ目の報告は、Wanda J. Blanchett(Rutgers)による"Moving Beyond the Gesture of Inclusion: What It Will Take to Enhance & Embrace Diversity on Our University Campuses"という諸統計を用いて教育学の立場からの障害以外(特に民族出自)の多様性の状況と障害の状況とを比較した報告であった。有色人種系の生徒の受け入れがあらゆる学年で進んでいるのにもかかわらず、教師の側の多様性については白人と女性に偏った状況が続いており、米国の教育システムは、これらの多様な生徒たちに学校教育での受け入れはしても、さらにその後、勉学を続けさせるための努力が欠如しているという指摘である。さらに、この状況は実は一般教育だけではなく、日本でいう特別支援教育、つまり障害児教育でも同様の状況が観察されているという指摘がされていた。たとえば、一般の小学校と高校に在籍する障害児の民族出自は政府統計(the 36th Annual Report to Congress on the Implementation of IDEA, 2014)によれば、64.5%(白人)、63.3%(2つ以上の出自)、62.6%(ネィティブ・アメリカンあるいはアラスカ系)、60.1%(ヒスパニック/ラティーノ)、56.6%(アジア系)、55.6%(アフリカン・アメリカン)、53.9%(ネィティブ・ハワイアンあるいはその他太平洋系)となっているという。この数字をどのように解釈するかは、また議論のあるところであるが、この講演者は有色人種系と白人との間に10%ポイント以上の差があることを問題としていたようである。そしてそうした状況が大学における学生の人種状況(ヒスパニック系は1976-2014年の間に4%から17%に増加、アジア系・太平洋系が同2%から7%に増加、アフリカン・アメリカン系は10%から14%に増加、ネィティブ・アメリカン及びアラスカ系が0.7%から0.8%に増加したのに対し、白人は84%から58%に減少)の変化が障害学生についても同様に起きているかというと、実はそうなっていないというのが報告者の主張である(ただし、障害学生と出自とをクロスさせた数字の報告はなかった)。

午後の最初の報告は、今回、登壇した人たちのなかで唯一の身体障害当事者(ろう)であるStephanie Kerschbaum(University of Delaware)による"Stories of Academic Ableism: Teaching While Disabled"であった。障害当事者の教員としての自らの経験のみでなく、他の障害当事者の教員へのインタビューを言語社会学の手法であるCommunication Analysisを用いて分析した結果に基づく報告である。大学の諸設備や環境のなかで障害当事者教員が仕事をしていく際には、モデルとなる先駆者がいない場合も多く自ら解決策も手段も考え出していかないとならない。それらの設備がある環境と自分の障害との間の折り合いは、障害当事者教員にとって常に新たなチャレンジであることを彼女は分析から示している。興味深い事例として紹介されているのは、2013年に全米で33人の障害当事者大学教員に対して行ったインタビューのなかで、ある盲の教員の次のような事例である。

この教員はノートパソコンを使いこなしていたが、教室に設置されているコンピュータにそのノートパソコンがうまくつながらない事態が起き、そのため彼女は教室で学生の手助けを得ないとならなくなり、気まずい思いをしたのだそうである。よくあることなのかもしれないが、これを障害学でいう障害という観点からKerschbaumは改めて見直しており、この状況を"Institutional Ableism"と名付けている。

冒頭にも述べた、障害者を学生として大学のなかに包摂していくという第一期ともいえる時期を過ぎて、次のステップである障害当事者教員という今回のシンポの問題について考えるとき、こうした事件について、非障害教員にもよくあることだというような矮小化によって問題を見えなくするのは良い戦略とはいえない。この盲の教員の「不能」が顕示化されてしまったことの原因は、機器が彼女自身のちょっとした調整で対処できるようなものになっていなかった(非障害者の教員であればそのように対処したであろう)ことにある。このことを、制度的なエイブルイズムとして取り上げているのである。

大学内の移動が盲や肢体不自由の教員にとってスムーズでないという状況も基本的には同じことである。そしてそれを理由に大学側がこうした教員の採用を拒否したり、難色を示したりするということは、日本の大学でもあちこちで起きているのではないだろうか。それが大学で、障害当事者の教員が全体人口のなかにおける障害者比率を考えても(世界銀行や世界保健機関の10-15%という比率を思い起こす必要がある)あまりに少なすぎる実情、障害をきちんと大学教育のなかで教えられていない問題がこうして浮かび上がってくる。ジェンダーや出自による差の問題に敏感であるアメリカならではの観点であるといえるだろう。

最後のパネラーは、冒頭にも述べたように今回のシンポのきっかけとなった"Academic Ableism"の本を著したJay Dolmage(University of Waterloo)による"Ableist Apologies and Affects"であった。彼は、大学が行うべき教育のなかには「身体や心についての私たちの知識が持つ制約を取り除いたり、減じたりするような」教育が含まれるべきだと論じている。つまり、社会をより障害包摂的にするための教育をもっと大学は担うべきだということである。そして彼は、エイブリストであった大学がどのように対処すべきかについて、たとえば、建物が古いのでどうしようもないといういいわけではなく、その建物は作られた時にはエイブリストの建築として作られていたのだということをもっと意識すべきだということを言っている。確かにいかに優れた建築家であっても障害者の利用を想定して設計できていたか、否かによっては、できてくるものは全く違ってくるのだから当然である。また性差別主義(つい最近もハリウッドにおける性的ハラスメント問題の提起で著名なプロデューサーがハリウッドを追われたことがニュースとなったばかりである)などへの批判と同じような批判が障害の問題についても成り立つことや、障害を例外的な問題として処理しがちであるエイブリストの考え方の問題点などが"Exceptionalism" (例外主義)として厳しく批判された。社会学で以前からいわれているアイデンティティ・ポリティクスの最後の砦とされている障害問題について、Dolmageは、ADA(米国の障害者差別禁止法)があるからよいということではなく、それでもまだ埋められずに米国に存在する障害者への差別、また障害者をアクセスさせにくくさせている社会のなかの障壁について、大学の改革を進めることでそれを変えていく必要があるという著書での主張を最後にまとめとして述べていた。

以上が一日がかりで行われた同シンポジウムの内容であるが、聴衆もUCLAなどの州内の著名校はもとより、州外からも多くが集まって、活発な質疑も行われていた。アメリカの障害学の最先端のところで行われている議論のごく一部をこうして間近に見ることができたが、日本人の感覚、特に非障害者の人たちにはまだついて行けない部分もあるかもしれない。しかし、彼らがそうやって障害の問題について、取り組んできて、成果を上げてきているのは事実なのであり、私たちはそこからどう学び、どのような形で日本や世界(特に途上国)の状況の改善について何か提言ができるのか、今後の任期の間も問い続けて行きたい。

著者プロフィール

森壮也(もりそうや)。アジア経済研究所海外調査員。カリフォルニア大学バークレー校客員研究員。開発経済学、手話言語学、障害学、「障害と開発」研究。主な著作に、『アフリカの「障害と開発」』(編著)アジア経済研究所(2016年)、Poverty Reduction of the Disabled Livelihood of persons with disabilities in the Philippines(共編著)Routledge(2014年)、『開発経済学の挑戦IV 障害と開発の実証分析-社会モデルの観点から』(共著)勁草書房(第17回国際開発大来賞受賞作,2013年)など。

書籍:Poverty Reduction of the Disabled

書籍:障害と開発の実証分析