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海外研究員レポート

『マグロ戦争』:馬英九政権の対フィリピン砲艦外交

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2013年7月

5月9日、台湾のマグロ漁船「広大興28号」がフィリピンの漁業監視船による銃撃を受け、広大興28号の船長が死亡した。台湾政府は窓口機関を通じた抗議だけでなく、同16日には海岸巡防署(沿岸警備隊)や海空軍まで動員してフィリピン側に謝罪と今後の漁業協定の締結を迫った。フィリピン側は謝罪と司法捜査、台湾との漁業交渉に同意したが、台湾側はその後も海岸巡防署と海・空軍による「漁船の護衛」を常態化し、本来ならフィリピン排他的経済水域での台湾漁船が取締を受けずに操業する状況が続いている。

これまでも、フィリピン側の台湾漁船に対する銃撃や台湾人船員が死亡する事件は、幾度も起きていた。台湾政府はそれでもフィリピン側に強硬な態度に出ることはなかった。しかし、馬英九政権は今回、初めてフィリピンを仮想敵とみなす大規模な軍事演習に踏み切った。台湾の世論は台湾人船長の死亡に憤っており、軍の動員に賛同する声が大きい。

比側の軍事力は脆弱であるため、双方の沿岸警備隊・軍による衝突は起きていない。とはいえ、ヨーロッパでは1970年代初頭、海軍力の貧弱なアイスランドが自国近海のタラ資源を守るため、あえて強大なイギリス海軍に挑み、事実上勝利した「タラ戦争」の事例もある。「タラ戦争」といっても、本当の戦闘状態には陥っていない。あくまで双方の艦艇が互いの漁船を護衛するため対峙した事件である。今回の事件では「タラ」戦争におけるイギリスと同様、台湾は相手国の海域に多数の軍艦や航空機を派遣した。ただ、フィリピンは非武装の漁船を銃撃しただけに終わり、台湾軍から逃げた。「マグロ戦争」はフィリピンの不戦敗であった。むしろ、アイスランド並みの闘争心を見せたのは台湾である。日中という大国の対立に敢えて身を投じることで、日本から尖閣諸島沖のマグロ資源をもぎ取ることに成功した。

馬英九政権は「東シナ海平和イニシアティブ」を唱え、今回の事件でもアメリカなど国際社会に対して、フィリピン公船による台湾人船長の殺害という人道的な問題を強調した。しかし、演習で圧倒的な海・空軍力を見せつけ、フィリピンに譲歩を迫ったことは紛れも無い砲艦外交である。本稿では、主に台湾側での報道を資料に用いつつ、今回の事件の背景と意義について考える。

事件の経緯

「広大興28号」は台湾とフィリピンの間にあるバーシー海峡で操業していた。台湾とフィリピンの領海基線の間は200海里に満たず、双方が主張する排他的経済水域(EEZ)は重なる部分が多いが、EEZの確定や漁船の操業に関する取り決めはない。とはいえ、「広大興28号」はフィリピン領海に侵入していなかったが、同国領海に近く、また台湾側の「漁船護衛」の南限を超えていた1。最も順当なEEZの確定方法である双方の領海基線から等距離で線引するならば、「広大興28号」はフィリピン側に入っていたことは否めない。つまり、フィリピン側にとっては違法操業であった。

本来、違法操業であるなら、フィリピン側は拿捕すればよいはずである。だが、「広大興28号」が遭遇したフィリピン漁業水産資源局所属の漁業監視船(艦艇番号:MCS-3001)は警告なしにM2重機関銃や歩兵用のM-16マシンガンで銃撃を行った。後に台湾に寄港した「広大興28号」の船体を確認しただけでも40数発の弾痕が確認されている。後に、フィリピン漁業監視船の乗組員が笑いながら銃撃していたとの報道もなされた。これが事実なら、フィリピンの漁業監視員や沿岸警備隊の人員の質がそもそも低いことになる。

フィリピン政府は当初、「広大興28号」が漁業監視船に体当りしたうえ、逃走を図ったため、やむなく発砲したと発表した。フィリピンのアントニオ・バジリオ駐台湾代表は事件について謝罪したものの、本国政府はこの事件を「事故」と定義し、謝罪を拒んだ。

台湾側はフィリピン側の主張を全く信じなかった。10日には早くも、馬英九総統が10日の時点でフィリピン側の行為を「国際法違反、かつ非文明的」と強く非難した。ただ、この時点ではまだ馬英九総統は「漁船の護衛は海巡署の業務であり、海軍を出動させることはない」とも述べていた。同日、江宜樺行政院長も外交部長、海岸巡防署長、農業委員会(漁業も管轄)および大陸委員会の主任委員など関係閣僚を緊急招集し、対応を協議した。また、報道関係者に対して、フィリピン側の行為を「殺人」と断言する法務部や海巡署の高官もいた。

そして、11日には馬英九総統が国家安全会議ハイレベル会議を招集し、フィリピン政府に対して12日午前0時より72時間以内に(1)正式な謝罪、(2)損害賠償、(3)真相究明と犯人の処罰、(4)漁業協定の交渉開始を求め、フィリピン側が応じない場合は(1)台湾で就労する(予定の)フィリピン人に対するビザ発給の停止、(2)台湾側の駐フィリピン代表の召喚、(3)フィリピン側の駐台湾代表に対して本国との協議のため帰国させるなどの対抗措置をとることを決定した。12日に、馬英九総統は林永楽外交部長や王進旺海巡署長、熊光華総統府副秘書長ら閣僚・要人とともに、死亡した「広大興28号」の遺族を訪問し、「フィリピン側に厳しく臨む」と述べるとともに、海巡署所属の巡視艇だけでなく、海軍の康定級フリゲートを漁船の護衛のためバーシー海峡に派遣したことを明らかにした。馬英九は軍の派遣を否定した2日前の発言を覆したのである。

ところが、フィリピンのアキノ3世大統領は13日、今回の事件について、「一つの中国」原則にのとって処理すると発言した。直接には双方の窓口機関を通じた交渉を指す発言であったが、台湾の林永楽外交部長はこの発言に強く反発し、「フィリピンが(台湾にではなく)中国に謝罪することは許さない」と述べた。後述するように、フィリピンは2011年に同国に潜伏していた国際詐欺集団を摘発後、その中の台湾人容疑者を中国に送還した経緯があったためと思われる。アキノ3世大統領の発言と同日、台湾国防部・軍高官は立法院(議会)での答弁などにおいて、海軍の基隆級駆逐艦や成功級フリゲート、空軍のE-2空中警戒機や戦F-16闘機など軍事演習を16日に行うことを明らかにした。

フィリピン側は15日に窓口機関のアマデオ・ペレツ理事長を特使として台湾に派遣し、謝罪や漁業交渉の用意があることを伝えた。しかし、依然として事件を「故意ではない、過失だ」とし、被害者や遺族への支払いも賠償金でなく慰問金としたため、林永楽外交部長は面会を拒否した。即日、馬英九総統は国家安全会議ハイレベル会議を再招集し、8項目に渡る対フィリピン制裁第2弾を発表した。軍事演習の予定は既に明らかにされていたが、このなかに含められている。

  1. 渡航情報においてフィリピンに「レッド・シグナル」を発令(渡航自粛勧告に相当)
  2. 双方のハイレベル交流の中止
  3. フィリピンに関連する経済交流やイベントの中止
  4. 農業協力の中止
  5. 科学技術関連の交流やプロジェクトを中止
  6. 航空協定改定交渉の中止
  7. フィリピン人向けビザのネット申請手続きの中止
  8. 海巡署、軍による合同演習

だが、フィリピン側は台湾側が期待するほど直ぐに折れなかった。台湾は16日に外交部、法務部、海巡署、(内政部警政署)刑事警察局、農業委員会漁業署などの高官、職員からなる調査団を送り込んだ。しかし、フィリピン側の協力が得られず、18日には帰国した。フィリピン側は20日(正式な合意は26日)になって、ようやく双方が別々に調査を行い、互いにそれに協力することで大筋合意ができた2。合同捜査では、双方の見解が対立することから、別々に進めることになった。だが、21日にはフィリピンのペレス駐台湾代表が「一つの中国」原則を理由に「アキノ3世大統領による謝罪は出来ない」と発言し、翌日には馬英九総統がフィリピン側に「政府として謝罪するべきである」と応酬した。その後、フィリピン側の調査やメディアの報道でも台湾側に言い分が真実を反映しているとの情報が流れた。6月11日に台湾法務部が明らかにしたところによれば、フィリピンの国家調査局は漁業監視船の発砲に加担した漁業監視員や沿岸警備隊員の起訴を提言したとされる。ただし、本稿執筆時点において、フィリピン政府は最終的な調査結果と謝罪を未だ行っていない。

それでも、台湾側はこの事件において、一定の「戦果」を得ている。台湾は16日の軍事演習後も、漁船の護衛を継続しており、当面は止める気配がない。フィリピン側も台湾の艦船を恐れたのか、領海外には現れていない。そのため、台湾漁船は本来なら同国のEEZであるはずの海域における漁を事実上無制限に、かつ安全に操業しているのである。むしろ、台湾の漁民の間には、巡視船や軍による護衛の恒常化を望む声すらある。

馬英九政権による軍出動とその背景

16日の軍事演習は軍事大国たる中国を仮想的として整備された台湾の海・空軍力を総動員したものであった。先に派遣された康定級はステルス性を考慮した先駆けとも言えるフランスのラファイエット級フリゲートの派生型である。基隆級駆逐艦や成功級フリゲートはそれぞれ、アメリカ海軍のキッド級、ペリー級を譲り受けたものである。これらはターター・システムと呼ばれる高度な防空能力を持ち、特にキッド級はイージス艦の登場まで、米海軍で空母護衛を任についていた原子力巡洋艦とほぼ同じ装備をもつ通常動力艦である。また、空軍については直前にF-16戦闘機の墜落事故が起きたため、フランス製のミラージュ2000および台湾が独自開発したIDF戦闘機が数機、演習に参加した。これら戦闘機はフィリピン側の動向をうかがうため、派遣されたE-2早期警戒機の護衛とされた。

一方、フィリピン海軍には米沿岸警備隊から譲り受けた大型巡視艇があるものの、未だ艤装は施されておらず、戦闘艦は皆無である。また、航空機についても、フィリピン側はプロペラの軽攻撃機があるにすぎない。ジェット戦闘機はF-5戦闘機を2000年代半ばに廃棄した後、配備されていない。最近、ようやく韓国製のT-50ジェット軽攻撃機の導入が決まったが、配備は未だである。当然、早期警戒機も保有していない。この程度であれば、台湾側は巡視艇だけを派遣するか、海巡署に外洋上空を飛行できる航空機がないことを懸念するとしても、E-2を足すだけでよかったはずである。あるいは、ラファイエット/康定級やキッド/基隆級などのような高度な防空能力を持つ軍艦を派遣するなら、空軍は不要なはずである。今回の台湾軍による演習は明らかに、過剰であったように思える。

(1)「一つの中国」原則をめぐる馬英九政権とフィリピンの対立

台湾がこのような軍事演習を行った第一の理由は、その軍事力を見せつけるせつけることで、フィリピン側に譲歩を促すという砲艦外交を行うためである。今回の事件をきっかけに、フィリピンとの漁業協定にまでこぎつければ、日本との漁業協定に続く外交得点になる。馬英九政権は支持率が低迷しており、せめて外交外政策で得点を稼ぎたいという思惑がある。台湾国内の政治家や世論にアピールしようと考えたように思われる。

しかし、フィリピンとは事件についての認識の隔たりが大きいうえ、「一つの中国」原則を口実に交渉をはぐらかされる恐れがあった。馬英九政権は中国との関係改善を進めるため「92年コンセンサス」を確認し、さらに中国との関係を「国と国の関係ではない特殊な関係」と強調し始めている。馬英九政権としては、現行の中華民国憲法及び追加修正条文に基づく見解であり、「一つの中国」とは「中華民国」のことであると説明している。しかし、馬英九政権はフィリピンのアキノ3世政権がいう「一つの中国」は「中華人民共和国」であり、同国がこの言葉を出す事は台湾よりも中国との関係を優先することを示唆すると受け止め、フィリピンが台湾政府を無視して中国側に謝罪すると懸念したのである。

これは、2011年2月にフィリピンが同国で逮捕された台湾人詐欺事件容疑者を中国へ強制送還するという前例があるためである。この時は、事前に台湾側が中止を要望したが、フィリピン側が聞き入れず、中国への送還を強行した。このため、馬英九政権は経済制裁のみ発動したものの、ラモス大統領が書簡で謝罪するまで1カ月以上を要した。さらに、台湾人容疑者を中国側から取り戻すのに5カ月を要した。この間、馬英九政権は自らが掲げる「一つの中国」原則が国際社会では通用しないという批判を野党から浴びた。

今回の事件でフィリピン側が「一つの中国」原則を理由に、台湾政府を無視した行動に出れば、馬英九政権の掲げる中華民国本位の「一つの中国」原則に対する野党の攻撃も強まる。そうなれば、国との間で予定しているサービス貿易協定の締結や代表処(代表部)の相互設置や間近な予定として組まれており、年内の妥結を目指して交渉中の物品貿易協定にも影響が出る可能性がある。いずれも政治的な是非について議論を呼ぶ議題であるとともに、サービスおよび物品貿易協定は台湾と中国の間におけるFTAを実現するものであり、国内経済への打撃も懸念が大きい。その前段階(早期実施)であるECFAの時も、野党は激しく抵抗し、立法院(議会)での審議は長丁場を強いられた。すでに世論の支持が極点に低迷している馬英九政権とって、これ以上批判の材料を野党に与えることは避けたかった。

こうした事態を避けるため、馬英九政権はフィリピン側の譲歩を早期に引き出すには、経済制裁だけでは不十分であると考えていた可能性が高い。また、仮に制裁や交渉が奏功しない場合でも、馬英九政権が積極に取り組んだとの印象を国内世論に植え付ける必要がある。こうした事情が馬英九政権を軍隊の派遣に踏み切らせた要因の一つだと思われる。

(2)軍事力の行使を批判しない世論、野党

また、第二の理由として、台湾の世論は日本の世論に比べて軍事力の行使への批判が弱く、むしろ肯定的に捉える声もあることが指摘できる。ニュース専門TV局であるTVBSによる世論調査では、「賛成」(51%)が「賛成しない」(38%)を上回っている。むしろ、馬英九政権が比側に対して軟弱であるとの見方が多い3。後者は外交上の交渉や経済制裁も含めた評価であるとしても、軍事力による威嚇への批判は小さいのである。

野党民進党も軍の派遣に対する批判をしていない。むしろ、5月17日には呉敦義副総統が7年前の「満春億号」事件における陳水扁政権の不十分な対応が今回の事件につながったと批判し、野党である民進党が現政権側からの批判を受ける場面もあった。蘇貞昌民進党主席は呉敦義副総統の批判に対して反論を避け、「我が党は今回の事件について政府を後押ししている。内輪もめをするべきではない」と述べた。つまり、軍の派遣を事実上、評価したのである。

「満春億号」事件では今回の「広大興28号」事件と全く同じで、2006年1月15日に台湾漁船「満春億号」が警告なしにフィリピン公船の銃撃を受け、やはり台湾人船長が死亡した。異なるのは「広大興28号」がフィリピン側に拿捕されなかったのに対し、「満春億号」がフィリピン公船に一時補足された点である。台湾人船員の証言によれば、フィリピン公船の乗組員は当初、口封じのために漁船乗組員を海に投げ込もうとしたが、自らも足を重傷を負った船長の弟が命乞いをし、解放されたという4。その後、18日にアントニオ・バジリオ駐台湾代表(現在も在職)が「遺憾の意」を表明し、フィリピン側で捜査、犯人の処罰を行うと約束し、台湾側とも捜査資料の交換などの協力を行うことで、外交上の早期決着とした5

この捜査協力のやり方は、今回の「広大興28号」事件の捜査でも参考とされた。しかし、殺人罪に類する処罰とフィリピン政府による公式謝罪を求める馬英九政権と比較すると、陳水扁政権の対応が控えめであったことは否めない。なお、蘇貞昌民進党主席は、この直後の1月25日に行政院長に就任している。いずれにせよ、安易な政権批判は自らに跳ね返ってくるリスクが存在するため、民進党にとっても今回の事件への対応は難しい問題である。少なくとも、民進党に馬英九政権に対するブレーキの役目を期待するのは限界がある。

(3)黒マグロ漁の不振と狭い台湾のEEZ

さらに、第三の理由として、台湾における近年の黒マグロ漁の不調がある。黒マグロは太平洋の回遊魚であり、本マグロとも呼ばれ、経済的な価値が高い。しかし、資源保護の観点から、近年は漁獲規制が厳しくなっている。特に2010年以降は、太平洋の相当部分をEEZとして抑えているナウル漁業協議参加国が結束し、そのEEZに入漁する国々の漁船に対して太平洋公海での巻網漁を行わない事を条件づけた。これが台湾の黒マグロ漁業に壊滅的な打撃を与え、2000年で1万匹、その後も数千匹で推移していた漁獲高が、2010年以降は従来の数分の一に、日台漁業取り決めがなければ、2013年には200匹程度に落ち込むと予想されていた6

その原因は2つある。一つは、台湾のEEZが小さいため、太平洋の公海上での漁への制限が大きく響いたことである。台湾は四方を海に囲まれているが、東と北を日本、西を中国、南をフィリピンに阻まれている。そのため、台湾が実際に享受するEEZは意外に小さい。また、台湾のEEZの範囲を確定することも難しい。台湾政府はそのEEZを約17万平方キロ7としているが、これは尖閣諸島の領有を主張する立場からのものである。実際のところ、台湾のEEZは10万平方キロを下回る。なお、南シナ海の太平島周辺については、EEZを設定していない。

もう一つは、台湾漁船が台湾近海で乱獲を繰り返したことである。特に台湾近海でも交尾、産卵する黒マグロのグループがいたが、脂ののりや味が良く、商品価値が高いため、台湾の漁業はその捕獲を自粛しなかった。その結果、台湾近海を回遊する黒マグロのグループだけが激減したとの見方がある8。国際的な漁業規制に原因を求めるだけでなく、むしろ台湾自身が近海での漁業規制を怠った結果という側面のほうが大きいのかもしれない。

なお、日台漁業取り決めで漁が可能になった尖閣諸島沖に向かうのは、宜蘭県の蘇澳など北部に拠点を置く漁船が中心である。バーシー海峡に向かうのは、屏東県の東港など南部に拠点を置く漁船である。今回の事件にあった「広大興28号」も東港沖に浮かぶ小琉球の漁船であった。

砲艦外交を行う意味と国際社会の反応

筆者は昨年、南シナ海と尖閣諸島をめぐる対応から馬英九政権のアプローチは日本でいう平和主義と異なることを指摘した9。今回の事件で見せた馬英九政権の砲艦外交は、南シナ海の島嶼や尖閣諸島のケースよりも更に軍事色の濃いものであった。結果的にフィリピン側が軍事行動を自粛したため、偶発的な衝突は起こらなかった。しかし、台湾とフィリピンの中間線を大きく超えて、領海間際にまで軍艦を派遣する行為は、中国海軍による尖閣諸島沖など我が国の領海接続海域での挑発と類似するものである。馬英九政権、国民党やこれらに近い台湾の学者は、陳水扁政権による台湾独立志向の外交を各国との摩擦を起こす「火つけ外交」と評価することが多い。しかし、陳水扁政権は軍事力を背景とした外交を厳に謹んでおり、この評価は当たらない。2007年の「満春億号」事件でも、台湾人船長がフィリピン側公船の銃撃で死亡した。陳水扁政権は武力による威嚇を一切用いず、窓口機関を通じた交渉でのみ解決をはかり、フィリピン側での司法的解決に委ねた。日本の平和主義に近いのは陳水扁政権であり、馬英九政権ではない。

一方、成果から評価するならば、馬英九政権の方が外交上手というべきかもしれない。フィリピン側は原則、台湾との漁業交渉の開始に同意した。この交渉が妥結にまで至るのかは今後の観察を要する。また事件の司法的解決についても、調査報告書の公表も未だである、とはいえ、陳水扁政権時代と比べ、フィリピン側の事情が込み入っている事を考えると、漁業交渉開始の合意は一定の評価を受けるべきだろう。2010年に香港人観光客がマニラでバスジャックに遭い、人質となった15名のうち8名が死亡した事件のため、フィリピンは中国側に配慮せざるを得ず、中国よりの「一つの中国」原則に傾きやすい。その一方で、フィリピン側は2010年のバスジャック事件でも、謝罪のあり方をめぐって香港側と激しくやり合い、金銭の支払いについても賠償ではなく、慰問金などの名目を通した。そうした点を考えると、今回の事件においてフィリピン側が迅速な謝罪などに応じなかったのは、馬英九政権の不手際とは必ずしも言えない。むしろ、馬英九政権はフィリピン側から自発的に謝罪に応じる可能性に見切りをつけ、数日で軍事力の誇示に踏み切った。これは迅速な決断だったといえる。

では、馬英九政権による砲艦外交は、国際社会においてどのような反応を得たのだろうか。台湾側が最も関心を持ったのが、アメリカの反応である。フィリピンはアメリカの同盟国であり、仮にフィリピンに対する脅威とみなされれば、アメリカが外交、軍事的に介入する可能性もある。しかし、馬英九政権はフィリピン側による台湾人船長の殺害に対する対抗措置であることを強調し、エド・ロイス下院外交委員長など複数の米議員から支持表明を得た。一方、米国務省は台湾とフィリピンの間で問題解決に取り組むよう促すのみで、事実上、傍観の立場を取った。台湾側の圧倒的な軍事力と演習の性格を考えれば、アメリカが介入を事実上否定したと見なすことが出来る。これは、軍事と同様、対中関係への備えとしてアメリカの支持獲得の努力が、フィリピンとの外交戦でも成功を収めたといえるのかもしれない。

一方、ASEAN諸国にとっては、台湾の軍事的脅威が顕在化したと捉える可能性がある。馬英九総統は2012年国慶節(10月10日)の演説で、自らが唱えた「東シナ海平和イニシアティブ」について南シナ海も対象にできると主張した10。「広大興28号」事件後も同様の発言を繰り返し、またその具体策として日台漁業取り決めと同様の取り決めを結ぶべきだとも主張している11。日台漁業取り決めは日本側が台湾漁船による操業を受け入れたものであり、フィリピンとの関係でそれを再提起するならば、当然相手の一方的な譲歩を求めることを示唆する。その一方で、馬英九総統は平和のために自らが譲歩を行う用意があるかどうか言及していない。

そもそも、日台漁業取り決めについても、尖閣諸島の地元である沖縄の漁業関係者の反発が少なくない。日本の安全保障を確保するうえで、馬英九政権が中国と結びつくことを防止する必要性は大きい。しかし、馬英九総統を含め、台湾の政府関係者や識者には沖縄が背負う負担に無頓着な発言が多いことは憂慮すべきではないだろうか。フィリピンも日本や台湾と同様、海に囲まれた国である。この3カ国はインドネシアやスペイン、メキシコなどともに、世界のマグロ漁獲量トップ6を構成してきた 12 。つまり、台湾が一方的な譲歩を迫れば、フィリピンの漁民が負担を負うことになる。

本来なら、フィリピンの沿岸警備隊や漁業監視船は、台湾が巡視艇や軍艦を派遣してもあえて出航し、台湾の漁船が無制限に操業しないよう牽制するべきであった。「タラ戦争」でアイスランドが勝利したように、軍事力の劣る国にも活路はあるはずである。しかし、今回、フィリピンの公船は台湾を迎え撃とうとしなかった。台湾側の報道から解釈すれば、フィリピンの漁業監視員や沿岸警備隊は腐敗しており、台湾漁船を拿捕するのも公的な罰金を課すのではなく、プライベートな収入として身代金を請求するためであるという。台湾漁船が拿捕のリスクを犯してまで、フィリピン側での密漁に勤しむのも、フィリピン側にこうした隙があるためである。

むしろ、台湾の海巡署の方が、より規模の大きな巡視船を持つ日本の領海に侵入し、また中国の公船との三つ巴戦も辞さないという闘争心を発揮した。また、政治的にも、他国と漁業協定を結ぶことが、台湾の国際的な地位の事実上の向上にも繋がる。逆にフィリピン側が交渉に応じなければ、台湾は国際社会から阻害された事になるという危機感もある。こうした事情が狭いEEZと相まって、馬英九政権を「タラ戦争」ならぬ「マグロ戦争」に駆り立てたのである。

しかし、馬英九政権は中国ほど好戦的というわけでない。むしろ、「平和」や「人道」のスローガンと軍事力の行使を使い分けている。日本が尖閣諸島に対する中国の挑発行為に乗じて、台湾も漁船の護衛と称して巡視船を派遣し、2013年1月に二度目の日本領海侵犯を行った。馬英九政権はアメリカから圧力を受けたとも言われるが、あえて巡視船の派遣を日米に事前に通告した。また、台湾巡視船が中国公船に対しても「中華民国の領海であり、退去を求める」とのメッセージを示した。そうすることで、台湾と中国の連携ではないという言い訳を日米に示しつつ、日本から漁業協定締結および尖閣諸島沖EEZの開放という譲歩をもぎ取った。

今回の事件でも馬英九政権は同じシナリオを描いている。日本の場合と違うのは、台湾自らが軍艦で威嚇したことである。それでも、「南シナ海行動規範」の策定などASEANを含む多国間の協議に参加を目指すなら、台湾が現実の脅威であるとASEANに認識されることは、むしろ好都合かもしれない。国際法に忠実な陳水扁政権なら多国間協議から外しても実害が少ないが、今回のような砲艦外交を厭わない馬英九政権の場合は無視するほどその脅威が増すからである。

まとめにかえて

いずれにせよ、今回の事件で馬英九政権が砲艦外交を展開したことは、同政権の外交路線が国際関係論でいう「現実主義」的アプローチであることを確認させるものであった。台湾人船長を死に追いやったフィリピン公船の銃撃が「殺人」だと非難する台湾側の主張は否定しない。しかし、日本は過去に竹島や北方領土において韓国やロシアの銃撃で日本人が死亡しても、それを口実に自衛隊を出動させたことがなかった。この日本流の平和主義を前提に考えるなら、馬英九政権の反応はまさしく砲艦外交と言わざるを得ない。

日本国内では平和主義を標榜しながら、馬英九政権の「東シナ海平和イニシアティブ」を称賛する人達もいる13。彼らの意見表明は、台湾巡視船による1回目の尖閣諸島沖日本領海侵犯(2012年9月)の後であった。つまり、「東シナ海平和イニシアティブ」との馬英九政権の行動が矛盾を見せた後であった。馬英九政権のフィリピンに対する砲艦外交を見た後も、やはり彼らは同じ評価を下すのだろうか。もし現段階で「東シナ海平和イニシアティブ」のスローガンだけを見て称賛するなら、砲艦外交を認めたのと同じである。むしろ、平和主義者なら、砲艦外交が行われた時点で、評価を撤回するべきではないのか。

あるいは、台湾世論の多数が感じたように相手国が非人道的行為に及び謝罪しない場合は、戦闘に至らない程度の砲艦外交なら許容されるべきだろうか。ここではその是非を議論しないが、馬英九政権が日本流の平和主義と相容れない行動原理を持っていることは認識しておくべきだろう。

脚注


  1. 以下記事に海域の図がある。
    「馬要菲政府道歉海巡:這是殺人刑事案件」聯合報ウェブサイト。
  2. なお、被害者である船員への直接の尋問や、死亡した船長の遺体の検証については、台湾側が認めなかった。
  3. 軍事的手段の行使については、51%が賛成(強い賛成30%、どちらかと言えば賛成21%)に対して、賛成しないは38%(あまり賛成しない24%、全く賛成しない14%)にとどまった(他、意見なしが11%)。馬英九政権の対応については、20%が強硬、65%が軟弱と答えた(他、意見なしが15%)。
    馬總統滿意度與菲律賓槍殺漁民事件民調」TVBS民意調査中心 2013年5月16日。
  4. 「滿春億號海上喋血記實 菲警登船 企圖殺絕滅口」『自由時報』2006年1月18日。
  5. 「滿春億海上喋血 水警殺船長 菲允1定嚴懲」『自由時報』2006年1月19日。
  6. 呂國楨 「黑鮪魚13年捕獲量從1萬尾變200尾」『商業周刊』1331期2013.5
  7. 『 100年度研定海域區容許使用審查機制 總報告書 』內政部營建局、1-2頁(http://wwwvideo.cpami.gov.tw/video/filesys/file/chinese/dept/rp/rp1001231.pdf
  8. 呂國楨、前掲。ただし、ナウル漁業協議の要因を上げるならば、同協議参加国のEEZで操業する台湾の遠洋漁船の漁獲高がこの数字に含まれていないことになる。
  9. 「南シナ海と尖閣諸島をめぐる馬英九政権の動き」(http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Overseas_report/1210_takeuchi.html
  10. 「中華民國一○一年國慶總統講話」総統府ウェブサイト(http://www.president.gov.tw/Default.aspx?tabid=84&lctl=view&itemid=9477)。
  11. 「漁業協議 總統:漁權大進步」中央通信社ウェブサイト(http://www.cna.com.tw/News/aIPL/201306230120-1.aspx)。
  12. 2010年の場合は日本が1位で、以下は僅差で台湾が2位、インドネシアが3位、フィリピンが4位であった。(「海域別、国別、漁種別かつお・まぐろ類の漁獲量」水産庁ウェブサイト(http://www.jfa.maff.go.jp/j/tuna/pdf/tuna04.pdf)。
  13. 「台湾「東シナ海提言」、大江健三郎氏ら日本識者評価」中央通訊社フォーカス台湾(http://japan.cna.com.tw/news/apol/201209290003.aspx)。