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海外研究員レポート

韓国ベビーブーマーの過去、現在、未来――『彼らは声を出して泣かない』から

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049886

2013年4月

はじめに

第二次世界大戦後、多くの国では、急速な出生数の向上、いわゆるベビーブームが生じ、そこで生まれたベビーブーマーたちはその社会において独特な地位を占めることになった。ベビーブームの期間は国によってまちまちであり、アメリカでは1946年から1959年まで、日本では1947年から1949年までと言われるが、韓国の場合、朝鮮戦争の後になる1955年から1963年までがベビーブームであったとされる。現在、ベビーブーマーは約734万人、総人口の約14%を占めている。年齢は満49歳から57歳くらいまで、韓国では数え年で年齢を語ることが多いので、韓国的に言えば現在の50代がほぼベビーブーマーに相当することになる。彼らは1970年代から90年代の韓国の高度成長を支えてきた世代でもある。最近、ベビーブーマーの人生を描いた『彼らは声を出して泣かない-ソウル大宋虎根教授が描くこの時代50代の人生報告書』が刊行された。本報告ではこの本を手がかりに、韓国ベビーブーマーの過去、現在、未来を考えてみたい。

1.ベビーブーマーたちの軌跡

著者の宋虎根はソウル大社会学科の教授であり、新聞のコラムなどにもよく登場する知識人として知られる。1956年生まれのベビーブーマーである著者は、友人と飲酒した帰りに運転代行サービスで現れた同世代の男性の身の上話を聞き、本書を書く決意をする。執筆にあたって著者は多くのベビーブーマーにインタビューをしている。ベビーブーマーたちが語る自身の過去と現在の記録が本書の最大の魅力となっている。

A氏は1958年、忠清道の山間の村で農家の3人兄弟の二男として生まれた。大田の工業高校に進学したA氏は3年間の技能工訓練で優秀な成績を収め、専門大学の土木科への入学を果たした。高校卒業後、軍隊生活と2年間の有給実習期間を経て1985年春に中堅建設会社に就職する。当時、建設会社は工業団地の造成とアパート建設で好況に沸いていて前途は洋々にみえた。順調に昇進を続けたが、部長にまでなったところでストップしてしまった。それでも海外事業などに邁進しつつ役員昇格に期待をかけていた。しかし、建設不況が本格化し始めた2010年秋のある日、もともとそりが合わなかったオーナー家族の副社長から呼び出され、「これまでお疲れ様でした」とクビを宣告された。退職後、A氏は建設関連の個人事務所を開設したが、深まる建設不況のなかで事業は失敗し、退職金の3分の1を使ってしまった。家で過ごす日が増えるにつれて妻もイライラするようになり、夜には運転代行サービスに出るようになった。1日3~4万ウォン稼げば、1カ月に100万ウォン程度にはなる(現在の通貨レートは1円=11ウォン強)。田舎暮らしで鍛えた身体のおかげで新しい仕事にも早く慣れ、自信も芽生えてきたところだという。

B氏は1960年生まれ、工業高校を卒業後、いちはやく軍隊生活を終えて、1982年に造船のトップメーカーである現代重工業に就職を果たした。船舶内の電気設備を担当し、デンマークの造船所での研修も経験して大卒者を凌ぐ知識を獲得し、1990年代中盤には「エンジニア」の肩書きを得るまで昇進を果たした。IMF通貨危機を契機に社長になる夢を叶えるために独立を決断し、1999年に30数名規模の電機会社を設立した。当時、造船業は好況を謳歌していたが、B氏は現代重工業在職時、労働運動華やかな時代に労組幹部の経験があったことが仇となり、大企業への部品の納入は容易でなかった。たちまち会社は在庫の山で埋まって経営が悪化、賃金が払えずに今度は労組から突き上げられる側に回ることになった。試行錯誤の末に性能・価格共に競争製品であるスウェーデン製を凌駕する部品を開発し、古巣である現代重工業への納品に成功した。これを契機に会社は成長を遂げ、従業員は120名を超えて新興株式市場であるコスダックへの上場も果たした。最近は余裕も生まれて地域のボランティア団体の会長を務めたりもしている。特に大学に進学できなかった悔しい思いから、貧困家庭の子女に対する学資金支援に力を注いでいるという。

C氏は1957年に慶州近くの中農の子として生まれた。秀才の誉れ高かったC氏は大邱にある嶺南大学経営学部に入学した。大学進学率がそれほど高くなかった当時、前途は洋々にみえた。1984年に現代自動車に入社して以来、順調に昇進を重ねた。しかし人事部長であった2002年になって退職を余儀なくされた。ちょうどその年は長男がめでたくソウル大学に入学した年でもあった。生活を維持するためにC氏はCDレンタルショップを開業したがすぐに経営は傾いた。次に経歴を生かして人材派遣会社を設立したが同業者が雨後の竹の子のように生まれて競争が激化するなかで事業は思うにまかせず、次に開業した物品レンタル業も顧客を開拓できずに廃業した。こうして退職後の10年間で3億ウォン近くを費やして資金はほぼ底をついてしまった。C氏は実家に戻り、いまも健在な父親の農業を手伝っている。ソウル大に進んだ息子は修士課程まで進んだが、結局その後の進学をあきらめ、ベンチャーキャピタルに就職した。

D氏は現在57歳、江原道原州で生まれ、人文系高校を卒業したが、田舎によい働き場はなく、卒業後すぐに上京して薬局を営む親戚のところに身を寄せた。そこで床掃除から仕事を始め、程なく帳簿付けから薬の調合まで手がけるようになった。健康保険もない時代、ソウルの貧しい人たちは病院に行けるはずもなく、薬局は大繁盛だったという。D氏も同年代よりも稼ぎはよく、仕事を始めてから8年後には3000万ウォンの二階建ての一軒家を買って結婚した。結婚7年後に長男、さらに2年後には次男が誕生した。1990年中盤、20年務めた薬局を辞め、それまで蓄えた資金で洋食レストランを買い取って独立した。しかし、間もなく通貨危機によってサラリーマンたちの財布のひもは固くなり、結局3年間で1億ウォンの損失を出して店を閉めた。すでに40を過ぎて小学生の子ども2人を抱えてこれ以上冒険するわけにもいかず、現在の韓方(漢方)健康院を開業した。教会で妻と20年以上のつきあいの人たちが常連になってくれて一時は繁盛した。しかし、昔ながらに健康のために漢方薬を飲む客も50~60代を除くといなくなったのか、客足は次第に遠のいていった。現在、毎月手元に残るのは200~300万ウォン程度にすぎず、息子二人の授業料のためには一時的だがローンを利用せざるをえなくなっている。働き続けてきて財産と言えば家くらいしかしかないが、これも不動産の不景気で4億ウォン程度まで下がっており、息子の結婚時に家を準備してやることはできそうもない。D氏が上京後身を寄せた親戚は薬剤師の資格証一枚で数十億ウォンの資産を築いており、息子たちには資格をいくつも持った技術者になれと口を酸っぱくして言っているという。

E氏は1957年に慶尚南道の田舎で貧しい農家の5兄弟姉妹の三女として生まれた。十代から家族の仕事を手伝いながら小学校だけは卒業し、19歳の時に上京して住み込みの食堂の仕事を始めた。上の姉は縫製工場、下の姉は家政婦として働いて、男兄弟二人を大学に送った。しかしE氏は家族のために犠牲になったと考えたことは一度もないという。食堂を転々とした後、20代後半になって同じ食堂で厨房の仕事していた男性と結婚した。保証金30万ウォン、家賃3万ウォンの2坪ばかりの狭い部屋を借りて新婚生活を始めた。間もなく一男一女を設けた後は、田舎の母を呼び寄せて育児をまかせて食堂の仕事を再開した。1990年代初めに4000万ウォンくらいの資金を用立ててソウルの片隅に家を買い、自分たちの食堂も開業した。夫の料理の腕は確かで食堂は繁盛した。今思えば一番幸せな時期だった。ところが間もなく夫が疑妻症(客に色目を使っているのではないか等々)にさいなまれるようになった。やがて通貨危機が起こり、客足は途絶えて間もなく店を閉じた。結局夫婦二人とも働きに出ざるをえなくなったが、夫はある日、女ができたと言って車だけ持って出ていった。結局、夫とは数年前に離婚した。食堂の仕事はつまらない上に年も重ねて体力的にきついと思っていたときに現在の育児派出婦の仕事の紹介を受けた。1日12時間働きづめの食堂の仕事と比べれば遊んでいるようなもので、1カ月に120~140万ウォン程度は稼ぐことができている。周囲をみると、家族3人暮らせる家があること、子ども2人とも契約職だが仕事はあることが、どれだけありがたいことか感じるという。

F氏は現在55歳、1978年に有名大学の外国語学科に入学した。当時は維新末期、光州事件等で学生運動が華々しい時期でもあり、F氏もデモなどによく参加したという。在学中に軍隊に行ったが、復学後の就職は、大学に推薦依頼状が山ほど舞い込む状況だったので心配はなかった。学科に来た依頼状の中からくじ引きで3社が割り振られ、F氏はそのなかから大手のH銀行を選んで入社した。それから10数年勤務した後に起こったのが1997年の通貨危機だった。H銀行は危機により最も打撃をこうむった銀行のひとつで、1990年代末までに職員は半分近くが退職し、銀行は結局、外国資本に買収された。このときF氏は何とか生き延びて2007年には責任者(支店長)に昇進した。しかし昇進を喜んだのは1日だけで、その後は業績の圧迫、部下の管理等々でストレスが10倍以上の毎日で、夜も眠れなくなったという。結局、2008年の金融危機を経て2011年末に「名誉退職」、つまり事実上クビを切られた。ただF氏のようなケースはH銀行では一般的で、同期90名のなかで今も銀行に残っているのは10数名だという。辞めて1年近く経つが、いまだに職はない。億単位の退職金はもらったものの、大学生2人と高校生1人の教育費を考えると、仕事をしなければならない。しかし、F氏のように年をとって管理者までやった人間を採用しようとする企業などなく苦戦している。退職時に個人年金は解約してしまって残っているのは国民年金だけだが、おそらく受け取れるのは毎月120万ウォン程度で、老後も心配であるという。

2.架け橋の世代

著者によれば、韓国のベビーブーマーはふたつの意味で「架け橋の世代」であるという。ひとつは世代論的な架け橋である。ベビーブーマーは家父長的価値観と儒教的義務観をもつ親の世代と、個性重視と平等主義的な行為規範をもつ子どもたちの世代の間に位置する。ベビーブーマーの親世代は老後、子どもの世話になることを権利と考えているが、ベビーブーマー世代も、朴正煕時代に「忠」や「孝」を重要な徳目とする教育を受け、老いた親を養うことは義務として当然視している。また自分の子どもたちに対しては親としてその成功のために犠牲を厭わず、少しでもよい教育を受けさせ、結婚の際にもできるだけ手厚い支援をおこなおうとする。これについて著者は、ベビーブーマーは扶養義務の裏で家族の紐帯を期待する心情の持ち主と分析している。他方でベビーブーマー世代は貧しい時代に育ち、義務教育を受けられただけでもありがたいと考える傾向があり、その後の人生は自分で切り開き、かつ家族に送金までおこなうなど自助の傾向が強い。そのため自分たちの老後はできるだけ子どもたちの世話にはなるまいと考えている。

もうひとつは時代論的な架け橋である。ベビーブーマーは1970年代に多感な少年時代、青年時代を過ごした。著者によれば、1970年代は1960年代までの近代と1980年代以降の現代の間の絶壁に架けられた橋のような時代であるという。近代の象徴である路面電車は1968年にソウルから消え、代わって1974年に現代交通の寵児とも言うべき地下鉄が開通した。現在の大型高層アパートの建設が始まったのも、全国で産業団地の造成が本格化したのも、そしてセマウル運動が農村の伝統的姿を一変させたのも1970年代のことであった。文学・思想においても1970年代は大きな転換点だった。1960年代まではモダニズムの時代であり、文明や近代化によって散り散りになってしまった個人の精神を描いた作品が中心であった。しかし1970年代からは農民や労働者、都市の貧民など庶民の日常的な生活を題材としたリアリズムが興隆した。アカデミズムの世界でも、例えばソウル大学校の場合、1975年に文理大学(学部)が社会科学大学と人文大学に分割され、「統合的知性体系」から「専門的知性体系」への転換が図られた。植民地から建国、朝鮮戦争、4.19革命、そして市民社会の胎動と続く波瀾万丈の過去を文学・哲学・歴史学などの知的溶鉱炉から精錬しようともがくことから、「祖国近代化」のために目の前に山積する社会問題を解決し現在から未来へ進む知的橋頭堡を築くことが大学の課題となった。そこで必要とされたのは専門化された輸入学問だった。今から思えば過去と断絶された、つらい行軍であったと社会学者である著者は振り返っている。

3.明るい未来を用意できるか

そうした架け橋的役割を果たしてきたベビーブーマーたちの現在と未来は総じて厳しいものがある。先の事例からも明らかなように、最大の問題は彼らの多くが50代の早い時期に仕事からの引退を迎えていることである。

韓国国会は今年5月、法定定年を55歳から60歳に延長する法案を可決した。しかし、現在も定年がすでに60歳の企業がある一方で、実際には先の事例にもあったように勧告退職などのかたちで定年前に企業を辞めざるを得ないケースが多く、平均の退職年齢は53歳くらいとされている。しかも、そもそも高齢者向けの労働市場が整備されていない上に、近年の不景気もあって再就職の途は容易ではない。そのためコーヒーショップやフライドチキン、ピザのフランチャイズ店を含め、自営業に手を出すベビーブーマーが増えている。特に2012年はこうした引退ベビーブーマーの自営業流入により、これまで低下を続けていた全勤労者に占める自営業者の比率は上昇に転じた。2012年の同比率は28.2%(無給家族従事者を含む)とOECD諸国平均の16.1%よりもはるかに高いことからもわかるように、自営業者間の競争は激烈である。そのため創業後3年生存率は47%、10年生存率は25%にすぎず、なけなしの退職金を使い果たす結果に終わることが多いとみられる。

収入が厳しくなるなかで、ベビーブーマーが親および子どもたちを扶養する負担は以前と比べて確実に増大している。韓国の期待寿命は1970年には61.9歳、1990年の71.3歳、2010年は80.8歳と着実に伸びている。親の長寿はもちろん望ましいものだが、それだけ扶養負担が増えるのも事実である。他方で大学進学率が上昇し、かつ授業料も高騰して教育費の負担が重くのしかかっている。めでたく卒業しても空前の就職難が待っており、実質的な子育て期間は伸びる一方である。

さらにベビーブーマーを不安にさせているのは、自分自身の老後である。日々の生活と家族の扶養で手一杯の状況で、老後の備えが十分にできていない。ベビーブーマーの年金加入状況をみると無年金者が22%、公的年金のみが27%に達する。国民年金加入者の場合、現時点では加入期間が10年未満で年金を受け取れない可能性のある者がベビーブーマー加入者の54%に達している。しかも、今後払い続けたとしても払込期間が短いために78%程度は最低賃金水準(2012年約96万ウォン程度)にも満たない受領額となる見込みであるという(2012年10月国民年金公団調べ)。加えて、ベビーブーマー世代の資産の76%はアパートなど不動産である(2011年12月KB金融持株経営研究所調べ)。不動産価格は2000年代末から下落傾向にあり、老後を支えるには心許ない状況である。彼らが老後資金の捻出のために不動産を売却すればさらに価格が下落する危険性も指摘されている。

韓国の経済成長を30年間にわたって支え続けた世代が迎えたこの厳しい現実について、社会学者である著者は特に政策的対案を示しているわけではない。著者は同世代に対して強い共感を示しつつ、家族への情緒的・精神的依存から独立し、社会化・教育の「第一の人生」、職業・義務・所得の「第二の人生」に続く、個人的成熟と成就の「第三の人生」をスタートさせることを勧める。そのために必要なのは、近づきつつある死への準備、それまでの社会的地位や自尊心に執着しない仕事、それに趣味であるという。こうしたベビーブーマーに対する人生訓を超えて、韓国社会は彼らに明るい未来を用意することができるだろうか。