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海外研究員レポート

農民工版『春天里(あの春の日に)』――誰が、何に共鳴したのか

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049939

2011年2月

2010年の年末、無名の農民工(出稼ぎ労働者)2人組、王旭(44歳)、劉剛(29歳)の2人が歌う「春天里(あの春の日に)」 が中国社会を震撼させた。彼らが歌った「春天里(あの春の日に)」※1という楽曲はそもそも、中国の人気ロックミュージシャン・汪峰(ワン・フォン)のオリジナル曲(作詞作曲とも汪峰)で、その内容は農民工とは直接関係しない。2009年に汪峰(ワン・フォン)自身がこの曲をリリースした時点ではこれほど広く流行しなかった。ところが、今年9月、農民工の2人が仲間内の集まりで興に乗って歌ったこの曲を、その場にいた友人が携帯電話のカメラで録画し、ネットに配信した動画がネット社会を震撼させ、汪峰(ワン・フォン)本人が歌った時以上にこの曲を有名にした。2人の歌うこの曲はインターネット上で若者たちの共感を呼び、湖南省共産党書記も公の会議上で農民工の2人の歌うこの曲から受けた感動を話題にしている。2人の農民工はその人気から11月以降、各地のテレビ局の歌謡番組に招かれた。さらに、視聴者からの人気投票の結果、1位で2011年春節(旧正月)の「春節聯歓晩会」(日本の紅白歌合戦のようなCCTVの年末大型番組)にも出演することが12月27日に決定された。

どのような立場のどのような若者たちが、彼らの歌う「春天里」に感動しているのか。また、彼らは何に感動、共感したのか。立場の異なるいろいろな人々がこの曲に「共鳴」したといわれる背景に、何があるのか。そもそも、本当に彼らは「共鳴」しているのか。ここでは、農民工版「春天里」のフィーバーに見られる社会的背景を考えてみたい。

1.汪峰「春天里(あの春の日に)」※2

おだやかな印象の曲名とは対照的に、この曲の主旋律は歌い手の絶望ともとれる悲痛な叫びである。歌詞は昔流しのミュージシャンをしていた時代の自分を、経済的に豊かになった今の自分が振り返り、懐かしんでいるものにみえる。強烈なメッセージは、経済的に豊かになった今よりも、貧しいながら夢に向かって邁進していた時代の自分を肯定していることにある。歌詞は以下の通り。

何年も前の春のこと 
当時の僕はまだ長髪で、クレジットカードも彼女も24時間お湯の出る家もなかった

ただ当時の僕は楽しかった
あるのはおんぼろの木製ギターだけ 
街角、橋の下、田んぼの中などで誰も聞いてくれない歌を歌っていた

もし将来僕が年老いて一人きりになったら その時は僕をあの時代に連れ戻してほしい
もし僕がひっそりとこの世を去るのなら その時は僕をあの春の日に埋めてほしい

あの寂しい春の日のこと
あの頃の僕はまだヒゲなんか作らず バレンタインもなければプレゼントもなかった
僕のこのかわいい娘もいなかった

ただすべてはそんなに悲惨じゃなかった
僕には愛への幻想しかなかったが
朝も、夜も風の中でも 誰も聞いてくれない歌を歌っていた

たぶんある日 僕は老いて一人きりになる その時は僕をあの時代に連れ戻してほしい
もし僕がひっそりとこの世を去るのなら その時は僕をあの春の日に埋めてほしい 

今この爛漫の春をじっと見てみる
あの頃と同じように暖かそうに見える
僕は長髪を切り、ヒゲを伸ばした かつての悩みや苦しみは風と共に消えた
それなのに僕はこんなに悲しく心が痛む
時が僕に残したのはより深い迷走でしかなく
この光り輝く春の日に
僕はこらえきれずに涙を流す

たぶんある日 僕は老いて一人きりになる その時は僕をあの時代に連れ戻してほしい
もし僕がひっそりとこの世を去るのなら その時は僕をあの春の日に埋めてほしい

一見したところ、夢を追い求めていた無名のミュージシャンが、ミュージシャンになる夢をあきらめ「まっとうな」職に就き、経済的には豊かになったものの夢を捨てた空虚感を歌ったもののようにも感じられる。また、有名になった汪峰自身が、豊かになってロックミュージシャンの魂である心の叫びを失ってしまったことへの自嘲をこめたメッセージという見方もされている。いずれにしても、経済的な豊かさとは裏腹に、空虚になった心を悲痛に訴える曲だと思われる。

2.農民工2人組の「春天里」

この「春天里」を歌って一夜にしてネットの世界で有名になったのは、音楽好きの2人の農民工、王旭(河南省商丘市の農村出身、44歳)と劉剛(黒竜江省農村出身、29歳)の2人である。王旭は2000年に河南の故郷から北京に出稼ぎに来て、ボイラー炊きの職を経て、現在は薬剤会社の倉庫管理で生計を立てている。月収1000元余りのいわゆる農民工である。一方の劉剛は黒竜江省の農村出身で故郷で兵役を経験し、その後2002年に北京に出てバーの雇われミュージシャンなどを経て、より自由に好きな曲を歌える流しのミュージシャンとして生計を立ててきた。2人とも既婚で妻子を持つ。ともに生来の音楽好きで、職に就いている王旭もギターを片手に地下道で弾き語りをしており、そうした場で知り合ったのを機会にしばしば一緒に集まり、食べたり飲んだり、歌ったりする仲になった。

8月のある日、いつものように北京市豊台区にある劉剛の賃借平屋に友人たちが集まり、飲み食いしたあと興に乗って2人が「春天里」を歌ったのを、居合わせた友人の一人が携帯カメラで録画し、ネット上に配信したのが事の発端であった※3。酷暑の北京の平屋内は夜でも暑く、2人とも上半身裸、狭い部屋の机の上にはビールの空瓶が散乱し、ボーカルの王旭は片手にタバコの吸いさしを挟んだまま熱唱する、という日常の一コマだった。このような形で公開されるとは知らず、2人とも裸で一人はタバコ片手に熱唱するという粗野さであったため、本人たちはその後あわてたという。これがネットにアップされたその日の夜に20万アクセスを記録し、2人は本物の農民工ミュージシャンとして一躍有名になった。ネット民のコメントによると、社会の底辺の農民工の飾ることのない日常風景と、2人の我を忘れて熱唱する姿、これらの物語る生活感や切実さが見た者の感動を巻き起こしているらしい。

ただし、筆者の感想はやや複雑なものであった。汪峰の「春天里」を今や経済的、社会的に成功した者の、苦しかったけれども充実していた青春を懐古する曲ととらえるなら、この曲を熱唱する2人の農民工はまだその「成功」の境地に達していない。そればかりか、社会階層や貧富の格差の固定化が進んでいることが人々の共通認識になっている今の中国社会では、この農民工たちは将来もこの苦しい境地に低迷しつづける可能性が大いにあると考えざるをえないからである。2人は「春天里」の何に思い入れを持って熱唱し、また彼らを支持するネット上の若者たちは、何に感動しているのだろうか。

3.ネット民その他の反響

2人の農民工が「春天里」を熱唱する動画は、柯蓝(香港鳳凰TVキャスター、1972年生まれ女性)、某小丫(作家・コラムニスト、1981年生まれ女性)、蔡卓妍(香港の女性歌手、1982年生まれ)、樊少(コラムニスト・若者のオピニオンリーダー、1982年生まれ男性)、王小骞(CCTVキャスター、1973年生まれ女性)など有名人のブログや「微博」(中国ローカル版ツイッター)の伝播力を追い風に一気に広がった。2人は、11月にはCCTVの庶民を招く歌謡番組、「星光大道」に招かれて優勝、さらに汪峰に招かれて上海で開催されたロック音楽祭で汪峰と「春天里」を合唱した。汪峰は、自分を感動させてくれる音楽はたくさんあるが、自分の曲を他人が歌ったのを聞いて感動するという経験は初めてだとコメントし、2人を紹介した。汪峰はまた、王・劉の2人の農民工版「春天里」について「ロックミュージシャンとして、生活者(必死に活きる人)の心に響く楽曲を作れたことは何よりの喜びだ」と話している。

中国で一般の人々に人気の検索サイト「百度(バイドゥー)」には、二人のユニット名である「旭日陽剛」バーという掲示板ができ、ファンたちがコメントを寄せている。

「彼らが体現しているのは、真の草の根の芸術と、それがもたらした強烈な庶民による共鳴だ。多くのネット民は、農村に育ち、都市へ出稼ぎに出て苦労している彼らの経歴と歌声の中にある荒涼感と無欲さに心を動かされている。クーラーも扇風機もない部屋で、上半身裸で、狭苦しい貸間でビールを飲みながら……動画の中から伝わってくるこれらの背景は、すべてが見る者の感情に働きかける。多くの人が似たような経歴を持っているからなのかもしれない。彼らは「旭日陽剛」の二人がより良い生活をする日が来るように祈り、同時に密かに自分の夢と現実の距離を測っているのかもしれない。「農民工」版「春天里」が人々を感動させるのは、これが無名の者の生活に迫られた悲劇を伝えているからだ。」

「きらびやかな衣装を着てサングラスをかけたアイドルは自分たちとほど遠い。彼らこそが庶民のアイドルだ。自分にとっては好きにならないはずがない。」

「彼らが歌うのが偽りのない歌だから、人に強烈な共鳴をもたらす。このように純粋な歌は商業化されたこの時代では他に聞くことができない。どうかこの二人には今の原色を保ったまま歌い続けてほしい。もともと持っていた真実を失わないように。真実だけが人々の心の琴線を動かす!」

「この二人の兄弟は、自分たち外地で働く者(在外務工人=出稼ぎ労働者)の本音を歌ってくれた。」

「動画の画面から伝わるビール、タバコ、労働で鍛えられた筋肉の隆起する身体など男性ホルモンの息づかいが見る者の血を沸かせ、感動させた。」

ネット上の書き込みのため、それぞれのコメントの主の属性、職業などはわからない。しかし、全体に彼らに近い立場の農民工、ワーキングプア(「蟻族」として去年一躍社会の注目を浴びた、大卒の若者で低賃金労働に就く者たち)を中心とする社会の底辺の労働者たちが広く共感、共鳴しているといわれている。年代的には「70後」、「80後」と呼ばれる20代から30代の若者層が中心になっている。中国社会ではとかく弱者(弱勢群体)、学歴が低いなどとして一般的には卑下や同情の対象である農民工、肉体労働者が、このように純粋な賛美の対象になったのもこれまでにないことのように思う。

なお、「人民網」が11月15日に行った「農民工版の『春天里』はなぜ人々を感動させたのか?」に関するネット調査では、2723人から回答があった 。回答は「この曲が中国人の夢と現実を反省しているから」14.4%、「草の根階層の辛さ苦しさが感動させる」80.6%、「努力して運命を変えようとする精神に感動した」4.1%、「その他」0.8%という結果であった。

この回答結果は、農民工版の「春天里」への人々の共感の最大の原因が、この曲を歌う農民工の2人自身、またはその背後にある下層の人々にあるといえる。そして、見る人は、こうした努力が運命を変えるかどうかについては楽観していないともみられるかもしれない。

人民網は調査結果を、「在水一方」というネット民のコメントを紹介することでまとめに替えている。
「『春天里』は中国人の心の歌。都市と農村、夢と現実の衝突と交差を歌っている。都市と農村の格差を縮小し、二極分化を解消し、より多くの社会的弱者が春の日の光を浴び、勤労者、努力する者が老いて保障を得られるように。これが中国人の夢と現実だ」。

4. 誰が、何に共鳴したのか

この動画をめぐっては、湖南省トップである共産党書記、周強氏も感動したとして省内の会議において二度にわたって取り上げ、賛美したことが報道されている。周強氏曰く、「彼らはギターと歌によって、社会の下層にいながら夢を追求する生命力を表現しており、その真実さに感動した」という。この会議は若手の農村行政官を対象としたもので、若者たちに草の根へ入り、現実に即した仕事をするよう諭したものだった。
農民工の二人が歌ったコピーの楽曲、「春天里」はなぜ、これほど多くの人々、特に異なる立場、階層にある人々を感動させたのだろうか。彼らは何に感動し、共鳴したのだろうか。

江西理工大学文法学院の教員、鄭永芳氏のブログは、この曲が多くの人々を感動させたことは確かだが、多くの異なる階層の人々の間の「共鳴」は起きていないと論じている。つまり、「春天里」は理想と厳しい現実を歌い、悲壮な旋律と共に社会の下層の人々の生活をよく反映しているため、人々を感動させる。2人の農民工が歌うことでこの曲が生きている。ただし、湖南省書記は少なくとも2人の歌い手の厳しい生活状況に共感しているのではなく、この曲を契機に、現実から真実をすくい上げるという行政者にも共通する仕事の態度を説いているのだという。鄭氏は、「春天里」が反映しているのは現実と理想の大きな落差であり、それはそのままこの社会の不公平を示している。これは社会の各層がこの不公平に注目し、改善しようとしなければ解決されることのない問題であり、本来の共鳴が必要だと書いている。

1980年代生まれの農民工である筆者の友人によれば、周強氏は話題の農民工版「春天里」を取り上げて庶民の機嫌を取ろうとしただけだろう、という感想だった。筆者の周りの高学歴の若者たちは、この曲に感動したものの、農民工の立場や社会の不公平はそれによって何も変わらないとむしろ悲観的な意見が多い。

そこで、農民工版「春天里」は現状では、歌い手の2人に近い立場にある社会の下層の労働者たちの強い共鳴を得ている。また、より広い層の人々の感動を引き起こしている。このより広い層の人々というのは、必ずしも農民工ではない。ただし、この層の人々も現実と理想のギャップに悩み、将来への不安、困惑、矛盾を抱えている点は共通していると思われる。

「春天里」が歌うのは、経済的には成功したものの、自分にとってもっと重要な何かを失ってしまったことへの絶望感、焦り、不安であった。農民工版を歌う王旭、劉剛の二人、また彼らの歌う「春天里」に共感する社会の下層にある人たちはこうした絶望、焦燥、不安などの大きなところに共感、共鳴しているのではないかと考えられる。また、そうした時代の気分を反映している点で汪峰の「春天里」に共鳴する人々は決して同じ境遇にいる農民工だけとは限らない。筆者にとって、農民工版「春天里」のフィーバーは今の中国社会が持つ時代の空気――漠然とした不満、絶望、焦燥などなどを垣間見せてくれるものだった。

庶民からの絶大な人気を経て、メディアは彼らをしばしば取り上げ、春節聯歓会でも彼らは「春天里」を歌うことになっている。インターネットという新しいメディアの力で人気を得た彼らが、テレビという旧来のメディア、中でも主流(官製)社会の声を代表する春節の一大番組に出演することになった。これまでのところ、この流れは彼らのような庶民の支持を受けた社会の下層出身の人気者(メディアでは「草根明星」、草の根のアイドルと呼ばれている)をうまく主流に取り込み、調和社会を演出する手法だと見るべきかもしれない。それはともかく、彼らを支持した庶民の意識や価値観が長期的に社会をどう変えていくのだろうか。