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海外研究員レポート

インド人との旅:マトゥーラ編

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049955

2010年6月

デリーは今、夏休みの真最中である。7月になると学校が再開するので、この間旅行や、祖父母の田舎に行く家族連れが多い。所属先の研究所も事務方や図書館などは通常通り勤務しているが教員は夏休みだ。せっかくなので私もと思い、身近なインド人の旅行について行かせてもらうことにした。結果的に、この1カ月ばかりの間に、ガンジス河上流の聖地ハリドワール、ハリドワールと同じウッタラカンド州の山村、デリーからタージ・マハルで有名なアーグラーに行く途中に位置するクリシュナ神ゆかりの地マトゥーラとヴリンダーヴァン、そして有名なイスラーム聖者フワージャ・モイーヌッディーン・チシュティーの廟があるラージャスターン州のアジメールに、それぞれ正味2日ずつの短い旅をした。

旅の先達は、みな月給1万ルピー(約2万円)に満たない人々で、貧困層ではないが生活に余裕のある人々ではない。夜行バスで限られた休みを利用し、あるいは逆に安いが時間はかかる通勤電車で旅をした。行き先がいわゆる外国人が想定する観光地やリゾートではなく、宗教的に重要な場所で、しかも機会があれば重ねて同じ場所を訪問しているということも興味深かった。またアジメールのダルガー(聖者廟)には、インドを訪問したバングラデシュのハシナ首相がわざわざヘリコプターで飛んで詣でていたが、映画の興行成功を願う監督や俳優など、ムスリムに限らず幅広い信者を集めていることも実感した。デリー住民にとっての聖地で、あと私が行き残しているのはジャンムー・カシミール州のヴァエシュノ・デヴィ寺院らしい。外国人にとって最も有名なガンジス河の聖地ヴァーラーナーシー(ベナレス)は、心理的にちょっと遠いようだ。

それぞれに思い出に残る旅であったが、インド人の旅感覚に最も近く触れられたのはマトゥーラ、ヴリンダーヴァン旅行で、同じく最も印象が強烈だったので備忘録として記しておこうと思う。学術的には不確かなことも、またインドに旅なれた人だったら当たり前のこともそのまま印象記として書いている。旅の先達は私が調査させてもらっていたNGOのフィールドスタッフで、20代~30歳までの若いスタッフ3人と、スタッフ1人の母親(年齢的には、私はこのスンダリ・デヴィさんに近いと思われる)と15歳の妹というオール女性ばかりのツアーに同行させてもらった。宿泊先はスンダリさんの弟の家である。以前、スタッフに彼女達の田舎をみてみたいなどと言ったことを覚えていて声をかけてくれたようだった。とにかく3組着替えを持って来いという話で、帰りは出勤日の朝9 時までには戻ってくるというようなあやふやなプランのまま話にのった。

インドでも最も人気のある神のひとりクリシュナ神の誕生地とされるマトゥーラや、少年から青年期を過ごしたヴリンダーヴァンには、クリシュナ神や恋人ラーダゆかりの史跡、寺院が数多く存在する。マトゥーラ、ヴリンダーヴァンに行くのは、実は3度目だった。デリーの私の自宅はマトゥーラ・ロードというマトゥーラ、アーグラーに繋がる道の近くにあり、車で3時間もあればいけるマトゥーラは日本から来た友人と日帰りで行ってこられる適当な観光地である。ただ外国人ということで寄付を強要するパンディット(僧侶)にうんざりして、正直あまり良いイメージを持っていなかった。しかしインド人と行くことによって違う魅力が発見できるのではとの期待があった。結果としては、その通りだったが、その魅力は自然の景観などと異なり、こちらが近づく努力をしないとわからないものだった。

出発日、夕方4時25分に彼女達の家にも近いデリー・シャーダラ駅を出るローカル電車に乗るということだったので、車でスタッフの家まで行く。3時に集合ということだったが、実際に全員が集まったのは4時近くになっていた。時間には常にゆとりを見せる(ルーズな)インド人のことと思いつつ、電車を逃したらどうするのかなあという興味もあったが、5人乗りの車に7人が乗り込み駅まで急いだら余裕で間に合った(この後の旅の間中「定員オーバー」という言葉は辞書にはなかった。常に誰かのひざの上に誰かが乗り、前後左右、自分の体を入れるスペースはいくらでも作れるということである)。

隣接するウッタル・プラデーシュ州のガジアバード駅を出発してマトゥーラ・ジャンクション駅まで4時間10分をかけて走る(予定)のローカル電車は、それ程遅れずデリー・シャーダラ駅に到着。マトゥーラまでは片道25ルピーという格安の運賃である。

女性専用の乗り込み口というのがあるのだが、車両の中は女性専用ではなかった。しかしうまく固まって座ることができた。これまでに4回電車に乗ったことはあるのだが、いずれも前もって予約したエアコン車両で、いわゆる予約なしの2等車両というのは初めての経験だった。車両はさすが広軌なので広々している。思ったよりきれいだというのと、吊革がいやに沢山固まって下がっているというのが第一印象だった。椅子が一人ひとり分かれた形になっておらず、通路を挟んで合い向かいになった3~4人掛けのベンチがある。椅子はクッションがなく硬かったが背中をつけてゆっくり座れるだけでも贅沢だったのだと後から思った。こうしたローカル電車だけなのかよくわからないが、通行中もドアは開きっぱなしである。途中ヤムナー川を渡ってデリー中心地に戻ったのだが、端の上から見えるヤムナー川を写そうとカメラを持っていたら、同行者にこの辺は治安が悪いからカメラをしまっておいたほうが良いと注意されてしまった。

デリー・シャーダラ駅からマトゥーラ・ジャンクション駅までは途中21カ所に止まる。普段車でしか移動しないので、次のオールド・デリー駅から自宅にも近いハズラット・ニザムッディン駅やオークラ駅(我が家はこの路線のすぐ近くなので、夜などは電車が通るとベッドごと地震のように揺れる)などは裏側からデリーの町並みを見ているようでおもしろかった。スナックを袋に詰めて売りに来る物売りが多かった。私達も駅で買ったスナック菓子に加え、さらに10ルピーでスナック1袋を買って食べたのだが当然喉も渇き、私もミネラルウォーターの1リットルボトルを1本、彼女達も自宅から1.5リットル入りの水を持ってきていたが、あっという間に終わってしまった。ちょうどニザムッディン駅に止まっているところだった。プラットフォームに水を汲みに降りるかなと思っていたら、鉄の柵の入った窓越しに、見も知らぬ若者に水を汲んでくれるようスタッフの1人が頼んだのである。若者は快く引き受けたが、渡したそばから電車が駅を出発してしまった。私は、あ~あ、ボトルもなくなっちゃった(ボトルといってもジュースのボトルを転用していただけだが)と思っていたのだが、なんと次のオークラの駅で、その若者が窓越しに水を入れたボトルを返してきたではないか! 同行者達も大笑いしていたが、いったい何処で水を汲んで、電車に追いついたのか、しかも返すべき相手をちゃんと覚えていたとは。インド人は人懐っこく、日本人からするとずうずうしく思えるくらい厚かましいお願いもしたりするとは思っていたが、こうしてインド人同士の無償の親切を目の当たりにすると、文化の違いを感ぜずにはいられなかった。なお、この旅の間中、私は何かとThank youというのは止めろと注意された。初対面の間柄であれば良いけれど、いつまでもThank youというのは他人行儀だというのである。確かにこちらの人からはThank you(Sorryもだが)という言葉をあまり聞く事がないので、日本人にとっては張り合いのなさを感じることも少なくない。でもThank youを言えないとなると、逆にもごもごと無口になってしまった。

スンダリさんが夕飯用にとパランタ(全粒粉に水を入れて捏ね、折りたたんで層を作ったものを油で揚げたパン)と野菜炒め(後で知ったが、この家族は卵、ニンニクも食べないベジタリアンだった。)を作っておいてくれたので、皆で食べる。親戚の家で食べさせてもらったランチでもそうだったが、おかず自体の量は6人が食べることを考えると決して多くない。ただパランタやチャパティーは相当な数を焼いてくれて、かつ何もつけなくても、まあおいしく食べられるので、一食とするには十分だった。むしろこの旅の間中、私は常に喉が渇いており、ミネラルウォーターのボトルの重さに閉口しながらも、水がなくなることへの不安に駆られていた。

マトゥーラ・ジャンクション駅には夜8時半頃到着した。到着前から雨が降っており、それまでの暑さがうそのように、寒く感じた。なかなかオートリキシャがつかまらず時間がかかったが、結局途中までオートで行き、開いていた店で親戚へのお土産用に甘いお菓子(ミターイー)を買った後(どこかを訪問する際はミターイーと果物などが定番らしい)、停電で暗い道を1キロ以上歩いていった。親戚の家についたのが10時半、雨にぬれて冷え切った身体を入れてもらったお茶で暖め、部屋を占領している3台のチャールパイ(「四脚」の意味の簡易ベッド。木枠にロープがはってある。)に親戚の子供達2人と私達5人(スンダリさんはどこか他の部屋で眠ったようだ)が折り重なるように寝た。夜中停電していたようだ。開け放しの戸のそばに寝ていたので暑くて困ることはなかったが、蚊に刺されて何度も目が覚めた。連日45度を越すデリーでは、このところ蚊もいなかったのだが、マトゥーラのほうが涼しいのか、溜まり水があるせいなのか。チャールパイで寝たのも初めてだった。疲れていたこともあり、すぐに眠りに落ちたのだが、長さが足らないのと、一緒に寝ている人の眠りを妨げてはいけないという気持ちが頭の中にあり、実際はどうかわからないが、寝返りを打つのも慎重にした。

(画像1)中庭中庭

5時頃には部屋の外で働いている物音が聞こえてきて、あたりも明るくなったので、部屋の外に出てみた。そのうち皆起き出して、屋上に上がってみる。スタッフの叔父さんの自宅はマトゥーラ市内ではあるが、家の作りは小さな中庭を囲んで、小袋のスナックなどを売っている店舗、キッチン、寝室2つとセメントなどの資材がおいてある一部屋、水場、トイレがある。電気は来ているが、水は井戸で、壁はあるものの屋根のない水場で順番に水浴びをした。他の人の真似をして、昨日から着ていたクルタを着たまま、なんとか水浴び完了。水が冷たくないのが救いである。その前にミルクティーと簡単なビスケットや甘くないうなぎパイみたいな食べ物とナムキン(塩気のあるスナック)で朝ごはんとなった。同行者を見ていて、学んだことは2つ。1つは、朝起きたらお茶を飲む前に歯を磨く。インド人は歯が白くてきれいな人が多いなあと思っていたが、皆ハンドバックに歯ブラシと歯磨き粉を放り込んで持参してきていた。2つ目は、たいていの人が朝起きてすぐに、あるいは何かをお腹に入れた後、用足しするのだが、用足しの後石鹸で手を洗う場合には、必ず他の人の助けを借りて水をしっかりかけてもらうこと、である。

8時頃、親戚の兄妹も一緒に寺院めぐりに出発。途中まではテンポ(乗り合いオート)に乗ったのだが、昨日の雨で線路下の道路が冠水して通れない。以前駐在したバングラデシュの光景を思い出した。デリーに暮らしていてバングラデシュの首都ダカとの違いを一番感じるのは、デリーは川、池など水場が本当に少ないことである。マトゥーラもそう違いはないだろう。でも一旦雨が降ると、まるで同じ光景であった。

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何とか水の上にある部分をおそるおそる渡りながらそこを通過。線路を横切り別のテンポにのり、最初に行ったのはクリシュナ神の生誕地に立てられたというSri Krishna Janmabhumi寺院である。

(画像3)寺院の正門

寺院の正門

実は、この寺院に来たのは3回目だが、カメラや携帯電話も持ち込み禁止なのである。以前2回とも日本人の友人と車で来たので、車の中に貴重品を置いて手ぶらで入ったのだが、今回はそうもいかず、パスポートと在留許可証という最も大事なものだけをおしりのポケットにいれた。現金の方も高額紙幣だけ取り出してポケットに入れようとしたら、同行者達がおしりのポケットは危ないという。どうしようかと困っていたら、スンダリさんが自分や他のスタッフの財布と共に、サリーのブラウスの胸の中に入れておいてあげると言うので、むき出しのままお願いした。男女別のセキュリティチェックで、女性の警備員が、沢山貴重品を入れたお母さんの胸元は厳しくチェックしていたが、私のおしりのポケットはかすりもしなかった。後で、戻ってきた紙幣は若干しっとりとくしゃくしゃになっていたが、ともかく無事であった。

ここから先はマトゥーラの北15キロのところにあるヴリンダーヴァンの寺院めぐりである。途中まではテンポで行ったが、その後は歩きである。ヴリンダーヴァンの中心地は細い路地なので歩くしかない。この町には4000とも言われる寺院と物乞いの人々(特に高齢女性)と猿があふれている。最初に来た時に、猿に狙われるからめがねをしまったほうが良いといわれたので今回もそうしていたが、不便である。でも実際にめがねを盗って屋根の上に逃げた猿を目撃したので、はやり気をつけないといけない。代表的な寺だけ回ろうということで、ビルラー財閥が作ったビルラー寺院、ISKON寺院(前回訪れた時は、ラーマクリシュナ寺院の名前で覚えていたが、今回の同行者達は「アングレジ・マンディル(外国人寺)」と呼んでいた)、まで回ったところで12時になってしまい、どの寺も夕方まで閉館時間となってしまった。その間、土産屋をのぞく。

今回、初めて知ったことは沢山ある。その1つ、この辺りではご挨拶に「ラーデ・ラーデ」と言う。デリーなどでは、「ナマステー」や「ナマスカール」とともに「ラーム・ラーム」というのを聞く事がある。「ラーム」はインドの代表的神様の1人であるが、「ラーデ」というのはクリシュナ神の恋人ラーダのことである。細い路地を後から走ってきたリキシャが、道を空けてくれという意味で「ラーデ・ラーデ」と叫んでいた。

 (画像4)土産物を物色

土産物を物色

ヴリンダーヴァンのお土産は、やはりクリシュナ神にちなんだものばかりである。スンダリさんは、クリシュナ神とラーダがペアになった像とクリシュナ神のあかちゃん時代の像と着せる服を買っていた。こういう神像は単に買って飾っておくだけでは駄目なのだそうだ。服を着替えさせたり、牛乳をかけたりなどいろいろお世話しなければならない。お店の人が、セールストークの中で、「こっちの像より、こっちの方が(どちらか忘れてしまった)お世話が楽だよ」と説明していた。

ウッタル・プラデーシュ州の宝石商が作ったというShahji Templeは豪勢な建物で、中を見るのが楽しみだったが結局夕方の再開時間が遅くて行けず。クリシュナ神とラーダが夜毎逢引するというSewa Kunjは住宅街に囲まれた公園のような場所だが、トゥルシーの木々が、みな夜になると牛飼いの娘達に代わってクリシュナ神とダンスするのだそうだ。どんなに土地が乾いていても、葉っぱは青々しているんだよと同行者が説明してくれた。

Rangaji Templeは南インドと北インド様式が混ざり合ったような寺、Banke-Bihari Templeはヴリンダーヴァンで最も人気のある寺だというだけあって、すごい混みようだった。この寺に行く途中、夕立があり、あっという間に道路が冠水してしまい、側溝の汚水と混ざった水の中を歩かざるをえなくなった。あんな少しの雨で冠水してしまうのだから、これから雨季になったらどうなるのであろう。人工洞窟のなかにクリシュナ神のいろんな神話の場面が作ってあるKrishna Templeについたらもう真っ暗だった。

(画像5)ヴリンダーヴァンの路地

ヴリンダーヴァンの路地

今日の予定はこれでおしまいかなと思っていたら、実はこれからがこの旅のメーンイベントだった。近くの食堂でチャパティーとダールの簡単な食事を取った後、バスで30分くらいのゴヴァルダンというところに移動した。既に私はバスの中で居眠りをしていた。到着後何をするのかと思ったら、これから21キロメートルを裸足で歩くという。「じゃあ、朝までかかるね」といったら、そんなことはない、せいぜい2、3時間だという。では21キロメートルというのは正確ではないのかなあと不安半分、楽観的な見通し半分だった。他の人々はお店に荷物とサンダルを預けたが、私は絶対に裸足で長い距離というのは無理だと思ったので、サンダルは履いたままにした。この宗教儀式はParikrama(パリクラマ)という。Parikramaというのは「何かを囲んでいる道」の意味で、例えばお寺の建物を一周するのもParikramaである。火の回りを回るParikramaはヒンドゥー教徒の結婚の重要な儀式である。インドにはいくつか有名なParikrama Marg(Margは道のこと)があるが、ゴヴァルダン丘陵を回るParikramaはその1つだそうだ。雷と雨を支配する神インドラから民や家畜を守るために、クリシュナ神が傘のように持ち上げた山がゴヴァルダン丘陵だということである。ただ、その夜ここまでの知識はなく、とにかく21キロメートル歩くとクリシュナ神ゆかりの何か(寺?)に到達するとだけ理解して最初の一歩を踏み出した。といっても最初も一歩は五体投地だったが、1回だけでよいというのでほっとした。いつかテレビで見たチベット仏教の巡礼のように、五体投地で進まなければいけないというわけではないようだ。

(写真6)Parikramaの第一歩

Parikramaの第一歩

出発したのが夜9時くらい、当然真っ暗である。断続的に道の両側に夜通し開いている茶屋や宗教的グッズを売る店がある。また集落もあったが、夜中のこと、全て戸を閉ざしていた。街灯のないところは当然真っ暗で、サルや野生の孔雀の泣き声が聞こえる。われわれは総勢8人、最初は固まって歩いていたが、そのうち3集団に分かれてしまい、私は真ん中でスンダリさんについて歩いていった。なぜ夜歩くかといえば、涼しいからである。確かに昼間、この時期40~45度のデリーに比べると若干涼しい(昼間雨も降ったので)マトゥーラ、ヴリンダーヴァンであるが、この距離を炎天下歩くのはつらいだろう。あと夜で助かるのは、トイレの問題だ。われわれ参加者は1人を除いてすべて女性だったし、みな夜陰に紛れて用を足していた。

1人でParikramaをしている人もいれば、大声で歌ったり、笑ったりしながら、時折走っていく元気な若者達や家族もいる。一晩で何人くらいが参加するのかわからないが、子供たちの夏休みということもあり、相当の数がこの夜も同じ道を歩いたようだ。

丘陵といっても最高部で海抜25メートルしかないので、ほぼ平らな道をただただ歩く。それにしても途中眠いし、疲れたしで、何度も休んでチャイなどを飲んだ。最初は神への賛歌を元気に歌っていたスンダリさんも、だんだん無口になり、足元が悪い時など(石がごろごろしているような箇所もある)、「ハレ・ラーム、ハレ・クリシュナ」などと神の名前を口にして耐えていた。Parikrama Margなのだから、もう少し歩きやすいよう整備されていればよいのにと思うが、苦難を乗り越えてこそ、ご利益があるのだろうか。

途中にあった看板は気がついたものだけで2個。最初の看板は「21キロのうち半分まできましたよ」というので、本当に21キロあるのだとわかり、ショックだった。次の看板は、「もう最後です」と書いてあった。2つ目の看板を見たのは、朝5時頃で、空は既に明るくなり始めていた。

この時まで、私はParikramaが1周することを意味するとは知らず、最終ゴールの寺か何かがあるものだと思っていた。そして、恐ろしくて尋ねなかったのだが、そこからまた同じ距離を戻ってくるものだと思っていた。しかしとにかく歩みを進めると、先に行った同行者の集団が、「もう1時間半前について、ひと眠りしていたよ」といいながら近づいてきた。彼らの足元にはサンダルがある。どうしてここに出発点で預けた筈のサンダルがあるのか不思議に思いつつ、靴を預けた店の前まで来て、ようやく真実を理解した。最終ゴールは、出発前にも外から眺めた寺院だった。店で供物を買ってお参りする。とりあえず歩き通したという達成感はあったが、最後のお寺は、お祈りの種類と値段が書いてあり、どちらかというと現世感たっぷりの場所であった。

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21キロメートルの道程の中で、宗教的な場所と思われたのは唯一大きな人工的な池のあるところで、後で聞いたらRadha Kund(ラーダの池)という神聖な池なのだそうだ。周りをずっと家々が囲んでいて、Parikramaの道は池を一周するようになっていた。このParikrama、いったいどんなところを歩いたのか、昼の光の下で見てみたい気持ちと、見ないほうがいいかなという気持ちと半々だ。

(画像8)朝見たParikrama Margの出発点

朝見たParikrama Margの出発点

旅は続き、朝帰りした後、寝る前にお茶をもらい、その後昨晩のように着の身着のまま、みな昼の1時頃まで寝た。起きた後、順番に沐浴をし、お昼ご飯をいただく。チャパティーと野菜のカレーと大根のアチャール(漬物)だった。みなで一人ひとりお皿を抱えて食べるのではなく、2皿を5人で食べた。もちろんチャパティーはたくさん焼いてくれた。シンプルな食事なのだが、チャパティーも作る人によってずいぶん味が違うものである。この家のチャパティーはとてもおいしかった。手回しのミシンでクルタやサリーブラウスの仕立てなどもやっている奥さん(シータさん)は、器用で働きものだ。

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同行者の1人は小さな子供が2人いるお母さんである。最初翌日の朝デリー到着の電車で戻るというような話だったが、今日中に戻ったほうが、明日の朝楽である(子供の世話をした後、仕事に行かねばならない)ということで、夕方6時頃の電車に乗るという話になった。3時頃、お世話になったこの家の家族に別れを告げる。その時、シータさんが私も含め全員にお金(50ルピー)をくれた。驚いたが、客へのrespectだよといわれ、受け取り、お返しに、私も子供たち3人にお金を渡した。大通りでバスに乗る。マトゥーラ駅に行くのかなあと思っていたら、全然違う方向で、アリーガル近くのイグラスというところで降りた。またミターイーを買うよというので包んでもらい、スンデリさんのさらに下の弟2人を訪問。弟さんの1人はバザールで食堂をしていた。冷たいものを飲ませてもらったり、自宅につれてもらったりしているうちに、夕方6時。ここでもお金をもらう。

結局、そこからアリーガル駅までまたバスにのる。8時半頃のニューデリー行き電車があるというので、運転手さんに電話をして3時間後くらいにうちから近いニザムッディン駅まで迎えにきてもらうように頼む。

電車は30分遅れくらいでアリーガル駅に入ってきた。見るとオリッサ州のプリーからの長距離電車だった。2等の普通の車両を探して歩く。途中のスリーパークラスにはだいぶ空きがあるようだったが、普通車両は床から天井近くまでどこも一杯で、9割がた男性乗客である。しかし女性達も6人固まると強い。満杯の席に無理やりお尻を押し込んで、全員が座ったのである。でも、私はあまりに狭いのと、生来からだが硬いので無理な姿勢を長く続けることはできず、途中しばらく立っていたら、他の乗客がなんとかまたスペースを作ってくれた。

他のみんなはニューデリー駅まで行くが、私はその手前の駅で降りるつもりにしていたのだが、次の駅はどこだと他の乗客に聞いた段階で、この線はマトゥーラに行ったのと違う線で、私の行きたい駅は通らないことが判明した。それで急遽、彼女たちと共に、ニューデリー駅の手前のガジアバード駅で降りて、運転手さんが来るまで彼女たちの家で待たしてもらうことにした。彼女たちの住むスンデルナガリはガジアバードに隣接しているのである。ガジアバード駅についたのが夜11時過ぎだったろうか。やれやれと思うまもなく、そこからスンデルナガリに移動するのが、また大変だった。州が違うということで直接行くオートやテンポが見つからず、ようやく見つけたテンポも途中乗り換えた。しかも夜トラックが大量移動するこの道路はものすごい渋滞で、スンデルナガリまで2時間近くかかってしまった。そこから家まで、昼間だと1時間の道だが、さすがに夜中1時頃はすいていて30分ほどで自宅に着いた。

ようやく短くて、長い旅が終わった。

関連レポート:

フォトエッセイ:インド人との旅――マトゥーラ編――」『アジ研ワールド・トレンド』2010年10月号(第181号)掲載