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海外研究員レポート

中国・出稼ぎ新世代の闘い:富士康連続自殺事件とホンダ工場ストライキをめぐる動向

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049956

2010年6月

「世界の工場」の最前線、広東省の2つの製造現場で起きた労働者(農民工)をめぐる動きは、同じ問題が2つの異なる形で表面化したものとみられる。この2つの事件は、6月初旬にどちらも例年にない大幅な賃上げという形でそれぞれ、一応の収束に到った。しかし、特にホンダ事件は、社会主義体制下の中国では非合法なはずの労働者の自発的なストライキであり、それが賃上げの実現に到った点で中国社会の変化をうかがわせる出来事であった。その後、このようなストライキが中国各地の他の企業にも連鎖する現象が多数起きている。また、2つの事件の背景にある中国の出稼ぎ者をめぐる問題は個別企業の賃上げで解決する問題ではなく、問題は引き続き未解決だといえる。その意味でこの2つの事件は重要だと思われる。本稿では主に中国のメディア報道から、2つの事件の経過を整理し、中国の労使関係、出稼ぎ者の今後を展望してみたい。

1. 富士康連続自殺事件

電子製品の製造受託サービスを行うホンハイ精密工業の中核子会社、富士康国際(フォックスコン)の深セン工場で、今年に入って従業員の自殺が相次いでいることが最初に報道されたのは、今年4月のことである(4月14日『広州日報』)。4カ月で6件の自殺(未遂を含む)が起き、深セン市総工会1が調査に乗り出した、と報道された。

「南方週末」による不完全な統計では、富士康では、2007年にも2件、2008年に1件、2009年に2件の従業員の自殺が発生している。2010年に入り、飛び降り自殺が連続し、その後5月末までに13件の自殺(一部未遂を含む)が発生した。自殺報道が新たな自殺を呼ぶ恐れから、5月28日、中国国内のメディアは(政府から)富士康の自殺報道を自由に報道してはいけないとの通知を受けた(FT中文網6月1日)とのことで、それ以降の動向については一切の情報が絶たれている。

富士康は深セン工場だけで普通ワーカー31万人を抱える大工場である。富士康経営陣は、当初は全国の自殺率に比べ、富士康の自殺は多いとは言えないと発言したり、また、自殺は個人の家庭環境や社会問題だとして、会社としての管理上の責任を否定していたものの、ここへ来て企業としての責任に言及せざるを得なくなった。それに伴い、心理コンサルタントを工場に招聘し、悩み相談ホットラインをもうけたり、従業員同士の助け合いチームを作ったり、ストレス発散のためのサンドバッグ(上に管理職スタッフの写真を貼ったもの)を設置したり、宿舎に自殺防止のためのネットを貼るなどの措置を採っている。

なお、自殺者は1824歳で、富士康によれば勤続半年以内の新参者が多い。自殺の方法は20097月に起きた宿舎からの飛び降り自殺以来、2010年の事件では明らかになっているほとんどが宿舎からの飛び降り自殺である(下表参照)。

表 2010年に起きた富士康の従業員自殺事件(未遂を含む)

表 2010年に起きた富士康の従業員自殺事件(未遂を含む)

(出所)『南方週末』5月13日刊、『財経網』5月18日記事より筆者作成。

大量自殺発生の原因について、低賃金が問題だとか、新世代の出稼ぎ労働者たちのおかれた境遇の問題だとか、「80後・90後」2と呼ばれる若者世代の精神的な弱さが原因だとか、富士康の極度に効率を追求した企業管理の問題だ等などの様々な指摘がなされている。数々の報道と専門家や研究者の見解にみられる自殺の背景は、大きく分けて以下の3つの問題として説明されている。

1に、自殺者個人と彼らの世代的特徴からの説明がある。富士康の経営層が当初主張していた、自殺は純粋に個人的な行動であり、その背景は恵まれない家族関係や恋愛関係のトラブルなどの精神的な問題、また年若い80後・90後の精神的脆さにあるとの説明がある。

第2に、富士康の企業としての問題が上げられる。若い出稼ぎ者の自殺は富士康だけで起きているのか、富士康は氷山の一角であって他企業でも自殺が起きているのかは、明らかでない。しかし、少なくとも他の企業ではこれほど多発していないと考えるとすれば、なぜ富士康で複数の自殺が起きるのかは当然追求されるべき問題だろう。

富士康が労働環境の劣悪な極端な搾取工場で、従業員を自殺に追いやっているとの考え方は、概ね否定されている。労働環境の劣悪な工場や搾取工場は数多くあり、富士康の就業環境、無料の宿舎と食堂、プールや洗濯などの完備された娯楽・生活サポート施設は、それら自体としての環境は決して悪くないようである。

ただし、単調な作業が長時間続く、極度に効率化された就業体制、従業員管理と、工場内の人間関係の希薄さが従業員を精神的に追い込み、自殺に駆り立てている(『南方週末』5月13日)。 若い『南方週末』記者の潜入レポートによれば、ひどく単調で、しかも一時しゃがむ余裕さえもないベルトコンベア上の作業に疲れた従業員たちは、宿舎の同室者の名前も知らず、ほとんど会話することもないという。それにも関わらず、基本給(900元)が低く、それだけでは生活を維持できないため、皆進んで残業をしたがる。誰もが自主的に単調な長時間労働に駆り立てられる「残業王国」だという。

第3は、「農民工」(農村出身の非農業従事者)を取り巻く社会体制の矛盾と悪化という大きな 問題への指摘である。大量の廉価な労働力を背景に経済発展を進めてきた中国は、GDPの急成長の一方でそれに大きく貢献した「農民工」を保護制度から排斥し、低賃金のまま雇用してきた。深セン当代社会観察研究所の劉開明所長によれば、1992年以来、都市の在職者と外来「農民工」の賃金格差は拡大し続け、2008年には主な出稼ぎ就業地である珠江デルタと長江デルタにおいて、農民工の賃金は都市戸籍の在職者の37.8%に過ぎない。今、出稼ぎ新世代または第2世代と呼ばれる1980年代以降生まれの出稼ぎ者たちは、実はそれ以前の出稼ぎ第1世代より所得が減っているという(『南方週末』5月13日)。

さらに、新世代の出稼ぎ者は旧世代に比べ、より大きな焦りと生き残りのプレッシャーに直面している。なぜなら、新世代は親の出稼ぎのために小さい頃に故郷を離れて都市で育ったか、農村で育っても農業就業経験がなく、出稼ぎに出た世代であり、農村・農業に基盤を持たないからである。都市での生活が厳しくても、第1世代と違って農村に戻る選択はないことが彼らの焦りと迷走につながっている(『南方週末』同上)。

6月に入って富士康の経営陣は、一定の業績を達成した従業員には10月1日から66%の賃金アップを実施することを申し出た。これにより、現場労働者でも基本給が2000元になるとみられる(FT中文網6月7日)。

2. 南海ホンダ部品工場のストライキ

富士康の9件目の自殺事件から3日後の5月17日、広東省仏山市にあるホンダの部品工場(南海本田零部件製造有限公司)で、100人に上る従業員が就業を放棄し、賃上げを要求するストライキが起きた。ストライキの発生は、当初は必ずしも組織だったものではなかったようである。この日の朝、変速機組立科の2人の若者が仕事を放棄し、生産ライン上の他の従業員にストを呼びかけた。日頃から賃金待遇に不満を持っていた従業員がこれに呼応し、仕事を離れて工場の外の運動場に集まって「散歩」(事実上のデモ)をする形に発展した(『財経』6月7日第265号)。

これに対し、工場側が1週間以内に回答することを約束して、従業員たちは数時間で仕事に戻った。5月20日、21日に労使で話し合いが行われ、その中で労働者側から提起された賃金水準は、実習生(職業高校などから派遣された学生就業者)と正規労働者とも基本給を800元アップする、また毎年の賃金上昇率を15%以上にするというものだった。この時、南海ホンダ工場の従業員の賃金(実質支給額)は1120元だった。

5月22日から6月1日にかけて、工場は就業停止状態で、この影響で親会社の広州汽車ホンダ、東風ホンダなどの中国の4つのホンダの完成車組み立て工場が操業停止に追い込まれた。この時点で、従業員は「従業員の要求」として6点の要求書をまとめ、工場側に提出している。その主な内容は、賃金の800元アップ、勤続補助の追加、ストライキに参加した従業員を解雇しないこと、「工会」の再組織などであった。ストの発生当初は、要求は賃金アップのみだったが、この時にはより正式に要求をまとめ、「工会」の再組織をも求めた点が注目される。なお、6月1日に従業員は16人の従業員からなる協議代表団を組織し、「全ての労働者と社会各界に宛てた公開状」という手紙を公表した。そこには、「我々の権益保護闘争は本工場の従業員1800人の利益のためだけではなく、我々は全国の労働者の権益にも関心を持つものです。私たちが労働者の権益保護のよい前例を打ち立てることを希望します。」と書かれている。なお、南海ホンダ部品工場の現場労働者は1800名、年齢は大半が20歳前後で最年長でも23、4歳である。

工場側は5月24日の回答で、生活手当を55元上げること、さらに5月27日の回答で従業員の賃金を毎月340~477元の範囲でアップすることなどを上げたものの、従業員要求の800元には遠く、合意に到らなかった。この間に5月22日には工場内放送で2人のスト首謀者を解雇することを伝え、経営側はこの2人の従業員に辞職願に強制的にサインさせた。これを知った従業員は2人の退職願を返却することを求め、ストの規模は拡大して工場全体のストライキになった。この他、経営側は宿舎にいる従業員に、ストに参加しない旨の承諾書にサインするよう求めたものの、従業員は応じなかったという。

事態が硬直状態に入りかけた6月1日、広州汽車集団副董事長兼総経理の曾慶洪氏が仲介に現れ、事態は急展開した。曾総経理は広州ホンダ(国有・広州汽車集団とホンダの各50%出資による合弁会社)の総経理を勤めたことがある点でホンダと縁のある人物だが、南海ホンダとは直接関係はない。消息筋には、この人の出現は事態の収束に向けた地元政府の計らいだったと推測されている。曾総経理はこの日の昼に南海ホンダの16人の従業員代表と座談を行い、午後には400名が参加した従業員大会に出席して3日後の午後3時に回答を出すことを約束した。

もうひとりの重要な仲介者に、労資問題の専門家・常凱教授(中国人民大学労働人事学院)の役割がある。従業員側は工場からの報復措置を恐れてリーダーを選べず、このことが労使間の有効な対話の実現を阻んでいた。関係者の取りもちにより、従業員代表が6月3日、常凱教授に連絡を取り、従業員側の法律顧問として翌4日の労使協議に出席することを依頼して実現した。

6月4日の協議は南海区労働部門が主催し、労使双方がそれぞれ代表を派遣して参加した。広州汽車の曾総経理は労使どちらでもない第三者として協議に参加した。なお、工会は人を派遣しなかった。当日夜9時、双方が合意して協議は終了。従業員の賃金は現行の水準を基礎に35%アップとなった。これにより、普通ワーカーの賃金は1510元から2044元に増加した。また、合議にはストライキに参加した従業員に責任追及をしないことが盛り込まれた。

この結果は、従業員の当初の目標額800元アップには達さず、またのちに提起された工会の再組織という要求は黙殺された。しかし、労使交渉において相互の譲歩が求められるのは当然であり、常凱教授によればこの結果は労使双方、さらには政府を含む3者のトリプルウィンであったという。

3.ストライキを巡る工会と政府の動き

ところで、社会主義を掲げる中国においてストライキは長く違法行為であった(今もそのことに変わりはない)。公有制の中国において、ストライキは存在しないとして、1982年に憲法からスト権の記述が削除されている。労働組合も共産党下部組織の「工会」が唯一認められた組織で、この工会は労働者の権利を守ることが使命とされながらも、実際には経営をサポートして従業員を管理する性格が強い。実際、南海ホンダのストライキ事件において、工場には工会が存在したにも関わらず、工会は労使協議に従業員代表として参加しようとはしなかった。従業員らはこれに不満を持ち、「我々は毎月5元の工会費を払っているにも関わらず、工会は従業員の利益のために働かない」と言っている。

ストが続き、協議が膠着していた5月31日になって、南海ホンダの工場所在地である南海区と獅山鎮それぞれの総工会が初めて介入したが、皮肉にも工会スタッフはストを続ける南海ホンダの従業員を職場に復帰させようとし、衝突した。明らかに、工会は従業員の利益を支援するのではなく、ストの早期解消を焦っていたとみられる。これに対し、従業員代表団は前述の「全ての労働者と社会各界に宛てた公開状」の中で、南海区と獅山鎮の工会の態度を批判し、「工場の基層工会は現場従業員の選挙により選出されるものでなければならないことを堅持する」と述べている。

さらに、ホンダのストを巡っての地元政府の行動が中立的で、過度の干渉をしなかったことが高く評価されている(常凱『財経』6月7日第265期、長平(評論家)『財経網』ブログ6月8日)。従来のストライキに対する地元政府の態度は、社会の安定を脅かす暴動(群体性事件)や不穏な事件(不穏定事件)として強制介入するか、地元へのビジネス招致への悪影響を恐れ、経営者に加担する方向で速やかに問題の解決を図ろうとするものだったようである。それが、南海ホンダのストライキに対し、地元政府は個別企業の労使衝突と見て中立な立場を取った。従業員側の行動の違法性を取り立てて従業員に直接干渉することもなかった。このことが、労使間の協議を可能にし、問題の解決につながったと常凱教授は評価している。

地方政府のこのような新しい動きには、当然ながら中央の示す方向性が強く影響しているはずである。2008年に施行された労働契約法による労働者保護の流れ、和諧社会の建設を政治目標に、貧富の差の縮小を目指す胡錦濤政権の方針が大きな背景にある。

それにしても、従業員による時発的なストライキが政府に黙認され、労使交渉を経て賃上げの実現につながった一連の事件は、中国の労使関係の新たな時代の到来を示唆するものとみることができる。

おわりに

富士康と南海ホンダの2つの事件は、自殺とストライキという異なる形をとったが、その根底には従業員の不満・絶望・憤慨という共通の背景がある。また、2つの工場の従業員はどちらも、新世代(=第2世代)と呼ばれる1980年以降生まれの若い出稼ぎ労働者である。それが、なぜ、一方の富士康では自殺という形で表出し、他方の南海ホンダではストライキの組織、団体交渉、賃上げの実現に到ったのだろうか。

両者はまず、企業規模が大きく異なる。富士康は普通ワーカーだけで31万人の大規模であるのに対し、ストライキを実施したホンダの工場はどこも従業員数2000人以下と、組織が比較的容易であったことが考えられる。富士康はストライキの組織が難しい大規模工場であった上、人間関係も希薄でストライキどころか日常的な交流さえほとんどないという。不満を抱えても集団行動に到らず、極度に追い詰められた個人の自殺、さらにはその連鎖反応という事態につながったのだろう。さらに、手元にデータがないが、従業員の流動性も富士康では相当高く、ホンダでは比較的低いと思われる。ホンダのストライキでは、管理者や経営側にストライキへの参加を知られ、解雇されることを恐れた従業員らは、マスクをしてストに参加するよう呼びかけていた。また、従業員代表のリーダーが選出できなかったのも、経営側に目をつけられることを恐れたからで、このことは従業員の同工場への定着志向を示すものと言える。従業員の定着性の高さも、ストライキの組織を容易にしたと思われる。

2つの事件は相互に関連はしていないものの、経営側や地元政府の判断には富士康の場合にはホンダ工場のストライキが、ホンダ工場の場合には富士康の自殺事件が、間接的には大きな影響を与えていると考えられる。目下、中国では個別企業の労使衝突やストライキは黙認されるようになったものの、企業を超えた労働者の連帯行動は依然として極度に警戒されている。今後もこのような個別企業における労使紛争は中国で増加すると見られ、それが長期的には出稼ぎ新世代をめぐる環境を変えることにつながるかどうかに引き続き注目して行きたい。

以上


脚注

  1. 「工会」は官製の労働組合。
  2. 中国語で1980年代生まれの若者世代を「80後」、1990年代生まれの若者世代を「90後」と呼ぶ。