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海外研究員レポート

ミャンマーのサイクロン災害とタイの緊急支援外交
タイの対外行動パターンに関する一考察

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049985

2008年5月

はじめに

本報告は、ミャンマーのサイクロン災害への緊急支援をめぐる国際関係の中で、タイ政府が果たそうとした調整的役割に注目する。そしてその行動を過去の事例に参照し、ミャンマーと諸外国の間にあって独自の影響力を発揮しようとするタイの対外行動パターンとして示すことを試みる。

サイクロン災害をめぐる各国の支援外交

2008年4月27日にベンガル湾中央部で発生したサイクロン・ナルギス(Nargis)は、5月2日にミャンマーのイラワディ川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした。ミャンマー国営テレビの発表によると、ナルギスによる死者は7万7738人、行方不明が5万5917人となっている(5月16日発表)。

国連をはじめとする各国・国際機関は、災害発生直後から各種の災害救助支援を申し出た。しかしながら、ミャンマー政府は「政府の災害援助能力は十分である」と主張してこれを拒否、国際機関から寄せられた人道援助物資や救援の人材が数日に渡りヤンゴンで足止めを食うという事態が起こった。国連と東南アジア諸国連合(ASEAN)の主導で災害支援のための国際体制創設について合意がなされたのは、災害発生から20日以上を経た25日のことであった。その間、ミャンマー国内では伝染病の発生が伝えられたほか、救助の遅延による死者の増加が続いた。

不幸な天災が未曾有の人災に転じたのは、災害支援の必要を認めず、海外からの大規模な緊急救助支援を拒否し続けたミャンマー政府の態度によるところが大きい。同国政府が欧米や国際機関からの申し出に対し頑なな姿勢をとった理由としては、以下の2点が考えられる。ひとつは人道援助を梃子に米国、フランスなどの欧米諸国から国内の政治体制転換を迫られることを嫌ったこと、もうひとつは5月10日に予定されていた新憲法の是非を問う国民投票の実施を最優先したいという事情である。2007年9月にミャンマー国内で起こった民主化要求デモとそれに対する政府の武力弾圧により、タンシュエ国家平和開発評議会(SPDC)議長率いる国家秩序回復評議会(SLORC)は、欧米諸国をはじめ諸外国から強い非難を浴びた。ミャンマー政府はかねて起草していた憲法草案を国民投票にかけ、「民意に問う」ことで政権の正当性確保を急いだ。しかしながら、彼らは「民主主義」の体裁を整えようと急ぐあまり、目前の人道的問題への対応を後回しにした。結果、ミャンマー政府は、人道的見地から体制の民主的であることを是とする国際世論から一層の非難を浴びつつある。

タイ政府による仲介

こうした状況にあって、国連をはじめとする国際社会とミャンマー政府の間に立ち、援助受入れを説得したのがタイ政府である。タイは5月6日にいち早くインドネシア、インド、中国とともに災害支援提供を申し入れ、ミャンマー政府から受け入れられた。9日にタイ政府が米国に代わってミャンマー政府の援助受入れ説得を申し出ると、スリン・ピッスワンASEAN事務局長も各国に対し災害支援はタイを介して行うようアピールしてこれを支持した。12日には国連のハン・キムン事務総長から依頼を受け、14日にサマック・スンタラウェート首相がヤンゴンに赴き、テインセイン首相に援助受入れを説得した。「ミャンマーとの特別な関係」1をアピールすることで、タイ政府はサイクロン災害支援をめぐる国際関係の中で仲介者として立ち回ろうとしたのである(参考資料参照)。

サマックの行動を、政治家としての個人的パフォーマンスとみなすこともできよう。しかしながら、ミャンマー政府と他の諸外国・国際機関との間にタイが立ち、関係調整を試みるという行動は、現政権に限って見られる現象ではない。ここでは、過去のタイ政府によるミャンマー政策を概観し、類似の例を挙げてみる。

ミャンマーのASEAN加盟が現実になり始めた1990年代半ば、当時のチャワリット・ヨンチャイユット首相(在任1996~1997年)はミャンマーのASEAN受入れを強く支持した。ミャンマー政府の国際的立場向上への政治的な支援と引き換えに、木材、天然ガスをはじめとするミャンマーの天然資源へのアクセスや、当時すでに9億9600万米ドルに達していた同国への投資拡大といった経済的利益を見込んでの行動だった2。チャワリット首相にとって、ミャンマー政府をASEANのメンバーに推すことは「経済的な意味で(タイが)地域のナンバー・ワンになる」(Asia Week1999年8月号、20~27頁。日本語訳およびカッコ内補足は筆者)ために不可欠な手段であったことがうかがわれる。

こうした親ミャンマー政策は、チュワン・リークパイ第2次政権(1997~2001年)の登場により大きく転換する。チュワン首相およびスリン外相(現ASEAN事務局長)は、ミャンマー政府にASEANの加盟国として政治体制の「民主化」を主張した。同政権が「柔軟関与政策」(flexible engagement))と称したこの方針を、Pavin[2005]は、「タイは民主主義国」というチュワンおよび当時の政策関係者の抱いていた集団的アイデンティティが対外的に発露された例として説明する3。国内問題への介入を是とする「柔軟関与政策」は、内政不干渉を原則として戴くASEAN諸国から支持を得ることは無かった。だが、チュワン政権はその方針に基づき、ミャンマーに対して政治体制の変革を主張した。Pavinの言うように、「柔軟関与政策」がチュワンにとって集団的アイデンティティの問題に根ざした行動と考えるならば、同政策は「民主主義諸国の一員」であるタイが、陣営の外にいるミャンマーに対し、自分たちの価値を共有するよう働きかける営為だったといえよう4

チュワンのアプローチと対照的なのが、タクシン・チンナワット政権(2001~2006年)のミャンマー政策である。タクシン首相は、ASEANの枠組みから離れて独自にミャンマー、ラオス、カンボジアといった近隣諸国との協力を促進した。タクシンは「政治と経済の分離」を強調した。彼はミャンマーの政治体制の是非にはほとんど言及せず、近隣諸国との経済協力と経済統合のための政策遂行に力を注いだ。イラワディー・チャオプラーヤー・メコン経済協力戦略(ACMECS)の創設や、近隣諸国からタイへ流入する労働者の合法化、南北・東西の流通道路網整備はその具体例である。タクシンの狙いは、近隣の低開発諸国と日本、米国といった先進国との間にタイが立ち、援助案件の立案実施や企業の事業展開戦略の中でタイ政府とタイの企業が媒介的役割を果たすことにあった。タクシン政権の対外政策とは、グローバルに展開する経済システムの中でタイが媒介的役割を果たしうるような環境を築くための手段だったといえる(詳細は青木[2008]参照)。

タクシンによるタイの単独イニシアティブは、彼の退陣後に再びASEAN重視の方向に傾斜する。2007年9月、ミャンマーでの民主化要求デモに対する武力弾圧に欧米各国が非難声明を出したとき、スラユット・チュラーノン前首相は国連のイブラヒム・ガムバリ特使と会談し、国連とミャンマー政府との対話を促した。この時スラユット前首相が提案したのは、国連、ASEAN、中国、インドからなる4者会議を開催し、ミャンマー国内の人権状況について解決の糸口を探るという構想であった。ここで注意したいのは、前首相が提案に際してタイが単独でミャンマー問題に関わるのではなく、あくまでASEAN10カ国の合意した方向でミャンマーの国内政治問題に対処するという姿勢を強調したことである(Bangkok Post 2007年10月16日)。スラユットが4者会議のメンバーとして挙げた顔ぶれは、いずれもミャンマーに対し政治体制の転換を強硬に主張する国ではなかったことに注意したい。その後10月27日にニューヨークでASEAN特別外相会議では、シンガポールの外相が武力弾圧に対する「嫌悪感」を表明したものの、11月のASEAN首脳会議(シンガポール)ではミャンマー政府の要求を受けガムバリ国連特使の報告を中止した。

そこには、他のASEAN諸国の足並みからタイが逸脱しないよう配慮しつつ、ミャンマー政府が完全に孤立しない国際環境を用意しようとしたタイ政府の意図がうかがわれる。

以上の経緯を見る限り、タイのミャンマー外交は、政権が変わるごとに支持と批判の間を振り子のように振幅してきたようにみえる。しかしながら、両国の関係を国際社会全体の文脈に位置づけてみると、タイ政府が常に欧米諸国やASEAN加盟国といった第三者との関係を常に意識しつつ、ミャンマーとの関係を調整してきた様子が浮かび上がる。

調整役を通じての国際的立場模索

タイのミャンマー外交は、政策担当者がミャンマー政府との関係を独占することで同国から経済的利益を得ようとするレント・シーキング行動として、しばしばタイ国内で批判の対象となってきた。個人的に親しい一族のビジネス戦略に添った形でミャンマーへの投資拡大を企図したチャワリット、バーツ借款による事業を自身の所有する企業に誘導しようとしたタクシンは、その代表例である。この見方はタイとミャンマーの間にある政策担当者間のネットワークの存在とその影響を上手く言い当てているものの、両国の関係を特徴付ける地政学的かつ経済社会構造的な要因を看過している。

タイがミャンマーの国内問題あるいは対外行動に無関心でいられない最大の理由は、両国が陸上国境を接しており、その国内情勢の影響を相互に、常に、かつ直ちにこうむるという事情にある。ミャンマー国内の政情不安は、政治的自由や身体の安全を求める難民という形でタイ国内に流入する。またミャンマー国内で反政府活動を続ける少数民族は、時にタイ国内でその活動を行うことがある(北部山岳地帯における違法薬物取引は、その一例である)。一方で隣国の経済的停滞は、就労機会を求める移民労働者をタイ国内に送り込む。合法違法を問わず流れ込むヒトやモノの流れは、タイにとって国家の統治システムを揺るがしかねない安全保障上の問題である。同時にそれは、80年代以降労働力を近隣からのマイグレーションに頼るようになったタイの製造業を左右する経済的問題でもある。タイ政府がミャンマーとの「特別な関係」を強調するとき、観察者は両国政府間の人的繋がりのほかに、こうした経済社会構造の相互依存関係を考慮する必要がある。

ただし、タイ・ミャンマー間の経済社会構造の相互依存関係を動機として加味しても、なぜタイのミャンマー政策が常に国際社会の第三者(欧米にせよASEANにせよ)の存在を意識するのか、という問いに答えるにはまだ不十分である。

報告者は、この問いに対し以下のような説明を試みに提示したい。すなわち、タイがミャンマーと他の諸外国との間で仲介者あるいは媒介者として振舞うとき、その目的はミャンマーとの直接的な関係調整にとどまらず、役割を果たすことを通じてタイと第三者との国際関係に影響を操作することをも狙っているのではないか、というものである。

チャワリットは、ミャンマーに対する経済的機会を利用してASEANの中でタイを地域大国の立場に押し上げることを企図した。一方チュワンの「柔軟関与」は、民主主義という価値をミャンマーに伝道することで、民主主義国陣営における自国の立場をも向上させようとしたといえよう。またタクシンは、ミャンマーとの経済的相互依存関係を強化することにより、ミャンマーの資源に着目する先進国の関心をタイにひきつけ、それによって国際経済システムにおける自国の地位向上を図った。スラユットの行動は、クーデタ後に成立した「軍事政権」である自国の立場をミャンマーの軍政と峻別しつつ、ASEAN諸国との協調をアピールしようとするものだった。 サマックのサイクロン災害緊急支援外交もまた、ミャンマーにとっては国際社会の窓口となり、他の諸国にとってはミャンマーへの窓口として独自の影響力を発揮しようとしたものと考えられる。

結びに代えて:タイの仲介外交はミャンマーに何をもたらしたのか?

以上の議論は試みに提示したものであり、今後さらに事例に基づいた検証を必要としている。ここでは仮説の検証を急いで拙速に終わることを避け、こうしたタイの対外政策が周囲の国際関係に何をもたらしたのかについて、サイクロン被害にたいする緊急支援外交の例から述べ、結びに代えることとしたい。

結論から言えば、タイの外交努力は、ミャンマー政府に緊急・復興のイニシアティブを持たせる結果となった。国連は、国際支援会議をミャンマー国外で開催することを主張したが、ミャンマー政府はヤンゴンでの開催を主張、ASEAN諸国がこれを支持した。これを受けて5月20日にヤンゴンで開かれた会議では、ミャンマー政府が海外からの人的支援の全面的な受け入れについて政府の意向を優先させると説明し、支援人員の自由な活動を主張する欧米諸国と対立した。復興のための資金については、ミャンマー政府は117億ドルを主張したが、実際に支援の応募があったのはその一部にとどまった。国際支援会議から9日後の6月3日、ミャンマー政府は緊急援助段階の完了を宣言し、米国などの援助活動を終了させた。しかしながら6月12日の国連発表では、同国内で100万人近い被災者がまだテントや食料などの国際救援物資にアクセスできないでいるという。ミャンマー政府は「国民の自立的復興」を掲げており、海外の民間団体による救援物資の配布については厳しい制限を設けている。また一部では、海外からの救援物資を政府機関や国軍が接収したとの報道もある(Irrawady 2008年5月23日 URL:http://www.irrawaddy.org/print_article.php?art_id=12224. 最終ダウンロード2008年5月23日)。現状から判断する限り、ミャンマー政府は同国内の災害救助・復興支援活動の主導権を握っているといえよう。

サマック政権は、「特別な関係」=人的ネットワークを活かしてミャンマーと国際社会との窓口となろうとした。しかし、結果として海外からの人道援助をミャンマー政府の手に渡す扶助に留まり、欧米や国連の意図を汲んだ「仲介」とはなり得なかったというのが事後の印象である。ミャンマー政府による復興活動の成果が疑問視される中、タイとミャンマーの国境地帯にはすでに被災者が安全を求めて移動しつつある。「特別な関係」を通じて試みた仲介の不首尾は、「関係」のもうひとつの側面である両国の社会経済的相互依存関係にネガティブな影響をもたらしかねない。今後の展開に注意したい。


参考資料 サイクロン「ナルギス」によるミャンマー被災状況と国際社会の対応

5月
2日~
3日
ミャンマー   大型サイクロン「Nargis」がイラワディー川流域を直撃
5日 日本

日本政府、約2800万円相当の緊急援助物資の供与を決定

(7日に約3600万円相当の緊急援助物資追加支援

中国

中国の胡錦濤国家主席、ミャンマーのタンシュエ国家平和開発評議会議長に

対し電報を送り、復興協力の意向を表明。

米国、アウン・サン・スーチー氏に対する’Congressional Gold Medal’法案にブッシュ署名

 

6日 中国

中国商務部、ミャンマーでのサイクロン被害に対し50万ドルの義援金と

50万ドル相当の援助物資を送ることを発表

(8日に3000万元の緊急追加援助を発表)

タイ国王、タンシュエSPDC議長にお見舞いメッセージ送る
ローマ法皇、国際社会へ支援呼びかけ
米国、ミャンマーに支援受け入れ要請
ミャンマー、タイ、中国、インド、インドネシアからの物資受入受諾
7日 タイからの救援物資ヤンゴン到着(最初の国際緊急支援)
8日 日本 福田・日本首相、タンシュエSPDC議長宛書簡を送付
インドネシアの2機による救援物資到着
国連による支援物資到着、しかし人的支援受入拒否
9日 国連

国連、ミャンマーの被災状況報告発表。1億8700万ドルの緊急支援の

拠出を加盟国に呼びかけ。

タイのサマック首相、米国に代わって交渉申し出る

スリン・ピッスワンASEAN事務局長、国際社会に対し、支援はタイを

通じて行うようアピール

シンガポール ジョージ・ヨー・シンガポール外相、ミャンマーのニャン・ウィン外相に書簡
10日 ミャンマー ミャンマー政府、新憲法の国民投票を実施

仏、国連安保理にビルマに支援受入を強制する決議求める、

中国、政治化すべきでないと反対

11日 タイ

タイ国王の下命による救援物資、タイ軍用機でミャンマー送付
タイ外務省国境関係局のニパット・トンレック局長、サマック首相の

代理としてヤンゴンを訪問。

UNHCRの支援物資、タイのメーソット経由でミャンマー到着
仏政府、支援物資の配布を強行すると発言

IRCによる最初の支援物資(囚人用)が到着するも、支援物資は

ミャンマー政府が掌握

米国からの支援物資、非武装のC130軍用輸送機にてヤンゴン到着
12日 ハン・キムン国連事務総長、タイのサマック首相にミャンマー説得を電話で要請
13日 タイ タイのノパドン外相、ミャンマー訪問
ミャンマー、バングラデシュ、インド、中国、タイから160人の人的支援要請
14日 タイ タイのサマック首相、ヤンゴンにてテインセイン首相と会談。

Louis Michel (European Commissioner for Humanitarian Aid)、

人的支援受入を説得のためミャンマー到着

国連

ハン・キムン国連事務総長、ミャンマーの被災者支援促進のため、

ミャンマーを含むASEAN各国および日本(インド、常任理事国)など

主要援助拠出国の国連大使らとNY国連本部にて協議

17日 タイ ミャンマー政府、タイからの医療救護チーム受け入れ
18日 国連 ホームズ国連人道問題調整官(事務次長)、ミャンマーを訪問
中国

中国の医療チーム、ヤンゴン国際空港到着。外国の援助隊としては

タイとインドについで3番目。

19日 ASEAN

ASEAN特別外相会議開催(シンガポール)。加盟国の

医療チーム即時受け入れで合意。ミャンマー支援調整の機構設立で合意。

ミャンマー政府はASEAN主導の同機構を通じた国際支援は受け入れると談話

20日 ASEAN スリンASEAN事務局長、ミャンマー訪問。
日本

高村外相、在東京ミャンマー大使と会談。ジャパン・プラットフォームを

通じた支援について提案

ミャンマー ミャンマー政府、ASEANからの医療支援受け入れに合意
21日 韓国 韓国政府、120万ドル相当の救援物資送付を決定。
22日 国連 ハン国連事務総長、ミャンマー訪問。
23日 国連

ハン国連事務総長、テインセイン首相、タンシュエ議長と会談。

タンシュエ議長、国籍を問わず支援の受け入れに同意。

25日 国連・
ASEAN

国連、ASEANによるミャンマー国際支援会議開催。ミャンマー政府は

110億ドルの援助を要請。同日会議で新たに決定された各国拠出の

支援金は数千万ドルに留まる。
ASEAN、国連、ミャンマー政府による支援受け入れ枠組設立提案、決定。

(ヤンゴンに運営事務所設置、ASEAN内に復興基金設立)。

26日 タイ

バンコクの在タイ・ミャンマー大使館で小火。外国NGOによる救援活動の

ためのビザ申請書類が焼失。手続き処理に遅延。

28日 国連

国連、被災救援のための資金目標60%を達成したと発表

(2億ドルのうち約1.2億ドル)

6月
2日 ミャンマー 南部地域のタイ国境付近やサイクロン被災地域でビルマ軍部隊の増強を確認
3日 ミャンマー ミャンマー政府、「緊急援助」段階は完了と主張援助団体は反論
4日 援助のため派遣されていた米国艦船が撤退
6日 タイ 被災者100人以上がタイ・ビルマ国境に到着
13日 日本

日本政府、経済界およびNGOの連携により設立された

緊急人道支援組織「ジャパン・プラットフォーム」(JPF)、

JPF参加のジェン(JEN)による政府資金を活用したトタン板1万枚の

配布事業の開始を決定。

出典:Bangkok Post, 日本経済新聞、The Nation, Irrawady, ASEAN事務局、タイ外務省および日本国外務省ウェブサイトより、山田美和・青木まき共同作成。


脚注
  1. タイ外務省東アジア局東南アジア第2課の官僚が、ミャンマー外交に関する筆者のヒアリングに際し使用した表現を引用
  2. 1997年5月にヤンゴンを訪れたチャワリット首相は、タンシュエ議長に対し、タイがミャンマーのASEAN加盟を支持するのは、それがタイからミャンマーへの投資拡大につながり、両国にとって裨益するところが大きいからだと説明している(The Nation 1997年5月16日)。
  3. 1998年12月にハノイで開催された第6回ASEAN首脳会議におけるチュワン首相の開会式スピーチで、チュワン首相は「Flexible engagement is a reflection of Thai morality. We need this approach to keep up with the rapid pace of development, both regionally and internationally」と表現している。
  4. Pavin[2008]は、タイの国家としての集団的アイデンティティをあらわす用語として実際に使われる=「Thainess」(タイ語はkhwaampenthai)という概念を軸に、タイのミャンマー関与を歴史的に説明する。なお、同署の中で民主主義はThainessの具体的一側面として扱われ、Pavinはそれを両国の歴史的経緯など他の諸要因とともに検討していることを、ここで断っておく。