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海外研究員レポート

政治暗殺

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050019

川中 豪

2007年1月

12月のある日、フィリピン大学から帰宅する途中、路上で黒焦げになった車を見た。衝突などの事故で車があんなに燃えてしまうのだろうかと疑問に思いながら通り過ぎたが、その後、その黒焦げの車両がマニラ首都圏選出の下院議員のもので、爆破装置が仕掛けられため燃え上がったことを知った。議員と同乗者はどうにか無傷で車を脱出したという。

その数日後、アブラ州選出の下院議員が射殺されるという事件が起きた。姪の結婚式に出席し、教会から出てきたところを撃たれたという。ボディーガードも殺された。

いずれも、今年5月に実施される議会選挙・地方選挙をにらんだ政治的な暗殺未遂、暗殺と見られている。前者の事件については麻薬密売グループの関与など含め様々な憶測が飛び交っており、後者の暗殺については、殺害された下院議員と勢力争いをしていた州知事に対して疑いの目が向けられている。ただ、後者の事件で実行犯の一人が逮捕されたものの、いずれも首謀者の特定、逮捕には至っていない。

政治暗殺はフィリピンでは珍しくない。最も良く知られているのは 1983年にベニグノ・アキノJr.元上院議員がマニラ国際空港で暗殺された事件だろう。ただし、国政レベルの政治家が暗殺されるのは稀で、むしろ地方政治がらみの暗殺のほうがより頻繁にある。もちろん、政治暗殺だけでフィリピンの政治、とくに地方政治を語ることは間違いである。こうした暴力と無縁な地域のほうがむしろ多数といっても良いだろう。しかし、一方で政治暗殺が頻発する地域があるのも事実である。そもそもなぜ政治暗殺は起こるのだろうか?

政治暗殺の損得勘定

先に示した2件の首謀者が被害者の政敵であるかどうかは明確ではないが、この2件を除いたとしても、これまで発生してきた地方政治をめぐる暗殺は、その多くが政敵によるものであることはほぼ間違いないと見られている。暗殺する側の利得勘定から考えれば、暗殺が実行されるのは、それが割に合わなければならない。「憎しみ」という感情から暗殺という行為が生まれるのは自然だが、政治的な暗殺の場合、政治的な利益を損なってまで「憎しみ」という感情を満足させることは例外的である。さらに、暗殺が政治的に割が合うというだけではなくて、その置かれた状況下において最適な戦略と認識されている可能性すら高い。

政治的暗殺によって得られる利益とは何だろう。とりもなおさず、有力な政敵を強制的に退場させることで、権力を獲得する確率が高くなることである。政敵の勢力が強ければ強いほどその効果が高い。加えて、もし相手も自分に対して暴力を行使しようとしていると認識すれば、自己防衛としての意味も出てくる。

一方、政治的暴力にはコストも伴う。最大のコストは暗殺首謀者として逮捕され有罪判決が言い渡された場合、刑務所に服役すること、そのリスクである。もう1つは、たとえ有罪 判決を受けないとしても、捜査対象として取り調べを受けたり、報道によってダメージが加えられたりし、結果として票自体が減少しまうというコストである。そして、三つ目に暗殺の実施コストである。暴力を行使するためには暴力手段を獲得しなければならない。武器の調達、実行者の雇用などである。先のアブラ州選出下院議員暗殺に関して、実行グループの一人として逮捕された容疑者によれば、暗殺計画に総額500万ペソ(約1200万円)が出されたという。普通に考えれば馬鹿にならない金額である。

以上の損得を計算するとどういうことになるだろうか。フィリピン、こと地方においては政府の首長などの役職につくことは権力を一手に握ることを意味する。「勝者総取り」、勝った者が政府機構を利用して政治のみのらず経済に至るまで様々な権益を獲得する。一方、負けた者は何ら利益を保持することはできない。勝敗による利得の格差の大きさが権力獲得へのインセンティブを一層高めることになる。強力な政敵を強制的に退場させることによって得られる利益は、きわめて大きいことになる。一方、コストのほうだが、まず、刑務所に服役するリスクについては、有罪が言い渡される可能性を低く抑えることができる。首謀者は通常実行には関わっていないのであり、実行犯に対して有罪が確定したとしても、首謀者から命令があったことを証明することはきわめて難しい。実行犯に対し様々な手段を講じて口止めをはかることも可能である。リスクをコントロールすることができるというわけだ。次に、選挙への影響は、地域の政治状況、当該政治家の集票システムの事情によって大きく異なる。暗殺された側も同様に暴力的であるという評判があればある程度、暴力行為が正当化される場合もあるだろうし、また、暗殺した側が現職である場合、有力な対抗馬がいなくなったことをテコに、政府の資源を使ってさらに票の締め付けを強めることもできるだろう。ただし、フィリピンにおいても同情票は無視できるわけではなく、例えば暗殺された政治家の近親者が代わりに立候補するということになれば、きわめて厳しい選挙戦となるだろう。暴力に対する嫌悪、批判票ももちろん重要だ。このコストを抑えるのが難しい、あるいはコストが予測より大きかった、ということは十分ありうる。最後の実施コストは、得られる利益との関係で相対的に判断される。ただ、この二つを見比べてコストは小さいと判断される見込みはそれほど低くない。

さて、こうして見ると、権力確保の確実性向上と、投票行動に対する影響を勘案したうえで、場合によっては、政治家にとって政治的暗殺は割に合う可能性が高いことがある、と言えそうだ(あえて言うまでもないが、暗殺が決して許されるものではないという規範的前提の上にである)。おそらく暴力の多い地域は、権力を握ることが利益確保に極めて決定的であり(例えば規制権限などに経済活動の多くを依存している、あるいは違法経済活動に依存しているなど)、かつ、投票行動に対する影響、つまりコストをコントロールできる地域ということになろう。

「不正」戦略と民主主義

政治暗殺は究極の選挙不正である。政治暗殺を含め、選挙不正(買収、集計操作など)が行われるのはなぜだろう。もし、民主主義制度のもとで政治に参加するプレーヤーが、制度を守ることで自分たちの利益を最も良く実現できると考えれば、民主主義制度は安定する。

選挙に負けても、その負けを認めることで次回の選挙での勝利の可能性が確保できるのであれば(例えば、敗者が負けを認めることを慣習化することで自ら勝利した場合も同様の行為を期待できる)、負けた候補者は選挙結果を受け入れるだろう。また、選挙不正を行うことが国家から、あるいは社会から制裁を招くことになり、ひいては政治生命を失うことだと認識すれば、選挙不正を行わないだろう。そうした場合、民主主義制度に従うインセンティブをプレーヤーが持ち、民主主義制度は自己拘束的となる。ところが、選挙不正が恒常化し、それによって政治生命を失うどころか、不正を行わなければ政治生命を失いかねないという状況になったらどうだろう。多くの競争相手が「不正」という戦略を選択しているなかで、自分だけが「制度遵守」をという戦略選択をすれば、利得が極めて小さくなる。こうした利得構造のなかでは不正を行うインセンティブが生まれ、プレーヤーが相互に不正を行うのが均衡となる。「不正」戦略選択が均衡となっている場合、民主主義は定着しない。そして、この均衡を破るのはなかなか難しい。