IDEスクエア

海外研究員レポート

2006年「フィリピン政治経済学会――Alternative――」

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050029

2006年11月

1. はじめに

2006年10月27日から28日にかけて、ミンダナオ島の南西に位置する南ザンボアンガ州ザンボアンガ市において Philippine Social Science Council主催「2006年フィリピン政治経済学会(Philippine Political Science Association、以下、PPSA)」が開催された1。本学会の目的は、国内外の関連研究者に学究的な成果報告の機会を提供し、政治、社会、経済、文化、歴史の発展過程や地域社会との相互関係に関する理解を深めると共に、政治制度の評価、憲法改正の可能性を見据えた国家制度の変更、民主主義制度の変容に関する諸問題を議論することにある。

本学会が過去に取り扱った主要テーマには「民主主義と選挙制度」、「民主主義と政党制」、「政治の多様性と民主化の複雑性」などがある。とくに、ここ数年は、民主主義制度(Democratic Institution)の動態に着目した「代表制と包括的対エリート主義(Representativeness and inclusively versus Elitism)」、「政治形態又は行政パフォーマンスの諸問題に対する応答(Responsiveness on the question of regime or administration performance)」、「法の支配の持続性2」などに関する議論を中心に、既存の政治秩序、制度の回復力(resilience of established political order or institutions)、既存のルールとメカニズムの範囲内で新たな変化がもたらされる可能性に焦点を当てた研究報告が主流を占めてきた。

従来のテーマ設定に関しては、PPSA代表のロナルド・ホームズ教授(デ・ラ・サール大学政治学部)が、初日の総会Iで「一定の楽観主義にもとづいて設定されてきたきらいがあった」との評価を示している。ホームズ氏は、過去の背景及び経緯をふまえて、本学会では、フィリピンの政治発展過程の根本的特徴とされる深刻な貧困(massive poverty)、政治の不安定性(unstable politics)、絶えず変容し続けている文化的社会的環境(ever changing cultural milieu)に主軸に移した分析、考察を中心に進めるとし、とくに、現在、国民が直面している政治危機を乗り越えるにあたって、代替的選択肢となり得る制度外の手続きに着目すると述べた。

本学会が“Alternative”と題されたもうひとつの理由に、近年存在感を増しつつある市民団体の影響がある。ホームズ氏は、フィリピンにおける政策立案者や政治家が、国家機構としての弱点を克服するために実施した一連の地方政府レベルにおける制度改革は、一定の現状改善をもたらしたと評価する一方で、危機の現状を正確に把握する目的で実施された本改革が、結果として種類の異なる構造的病弊を生み出す要因となった点を批判し、改革担当者らによる失敗を補完する制度外の選択肢として、今後、NGOや左派系団体などの活動がますます重要視されるだろう、と発言している。

NGOなどに代表される政治上の一勢力は、とくに1986年のマルコス権威主義体制崩壊以降、国内危機の解消に向けた定義書の発表や、街頭デモなどによる抗議行動を通して活動してきた。一般的にも、本勢力は、柔軟性や多様性を生かして現状改善に繋がる実質的具体的な成果を上げていると評価されている。しかし、ホームズ氏が指摘するとおり、こうした組織に人的側面や資金的側面で限界がある点は否めず、実際には、国レベルのガバナンスや長期的な政治発展の方向転換に影響を与え得るほど、十分且つ広範な基盤を有していない面には注意を払う必要がある。この点については、Action for Economic Reformに所属するフィロメノ・サンタ・アナ氏も、自らの組織の限界点として触れており、NGOの諸活動は、あくまで公的制度が網羅できない分野を補完する位置づけに過ぎない点を強調している。

本学会のもうひとつの特徴に、ミンダナオにおける反政府勢力との和平交渉を取り上げたセッションが設けられたことがある。本セッションでは、連邦制への移行をふまえた憲法改正論議を前提に、ミンダナオ地方の自律性を生かしつつ中央政府との関わりを探るべきだとする主張が、ミンダナオ島出身の学識経験者の中で目立った。しかし、経済的基盤が確立されないまま中央政府からの自立を試みることは現実的ではないとの意見も出され、この件についてはさらなる議論を重ねる必要があるとされた。

2. 学会の内容

5つの総会、12の分科会によって構成された本学会の内容は以下のとおりである。参加者 約150名のうち、実際に研究発表をおこなった報告者は約50名であった。

<2006年10月27日(金)>

    1. 【総会 I】開会式
      • 司会:ロランド・フェルナンド II 氏(フィリピン大学ディリマン校政治学部)
      1. 開会挨拶
        • セレソ・ロブレガート氏(サンボアンガ市市長)
        • ウィリアム・クロイツ氏(アテネオ・デ・ザンボアンガ大学総長)
        • ロナルド・ホームズ氏(PPSA 代表兼デ・ラ・サール大学政治学部)
      2. 基調講演
        • 「教会政治と市民社会」アントニオ・レデスマ氏(カガヤン・デ・オロ大司教)
    2. 【総会 II】Defining and Refining Alternatives
      • 司会:マラヤ・ロナス氏(フィリピン大学ディリマン校政治学部)
      1. Philippine History as a Narrative of Political Possibilities:
        • レイナルド・イレト氏(シンガポール国立大学東南アジア研究センター)
      2. Political Alternatives:
        • フェリペ・ミランダJr.氏(フィリピン大学ディリマン校政治学部)
      3. アロヨ政権以降の経済的代替案:
        • フィロメノ・サンタ・アナIII 氏(Action for Economic Reform)
    3. 【分科会】
      • 分科会 1A:Language of Political Community
      • 分科会 1B:市場、技術、移住
      • 分科会 1C:女性と文化
      • 分科会 2A:グローバルな市民社会運動
      • 分科会 2B:抗争、宗教、改革主義
      • 分科会 2C:政党と選挙制度:政治的論争の代替手段

<2006年10月28日(土)>

    1. 【総会 III】 ミンダナオ和平交渉:代替案の探索
      • ハミッド・バラ氏(ミンダナオ州立大学マラウィ校イスラム研究センター)
      • カーメン・アブダカー氏(フィリピン大学ディリマン校イスラム学研究所)
    2. 【分科会】
      1. 分科会 3A:平和、改革、現状改革主義
      2. 分科会 3B:代替的技術、観念形態、ビジネス・モデル
      3. 分科会 3C:イズムとしての代替案:多国籍主義、共同体主義、エコ・ツーリズム
      4. 分科会 4A:軍部と反政府運動
      5. 分科会 4B:グローバリゼーションの文脈から見た市民社会
      6. 分科会 4C:政治形態に変容をもたらす市民社会
    3. 【総会 IV】フィリピンにおける政治科学教授法
    4. 【総会 V】閉会式
3. 基調講演の内容

本報告では、紙面の都合上、アントニオ・レデスマ氏(カガヤン・デ・オロ大司教)による基調講演に焦点を絞って内容を紹介する。レデスマ氏は、総会Iで、道徳(moral)、規範(value)にもとづく制度外からのアプローチ(Alternative Approach)に焦点を当てた「フィリピン政治における教会の役割」に関する報告をおこなった。

「教会政治と市民社会(Church Politics and Civil Society)」

アントニオ・レデスマ氏(カガヤン・デ・オロ大司教)


ここ数年、フエテンに代表される違法賭博や、2004年大統領選挙不正疑惑にまつわるアロヨ大統領の電話盗聴スキャンダル、国民発議による憲法改正の試みなど、政治にまつわる重大事件が世間を賑わせてきた。カトリック教会指導部は、事件が発覚するたびに、アロヨ政権に対して道徳的説明責任を(moral accountability)を問い、憲法の遵守を徹底するよう要請してきた。

教会指導部の政治への積極的な関与については1987年憲法で明定されている「政教分離原則」 (第2条第6節)を理由に難色を示す者も少なくない。しかし、一連の行為は、教会指導者が国家を代表する信仰と価値観の熟達者(expert)であることを前提とするものであり、過去の歴史に鑑みても、教会が社会科学における対話(on-going dialogue)において中心的な役割を担うべきだとする社会的期待は存在している。この傾向は、とくに1986年と2001年の2回にわたって実現したエドサ革命の際に顕著に現れており、第二期アロヨ政権に入った現在も、道徳、規範、説明責任などの観点から、教会指導部が政治に対して監視的役割を果たすことを支持する意見は少なくない。教会に対するもっとも大きい期待のひとつに、国民に向けた社会指導(social teaching)の実施がある。これは、民主主義制度の積極的運用に関わる国民の政治参加や政治的意思決定の選択の際に、教会指導部が提示する「公共の利益(common good)」の観点に根ざした方向性の明確化が必要 であるという見解にもとづくものである。

この他にも、教会指導部は、最近被害者数の増加が目立っている左派系活動家、ジャーナリスト、労働組合指導者を狙った殺人事件などの人権問題に関して、先頭に立って警鐘を鳴らし、国家警察に関連捜査の迅速な進展を求めていく方針を示している。また、食糧や水の確保に関する生活保障、行政府を中心とした汚職防止対策、農地改革をはじめとする社会改革プログラムの実施、政治制度の再評価(Access to Political Reassessment )へのアクセス保障など、民主主義的手続きを通して実現されるべき分野についても、監視や助言の提示という形で関わっていく所存である。フィリピンの政治文化におけるキリスト教的信仰の影響は大きく、教会の使命の根本には、政治における宗教的規範的重要性(religious and moral dimension)の尊重が含まれていると言っても過言ではない。人々を貧困の恐怖から自由にすることを目指し、政治の最終的目標のひとつである社会正義の実現に向けて、教会指導部は、今後も市民社会における現実と目的の乖離に歯止めを かける存在であり続けたいと願う。

4. おわりに

ミンダナオ島の南西に位置するサンボアンガ市には、カワカワと呼ばれる海岸通りがある。 そこは、平日は朝早くから水浴びをする人、魚を釣って売りさばく人、朝食をとる家族などで賑わう。週末ともなると多くの人が海水浴やピクニックなどを目的に集まる市民の憩いの場となる。通りの両端には、ルソン島に向けた物資輸送の拠点となる港や、石油コンビナートなどが設置されており、この地域一帯の商業や産業の要を支える役割も担っている。市内で最も利便性が高く、景色の美しいこの場所にある建物は、そのほとんどが教会もしくは政府関連施設であった。案内してくれたカトリック教会の司祭が“You see the power?”と言っていたとおり、カワカワ沿いの建造物は、教会と政府が有する権力の大きさを象徴していた。レデスマ氏は、講演のなかで、道徳のエキスパートとしての教会指導部の役割を過剰とも取れるほどに強調していた。背景には、スペインとアメリカがフィリピンを植民地化するにあたって、教会を社会的権力の一端を担う組織として用いたことを契機に、教会指導部が長 期にわたり社会的特権を保持及び行使するようになったことがあると考えられる。

現在、カトリック教会指導部の「公共の利益」に即した政治への関与が、政教分離の原則 に反すると批判されながらも継続しているのは、教会自体に中央政府を中心とする通常(formal)の政治制度を補完する代替的(alternative)役割があると理解されているためであろう。

しかし、教会自体が貧困層を代表する民衆の側に立つ者なのかどうかを判断することは容易ではなく、レデスマ氏が指摘する教会主導の社会指導に対する国民の期待が、具体的にどのようなものを意味するかは不明のままである。こうした揺らぎは、軍部と並んで教会指導部が主導的役割を果たした 2001年のエドサII革命の後に、退陣に追い込まれた前エストラダ大統領を変わらず支持し続ける貧困層が大規模な暴動事件を起こしたことなどにも現れていると考えられる。

教会指導部は道徳的指導者として社会的特権を保持し続ける為に、また、社会的影響力を保つ為に、自らの道徳的権威を強調しすぎていないだろうか。レデスマ氏の講演は教会政治に対するいくつかの疑問を残したまま終了した。教会と政治の関わりは、歴史的に複雑な展開を遂げており、今後さらなる研究の発展が待たれる分野である。


脚注
  1. 共催団体は USAID、The Asian Foundation、アテネオ・デ・サンボアンガ大学、サンボアンガ市など。
  2. 原語は"Rule of Law with regard to the ascendancy of laws and the ability of the state to exact social compliance, especially among groups those whose power or influence temper the state’s own ability and subvert its autonomy".