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パリ和平協定30周年から振り返るカンボジアの体制移行

 

Rethinking Cambodia's transition: 30 years on from the Paris Peace Agreements

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00052848

山田 裕史
Hiroshi Yamada

2021年11月

(7,269字)

はじめに

カンボジアは2021年10月23日、「カンボジア紛争の包括的な政治解決に関する協定」(以下、パリ和平協定)1 の締結から30周年を迎えた。同協定が成立した1990年代初頭は、冷戦の終焉にともない民主主義がグローバルな規範とみなされるようになった時期である。新憲法の諸原則として多元主義に基づく自由民主主義体制の採用や定期的選挙の実施を規定したパリ和平協定は、カンプチア人民革命党(現在のカンボジア人民党の前身)の一党独裁下にあったカンボジアに民主主義をもたらすものとして大きな期待を集めた。

しかし30年後の現在、カンボジアでは民主主義が定着するどころか、人民党による権威主義的支配が強まっている。2017年に最大野党・救国党を解党に追い込んだ人民党は、上院と国民議会の全議席を独占しているほか、国軍や国家警察、最高裁判所、憲法評議会、国家選挙委員会を含むあらゆる国家機関を統制下に置いている。また、在職37年目を迎えたフン・セン首相への権力集中が進み、長男への世襲に向けた動きもみられる。

過去30年間のカンボジア政治の展開を振り返ってみると、パリ和平協定締結から国連暫定統治を経て新政府発足に至る体制移行期(1991~93年)に人民党が講じた措置が、実は現在の同党による権威主義的支配の基礎になっていると考えられる。それにもかかわらず、体制移行期における人民党の動向は、パリ和平協定の実施主体である国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority in Cambodia: UNTAC)や和平プロセスを離脱したポル・ポト派に比べて、これまであまり着目されてこなかった。

そこで本稿では、パリ和平協定の発効によって創出された新たな政治環境に人民党がどのように自らを適応させ生き残りを図ったのかを明らかにしたうえで、現在のカンボジア政治への影響を指摘したい。


人民党の選挙集会

写真1 プノンペン都での人民党の選挙集会(2013年7月14日)
パリ和平協定調印の経緯

パリ和平協定は体制移行後のカンボジア政治のあり方を拘束する内容を含んでいた。具体的には、選挙によって選出される制憲議会が新憲法に盛り込むべき原則として、複数政党制に立脚した自由民主主義体制の採用、定期的選挙の実施、独立した司法府の設置、制憲議会議員の3分の2以上の賛成による憲法の採択などが規定された(United Nations 1992)。

1979年1月にポル・ポト政権を打倒して一党独裁体制を敷いた人民革命党は、なぜ民主的政治制度の導入を規定したパリ和平協定に調印したのだろうか。人民革命党政権は1980年代を通じて、領土支配の実態がない3派連合政府2 (ポル・ポト派、シハヌーク派、ソン・サン派)との内戦を遂行する一方、国際的承認を得られぬまま、国連による開発援助さえも拒否されるという条件下で、1970年代の戦乱と社会混乱、そしてポル・ポト政権の圧政によって荒廃を極めた国土の復興と国家の再建を担わなければならなかった(天川 2001)。しかし財政支出の80%を支えていたソ連・東欧諸国からの援助が1980年代後半に打ち切られつつあるなか、国連と西側諸国から援助を獲得しなければ国家運営は立ち行かず、そのことがポル・ポト派の復権を後押ししかねない状況となった。「カンボジア問題」3 をめぐる国際環境が急速な変化を見せ始めた1980年代後半、人民革命党政権は権力を維持するためにも国際的孤立から脱却する必要に迫られたのである。

そのための準備として人民革命党政権は1989年、経済・社会分野の自由化に着手した。まず、国号を「カンプチア人民共和国」から「カンボジア国」に改称し、政治体制に関する憲法条項から「漸進的に社会主義に前進する」(第1条)との文言、および、すべての国家機関の名称から「革命」という用語を削除した。次に、外交上の重点をベトナムやソ連、東欧諸国からASEAN諸国へと移し、カンボジア国の永世中立を宣言した。さらに、事実上の土地の私有を認めたり、仏教を国教と規定したりしたほか、死刑を廃止した。

一方、人民革命党政権に政治分野の自由化を許容する意思はなかった。「すべての革命的任務を直接指導する」と憲法第4条で規定された同党の地位は、1989年4月の憲法改正で「カンボジア社会と国家の指導勢力であり、偉大な民族団結およびすべての政治勢力統一の中核勢力である」との文言に変更されるにとどまった(Akka Lekhathikarthan Krompruksa Thammanunh 2011)。そしてフン・セン首相は次のように述べた。

我々が今日、指導しているこの社会においては、我々はまだ政党の結成を認めていない。もし「カンボジア問題」の政治解決が実現し、(野党政治家がカンボジアに)戻ってくるのであれば、相互に妥協がなされるべきである。彼らは我々を指導的中核と認め、我々は彼らを合法的な政党と認めるということである(Gottesman 2002: 306)。

つまり人民革命党は、同党に対して独立的な自立政党の存在を認めるつもりはなく、従属的な衛星政党が存在する形式的な複数政党制を志向していたといえる。もはや人民革命党には民主的政治制度の導入を規定したパリ和平協定を受け入れる以外の選択肢は残されていなかったが、民主主義の規範自体を受容する意思は当初からなかったのである。

人民党の路線転換

人民革命党はパリ和平協定に調印する直前の1991年10月17~18日、臨時党大会を開催して大幅な路線転換を図った。その目的は、協定発効によって創出される新たな政治環境に自らを適応させ、国連管理下での制憲議会選挙で勝利することにあった。

臨時党大会は、党の指導原理であるマルクス・レーニン主義の放棄と「カンボジア人民党」への改称を決定したほか、党の選挙公約となり得る「カンボジア人民党の政治綱領」を採択した。同綱領は、「政治制度は、自由な民主主義と複数政党制である」と規定し、世界人権宣言に謳われている市民の権利と自由の尊重や、自由市場経済の実施などを盛り込んだ(Kanapak Pracheachon Kampuchea 1991a)。また、制憲議会選挙に備えて党員数を拡大するために入党条件が大幅に緩和され、18歳以上のカンボジア国民は、他政党の党員でなければ基本的に誰でも入党できるようになった(Kanapak Pracehachon Kampuchea 1991b)4

この決定を受けて人民党政権は1991年12月、憲法を改正して「カンボジア国は複数政党制を敷く」との条項を盛り込んだ(Akka Lekhathikarthan Krompruksa Thammanunh 2011)。こうして党と国家は、政治綱領と憲法のうえでは民主的な体裁を整えたのである。

マルクス・レーニン主義を掲げる前衛政党から自由民主主義を標榜する大衆政党への転身という歴史的な路線転換は、党の正史を書き換えることで正当化された。かつて盛んに登場した「共産主義」「革命」「軍事的連帯」「インドシナ3国の戦略的同盟」「ベトナム」といった言葉は1992年以降の党の正史から削除された5。また、敵対する3派連合政府のノロドム・シハヌーク大統領に対する評価も肯定的なものへと書き換えられた(anonymous 1992; Frings 1994)。制憲議会選挙での勝利を最優先する人民党は、国民の広範な支持を取り付けるために、マルクス・レーニン主義政党としてのアイデンティティーと革命闘争の歴史を放棄し、長年対立してきた政敵への追従さえも厭わなかったのである。

党指導部と民主集中制の温存

人民党は上述のような大幅な路線転換を図る一方で、党支配の根幹を成す2つの要素には一切の変更を加えなかった。ひとつは、党指導部の構成である。1991年の臨時党大会は、1981年から党を率いてきたヘン・サムリン中央委員会書記長を名誉党首に任命し、チア・シム国民議会議長を中央委員会委員長(党首)に、フン・セン首相を同副委員長(副党首)に選出した。一方、党指導部に当たる党中央委員会の改選を行わなかったため、1985年の第5回党大会が選出した第5期中央委員会がそのまま継続することになった。また、党中央委員会政治局と書記局を合併し、事実上の最高意思決定機関に相当する党中央委員会常任委員会(17人で構成)を設置した。

もうひとつは、マルクス・レーニン主義を放棄したものの、民主主義的中央集権制(以下、民主集中制)6 というレーニン主義的な組織原則を維持したことである(Pak Pracheachon Padivatt Kampuchea 1985; Kanapak Pracheachon Kampuchea 1991b)。民主集中制は実際の運用に際して、個人は組織に従い、下級組織は上級組織に従うことになるため党内民主主義は制限され、党中央委員会常任委員会を頂点とする階層的な党組織が形成される。個人や下級組織は上級組織の決定を無条件に実行しなければならず、反対すれば規律違反で処分されることになる。人民党はこうした組織原則に基づく党組織を、①中央、②州・市および省庁、③郡・区、④基礎レベルに建設していた(Pak Pracheachon Padivatt Kampuchea 1985; Kanapak Pracheachon Kampuchea 1991b)。

以上のように、人民党は制憲議会選挙に向けてイメージの刷新を図る一方で、党指導部の顔ぶれと党の組織原則といった根幹部分については、1980年代の人民革命党期のものをそのまま温存したのである。

党と国家の未分離

体制移行期における人民党の動向としてもうひとつ特筆すべきは、地方レベルにおける党組織と国家機構の一体化である。パリ和平協定はカンボジアにおける政府の存在には言及せず、人民党政権の存在を公式には否定した。とはいえ、国内の統治実態を考えれば、1980年代を通じて人民党政権が構築してきた行政機構は無視し得ないものであった。そのためパリ和平協定は一方で、正常な日常生活を確保するために、必要な場合にはUNTACの管理下に置くという条件付きで、人民党政権の「現存する行政機構」の存在を事実上認めた。その結果、特に地方レベルでは人民党組織と不可分に結びついた国家機構がほとんど手付かずのまま温存され、国家機構の中立化は実現しなかったのである。

そして1991年の臨時党大会前後から、地方行政機関での人事面における党と国家の一体化が進んだ。地方党組織のトップである州・特別市党委員会委員長が地方行政機関である州・特別市人民委員会委員長(=州知事・市長)を兼任する地域は、1989年時点で皆無であった。しかし人民党は、UNTACおよび野党として再編された抵抗勢力の地方への展開に備えて、1992年7月までに全土(19州・2特別市)において地方党組織のトップに州知事・市長を兼任させる人事異動を行った。

さらに人民党は、党組織と一体化した国家機関を利用して、党員数の拡大による票固めと野党の政治活動の妨害に乗り出した。たとえば、すべての公務員が人民党への入党を義務づけられたり、大学では教員が学生に対して人民党への入党を強要したりした。また、村長が住民の顔写真を撮影して彼ら/彼女らの党員証を作成し、必ず人民党に投票するよう呼びかけた(Ledgerwood 1996; Frieson 1996)。その結果、1991年の臨時党大会時に約3万人であった党員数は、1993年5月の制憲議会選挙前のわずか半年間で200万人以上も増加した(Frieson 1996)。

一方、暴力や脅迫を含む野党の政治活動の妨害には、軍や警察、地方行政機関が積極的に関与した。たとえば、警察が作成した野党関係者の名簿を基に、地方行政機関が野党の党員証を押収した。また、人民党は国営メディアを独占的に利用し、同党に反対する勢力はすべて国家と国民の存続を脅かす存在であるという政治宣伝を行い、野党に対する暴力・脅迫を正当化した。1993年3月1日~5月14日に発生した政党関係者に対する暴力事件27件のうち、人民党による犯行は21件で11人が殺害されたほか、ポル・ポト派とフンシンペック党による犯行はそれぞれ4件と1件であった(Ledgerwood 1996)。

選挙における人民党の敗北と権力分有体制の成立

1993年5月23~28日に実施された制憲議会選挙の結果は、人民党優位とする大方の予想に反して、王党派のフンシンペック党が120議席中58議席を獲得して勝利した(表1を参照)。一方、51議席を得て第2党となった人民党は、不正があったとして選挙結果の受け入れを拒否した。フンシンペック党が第3党の仏教自由民主党(10議席)と連立内閣を樹立すれば、人民党は政権の座を失うことになった。ただし、フンシンペック党は新憲法の採択に必要とされる3分の2(80議席)以上の議席を獲得できなかったため、新憲法の制定においては人民党の協力を得ることが不可欠であった。

表1 制憲議会選挙の結果表1:制憲議会選挙の結果

(注)1993年5月23~28日実施、投票率89.56%、参加政党数20。
(出所)United Naitons(1993)をもとに筆者作成。

ここで人民党内の強硬派は東部7州にまたがる自治区設立を宣言するなどの政治工作を展開し、フンシンペック党に同等の権力分有を迫った。東部7州ではUNTACやフンシンペック党の支部が襲撃されたほか、反人民党勢力に対する暴力・脅迫が相次いだ。このような状況のなか、内戦再発を恐れたシハヌークが自身の息子でフンシンペック党党首のノロドム・ラナリットに人民党との権力分有を強いたことで(Shawcross 1994)7 、事態が打開された。UNTACの明石康事務総長特別代表も選挙結果と統治実態の現実との矛盾を懸念し、安定のためにシハヌークの考えを支持した(明石 2017)。

こうして、ラナリットとフン・センを共同首相とし、閣僚ポストの配分をフンシンペック党と人民党が45%ずつ、仏教自由民主党が10%とするクォータ制を採用したシハヌークの提案に基づき、1993年7月に暫定政府が正式に発足した。

憲法草案が制憲議会に上程され審議が始まると、フンシンペック党と人民党は新憲法制定後の新政府における主導権をめぐって激しく対立した。前者が共同首相制の廃止とラナリットの単独首相就任を主張する一方、後者は共同首相制の継続、および、内閣信任に関して議員総数の3分の2(80議席)以上の賛成を必要とする特別多数の採用を求めたのである。結局、シハヌークの仲介により、次期選挙までの移行措置としてラナリットを第1首相、フン・センを第2首相とする「2人首相」制の導入と8 、内閣信任における「3分の2条項」の採用が決まった。人民党の主張がほぼそのまま通る形となったのは、国家の統一と政治的安定を最優先するシハヌークの現実主義的な意向が働いた結果である。こうして人民党は1993年9月の新憲法公布後も連立内閣の一角を占め、フン・センは首相の座を維持することに成功した。


写真2 人民党の選挙運動 2013年7月14日筆者撮影


写真2 人民党の選挙運動(2013年7月14日)


現在のカンボジア政治への影響

こうして体制移行期における人民党の動向を詳細に検討してみると、パリ和平協定が民主化の起点となり、国連管理下の選挙を経てカンボジアは民主体制へ移行したとする従来の見方とは異なる解釈が成り立つ。党と国家の分離が実現しなかったばかりか、新政府の構成に選挙結果が十分に反映されなかったことは明らかに民主体制の基準から逸脱しており、民主体制への移行が実現したとはいえない。したがって、パリ和平協定の締結がもたらした複数政党制による選挙の導入は、あくまで権威主義体制における政治的自由化であり、民主体制への移行をもたらす民主化ではなかったと理解すべきであろう。

1991年の臨時党大会で人民党が温存した党指導部の構成と民主集中制は、現在に至るまで基本的に変更されていない。1985年に45人で始動した第5期中央委員会は改選されず、1989年以降に新たな党中央委員を6回にわたって追加選出し、現在では865人に肥大化した。また、1991年の臨時党大会時に17人であった党中央委員会常任委員会も現在は36人に拡大した(山田 2021)。党員数は618万6493人(2020年11月時点)となり(Kanapak Pracheachon Kampuchea 2021)、2020年の選挙人名簿の70.05%を占めている(Kanak Kammathikar Cheat Reapchom Kar Bohchhnaot 2020)。他政党が分裂を繰り返したり、主要指導者を欠くと立ちどころに衰退したりするのに対して、人民党は民主集中制によって堅固な党組織を維持している。

一方、体制移行期に地方レベルを中心に進んだ党と国家の一体化は、1993年の新政府発足後、あらゆる国家機関の内部に党組織が積極的に建設され9 、次第に中央レベルにも拡大していった。この傾向は、人民党が2006年3月にクォータ制を廃止してフンシンペック党との権力分有体制に終止符を打って以降、より顕著となった。こうした党の国家への浸透は現在、行政機関に限らず、上院や国民議会、最高裁判所や憲法評議会、さらには国軍や国家警察だけでなく、王宮を含むあらゆる国家機関でみられる現象である。そして、民主集中制の下での党と国家の一体化は、党の政策を国家機関に確実に反映させるために不可欠な制度となっている。

以上のように、体制移行期に人民党が講じた措置は、現在の同党による権威主義的支配の基礎となっている。1979年から続く人民革命党/人民党による権威主義体制は国際社会の介入によって1990年代前半に一時的に弱まったが、体制移行期における人民党の生き残り戦略が有効に機能し、内戦の再発を恐れたシハヌークと国際社会がそれを許容したからこそ、その後の権威主義的支配の回復と強化につながったのである。

※この記事の内容および意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式意見を示すものではありません。
写真の出典
すべて筆者撮影
参考文献
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  • 天川直子. 2001.「カンボジアにおける国民国家形成と国家の担い手をめぐる紛争」天川直子編『カンボジアの復興・開発』アジア経済研究所、21-65ページ。
  • 山田裕史. 2021.「人民党長期支配下で台頭するカンボジア版『太子党』」『IDE スクエア』。
著者プロフィール

山田裕史(やまだひろし) 新潟国際情報大学国際学部准教授。博士(地域研究)。専門はカンボジア現代政治。近年の著作に、「開発下のカンボジアにおける人民党支配――国家と社会に浸透する党」『アジア研究』65巻1号(2019年)、「カンボジア人民党による地方支配の構造――地方議会と地方選挙を中心に」山田紀彦編『権威主義体制下の地方議会選挙』(調査研究報告書)アジア経済研究所(2020年)、「人民党政権の対中傾斜とカンボジアの内政動向」北岡伸一編『西太平洋連合のすすめ――日本の「新しい地政学」』東洋経済新報社(2021年)など。

  1. パリで開催された「カンボジアに関する国際会議」(第2会期)において、カンボジアの紛争当事者4派と和平交渉に関与した18カ国の間で締結された。4派とは、①フン・セン首相率いる人民革命党政権、②民主カンプチア党(ポル・ポト派)、③ノロドム・シハヌーク元国王が1981年に結成した王党派の抵抗組織「独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線」(Front Uni National pour un Cambodge Indépendent, Neutre, Pacifique et Coopératif: FUNCINPEC)、④ソン・サン元首相が1979年に結成した共和派の抵抗組織「クメール人民民族解放戦線」(Khmer People’s National Liberation Front: KPNLF)を指す。パリ和平協定の主眼は次の2点に置かれた。第1に、カンボジアの主権、独立、領土の保全および不可侵、中立ならびに国家の統一を維持し、保持し、防衛すること、第2に、カンボジアの平和を回復および維持し、国内の和解を促進し、ならびに自由かつ公正な選挙を通じてカンボジアの国民が自決の権利を行使することを確保することである(United Nations 1992)。
  2. 正式名称は民主カンプチア連合政府。反ベトナムを掲げる3派によって樹立された1982年以降、1989年までカンボジアの国連代表権を付与された。
  3. 1980年代のカンボジア内戦は「カンボジア問題」と呼ばれ、人民革命党とポル・ポト派というカンボジア共産主義勢力の内部対立が原型である。これにポル・ポト派とベトナムの対立、中越対立、中ソ対立、東西冷戦を背景として国内外の政治勢力が相次いで関与したことで国際化し、長期化の様相を呈した。
  4. 人民党は、「真に前衛的かつ指導的な集団として機能するような、献身的でイデオロギー的な訓練を受けた党員」(Vickery 1986: 79)のみを受け入れるという従来の立場を放棄した。
  5. ただし、1989年9月のベトナム軍のカンボジアからの撤退に関する記述部分は除く。
  6. 民主集中制における「民主」とは、各級党組織の指導部が選挙によって選出されるとともに、会議では徹底的な民主的討論と多数決制が保障され、その結論は上級組織の決定に反映されることを意味する。一方、「集中」とは、下級組織の民主的討論を踏まえて上級組織が一度決定を下した事項については、下級組織はそれに従わなくてはならないという意味である。
  7. シハヌークは1991年7月に3派連合政府の大統領職を辞し、中立的立場から最高国民評議会議長に就任した。同年11月に約13年ぶりの帰国を果たすと、国家元首に就任して「国父(beida cheat)」の称号を回復した。さらに1993年6月、制憲議会から「全面的かつ特別」な権限を付与された。
  8. 「第1」「第2」という呼称は序列を示すものではなく、両首相の権限は同等である。
  9. 中央省庁や各州庁といった国家機関内には党委員会が設置され、国家機関のトップである大臣や州知事が党委員会委員長を兼任している。