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海外研究員レポート

クライストチャーチ銃撃事件とニュージーランドの反応――悲劇を繰り返さないために

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050807

片岡 真輝

2019年3月

(7,808字)

銃撃事件のあらまし
2019年3月15日午後、ニュージーランドのクライストチャーチで銃撃事件が発生した。事件があったのは、金曜礼拝のために多くのイスラム教徒が集まっていた2カ所のモスクで、50人が犠牲になるというニュージーランド史上前例のない大惨事となった。その被害者の多さに加え、犯人が白人至上主義を伺わせる犯行声明をSNS上に投稿しており、銃撃の様子をライブ映像で放映していたという事実が、さらに人々にショックを与えた。

写真:事件のあったモスクには、今も多くの花束が手向けられている。

事件のあったモスクには、今も多くの花束が手向けられている。

事件発生直後に、警察からの指示によりクライストチャーチ全域の学校や病院で閉鎖措置(lockdown)が取られた。筆者が所属しているカンタベリー大学も閉鎖され、普段使用しているアクセスキーもすべて無効になり、関係者ですら自由に建物の中には入れないようになった。犯人は、2カ所目のモスクを襲撃した後すぐに警察によって拘束されたが、その時点では犯人が複数犯か単独犯かも判明しておらず、共犯者がいる可能性も排除できないとして、閉鎖措置は午後6時頃まで続いた。ただし、その間にも警察の捜査は進展し、犯人の動機などが徐々に明らかになっていった。ニュージーランドのアーダーン首相は、事件をテロと断定、差別に基づく暴力を非難するとともに、国民に対して多様性を尊重し、結束するように呼び掛けた。

今回の事件で特に注目を浴びたのは、犯人が銃撃の様子を頭に装着したビデオで撮影し、フェイスブックでライブ中継していたことだ。動画は瞬く間にインターネット上に拡散し、ツイッターやYouTubeにもアップロードされ、一時は誰でもその17分間に及ぶ銃撃の様子を視聴できる状態にあった。ニュージーランド当局は、即座にインターネット・プロバイダやSNSの運営者に対して動画の削除を要請したが、動画の拡散の動きがあまりにも早く、SNS運営者の対応は後手に回っていたようである。YouTubeには24時間の間に何千もの関連動画がアップされており、YouTubeのスポークス・パーソンは新聞のインタビューに対して、毎秒ごとに動画が増えていくような状況であったと答えている(TVNZ 2019)。また、逃げ惑う人々を無差別かつ非情に銃撃しているその様子はかなりショッキングであり、動画を視聴した人にはトラウマとなってしまう人も出てきた。また、この映像が憎悪を拡散してさらなる過激主義者を作り出してしまうのではないかと懸念する声もある。このようなショッキングな内容の動画配信を許してしまったことについて、フェイスブックに対しても批判の矛先が向けられ、SNSの規制についても議論が及んでいる。また、今回の銃撃事件は単独犯であったが、事件よりも前に差別的かつ扇動的な内容の発信を行ったり、事件後に犯行映像を拡散したりしたとして、数名が逮捕されている。さらに、事件が自動小銃を乱射しての凶行であったことから、銃規制の議論にも発展し、早くも法規制が具体化してきている。このように、事件の余波は社会の広範囲に及んでいる。

ニュージーランドの民族構成と差別の現状

犯人は、オーストラリア国籍のブレントン・タラント容疑者であり、すでに殺人罪で起訴されている。冒頭で述べた通り、タラント容疑者は白人至上主義を訴える声明文を犯行直前にインターネット上に投稿しており、差別主義に基づく犯行であると見られている。ニュージーランドは、イギリスからの独立後、しばらくは白人が人口の大多数を占めていたが、1980年代から移民政策を転換し、アジアや太平洋島嶼国などからの移民を積極的に受け入れるようになった。その過程で、ニュージーランドの文化、アイデンティティが失われるとして、反移民運動なども起こったが、現在では多民族共生社会に対する不満はそれほど聞かれない。

今回の銃撃事件では、イスラム教のモスクがターゲットになったが、イスラム教徒が際立って社会で存在感を増してきている訳ではない。ここで、2013年のセンサスから、ニュージーランドの民族構成とイスラム教徒の割合を見てみる1(Statistics New Zealand 2014)。自分の民族をヨーロッパ人(European)と認識しているのは全体の74.0%、次いでマオリ(Maori:先住民)14.9%、アジア人(Asian)11.8%、太平洋島嶼国民(Pacific peoples)7.4%、中東・ラテンアメリカ・アフリカ(Middle Eastern/Latin American/African)1.2%となっている2。イスラム教を信仰しているのは46,149人であり、近年その数を急速に伸ばしているが、決して社会で特別に存在感が大きい訳ではない。ニュージーランドのイスラム人口は世界各国から集まっており、26.9%がアジアからの移民、25.7%がニュージーランド生まれ、23.3%が中東やアフリカからの移民、そして21.0%が太平洋島嶼国からの移民となっている。

ニュージーランドでも人種や民族に基づく差別は存在するが、差別に遭遇する機会は比較的少ない。筆者も日本人としてクライストチャーチで暮らしているが、アジア人あるいは日本人だからという理由で社会から疎外感を感じたり、差別的な待遇を受けたりした経験は今のところない。2008年と2010年に実施されたアンケート調査によると、過去1年間に差別を受けた経験がある人は、およそ10%であった(Statistics New Zealand 2012)。これを多いと受け止めるか、少ないと受け止めるかは、人によって違うかもしれない。差別の原因としては、「皮膚の色、人種、民族、国籍」に基づくものとの回答が半数以上を占めている。差別的待遇を受けたと回答したのはアジア人が一番多く、次いでマオリ、太平洋島嶼国民と続く。特にニュージーランドに移住して日が浅い人が差別を経験していると回答する傾向にあり、アジア人の血を引く人でも、ニュージーランド生まれになると、差別を経験する割合が減少する傾向にある。

一方、社会的結束に関する調査によると、83%のニュージーランド人が自らのアイデンティティを表現することが容易であると回答している(Statistics New Zealand 2011)。ただし、アジア人に限ると、その割合が66%にまで低下する。また、多様性を尊重すべきか、という質問に対しては、逆に「強くそう思う」と「そう思う」の合計が一番多かったのがアジア人で95%、次いで太平洋島嶼国民(94%)と続き、ヨーロッパ人は82%となっている。この結果は、アジア人が比較的差別を感じているために社会的多様性を求める回答をしており、逆にヨーロッパ人の中には移民に対してそれほど寛容ではない一群が存在している可能性がある。しかし、それでも全体の80%以上は社会的多様性を認めており、概して民族や出自による差別は感じにくい社会であると言える。

一方で、民族ごとの富(worth/wealth:資産マイナス負債)の平均を比べると、格差は存在している。もっとも、各民族間で平均年齢が違い、ヨーロッパ人の平均年齢が最も高く、それ以外の民族の平均年齢は低い。一般的に、年齢が高くなれば所得や財産も増えることから、単純に平均を比べてもあまり意味がない。この民族ごとの平均年齢による違いを補正した調査によると、自らの民族をヨーロッパ人と回答した人の富が平均で$114,000であり、アジア人の約3倍($32,000)、マオリの5倍($23,000)、太平洋島嶼国民の9倍($12,000)である。年齢別で富を比較しても、ヨーロッパ人が他の民族よりも高くなっている(Statistics New Zealand 2016)。

富の集中という面では民族間で格差が存在しているにもかかわらず、日々の暮らしにおいては民族差別を感じることは少ない。これには、ニュージーランドの社会保障制度の充実が寄与しているものと考えられる。例えば、ニュージーランドでは、ほぼ全ての小学校入学前の子ども(3歳~5歳)に対して、Early Childhood Education (ECE)と呼ばれる幼児教育のためのプログラムを提供している。ECEは、小学校入学前に必要な素養や社会性を育むことが目的とされ、20時間/週の幼児教育が誰でも無償で受けられる。ニュージーランドの幼児教育は、子どもを預ける時間を各家庭で選択できる。つまり、子どもを幼稚園に預ける時間が週20時間までであれば、基本的な教育費用は無料となる3

ニュージーランドでは外国人も社会保障の対象に含まれる。ECEについては、就労ビザ保有者や学生ビザで入国している人でも取得できるので、幼児教育にかかる家計負担は、原則ニュージーランド人と同じである。また、外国人であっても、ニュージーランドの医療保険を受けることができる。ニュージーランドでは、医療機関に登録(enrolment)することで医療保険を受けることができるが、就労ビザ保有者であれば医療機関への登録ができ、ニュージーランド国民と同様の医療保険を享受できる。

銃撃事件に対する市民の反応:結束と多様性尊重の呼びかけ

これらの社会保障制度の充実が、ニュージーランドで生活する上での差別を感じにくくさせていると考えられる。さらに多様性や多民族共生を尊重する国民性が民族間での差別を感じにくくさせている。街中では至るところにマオリ語が英語とともに併記されており、先住民文化の保存や尊重の重要性が幼児教育から教えられている。このような環境で育ってきた若者にとっては、多文化の中での暮らしが当たり前となっており、相対的に移民や他の文化に対する精神的なハードルも低くなっているようである。この傾向は、先に紹介したアンケート調査の結果にも表れている。ニュージーランドが多様な民族集団によって構成されることが良いことであるとの回答の割合は、若年層の方が高くなっている(Statistics New Zealand 2011)。したがって、多様性を尊重する雰囲気は、若者が集まる大学で生活しているとよく感じ取れる。それだけに今回のような差別主義に基づく暴力事件が発生すると、学生組織が中心となって多様性尊重、多文化共生をテーマにしたメッセージが校内のそこかしこから聞こえるようになるのである。

その最も顕著な例として、カンタベリー大学で開催された銃撃事件の追悼式典を紹介したい。事件発生直後より、学生組織と大学側が協力して企画した同イベントは、事件発生後最初の平日となる3月18日(月)の正午に開催された。同時間帯に予定されていた授業は、イベントに参加したい学生に配慮してキャンセルされるという気の使いようである。式典は、今回の襲撃のターゲットとなったイスラム教徒とニュージーランド社会が共にいること、そしてイスラム教徒との連帯を示すことが目的とされ、犠牲者を悼み、民族にかかわらず社会がより結束していくことを訴えるスピーチが数多く行われた。式典の終わりにはハラル・フードが供され、会場の一角には犠牲者を悼むための献花スペースも設けられ、今も多くの花束とメッセージが添えられている。追悼式典には数多くの学生、教員、大学職員が参加し、会場となった中央広場には入りきらず、道路や建物の窓から式典の様子を見守る人も多かった(むしろ、会場に入りきらなかった人の方が圧倒的に多かった)。あまりにも参加人数が多かったため、参加者全体を見通すことができず、一体何名くらいが参加したのか想像することも難しいが、数千人は参加していたと思われる。

写真:カンタベリー大学で開催された追悼式典の参加者。会場に入りきらずに、道路を埋め尽くしている

カンタベリー大学で開催された追悼式典の参加者。会場に入りきらずに、道路を埋め尽くしている
社会の結束を訴える試みは他にもある。例えば、アーダーン首相は事件後に折に触れてイスラム教徒の女性がするように、頭にスカーフを巻いて公共の場に現れ、ニュージーランドがイスラム・コミュニティを尊重していることを表現している。式典や公共の場にスカーフを巻いてこようという呼びかけは、多様性を尊重する姿勢を示す手段としてニュージーランド全土に広まっている。このような取り組みが海外メディアからも注目されており、ニュージーランド社会の事件に対する姿勢が高く評価される一因となっている。国内メディアも、連日結束を呼び掛ける式典やイベント、スピーチを報道しており、事件をきっかけに、人々の間で社会連帯や多様性の尊重がより強く意識されるようになっている。犯人が犯行声明や犯行動画をウェブにアップしたのが憎悪の連鎖を狙ってのことであったとすれば、それとはまったく逆の方向に社会が向かっており、犯人にとっては皮肉な結果である。
さらなる過激主義者を作らせないために

このように、事件後に社会連帯、多民族共生の感覚が強まったように感じられるニュージーランドであるが、気がかりな点もある。それは、潜在的に差別主義的な思想を持つごく一部の人々がこのような社会の反応をどのように見ているのか、ということである。クライストチャーチでは、事件現場は当然ながら、犠牲となった人の家や公共の場に、今でも多くの花束とメッセージが残されている。そのメッセージの中には、「Terror will not win(テロが勝つことはない)」や「No place for racism(人種差別主義者のいる場所などない)」など、差別やテロに対して不寛容であることを強調するメッセージが少なくない。このようなメッセージは、差別主義者を悪とみなし、社会が悪と対決している姿を想定している。メッセージで最も良く見られる「Love wins(愛は勝つ)」も同様である。「勝つ」ためには負ける相手(敵)の存在が必要であり、それが差別主義者やテロリストを指していることは明白である。しかし、それ以上に多いメッセージは、社会の結束を訴えるものである。「They are us(彼らは私たち)」というメッセージが良く使われているが、これは、被害者やターゲットとなったイスラム・コミュニティ(=they)がニュージーランド社会(=us)と同じである、ということを意味している。同様の意味で「We are one(我々はひとつ)」といったメッセージもよく見られる。しかし、当然ながらこの「they」や「one」の中に差別主義者は含まれていない。ニュージーランド社会は、今や明確に「我々の社会」と「差別主義者」を区別している。差別に対する社会の態度は、事件前よりも格段に厳しくなっているだろう。

写真:市内のいたるところに社会の結束を呼び掛けるメッセージが残されている。

市内のいたるところに社会の結束を呼び掛けるメッセージが残されている。

これは、犯人の動機を考えれば当然の反応だし、社会で団結して差別に立ち向かう姿勢を示すことは、さらなる被害を恐れる少数民族の人々にとっても大きな意義を持つ。したがって、差別を寛容しない姿勢を示すことは正しい。しかし一方で、どれほど差別の根絶を訴えても、残念ながら社会には一定数の差別主義者が存在していることも事実である。少なくとも、すぐに差別主義者を社会から一掃することは難しい。では、そのごく一部の差別主義者(予備軍含む)の人々にとっては、今の差別に厳しいニュージーランド社会はどのように映っているだろうか。もし、社会から敵視されている、のけ者にされている、という感覚を持っているようであれば、気がかりである。社会から疎外されていると認識した場合、被害者意識を持つようになり、社会への反抗心が強くなるかもしれない。場合によっては、社会に対する反抗心から一層過激思想に染まっていくかもしれない。そうなれば、別の悲劇を生む可能性もある。

差別に厳しく接することは当然のこととしても、同時に一部の差別主義者(予備軍)をより過激にさせない配慮も社会としては必要なのではないか。全ての差別主義者を一気に改心させることは難しい。そうであれば、その一部の差別主義者を社会的圧力で追い詰めすぎて、一層の過激思想に走らせないようにする意識は持っておいたほうが良いのではないか。非常に難しい匙加減ではある。差別を受け入れる余地を社会に作って良い訳はないし、そのようなことをすれば、今度は今回被害にあった少数民族の人々が社会に対して失望するだろう。差別をさらに助長させる危険もある。したがって、社会が差別を受け入れない断固とした姿勢を示すことは正しい。しかし、「敵」を殊更に攻撃したり批判したりする風潮にはならない方が良い。それはつまり、憎悪の連鎖を断ち切るということでもある。

今のところ、ニュージーランドでは必要以上に攻撃的なトーンで差別を糾弾しているコメントやスピーチ、集会は少ない印象である。むしろ、結束を呼び掛ける趣旨のものが多い。その意味では、ニュージーランド社会は今回の事件に対してバランスの取れた対応が出来ているとも言える。今回の事件に対するニュージーランドの対応は世界から賞賛されてもいるが、このバランスの取れた対応がその理由の一つでもあろう。今回の事件は残念であったが、事件をきっかけにニュージーランド社会がより多民族社会を尊重し、憎悪の連鎖を断ち切って差別が今以上になくなっていくことを望む。そして、その経験が同様の事件に苦しむ他の国の参考になればと願う。

著者プロフィール

片岡真輝(かたおかまさき)。アジア経済研究所海外研究員(クライストチャーチ)。修士(国際関係論)。著作に "Diaspora as Transnational Actors: Globalization and the Role of Ethnic Memory." (forthcoming) S. Ratuva (ed.) The Palgrave Handbook of Ethnicity. Springer Nature Singapore Pte Ltd. など。

写真の出典
  • 写真はすべて筆者撮影。
  1. ニュージーランドでは5年ごとにセンサスが実施され、直近のセンサスは2018年に実施されている。しかし、集計や統計処理に時間がかかっており、結果の公表が遅れていることから、本稿では2013年のセンサスを使っている。
  2. 回答者は、自らの民族を複数回答することができるため、全体の合計が100%以上になっている。また、「ニュージーランド人(New Zealander)」との回答は「その他」に含まれている。
  3. しかし、特別な施設維持費用を要するなど、各幼稚園の教育プログラムによっては、その分の料金が求められる。