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海外研究員レポート

「英国のクリスマスと『ファルマーの冬』」

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049869

吉田 暢

2014年1月

世の中はクリスマスの気配であふれている。思えば人生ではじめて、年末年始というものを日本の外で過ごそうとしている。イタリアやフランス、ドイツなど大陸諸国のそれと比べてしまうと遜色があるかもしれないけれど、国教会が主体のこの国でもクリスマスはいちおうのところ一大イベントであるようで、街は(これまたいちおう)電飾が灯り、広場にはツリーが備え付けられ、商店は早くも値下げ売り出しのスタートを切っている。土地柄かもしれないが(この街にはシナゴーグが多く所在する)ユダヤ教のハヌキヤと呼ばれる燭台もツリーの隣に備えられている。よく知らなかったので少し調べたところ、これは特にクリスマスとは関係のないものであることが分かった。そもそもユダヤ教ではクリスマスを祝うのかどうか、私のたいそう浅薄な歴史の知識に照らしても些か微妙なところである。従ってこの点にはこれ以上深入りしないことにする。

さて、先日は同僚たちと少し早めのクリスマスディナーなるものを楽しんだ。同僚の一人である生粋の英国人ピーター・デズモンドが、ディナーの数日前から英国クリスマスディナーの定番である「クラッカー」を持参する、と予告していた。我々日本人の感覚からすると、まずクラッカーとはパーティーなどで使う、引っ張り紐が出ている円錐形の物体から音が鳴って紙ふぶきが飛び出してくるアレを頭に思い浮かべる。英国人はクリスマスディナーの食卓でアレを鳴らすのか、と少し訝しんでみる。

まもなく正体が判明する。ピーターがさも得意げに満面の笑顔を湛えながら両手の紙袋一杯に積めて運んできたクラッカーというのは、なんとも子供だまし、もとい夢のあるグッズであった。私の感覚からすれば、しごく英国情緒にぴったりのものである。クラッカーは紙で出来た筒状のものであり、両端が取っ手のような形状をしている。これを隣り合った席の人と引っ張り合うと、パンッという軽い破裂音とともに筒が破け、中身が取り出せるようになっている。この点では我々のクラッカーと類似の性格を持っている。筒の中には私のアイルランド人の義兄弟であるチャールズ・マーシャルが腹を抱えながらヒソヒソ笑っているのが目に浮かぶようなダジャレ(オヤジギャグに近い)や特有のシニカルなジョークが書かれた紙切れ、そしてどうしようもない駄菓子屋のおまけのようなおもちゃが顔を覗かせているのであった。

しょうもないとあなどるなかれ、ディナーの席で隣り合った人々は、互いに手の中にあるダジャレやジョークの書かれた紙切れを見せ合って小話をしながら打ち解ける。駄菓子のおまけのようなおもちゃであっても、ちょっとした会話のきっかけには十分すぎる役割を演じる。そのものの役割として、場の演出に最大限貢献するということが求められているとすれば、クラッカーはMVPなみの働きをしていると言えるだろう。ただ音を出すだけの我らのクラッカーよりはよっぽど深みのある存在感を示していると私は思う。 店内を見渡したところあちらのテーブルでもこちらのテーブルでもみな一様にクラッカーを楽しんでいるのが一目で分かる。なぜ一目でわかるのかというと、筒の中にはジョークの紙切れとしょうもないおもちゃの他に、これまた紙で出来た「王冠」を模したシロモノが入っていて、一同常時これを頭にかぶってディナーを食す、という趣向だからである。

想像してみてほしい。ここは普段から天高で内装にこだわった小洒落度100点満点が自慢の、この街でも一、二を争うカジュアルスノッブなレストランである。ブライトンは田舎町とは言え、読者の理解に供するため敢えて日本のどこかに類すれば、湘南の海沿いを走る国道から少し中に立ち入ったところにひっそりとありそうな、そんな佇まいである。(少し言いすぎかもしれない)それがこの時期は紙の「王冠」のようなシロモノを、それも威風堂々とかぶった大のオトナがなんの罰ゲームでもなく素面でずらりと居並び、一堂に会してクリスマスディナーを楽しむという、ある種非常にシュールな世界観を呈するのである。蛇足ながらこの紙の「王冠」、おそらく頭の周囲が標準的な英国人サイズに設定されているのであろう、標準サイズよりも頭の大きな私がかぶるとまもなくピリピリと音を立てて破けてしまうのであった。事態はさらに、シュールである。

またこの週末にはこちらで所属する研究所の主任教授宅で開かれるクリスマスランチに招かれている。なんともリンボー先生、あるいは「若き日の数学者」よろしく、これまであがめてきたある種古典的な西欧文化の最たる典型にいやしくも浸り続けている師走の日々である。日本ではもうじき新年を迎えるということから12月はなにかと忙しく、それで師走などといわれる始末であるが、こちらはその新年はそれほどの重きを置かれていないのか、あるいはここが単に田舎町だからかもしれないが、街中の雰囲気は人々がせわしなく走り回るというほどのものでもない。しごくのんびりとしたものである。

しかしながら、こと大学キャンパスにおいては、多少大げさに言えば「ファルマーの冬」とでも呼ぶべき事態がこの数ヶ月続いている。ファルマーとは、私が所属する研究所(Institute of Development Studies)があるサセックス大学の正確な所在地である。ブライトンは周知の通り、英仏海峡に面したブリテン島最南端の明るく輝く陽光の町(それで’Bright’on)であるが、大学は正確にはその山の手の村ファルマー(Falmer)に立地している。ある同僚は海外の友人からどこに住んでいるのか、と尋ねられて、「ブライトンの山の中」とひどく矛盾する返答をして尋ねた友人を困惑させたと聞くが、まさに大学キャンパスはそんな丘陵地帯の只中に悠然と姿を横たえているのである。

「プラハの春」が「アラブの春」という言葉を生んだように、「動乱」をその起こった土地の名と季節で表すことは一般に良く知られている。とあるインディペンデント紙の特集記事が記しているように、南米チリでは「チリの冬(Chilean Winter)」なる学生運動が2011年から続いているという1。そう、もちろんサセックス大学のキャンパスで「アラブの春」のような「動乱」が起こっているというわけではないが、学生を中心とした抗議運動がここ数ヶ月の間ヒートアップしている。それはここサセックス大学だけに起こっている現象ではなく、英国各地の大学で断続的に発生している一連の抗議運動の一端である。

先のインディペンデント紙の「学生による抗議運動の歴史」を特集した記事によれば、最も古いものとして1897年にケンブリッジ大学で起こった女子学生への教育機会の平等を求める運動が挙げられている。(もちろん有史以来学生がなんらかの抗議運動を行ったという事実はこれ以前にもあるかもしれない)そして近年に焦点をあてた場合、この特集に記されているものに限ってみると、現在英国各地の大学で盛んに行われている抗議運動は2010年頃から続く学費の値上げに反対する運動の延長にあることが分かる。サセックス大学で現在も行われている運動も、同様に学費の値上げに反対する運動なのだろうか。

思えば、この秋から冬の間に私の知る限り少なくとも2回、10月と12月にキャンパスの内外を通じる通路を「公式に封鎖(Official Picket Line)」してのストライキが行われていた。「封鎖」といっても実際にはパイプ椅子を二個程度歩道の両脇に置いてそこにプラカードを立てかけ、活動的な組合員がビラを配るという程度のものであったが、こういった景色に慣れていない一般の学生にとっては、示威行動として十分に効果のある「封鎖」であったと思われる。

これはサセックス大学の従業員組合が行っている全英国統一ストライキの一環であり、大学サービスの「民営化」に伴う一部従業員の労働条件の改悪が要求の争点として掲げられていた。従ってこの時点での理解は、学生の抗議運動とは直接の関係がない。その主張によれば、上記の要求に記載されている「民営化対象」部門の従業員は、当該部門が民間企業の経営に移管されるに伴って雇用関係も移籍するので、「営利偏重の民間企業経営によって労働条件が悪化する、具体的には年間給与水準が12%下落する、これを断固阻止したい。」としていた。おそらく今回サセックス大学で起こっている運動は、この大学職員組合の運動と、一連の学生による抗議運動が連帯したものであると推察される。

「連帯」の傍証としては、下記の占拠活動をしている学生達が、民営化対象部門であるところの学生寮の管理業務に従事する従業員(清掃員など)に同情し、運動の源泉としているといったウェブサイトの記述が挙げられる。12月の上旬にはかねてより抗議運動の一環として大学の建物を一部「占拠」してきた5名の学生が「停学処分」を受けるという事態2を招き、運動はさらにエスカレートした。事が大学職員のみならず抗議運動を行っていた学生にも及んだため、学生組合(Student Union)も本格的に動き出し、12月9日には大規模デモが計画された。主催者発表によれば100名を超える参加者を得て実行された。注2に示したインディペンデント紙にも当日の様子が写真付で掲載されているが、キャンパスの広場を埋め尽くすほどのデモ活動は、示威行為として極めて効果が高かったことが想定される。現に大学側は翌日には該当する5名の学生に対する停学処分を事実上撤回し、実質的にこれを軽減することを発表している。大学側の主張は概して、一部サービス部門の民営化計画は、大学の経営に必要な措置の一環であり、従業員の労働条件については事業者と詳細に検討する。また今回の反対運動に参加しているのは一部の学生であり、その他多くの声なき学生の中には、異なる意見もあることを承知している、といったものである。この点については後述する。

運動の要求項目は以下の通りである。運動の状況はこのウェブサイト3で逐一確認することが出来る。(2013年12月9日を最後に更新が止まっている)

1. To bring privatised Chartwells catering and conferencing services back in-house and to revoke the impending contract with Interserve which intends to privatise estates and facilities management in January 2014.
第一項では、大学のサービス部門の一部民営化(Privatisation)への抗議ならびに撤回の要求が示されている。ここでいうPrivatisationとはケータリングつまり学生食堂の運営と会議設備の設営や運営ならびに学生寮とビル建物管理業務の「民間へのアウトソース」のことであるようだ。アウトソース先である二社(Chartwells, Interserve)の名称が公表されている。

2. A restructuring of democratic procedures of the university, led by students, staff and lecturers with the purpose of re-evaluating channels for holding management accountable, as well as reviewing and extending student and workers' say in decision making processes.
この項目は、度重なる要求にも関わらず大学側が「誠実な対応」をとっていないことに対する抗議である。学生や大学職員も利害関係者として意思決定に参加させろ、と主張している。

3. An end to the intimidation that senior and middle management have used to deter students and workers from airing and acting on their concerns.
実際にそういうことがあったのかどうか事実の確認は出来ていないが、ここでは大学側が学生や大学職員を抗議運動に参加しないようにと「脅迫」することのないように求めている。

4. To publicly address the issues of the strike on the 3rd of December, including a written statement calling on the Universities and Colleges Employers Association (UCEA) to meet the demands of the trade unions in question.
この項目では、学生や大学職員が行っている文書を含む一連の抗議行動についてきちんと広報するように、大学として「問題」が起こっているということを秘匿してはならない、ということを求めている。

5. To issue a public statement demanding more funding for higher education institutions from the government in order to abolish tuition fees and ensure high quality education accessible to all.
ここでは、授業料を撤廃し、高等教育を受けやすくするように、大学などへの財政支出を増やすように政府に要求せよと大学に対して求めている。

These are steps that need to be taken in order to achieve a more equitable society in which education is a right and not a privilege. These are the things that we will continue to fight for.
最後に、我々は、教育が一部の人間にだけ許された特権ではなくすべての人に開かれた権利となるような、より平等な社会を築くために闘い続けるのである、と締めくくられている。

これらの要求項目ならびにその優先順位の付け方から推測するに、この運動の主眼は第一義的に大学のサービス部門の一部を民営化すること、そしてその一連の決定プロセスに反対するものである。これは当該部門に所属する大学職員の労働条件の切り下げを阻止するということが本来の運動の目的であり、これに共鳴した一部学生も抗議運動に主体的に参加している。

停学処分を受けた5名の学生を「Sussex Five」と称し、なかば英雄のように扱っているこの抗議運動であるが、先に記した12月9日の大規模デモを中心としてその要求の趣旨は全面的に「処分対象の5名を救え」ということに終始しており、実際にデモに参加していた学生達もそのことに同調して行動している様子である。つまり過激化した運動当事者の主眼が、もはや「一部サービス部門の民営化に伴う従業員の労働条件の改悪に反対する」というよりも、むしろ「処罰される恐れのあった5名の勇者を救え、そもそもこの5名がなぜこんなことになったのか、という点は実はあまりよく知らないが、なんでも彼らは大学権力の独善的・専横的経営に投身して抵抗し、そして犠牲になった哀れな殉教者なのだ」とでもいうようなことにすり替わってきている可能性は否めない。

また要求項目に触れられていないので確認が出来ないが、民営化に伴うサービスクオリティの改善あるいは改悪といったサービスの裨益者としての学生という視点、あるいは包括的な大学運営経費の見直しに伴う資源の再配分の可能性を検討し、またこれを要求する、というようなことはこの運動の主体から抜け落ちていると思われる点に留意が必要である。一部サービス部門の従業員の労働条件を守る、という従業員組合の運動趣旨に賛同する、という学生の主張そのものはきわめて妥当である反面、先に述べた大学経営側が言及する「その他多くの学生には異なる意見がある」かもしれない、という点が、まさに先鋭化してしまった運動の主体からこぼれて落ちているのではないかという懸念がぬぐえないのである。

「クリスマス休戦」であろうか、12月9日の大規模デモの後、運動はやや沈静化したかに見える。ウェブサイトの更新も、止まったままである。