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海外研究員レポート

インドの高等教育教員の労働市場模様

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049952

2010年7月

途上国が一層の経済成長を推し進める中で、高等教育修了者は高付加価値の創出には不可欠である。インドのそのような人材に関する紹介はこれまでにも多くなされているが、それらの人材を育成する教員については、日本ではあまり明らかではない。そこで小稿では、その一面として、インドの高等教育を担う教員の労働市場を中心に紹介する。

インドの高等教育は学士課程、修士課程であるMAコースとM Philコース、そして博士課程で構成される。インドで学士課程を担当するのは主としてカレッジで、基本的には3年である。MAコースは通常2年のコースワーク、また M Phil コースは2年のコースワークに加えて修士論文を提出する。M Philコースと博士課程を合わせた統合課程がある大学院もある。大学院教育は主としてユニバーシティと、インド工科大学(IIT)や数校のメディカル・スクールなどで構成される重点研究機関(Institutions of National Importance)、またその他の高等教育機関として、世界的にも名高いインド経営大学院大学(IIM)やインド科学大学院大学(IISc)などが担っている1。博士課程に進むことを希望する学生は通常、MAコース→M Philコース→博士課程と進学する。制度が異なるため日本とインドの高等教育を比較するのは難しいが、インドのカレッジ卒は日本の短大卒以上・大卒未満、MA修了者は日本の大卒と同レベルかそれ以上、またM Phil修了者=日本の修士課程修了者と考えて差支えないだろう。インドのMA修了者をほぼ日本の大卒に相当すると紹介する文献もある。

専門分野にもよるが、カレッジで専任の教員ポストを得るのは、こと経済学についてはそれほど難しくないとの話を耳にしたことがある。カレッジの専任ポストが比較的多いことも理由であるが、他方で大学教員の経済的報酬の魅力は必ずしも高くない2。そのぶん優秀な学部生が大学院M Philコースに進学して研究職や大学での専任ポストを目指す誘因は低くなり、その結果専任ポストをめぐる競争圧力は相対的に小さくなる。国立大学の教員の月額給与は今日、教授は9~10万ルピー強程度(今日のレートで17~20万円程度)、助教授レベルは4万ルピー程度、准教授はその中間程度といった感じだろうか3。IITやIIMなどのテクニカル・エリアを担う有名高等教育機関は一般にはユニバーシティよりも上位の位置づけとみられており、教員の給与もそれよりも若干高めである。2008年の第6次中央給与委員会勧告をきっかけにして大学教員の給与はかなり改善されていて、とくに今日の教授レベルの給与水準は決して低いというわけではない。しかし数年前に国内の有名大学院で工学博士号を取得した筆者の30歳代半ばのインド人の友人は、大学に残るようにとの指導教授の説得を振り切り、初職として最近就職した外資系企業での初任給が月給換算で15万ルピーであった。教授への昇進は早くてもだいたい40歳代以降であるから、この水準は金銭的報酬面で教授レベルをはるかに上回るものである4。一般にIITなどの優れた大学の 20代前半の学部卒業生の初任給は、その大学の助教授レベルの給与より高くなることが多い。また大学にもよるが、インドでは教員個人の研究費は外部からの資金の獲得が中心で、学会への参加も通常は自費である。機会は非常に限られているが、夏休みなどの長期休暇を利用した先進国での在外研究は、研究業績面だけでなく経済面でも大きな魅力となる。

インド国籍者がインドで大学の専任ポストに就くには、博士号を取得するか、大学助成金委員会(UGC:University Grants Commission)が実施する全国適格試験(NET:National Eligibility Test)に合格するという2通りの道がある。NETは大学教員の一定の質を確保することを目的に20 年ほど前から実施されており、受験者は希望する専門分野の試験を受ける。筆者がインドで所属するジャワハルラール・ネルー大学(JNU)の学生の場合、多くは M Philコース進学者がMAコース修了後にNETを受験する。真偽は不明であるが、JNUでのその受験者規模は、聞いたところではM Philコース進学者の9割に上るという。NETの試験問題は決して難しいものではなく5、また話を聞いたNET受験予定者によると、合格ラインも正答率で55%と高くない。ただし、特定の専門分野ごとの試験とはいえ、試験範囲が広い。したがってNETが保証する大学教員の質は、専門領域で最低限必要とされる知識程度の水準と考えることができるだろう。ちなみに2009年に実施された2回のNETの結果、大学教員になることのできる資格を得た人の数はインド全体でのべ1万2718人であった6

他の国でも同様と思うが、インドではカレッジとユニバーシティでは、(教員間で認識される)教員のステータスが異なる。実際、しばらく前までカレッジには教授ポストはなかった7。教育レベルもカレッジが主として学部レベルであるのに対し、ユニバーシティでは博士課程まで担当することからもステータスの違いがうかがわれる。したがって大学教員の社会的ステータスの移動は、「専任講師・助教授→准教授→教授」だけでなく、「カレッジ→ユニバーシティ」という職場移動の形としても表れる。またイメージとしては、ユニバーシティ内でも教育・研究の面で上位校や有名校への移動8が、またユニバーシティだけでなくIITやIIMなどのテクニカル・エリアを担う有名高等教育・研究機関への移動が、社会的ステータスの上方移動であるという認識がおおむね共有されている(もちろんこのあたりは個人の選好にもよるが)。当然、上位校・有名校の専任ポストほど、採用選考の競争は激しくなる9。なお、今日は博士号取得者しか教授にはなれない。

ところで、先にみた大学教員資格の仕組みを知る以前にあるカレッジの教員と話をした際、専任であるのに学術誌での論文業績のない教員がいることを知って驚いたのを覚えている。日本の場合は一般に、大学教員を目指す者は博士課程に進み、学術誌で論文を発表し、また学会等で研究報告を行い、業績を積み重ねることが求められる。日本では論文業績のない非常勤講師はいるが、専任教員についてはおそらく何かしらのものはあるものと思われる。それに対してインドではNETをクリアしていれば大学での専任ポストに就く資格が生ずるのだから、考えてみれば当たり前である。若くして大学院教育を担当するユニバーシティで教鞭を取る人の中にも、ひょっとしたら学術誌での論文業績のない専任教員がいる可能性もある。ただし日本でも、たとえばビジネス界からの転身など、大学院に進まなくても大学での専任ポストの道は開かれているので、論文業績と大学の専任ポストは必ずしも結びついているわけではない。また大学教育と研究を一括りにして考えなければならないわけでもない。しかし一般には、両者は相関していると考えられている。それでもやはり、どのような高等教育が望ましいか、またどのような資格を持つ教員が高等教育を担うべきかは、必ずしも自明ではない。

実は2004年に韓国で開催された労使関係の学会の国際大会に参加した際に、プログラムに掲載されているインド人報告予定者の不参加のあまりの多さに唖然とした覚えがある。そのときは国外への移動という旅費の工面の問題かと思っていたのだが、その後2年続けて参加したインド国内の学会の年次大会でも、同様に報告予定者の不参加が多かった。他の学会の事情は知らないが、少なくとも筆者の専門領域である労働経済関連の学会では報告予定者の不参加は常習的である10。そんな経験をしていたので、学術誌での論文業績のない大学の専任教員というのも、あとから考えるとなぜかうなずける感じがした。しかし他方で、上位校・有名校の教員に多いと思うが、学術誌等での研究業績が気の遠くなるほど膨大な数に上る人たちもいる。このように考えると、インドでは日本よりも大学教員の質にばらつきがあるのかもしれない11。いずれにしても、人材の育成には、その育成を担う人材の育成もまたないがしろにすることはできない。この点は十分に強調されるべきだろう。

以上

脚注


  1. 重点研究機関のリストについては下記参照。 http://www.education.nic.in/IHL/INSTITUTESNATIONALIMPORTANCE.pdf メディカル・スクールである全インド医科大学(AIIMS)は学士課程からもつ。また、IITは全国に12校、IIMは9校ある。
  2. この点はインドだけでなく、他の多くの国についてもあてはまる。日本は数少ない例外である。
  3. いずれも範囲給である。ちなみにいくつかの職務での今日のデリーの賃金水準は次のような感じである。フルタイム(あるいは住み込み)の家政婦:月収5000~6000ルピー程度、自営業自動車修理工のアシスタント:月収7000ルピー程度、無線タクシーの運転手:月収 7000~8000ルピー程度+時間外手当。なお、2008年のデリーの貧困線は月収5000ルピーほどであった。
  4. ただし本人も少し驚いていたので、博士号取得者とはいえ初職の月額15万ルピーは一般的にも高めと思われる。
  5. NETの過去の出題問題はUGCのホームページ(http://www.ugc.ac.in/inside/oldqp.html)でみることができる。
  6. UGCホームページ(http://www.ugc.ac.in/inside/netresults.html)参照。
  7. Hindu(http://www.hindu.com/2008/12/17/stories/2008121760681400.htm)2008年12 月17日付。
  8. この点はカレッジ間の移動も同じである。
  9. 先の国会で上程された 2010年外国教育機関(参入および運営規制)法案(Foreign Educational Institutions(Regulation of Entry and Operation)Bill, 2010)が成立して国外の有名校がインドの高等教育市場に参入するようになるとしたら、高等教育教員の労働市場にも影響を与えることになるものと思われる。
  10. 大会事務局にその話をしたところ、そのような規模での報告予定者の不参加は想定の範囲内とのことだった。
  11. だからインドで NETが導入されたとも考えることができる。