IDEスクエア

海外研究員レポート

他所からの商業主義に飲み込まれるマカッサルの変化

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049996

松井 和久

2007年10月

1. 変わり始めたマカッサル

筆者がマカッサルの街と関わり始めてからすでに20年以上が経つ。かつてはのどかで辺鄙な地方の一都市に過ぎなかったマカッサルの外観が、ここ数年で大きく変わり始めた。 市内にはショッピング・モールが次々と建設され、サンティカやホリゾンなど全国チェーンの4つ星級ホテルが続々と開業した。夕日が美しいロザリ海岸には海に張り出したプロムナードが作られ(同様のプロムナードがさらに2箇所建設の予定)、連日様々な催し物が開催されている。さらに、年間許容乗降客数を2倍に引き上げた新空港(外国資金を使わなかったという)がオープンを待ち、国際コンテナ港の拡張計画も発表された。

この新空港とコンテナ港を直結する幹線道路では、片側1車線から同4車線へ拡張する工事が進んでいる。我が家の前を通るプリンティス・クムルデカアン通りも同じく片側2車線から同4車線へ拡張中で、完成すると中央部にジャカルタと同様のバスレーンが設置され、 「庶民の足」であるペテペテ(Pete-Pete)という名の小型乗合は廃止される予定である。この二つの道路が交わる地点で、インドネシア東部地域最初の立体交差工事が進んでいる。 1990年代後半に開発が始まった新興住宅地タンジュン・ブンガ地区には、東南アジア最大の面積になるという、ディズニーランドを模したレジャー・ショッピング施設が建設されるそうである。この施設建設予定地の近くには、セレベス・コンベンション・センターが建設済みで、続いてバンク・メガやトランス・テレビのオフィスビルも建設されるという。

そして、これらの事業を推し進めているのは、もちろん、ユスフ・カラ副大統領の一族が経営するハジ・カラ(Haji Kalla)グループや、カラの従兄弟のアクサ・ムハマッド地方代議会(DPD)副議長が持つボソワ(Bosowa)グループなどである。ハジ・カラ・グループもボソワ・グループも、市街中心部に高層の本社ビル(カラ・タワー、ボソワ・タワー)の建設を開始した。ユスフ・カラのスポークスマンを務めるアルウィ・ハムが所有する地元紙 『ファジャール』は、前述の立体交差建設現場の近くに、20階建ての高層新社屋を建てて使用し始めた。地元産業界での彼らのプレゼンスは一層強まっている。

2.プリンティス・クムルデカアン通りのショッピング・モール

9月26日、筆者の家からわずか5分のところに新しいショッピング・モールが仮オープンした。マカッサル・タウン・スクエア、通称M’tosと呼ばれるこのモールが建て始められたのはわずか半年前であった。モールの裏を市内で最も大きいタロ川が流れ、その周辺には 養魚池が点在する。我が家や新モールの前を通るプリンティス・クムルデカアン通りと約10年後の完成を計画している外環道路がちょうど交わる付近に、このM’tosが建てられたのである。仮オープンの日は、断食中にもかかわらず、昼間から通りは車で大渋滞となり、それは夜まで続いた。ショッピング・モールができるたびに人の移動が変わる、「新しいもの」好きのマカッサルの人々がM’tosへ大勢で押しかけたのである。

ショッピング・モールは街の近代化の象徴であるかのようである。現在、市内には5箇所のショッピング・モールがあるが、マカッサル市のイルハム市長はモールの数を10箇所程 度へ増やしたいと考えている。ある識者は、マカッサルには20箇所のモールが必要だと説いた。プリンティス・クムルデカアン通りの道路拡張工事に合わせて、モール以外にも、空き地だらけだった道路沿いのあちこちで「ルコ」(ruko: rumah dan toko)と呼ばれる住居兼店舗の建設が加速化している。このままいけば、数年後にこの通り沿いは「ルコ」で埋め尽くされることだろう。マカッサルは「ルコの町」との異名が付いている。1997~1998年の通貨危機以後、市内のあちこちにルコが建設され、その多くが不動産投資目的で売買されてきた。そしてその結果、約半分以上のルコが埋まっていないのが現状である。それでも、プリンティス・クムルデカアン通りに見られるように、ルコの建設は止まらない。

元々、プリンティス・クムルデカアン通りには大学や専門学校などが集まり、マカッサル市の都市計画でも「文教地区」とされている地域である。M’tosも当初は「教育」を前面に出した異色のショッピング・モールになるといわれたが、ふたをあけてみれば、ただの普通のモールに過ぎなかった。筆者の友人たちは、「文教地区」がモールやルコで埋められていくことへの懸念を強く示しているが、イルハム市長は「文教地区と言ったって、まずは衣食住だろう。ショッピング・モールはそれを満たすために必要だ」とにべもない。

3.伝統的パサールとショッピング・モール

マカッサル市内には、日常生活に必要な物資を購入する伝統的な商業地であるパサールが大小合わせて30~40箇所ある。この伝統的なパサールは、商品が無秩序のように山積されていて通路が狭く、食品コーナーにはハエや蚊が飛び回って床もドロドロで汚い、ゴミが散乱していて不衛生である、などマイナス・イメージがある。マカッサル市はこうしたパサールを非近代の象徴と見なしたようである。マカッサル市政府は、大掛かりなパサール近代化政策として、2010年までに市内のパサールを健全化させる、という方針を打ち出した。すなわち、「汚い」パサールを「きれいな」ショッピング・モールのような建物に建て替えるという方向で、いくつかの中核パサールの刷新に乗り出したのである。

たとえばマカッサル市の中心的な青果市場として知られるパサール・テロンを訪れると、簡単な小屋がけで、あるいは地べたに筵を敷いて、野菜や果物を売る商人がずらりと並ぶ。これはパサール・テロンの建物の外での光景である。他方、パサール・テロンの建物の中には 1883区画の売り場があるが、実際に利用されているのは442区画に過ぎない。パサール・テロンの管理会社に支払う賃料が高く、またそれに見合うサービスも受けられないため、多くの商人が建物の外へ移ったのだという。そして、人が集まるパサール・テロンで正式の許 可なく営業しようとする人々が、物売りやカキリマ(屋台引き)となって集まってくる。

こうしたマカッサル市のパサール近代化のモデルは、おそらくジャカルタであろう。ジャ カルタでは1980年代から市内の伝統的パサールの建て替えが進められ、そのたびに区画の賃料や使用権の問題がクローズアップされてきた。その結果、ジャカルタのパサールの多くでは床がタイル張りになり、内部も明るくなり、衛生的な近代的パサールが実現した。その一方で、ジャカルタのショッピング・モールの林立状況はマカッサルの比ではなく、ショッピング・モールとの共存を図りながらも、存立が難しくなるパサールも少なくないと聞く。マカッサルではショッピング・モールの数がまだ少なく、伝統的パサールとは違う世界と認識されている様子である。しかし、ショッピング・モールは所得の多寡に関わらず人々をひきつける。週末になると、マカッサルから車で2~3時間もかかる地方から、バスを仕立ててマカッサルのショッピング・モールへ買い出しに来る人々をよく見かける。モールの中のレジで並んでいると、伝統的パサールと同じような感覚で、タバコ一箱や栄養ドリンク1本を買いに来るベチャ(輪タク)曳きのおじさんなどにも出会う。かつては、上流階層の行くところと認識して近寄りがたかったショッピング・モールにも、中下流階層の人々も何の ためらいもなく買い物に出かけるような状況が当たり前の光景となっている。

4.他所からの商業主義に飲み込まれる

マカッサルに出現するショッピング・モールは、たしかに都市の近代化を象徴する現象の一つであろう。伝統的パサールでの売り子のしつこい呼び声や不衛生な環境から解放され、文化的な匂いのする新しい食べ物やファッションに触れると、何となく自分自身も近代化の流れのなかに入っているかのような気分がするものである。

しかし、ショッピング・モールに入っているテナント企業は、実はインドネシア全国のショッピング・モールのどこでもほぼ同じであり、そのほとんどがジャカルタに本拠を置く企業のフランチャイズ店舗である。もちろん、地元企業の割合は極めて低い。このため、売られている商品もまたほとんど同じであり、フランチャイズ本社の全国的な流通戦略に依拠している。結果的に、マカッサル市内のショッピング・モールで売られている商品は、生鮮食料品も含め、ジャワ島や中国など他所から持ち込まれたものがほとんどなのである。ショッピング・モールがインドネシアの消費パターンの画一化に一役買っている形である。

そしてそれは、インドネシアにおける産業発展と綿密な関係を持ちながら発展していくものでは必ずしもない。経済グローバル化という名のもとに、インドネシア以外の国々から多くの輸入商品が入り込み、それがフランチャイズ企業の経営戦略に乗って、インドネシア全国のショッピング・モールへと行き渡っていくのである。ショッピング・モールは、他所から入り込んだ商業主義のショーウィンドーとして、近代化イメージを振りまきながら、マカッサルとその周辺の人々を引きつけ、ショッピング・モールの虜にするかのようである。

ショッピング・モールの隆盛とそれに歩調を合わせたマカッサルの街の変貌の様子を見ながら、地域の持つ「根っ子」が、近代化イメージを振りまく他所からの商業主義によって急速に失われていくのを感じる。たしかに様々な便利さを享受できるようになる。企業の収入 も上がるだろう。そして、南スラウェシ産のドリアンには目もくれず、何のためらいもなく、人々はショッピング・モールで売られているタイ産のそれを喜んで買うようになるのだろう。それは、経済グローバル化の下で合理性が貫徹する当たり前の結果に過ぎないのだろうが、インドネシアの地域の産業はこれからどうなるのか。何が地域に残っていくのだろうか。

地方自治体の分立は、インドネシアにおける地方分権化の特徴的な現象の一つである。そして、新州を設立すると「州都にはショッピング・モールがあって然るべき」という発想が出てくるようである。西スラウェシ州の州都マムジュでは、中央パサールが不審火で焼け、その跡地にショッピング・モールが建つ予定である。県レベルでも、ショッピング・モールの存在が地域開発の成功事例であるかのような認識が見られる。南スラウェシ州スラヤール県の県庁所在地ベンテンには、ヘリポート付きのモール建設の予定があると聞く。こうして、あちこちの自治体で伝統的パサールを取り壊し、ショッピング・モールを建設する動きが加速している。「地域資源」を忘れ、他所からの商業主義に依存した地域開発が各地でブームを迎えているのである。