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海外研究員レポート

発展途上国における「職業としての政治学」

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050007

川中 豪

2007年4月

一年間のアメリカでの在外研究に続いて、次の一年をフィリピンで過ごしているが、政治学者の役割、関心、目標、傾向などが、その置かれた環境によって大きく異なることを今更ながら強く感じている。それは、政治学者たちの置かれたインセンティブの構造が異なるがゆえに生まれている。

単純化して言えば、アメリカでは、大学でのポジション、特に終身雇用を獲得するために熾烈な競争があり、その競争を決めるのが主に学術雑誌への論文の掲載、大学出版からの学術書の出版であるためそうした活動に没頭していく。そうすると学術的なトレンドにはとても敏感となり、理論や方法についてより洗練された学術論文を書くことに関心が向いていく。そこでは、「科学」的な研究が好まれ、理論を立ててから仮説を導きだし、データによってテストする、という演繹的な手順が標準的になりつつある。フォーマル理論や計量分析などの高度なテクニックが重用される。

一方、一概には言えないものの、フィリピンのような途上国では、大学でのポジション獲得、終身雇用の獲得は、それほど熾烈な競争にない。大学教員の仕事自体、給与の面から決して魅力的なものはなく、社会的地位もそれほど高いとは言い難い。終身雇用は、学術論文の執筆よりは、博士号の取得によって獲得されるケースがほとんどだと思われる。給与の低さをカバーするために彼らの多くは、コンサルタントやアドバイザーとして政府機関や国際機関から依頼された仕事を行う。また、NGOなど立ち上げて自ら政治的な活動に関与するケースも少なくない。こうした場合、自国の政治事情を整理し、紹介するような作業をするか、さらに踏み込んで、どのように政治を改善していくか、という提言を行うことになる。また、政治学者に対する社会からの期待も、政治改善への直接的な貢献である(もちろん、途上国のなかでも、政治学者が存在する余地のない国もあろうし、一方でアメリカ的な政治学の影響を強く受けた国もあるだろう)。

(1)「規範的」(normative)か「実証主義的」(positive)かという軸と、(2)「帰納的」 (inductive)か「演繹的」(deductive)かの軸の二つを用い、途上国の例としてフィリピンの政治学、そして、他に日本、アメリカの政治学の傾向を見ると、以下の図のようになるではないかと筆者は考えている。

図:政治学の傾向

それぞれの国のなかでも政治学が多様であることを承知の上で、そのおおまかな特徴を見ると、フィリピン(他の発展途上国も多かれ少なかれ同様と思うが)は規範的・帰納的、日本は実証主義的・帰納的、アメリカは実証主義的・演繹的なアプローチが特徴的ではないかと思う。ここには、フィリピンのようは途上国では自国対象の研究がほとんどであるのに対して、日本やアメリカでは自国対象の研究が中心でありながらも、他国を対象とした研究の層が厚いということも影響しているだろう。

4月2日、3日にマニラで行われたフィリピン政治学会の年次総会に出席して、こうした途 上国における政治学、政治学者の傾向を強く認識した。筆者が実際に参加した6つのセッションでの報告の傾向は、選挙が近いこともあって、フィリピンの政党がいかに政党として機能していないかという議論か、具体的な政治制度、選挙制度改革の提言が目に付いた。

フィリピンの政治学者のなかでもアメリカの大学で博士号を取得した人々が何人かいるが、彼らは、アメリカにおける政治学の傾向を知りつつも、フィリピンにおいて政治学に従事し ていくことは別の仕事だと割り切っているようである。筆者が現在受け入れてもらっている アテネオ・デ・マニラ大学のある准教授(Ph.D.ミネソタ大学)は、「アメリカの政治学者はで きるだけ格式の高い学術雑誌に論文を掲載することにしのぎを削っている。また、実際に政 治関わることを軽蔑する人たちも多い。しかし、フィリピン人が読むことのないような雑誌 に論文を掲載することに今の自分は意味を見出せない。それに、目の前にある問題に関わら ないということもできない。フィリピンの政治学者には異なる役割がある」と筆者に話して くれた。彼はこの5月に実施される選挙を監視するため市民団体を組織し、それを通じて、 持続的に選挙に対する市民の意識を高めたいと考えている。友人の一人の元フィリピン大学教授(Ph.D.ウィスコンシン大学マディソン校)は、研究休暇を使って反政権活動に参加していたし、別のアテネオ・デ・マニラ大学助教授(Ph.D.コロンビア大学)は、まだ博士課程にいたころにはフィリピン政治学会の報告を半ば軽蔑していたが、今は、現実的な政治問題へのコミットを隠そうとしない。

この3人は、とてもまじめな人々で、規範的な発言をしながら、それでももどこか客観的なところがあって、政治学的なセンスを失わない人たちだ。ただ、残念ながら、そうした人々は多数派ではない。規範的すぎる傾向が、データに裏付けられた分析なしに改革を提案したり、あるいは、単に現状を描写し、嘆くだけの議論を許容するような場を提供している部分も否めない。国際的な学術雑誌に論文を発表しないとしても、やはり、現状をしっかり説明する分析は必要であろう。