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海外研究員レポート

第22回南アジア研究年次コンファレンス(UCバークレー)に出席して

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050013

大原 盛樹

2007年3月

カルフォルニア大学バークレー校のCenter for South Asian Studies(CSAS)は、米国における南アジア研究の中心地の一つである。同センターには同大学の47名の正教員(ファカルティー)が名前を連ねており、コーネル大学、ミシガン州立大学、ワシントン大学等と並び、全米で最大規模である。バークレーの南アジア研究の特色として、人文学的研究、特に(ポスト)植民地主義、ジェンダー、国家と社会の関係と言ったトピックを人類学、文学、歴史学、政治学等を使ってアプローチする研究が多いと言われている。CSASは毎年1回、南アジア研究の大型コンファレンスを主催しており、今年は2月16、17日にわたって行われた。ここでは同コンファレンスに出席した感想を報告する。

同コンファレンスは、実質的には、博士課程を終了しようとする若手研究者が第一線の研究者の前で成果を披露する場所となっている。以下は、今回のコンファレンスの各セッション(パネル)のテーマである。各パネルについて3名が報告した。報告者は、筆者のみたところ、約7、8割が南アジア諸国の出身者(移民の子孫または留学生)、残りが欧米系の人々であった。アジア人は報告者におらず、2日間の聴講者の中にも筆者一人しかいなかった。現在の南アジア研究の主流は、同地域の出身者が占めているように思われる。

1. 「舞台の力:独立後インドにおける演芸を通じた集団アイデンティティの創出」:集団アイデンティティの創造と政治

2. 「アメリカにおける南アジア移民の子孫」:1960年以降の移民の2世世代のアイデンティティ、米国における国家との関係、人種、民族性、ジェンダー、階級。

3. 「南アジア移民学(diaspora)の新しい軌道」:祖先国の文化と移民先の国家システム、今後の研究の分析枠組み、方法論、イデオロギー的見通し。

4. 「植民地の近代を再検討する:英国系インド人」:植民地における「近代」の不均質さを、原住民ではなく、英国系インド人の「イギリス性」から考察する。

5. 「ノスタルジアの選別、現在の描写:シネフィリアの世紀」

6. 「公共の創造:ポスト植民地期の南アジアにおける国家と公共空間」:植民地期の文明化および戦後の開発と密接に関わる近代公共領域、近代化した市民社会でなく民主化のための政治社会。

7. 「婚姻、離婚、レイプ:インドにおける属人法と権威の要求」

8. 「比較言説:南アジアの参照性」

9. 「サイバ文学の宗教的経験」

10. 「対話の場と社会変化としてのコミュニティー民俗演芸」:先住民の演芸とコミュニティー対話、社会変動。

11. 「南アジアにおける国家との遭遇:学際的、多国籍的アプローチ」:西欧的国家―市民の二分法に対する、ポスト植民地期インドの複雑な国家と社会、個人の関係。

12. 「帝国にはさまれたハイデラバード」:ムガール帝国期と植民地期の橋渡し期における政治、社会。近代インドの基盤。

13. 「国民経済、多国籍主義、資本の新しい論理」:新自由主義、保守的なネルー体制下の最低賃金政策、社会福祉とコミュニティー・イデオロギー、ヒンドゥ精神と IT 産業

上記に見られるように、国家、近代、市民社会、ポスト植民地主義、新自由主義等の概念を、メディア、移民、ジェンダー、宗教、文学等の視点から相対化し、既存のイメージを問い直そうという視点が各論題に共通して見られる。特に近代性、国家、(ポスト)植民地主義という概念を相対化しようという試みは、南アジア研究で進んでいる課題であるように思われる。その点は、多くの研究者が国民国家建設という目標にあまり疑問を差し挟まず、近代化をよりストレートに受け入れる傾向がある(中国人の)中国研究に比べると、顕著であるという印象を持った。

既存の学術的枠組み、概念を各地域の実情に照らして吟味するのが地域研究の重要な役割の一つだと考えれば、本報告会は非常に地域研究的であった。そしておそらくそのような性質から必然的に、議論は分散的であった。これらのシンポジウムの諸報告を通じて、何らかの統一感のある南アジア像が浮かび上がる訳ではなかったが、それはいたしかたないことであろう。

参加したパネルで、特に筆者の興味を惹いたのは次の2つであった。

1. 「公共の創造:ポスト植民地期の南アジアにおける国家と公共空間

南アジア(あるいは発展途上国)における「公共領域」は、ハバーマスが想定したような近代市民社会の順序だった段階的発展としてではなく、(近代社会を志向するというよりも) 民主主義の達成を目的とした政治的社会が構成しているという。政治がいかに公共の場を活用し、それに人々がどう対応したか、そして、西欧流の公と私という二分法がポスト植民地主義社会であまり意味のないものになっているとした場合、南アジアにおける公の理解にとって、その議論がどういう意味を持つのか、等について、3人報告者が、象徴としての都市、駅舎の公共空間、バス停車場の国家空間の諸事例から考察した。

中国では近年、個人の公共道徳心の向上が一種の社会運動として展開されている。「ハーモニアスな社会」の実現という国家的目標を掲げ、広がる一方の貧富の格差を是正するための政府の措置に支持を取り付けようという意図によるものでもあろうし、一方で、2008年のオリンピックで世界の注目が集まる中、中国人のマナーの問題が国際的なメディアにクローズアップされることを恐れた「マナー向上運動」の一環でもある、と一般的に見なされている。このような現象は、今回の南アジアの議論を敷衍すれば、近代的な個人を創出するためというよりも、より強い国家建設のための公共意識の強化が進んでいると考えることができる。そこで実際に人々の公共意識が強化されたとして、それが近代的個人主義とどう関わるのかは、非常に重要なテーマであろう。

2. 「南アジアにおける国家との遭遇:学際的、多国籍的アプローチ」

植民地期以降の各時代における国家の意味を、日常生活で国家と遭遇する人々がそれをどう主観的に認識するかという視点から、3つの報告が考察した。それは西欧の自由主義モデルにおける「国家―市民」という二分法的な規範的国家のイメージとは異なるものである。西洋的な近代化の経験から抽出された抽象的なモデルを、発展途上国の現実の複雑さから批判するという点では、先に紹介したパネルと同様である。北パキスタンの辺境地域における人々とその社会の統治にとって、政府だけでなく、NGOや国際機関、宗教団体等の役割が重要だと指摘する報告と、ムンバイ市政府に生きる行商人にとって、政府(国家)は統一された戦略に基づく一枚岩的な行動を行う存在でないことは、他の発展途上国で往々にして見られるという報告が印象深かった。中国と比較すると、社会における国家、政府の役割の小ささは南アジアの特色なのかもしれない。しかし政府、国家の諸エージェントの行為の多様さは、中国も南アジアと同様だという印象を持った。

若手研究者の最新の報告会という性質上、玉石混合で理解に苦しむものも混ざっていたが、全体的に見て、南アジア研究における新しい問題関心のあり方を示しているものと考えられる。上述のように、植民地経験および独立後の開発経験を経て数十年経った後、近代化や国家のあり方をかなり徹底的に相対化しうる段階に到達しているように思われる。それは現在、 近代化すなわち強力な国民国家の建設という目標を相対化するだけの心構えに乏しいように見受けられる(中国人による)中国研究と比較すると、より鮮明になる特色だと思われる。西欧の近代化の経験と、そこから抽象化された諸概念が現地にどれだけ適応するのかという問題は、南アジア研究に限ったことでは無論ない。ただし、中国研究、特に中国人による研究において、儒教という伝統的価値がそれに取って代わるかもしれないという見通しに基づく研究が増加しているように見受けられるのに対し、今回のシンポジウムでは、伝統的で民族主義的な価値観、例えばヒンドゥイズムを全面に押し出した研究は、最後の IT 産業の勃興を説明しようとしたもの以外はなかった。それは、彼等が必ずしも伝統的なものに価値を見いだそうとしていないという訳ではない。むしろ彼等はそれを試みてはいるのだが、しかし必ずしもそこから西欧的な概念に対抗しうるものを見いだしえない結果であるように見受けられた。その点で各研究は十分に思慮深いと言えるが、反面、ほとんどの論文の結論に、簡潔さ、明快さがあまりなく、モヤモヤしたものが残った。地域研究の基本的な性質だと考 えるべきなのであろうか。