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海外研究員レポート

英国における労働者のスキル向上への挑戦

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050046

2006年6月

英国での生活では、過去の遺産とはいえ大英帝国の支配がインドに残していった制度や生活習慣についてあらためて考えさせられることがある。独立時にはすでに国家統治を担う制度として存在していた官僚、海外に頭脳流出する人材、近年脚光を浴びるITエンジニアなど教育レベルの高い人材を豊富に擁する一方で、今日でも初等教育の普及に苦しむインドは、独立時に英国の教育政策のプラスとマイナスの両方の遺産を国家建設の初期条件として引き継いだといえよう。単純化すると、英国では少数のエリート教育を重視し、大多数の労働者階級の教育を後回しする政策が取られてきたのではないだろうか。OECDの『Education at a Glance 2005』によると、英国の17歳時の就学率は75%で、OECD諸国平均値よりも8%ポイントも低く、30カ国中27位であった(2003年時点)。さらに、ジョンソン教育相が先ごろ行ったスピーチによれば、英国の成人のうち500万人が文字を読めず(総人口約6,000万人)、労働者の約半数にあたる1,500万人が11歳時点で習得しているはずの基本的計算ができないという(The Guardian, 15 June)1。英国工業連盟(Confederating of British Industry)の行った調査でも、会員企業のうち、16~18歳の大卒以下の新卒採用には42%の企業が、そして大卒の新卒採用に対しても13%の企業が読み書き、計算能力に不満を表明しているという(The Guardian, 27 June)。なるほど、手紙を正確に配達できない郵便配達人やつり銭を正確に計算できない店員に少なからず遭遇するわけである2

最近発表されたイングランドの16歳以上の教育、技術訓練を担当するLearning and Skill Councilによる『National Employer Skills Survey 2005』では、前回2003年の調査で9人に1人の労働者が職務を適切に行うだけのスキルがなかったと雇用主が回答したのに対し、2005年には16人に1人に減少するなど、労働者のスキルが改善傾向にあるという楽観的な見方が示されている(LSC website <http://www.lsc.gov/uk/>)。

確かに、英国の企業が従業員の教育に力を入れたのかもしれない。しかし、英国では、清掃、飲食店などのスキルをあまり必要としないとみられる職のみならず、職人、専門職(医療関連、金融関連など)においても労働力が不足しており、新規にEUに加盟したポーランドなどEU圏内からの労働者を無制限に受け入れている数少ない国である3。こうしたEU圏内からの労働力による補充も労働者のスキルの向上をもたらした大きな要因と考えられるだろう4

経済のサービス産業化が進んでもそれを担うだけの人材が国内の教育制度の下では十分に供給できず、さらに労働者が豊富に存在するはずの単純労働においては離職率が高い。では、スキルのない英国人は転職を繰り返す以外にどこにいるのか。英国で中等教育修了資格(全国統一試験 GCSE/SCSEの5科目でAからCを取得)を持っておらず、就労も就学もしていない成人男性の比率はOECD諸国平均を上回り、20~24歳の17%(OCDE諸国平均16%)、25歳~29歳の12%(OCDE 諸国平均も同様に12%)にのぼる。そして中等教育を修了していない30~44 歳の所得は同修了者のわずか68%にしかすぎないという(OCED平均79%)(OECD『Education at a Glance 2004』)。一般に教育の低い層ほど低所得に陥り、社会的に排除されていく可能性が高く、極端なケースでは暴動、テロなど社会不安にも結びつく。さらに失業手当の増大は財政負担にもなるため、労働党政権がニューディール政策としてとりわけ力を注いできたのが職業訓練を含む若年層の失業対策である。若年層(15~24歳)の失業率は、過去10年で16.2%(1994年)から10.9%(2004年)まで大きく低下した(『OCED Employment Outlook』1996年および2005年)。政府の失業対策が効果を挙げた可能性もあるが、単なる好調な経済がもたらした雇用増との見方もされている。

さて、先日、大手銀行HSBCのバンガロールにあるコールセンターの従業員が顧客の口座からの盗難と情報漏えいで逮捕された(The Guardian, 29 June)。同紙の報道には、タブロイド誌『Sun』の記者がインドにある英国の某銀行のコールセンターの従業員から顧客情報をいとも簡単に聞き出すことができたというエピソードも載せられている。英国ではインドにコールセンターがあるというのは消費者にマイナスのイメージを与えるのか、フリーダイヤルの番号とともに「コールセンターは英国内にあります」と宣伝している会社も少なくない。また、先日我が家も契約している大手民間電気ガス会社Powergenがインドのコールセンターからの撤退を発表した。料金請求でのミスが多く、苦情が殺到したためらしい。短期間の個人的な印象にすぎないが、英国内にあると宣伝さるコールセンターのオペレーターの仕事ぶりには絶望感に陥れられることもあり、コールセンターを英国に戻しても簡単にはサービスの向上を期待できそうもない5。事実、コールセンターの経営コンサルタントは、「英国内でコールセンターの従業 員のトレーニングに十分に投資している会社は、インドのコールセンターもうまく機能している」とコメントしている(The Guardian, 30 June 2006)。要は、英国であろうとインドであろうと企業が従業員の訓練をどれだけ行っているかが重要なのである。

前述の教育相のスピーチでは、2012年のオリンピックを目指して建設業の技術訓練、とりわけ女性のトレーニングに力を入れることが明らかにされている。しかし、労働党政権下で2015年までに労働者225万人のスキル向上を目的として発足したSkills for lifeイニシアティブと呼ばれるプログラムの過去5年の評価においては極めて限定的な効果しかなかったと報じられており、ひとくちに労働者の訓練といっても基礎的な計算や読み書きのできない労働者が少なくない現状では、初等教育からの改革が必要であり、労働者のスキルの向上も困難が予想される。

2000年の国連総会で採択された「ミレニアム開発目標」の8つの目標のひとつに初等教育の普及が含まれる。インドを含め英国がかつて支配した旧植民地諸国の挑戦は、日常生活で接する労働者の質や盛んに公立校の改革が議論される英国の現状を見る限り、英国の抱える国内問題への取り組みと程度の差こそあれさほど違わないように見えるのは、まだ英国を表面的にしか理解していないせいだろうか。


脚注
  1. ロンドンのイーストエンドの日常生活を描いたBBCの長寿ドラマ「EastEnders」に、文字が読めず、腰痛を抱えているため家でテレビばかり見ている男が登場する。文字が読めない大人というのは労働者階級では珍しくないのかもしれないという印象を持っ てしまうが、個人的には文字の読めない英国人に数人しか遭遇したことはない。
  2. もっとも、キャッシュレス化の進んでいる国なので、そもそもたとえレジででもつり銭を計算する機会自体が減少していることにもミスの原因があるかもしれない。2004年末時点でカードでの取引が現金の取引を上回り、さらに5ポンド以上の取引は現金取引全体の3分の1にしか過ぎないという(The Guardian Weekend, June 24, 2006)。
  3. 英国への移民労働者が増加しすぎたため、ポーランドではあらゆる分野で労働力不足に陥っているという特集をBBC放送で見た。来年からはルーマニア人、ブルガリア人労働者も大量に英国にやってくるだろうというストーリーであった。
  4. ちなみに、EU圏内からの医師の流入によって英国人医師の就職先が少なくなっているという危機感から、これまで国民保健制度下で医師の補充を担ってきたインド人などEU圏外の外国人の医師に対して労働許可書を義務付づけるなどの法改正が行われることになった。
  5. インドへのコールセンターの移転は英国人の雇用を奪う形で行われたが、皮肉にも英国のコールセンターでの雇用の創出がインド系の企業によって行われるケースもある。たとえば、インドの ICICI OneSource はスキルレベルの高い労働者と比較的安い不動産価格を目当てにベルファスト(北アイルランド)に 1,000人規模のコールセンターを立ち上げると発表している(The Guardian, 30 June 2006)。