IDEスクエア

海外研究員レポート

わがまち彌阿里

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050049

2006年6月

1.彌阿里のなぞ

在ソウル海外調査員である筆者は彌阿里にあるアパートに住んでいる。彌阿里は本来ソウルの旧・城郭の北東部に位置していた恵化門(東小門)を抜け北方の議政府につながる道の途中に位置する。面積は約3.7平方キロであり、約13万7千人(5万余世帯)が住む。彌阿里の地名の由来は城郭からの道にある「ミアリ峠」から来たという説と、彌阿寺という寺院から来たという説の2つがある。朝鮮が日本の植民地になる前は漢城府(ソウル)東部崇信坊に属し、植民地時代に入ってから1914年4月にソウルから離れて京畿道高陽郡崇仁面に属するようになり、さらに、1936年4月にはまたソウルに復帰して京城府に属することになった。解放後の1946年10月に彌阿洞になって、今日に至っている。

現在のソウル市では日本の町に相当するものは全て「洞」となっており、彌阿里も正式には彌阿洞である。里は日本での村に相当する。しかしソウル市民の間では里から洞になって60年たった今日でも、なぜか依然として「彌阿里」と呼ばれている。

2. 里が残る地名

今日のソウル市内には、彌阿里のほかに、未だに里と呼ばれている場所として、彌阿里の北に位置する水踰里、それから旧・城郭の興仁門(東大門)を抜けて東に行った清涼里、踏十里、往十里がある。このほかに里と呼ばれている場所は存在しない。

これらのうち、往十里、清涼里、踏十里は正式には往十里洞、清涼里洞、踏十里洞である。これは、当地の鉄道駅が前からそれぞれ往十里駅、清涼里駅、踏十里駅と付けられていたため、里を洞に改めたときに地名から里をはずすと、鉄道駅がある場所とは別の場所であるように間違えられる危険があったためであると考えられる。なお、彌阿里にも水踰里にも鉄道駅は存在しないし、正式の地名には里がつかず、彌阿洞、水踰洞であって、○○里洞とかいう奇妙な名前にはなっていない。

水踰里の場合は、彌阿里と同じ漢城府東部崇信坊にあり、同じく1914年に京畿道高陽郡崇仁面に編入された。ソウル市に編入されて洞になったのは彌阿里よりも少し遅く1949年8月である。

彌阿里と水踰里に近接している牛耳洞は、植民地時代には牛耳里であったにもかかわらず、京城の観光案内図には「牛耳洞」となっている。ということは、日本で市町村名を変更したときに「村」から「町」になったことを喜ぶ人が多いように、こちらソウルでも里よりも洞と呼ばれることを好む傾向が伝統的にあったと考えられる。彌阿里にも水踰里にも地元の人が里と呼ばれ続けることを特に欲する理由は見当たらない。

3.彌阿里の特徴

里と呼ばれ続けている原因を求めるとすれば、まずその場所の特徴のなかに求めるのが常道であろう。まず、ソウルで彌阿里というと、水踰里もそうであるが、低所得層に属する人々の町というイメージがある。実際、彌阿里も水踰里も1960年代からソウル中心部の開発によって家を撤去された低所得層の人々、「撤去民」の集まったところであった。それにソウルに職を求めて地方から来る人も加わって、彌阿里、水踰里の人口は増加していった。特に彌阿里は小さい住宅が密集しており、番地の数がやたらに多い。

韓国では基本的に住所を、欧米や中国で見られるような道路を基準にして番号を付ける方式ではなく、日本と同様に家屋が集まっている土地を区分けして番号を付ける方式で定めている。この区分けされた土地が洞となっており、これが本来は市におけるもっとも下部の行政単位である。ところが、韓国には「法定洞」と「行政洞」の2種類が存在する。前者は住所を示すときに使われ、これは地番と一致する。後者は行政機関である市庁や区庁(日本の市役所、区役所に相当)の下に置かれた洞事務所(日本の区役所の出張所ぐらいのもの)の管轄範囲である。例えば、日本大使館のあるところは法定洞では中学洞であるが、行政洞では「鍾路1,2,3,4 街洞」となる。この鍾路1,2,3,4洞の洞事務所は27個もの法定洞を管轄している。こういう例は通常古くから栄えていた場所である。

逆に1つの法定洞がいくつもの行政洞に分かれている場合もある。わが彌阿里はまさにこの例であり、法定洞の彌阿洞には彌阿1洞から彌阿9洞まで計9個の行政洞がある。こうした例は通常市の中心部から離れていて新たに開発された場所である。そして、こうしたところは番地の数も多くなる。彌阿洞は1357番地まである。ただ、彌阿洞には1番地から1357番地まで全部あるわけではない。この番地はまったく地番の論理で付けられているものであって、例えば、いくつかの隣接した番地が更地にされてしまって、新たに次の番号を付けられるので、開発が進むたびにどんどん番号が増えていくのである。そのため、番地の番号が大きいほど、その番地の隣に連続した番号の番地があることを期待してはいけない。筆者の住む彌阿洞1356番地と同1357番地との間には1キロメートルぐらいの距離がある。そして筆者の住むところの行政洞は彌阿4洞、そして1357番地の行政洞は彌阿6,7洞となっている。

この彌阿6,7洞は郵便局では彌阿6洞と彌阿7洞に分けられている。例えば、法定洞の彌阿洞1344番地は郵便局では彌阿6洞1344番地、同じく彌阿洞1343番地は郵便局では彌阿7洞1343番地となっている。つまり郵便局では法定洞と行政洞を混ぜ合わせた表記を使っているのである。郵便局も番地の複雑さに手を焼いているようで、最近では郵便番号を細かく分けて、郵便物に必ず記入するよう呼びかけており、記入がない場合には罰金を課すようになった。筆者の住んでいる 1356番地のアパートに関しては独自の郵便番号があり、郵便屋さんはもはや番地を相手にするのではなく、郵便番号とアパート名を見て配達している。

ただ、1つの法定洞がある行政洞の数が最も多いところはソウル大学のある新林洞であり、新林1洞から新林13洞までの計13個の行政洞がある。新林洞の番地は1732番地まである。新林洞もソウル市民から見ると「撤去民の町」、低所得層の人々が多い町である。新林洞ももとは新林里であり始興郡から1963年にソウル市に編入された。しかし、彌阿里と違って里で呼ばれてはいない。では、彌阿里は新林洞に比べて田舎っぽいのだろうか。

都会度では新林洞より彌阿里のほうが高いといえる。それはまず百貨店の存在である。1988年8月に新世界百貨店彌阿店、2001年8月に現代百貨店彌阿店がオープンしており、さらに来年にはロッテ百貨店も完成する。彌阿里は周辺の町から買い物客が来るところであり、百貨店が1件もない新林洞は買い物客が出て行くところである。また、古くからの道路に位置する彌阿里は芳川市場、崇仁市場、三陽市場をはじめとする複数の市場を持っている。

もう一つ、彌阿里方面にあって新林洞方面にないものは売春地帯である。ソウル市で生まれ育っていないソウル市民、つまりおのぼりさんのソウル市居住者や外国人でソウルに縁のある人々に「ミアリ」というと、変な顔をされることがよくあるが、これはこの彌阿里のほうに1970年代から急速に成長した売春地帯「ミアリ・テキサス」があったためである。ただし、この売春地帯は正確には下月谷洞にあり、法定洞でも行政洞でも彌阿里あるいは彌阿洞であったことはなく、単に彌阿里と隣接しているだけのことである。

この売春地帯の固有名詞が彌阿里を彌阿里のままにした要因の1つではあろうが、決定的なものであると断定するのは無理がある。それは、同じくいつまでも里で呼ばれている水踰里とその周辺にはそのような売春地帯は存在しないからである。なお、このミアリ・テキサスは、1990年代に入って、この地域を管轄する鍾岩警察署に、これをつぶすことを使命とした女性の署長が就任したことで転機を迎えた。筆者が前回ソウルに赴任した1996年にはこの売春地帯は鉄板で囲われており、廃墟と化しつつあった。現在も若干の業者が細々と営業を続けているようであるが、いずれ死滅してしまうことは間違いないように思われる。

4. 交通の要所

彌阿里が持つ商業地域としての特色は交通の便によって支えられているものである。1861年に描かれた地図である「大東與地図」には興仁門(東大門)から東に行き道から途中で北に上がる道と恵化門(東小門)から(記載はされていないがミアリ峠を越えて)北上する道とが重なる所が見られるが、ここは今日、彌阿3つ辻と呼ばれる所である。(今ではこの3つ辻にもう一本道路ができて、道路標識では「彌阿4つ辻」となっており、若いタクシー運転手もそう呼んでいる)。

そもそもソウルの公共交通機関は旧・城郭内から発達してきたが、1899年に始まり1968年に廃止される路面電車も、恵化門を過ぎる線はミアリ峠を越すところまでは伸びなかったし、興仁門を越す線も東のほうにだけ延びて、この彌阿3 つ辻まで来ることはなかった。彌阿3つ辻に最初に到着した公共交通機関は市内バスであり、ここから中心部の鍾路4街までの路線が1954年10月から運行された。このとき彌阿里はすでに彌阿洞であったのであるが、バス停は「彌阿里」であった。さらに、1961年7月には水踰里からソウル駅までの路線が運行されるようになり、水踰里も水踰洞であったにもかかわらずバス停は「水踰里」であった。市内バスは中心部から離れたところを始発にして中心部に向かって運行されたが、1961年までの始発のバス停で里が付いているのは「彌阿里」と「水踰里」しかなかった。ほかは、例えば、かつては彌阿里と同じく高陽郡崇信坊の貞陵里であった貞陵洞のバス停は「貞陵」、同じく鍾岩里であった鍾岩洞のバス停は「鍾岩洞」とされたように、バス停の名称に里とか洞を付けたりつけなかったりすることに関して規則性は見られない。

こうして、おそらく偶然に付けられたバス停の名前がソウル中心部に住む人々と現地に住む人々にとって彌阿里と水踰里を定着させてしまったのであろう。

市内バス網は拡大を続け、バス停の数にも位置にも名前にも変化があるはずである。地下鉄が1985年に開通して彌阿里に「彌阿」と「彌阿3つ辻」という2つの駅を置いたとき、バス停もそれぞれに置かれるようになった。しかし、筆者が1980年代、90年代まで市内バスの行き先表示は「彌阿里」「水踰里」となっていたことを記憶している。ソウル市が2004年7月から実施したバス路線、運行形態の大幅な変更は、バスの行き先表示から「彌阿里」と「水踰里」をなくしてしまったため、今日公共機関にある表示で「彌阿里」「水踰里」を見ることはできなくなったようである。

5. 都市計画と彌阿里

彌阿里が彌阿洞でなくて彌阿里と呼ばれ続ける理由は、上に述べたように、1954年からのバス路線の表示であったと見られる。しかしこの表示は今日では見られなくなった。そして、「ミアリ・テキサス」も消滅しつつある。とすれば、彌阿里の名前を維持しているものは「ミアリ峠」ぐらいしかなくなることになる。しかし、公共交通機関も道路も整備されていくと、「ミアリ峠」も峠として認識されなくなり、その名前も忘れ去られていくことになる。

さらに、この傾向に追い討ちをかけているのがソウル市の都市計画である。ソウル市は2002年度から「ニュータウン事業」という都市再開発事業を進めているが、2003年に彌阿里の一部が「彌阿」といして「ニュータウン地区」に指定された。この行政機関の都市計画にともない、民間企業もこの地域の独自にこの周辺の再開発事業にも乗り出している。とくに筆者のアパートの近所では、最近までロッテ建設が若くてきれいな女性を動員して、住宅街をデモ行進して回り、「町を美しく生まれ変わらせます」とか「ロッテはいい」とか歌やシュピレーコールでアピールして回っていた。ここでのライバルの建設会社は、事務所に若くてきれいな女性をまったく置いていないわけではなかったが、雰囲気はいかにも土建屋さんであった。ロッテ建設は事務所をこの土建屋さんの事務所のすぐ脇に立て、挑戦したわけである。勝負はこの華やかな攻撃を仕掛けた側の勝利であった。彌阿里の人々は、町をきれいに開発するという黄色い声のコマーシャルのほうに好感を持ったようであった。

官民双方の動きにより、数年後には低所得者層の町というイメージも一変される見込みである。こうして、ニュータウンの名前そして地下鉄の駅名である「彌阿」のほうがいずれ定着してしまい、彌阿里という呼び方もなされなくなるであろう。

数年後にはソウルの中心部で道行く人に「彌阿里」行きのバスが止まる停留所を訊いても、「あ、彌阿のこと?」あるいは「彌阿洞?」と訊き返されるようになるのかと思うと、少し寂しい気がする。最近、ソウルの 若いタクシー運転手に「彌阿3つ辻」に行ってくれというと、「彌阿4つ辻のことですか?」と聞き返された。お兄ちゃん、確かに道が1本増えて、しかも地図にも道路標識にも「彌阿4つ辻」と書かれている。でもねえ、地下鉄の駅名にあるとおり、彌阿3つ辻なんだよ。そして、町も彌阿洞となっているが、彌阿里なんだよ。ほら、今通ったところがミアリ峠っていうんだよ。え、ミアリ・テキサスってのを聞いたことがある?あれは近いけど、彌阿里にあったんじゃないよ。ほら、右側に見えるところなんだけど、あれは、下月谷洞の一角だよ。そもそも彌阿里ってのはなあ……。あ、もう着いちゃった。ここは交通も買い物も便利、住み心地のいいところだぞ。