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海外研究員レポート

マレーシアのイスラムの中心地コタ・バルを訪ねて

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050062

鈴木 早苗

2006年3月

2月半ば、マレーシアの都市、コタ・バル(Kota Baharu)を訪れた。コタ・バルはマレーシアの東北部クランタン州の州都で、タイとの国境に位置する都市である。クランタン州はマレー人が多くを住み、イスラム教を信仰している。市内の中心には、クランタン州立モスクがあり、マレーシアにおけるイスラムの中心地であると思い知らされる。今回はクランタン州都、コタ・バルの町の様子、人々、歴史などについて報告する。

(1)タイとの国境の街

コタ・バルからタイの国境までは約40キロ。マレーシアと国境を接するタイ南部にはイスラム教を信仰する人々が多く住んでいる。仏教国タイではマイノリティーだ。1970年代から、これらの人々はタイからの分離・独立運動を繰り返してきた。タイ政府はマレーシア政府がこの分離独立運動を密かに支援していると非難してきた。具体的には、マレーシア政府が、タイ南部のイスラム過激派に軍事訓練を供与しているというものだが、マレーシア政府はこの事実を否定している。

2004年にも大規模なイスラム過激派による暴動が起こり、タクシン・タイ首相は鎮圧に乗り出した。その弾圧のため、マレーシア国内に難民として流れ込む人々もいた。マレーシアア政府はこの件でタイ政府に説明を求めている。この件を直接担当した首相特別秘書官によると、タイ南部の問題はイスラム対仏教という宗教的なものではなく、タイ政府がバンコクを中心とする都市部の経済発展に力を入れ、地方の経済発展を軽視してきた結果、タイ南部の貧困化が進み、貧困層が反政府勢力となって暴徒化したためであるという。

(2)人々・食べ物・伝統工芸その他

コタ・バルはマレー半島東海岸から車で20分という距離にあることから、日差しも強く、常に海風が吹く街だった。市内を闊歩する健康そうな女性はほとんどがマレー系でイスラム教を信仰し、チュドンと呼ばれるスカーフを頭に巻く。コタ・バルの気候のせいか、その服装 (バジュ・クロンと呼ばれる寸胴のかぶり服)はクアラルンプールより色彩が派手な気がした。赤、青、黄、緑、といった原色の色が目立ち、大柄の花が描かれているものをよく目にした。聞けば、クランタンのバティックの柄などだという。

バティックと並び、もう一つ、クランタン州の伝統工芸品はソンケットと呼ばれる金や銀の糸をふんだんに使った絹織物だ。マレー人男性が正装する際、腰巻として利用される。この織物の柄は基本的には格子柄である。どことなく、タイの織物の代表的な柄に似ている。市内の中心に建つ州立モスクに寄り添うようにセントラル・マーケットがあった。そのマーケットの三階には、ひしめくようにバティックやソンケットなどの布地が売られていた。ブースのように仕切られたお店にはまたもや派手な色の服を着たおばちゃんたちが布を売って いた。

イスラム教徒が多く住むコタ・バルでは当然の事ながら、ほとんどのお店ではお酒が売られていない。中国料理のお店もごくわずかである。酒好きの私としては、夜の食事はお酒があってこそ話が弾み、お店につい長居してしまう。だが、マレー人はお酒も飲まないのに、お店でおしゃべりに花が咲く。彼らはかなりの宵っ張りである。ここコタ・バルでもその習性を垣間見ることができる。それはナイトマーケットだ。クアラルンプール市内でも数多くのナイトマーケットが開かれている。それぞれのマーケットは基本的に週に一回、曜日を決めて開催している。私の住むバンサー地区は毎週日曜の夜にナイトマーケットを開く。しかし、コタ・バルのナイトマーケットは年中無休、毎日18時から始まり、夜中の1時ごろまで続く。屋台の脇に座って夜更けまで話し続けるコタ・バル人。そして、朝8時にはセントラルマーケットで野菜や肉、布を売り始める。寝不足にならないのだろうか。朝が弱い私は不思議で仕方がない。

日々の食事を垣間見るため、地元の人々がよく出かけるレストランに行ってみた。そこには生野菜、魚の唐揚げ、カレー、鶏肉の唐揚げと豊富な食材が並んでいた。それぞれの食材を別のお皿に取り、ご飯のお皿とともにテーブルに並べれば、クランタン州の伝統的な料理の出来上がり。好きなだけ欲しいものを取り、おしゃべりをしながらにぎやかに食べる。途上国の地方は貧しいとの感覚を少なからず持っていた私は、餓死者の記録がないというマレーシアの豊かさを実感した。

(3)日本軍侵攻の足がかり

コタ・バル市内にあるムルデカ広場(独立広場)の脇に、第二次世界大戦記念館という建物がある。実は、コタ・バルは 1941年12月8日、日本軍がマレー半島に最初に上陸したところだ。日本軍は、時を同じくして、中立国家タイにも進出し、タイ政府から日本軍に協力する了解を取り付け、その見返りとしてタイ政府にクランタン州、トレンガヌ州などのマレーシア北部の州をタイに譲渡する合意まで成立させていた。もちろん、米国、英国、(旧)ソ連を中心とする連合国軍に日本は降伏し、この合意は無効になった。この記念館は日本軍がマレー半島に侵攻し、同半島を支配していた英国を降伏させ、半島全土を支配下に置く過程、その後、連合国軍に降伏する経緯までを写真や日本軍が残していった遺品などとともに紹介している。

この日本軍がマレーシアに残した痕跡のなかで、その後のマレーシアの歴史に大きな影響を与えたのが、抗日戦線と結びつき力をつけたマレー共産党の台頭である。日本軍に対する抗日戦線(ほとんどが中国系だったようである)がマレー半島に起こり、それは中国の共産化の影響から広がりつつあったマレー共産主義勢力と結びついた。日本からマレー半島の支配権を取り戻したい英国は日本軍に対抗させるため、この抗日・共産主義勢力を支援した。記念館に置かれた説明文によれば、これが、マレー共産党の発祥だという。マレー共産党は第二次世界大戦後、マレーシアを共産国家にしようと政府にさまざまな働きかけを行ったが、多くの場合、ゲリラ化し反政府運動を展開した。独立直後のマラヤ連邦、その後のマレーシア政府が国内安定のために最も力を注いだのがこのマレー共産党の撲滅であった。