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ケニア情勢レポート 2017年総選挙日程をめぐる混乱にみるケニア立憲主義の現在

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2017年9月

要約
ケニアでは、憲法で明記されているにもかかわらず、次回の国会議員総選挙、大統領選挙の日程が長期にわたって不確かになる事態が繰り返されてきた。第11次国会(2013~2017年)の場合も、憲法が規定する総選挙日程に従い2017年8月開催とするのか、それとも任期5年と定めた別の憲法条項に従い2018年3月とするのか、さらにはそのどちらでもない時期の開催にするのかをめぐり、論争が続いた。本稿は、こうした議論の背景に第10次国会(2008~2013年)での「次回総選挙日程」をめぐる混乱があることを示した上で、第11次国会における国会議員の任期延長を目指す憲法改正の試みとその頓挫を跡づける。その上で本稿では、紛争後の新憲法体制下における立憲主義のありよう――ケニアでは長らくその不在が問題とされてきた――を考察する。
はじめに

ケニアでは、国会上下院の総選挙は5年おきの8月第2火曜日に開催すると憲法に明記されており、大統領選挙以下、地方自治体にあたるカウンティ(county)の知事選挙、地方議会議員選挙もすべて国会議員の総選挙と同日に開催する――すなわち5年おきの8月第2火曜日に開催する――と憲法に明記されている。ところが、実際に次回の総選挙、大統領選挙以下がいつ開催されるのかについては、主に国会を舞台として長らく論争が続き、選挙日程が不確かになる事態がこれまで繰り返されてきた。

この問題がとくに紛糾したのが2013年3月開催の総選挙で選出された議員(補欠選挙で選ばれた議員を除く)によって構成されたケニア第11次国会である。上下国会議員の任期はいずれも5年とするとケニア憲法は定めているため、これに従えば、第12次国会議員を選出する総選挙は、2013年3月から5年後にあたる2018年3月に開催されることになる。ところが憲法には、上述したように総選挙の実施を「5年おきの8月」と定める規定も存在しており、そちらに従えば次の総選挙は、それより7カ月早い2017年8月開催となった。またこれとは別に、総選挙を控えた2016年時点では、次回総選挙を2017年8月でもなく、2018年3月でもなく、「2017年12月」とすべきだとの主張も盛んになされ、国会内外で議論が紛糾した。

本稿では、この、2010年に初めて「5年おき8月第2火曜日」の規定が憲法に盛り込まれてから2回目にあたる国会議員選挙、大統領選挙の開催日程をめぐる混乱を取り上げ、その法制度的な背景を整理する一方で、政治的な側面、ここでは主として国会で「次回総選挙日程」をめぐりどのような議論が起こり、選挙日程が長らく定まらない状態が生じたかを跡づけたい。後に見るように、この国会での日程をめぐる議論は、最終的には5年の任期確保のために国会議員が憲法改正を試みるまでに至った。本稿では、これらを踏まえ、選挙日程をめぐる論争の背景にある、ケニアにおける立憲主義の不在という論点について考察を加えたい。

本稿では以下の構成で議論を進める。まずケニアの法制度上で国会議員の任期と総選挙の実施日程がいかに定められてきたかを整理する。ここではあわせて、法改正の手続きとその変遷も整理しておこう(第1節)。次に取り上げるのは、第10次国会(2008年1月~2013年2月)で起こった「次回総選挙日程」をめぐる議論である(第2節)。このときに出された司法判断の内容が、第11次国会(2013年3月~)における国会議員の任期、次回総選挙の開催日程に関する議論の原因を形作ることとなった。続く第3節では、第11次国会における議論を追う。そこでは、第10次国会中に出された任期に関する司法判断によって、第11次国会の任期が短縮されたのかどうかが問題の出発点となる。第11次国会で精力的に取り組まれたのは、現職議員の任期をいわば延長するための憲法改正であった。結果を先取りすれば、出席議員の9割近くが賛成する中「任期延長改憲」は成立せずに終わった。以上の検討にもとづき、むすびでは第11次国会での憲法改正の試みにみられるケニアにおける立憲主義の現在について考察を加えたい。

1. 国会総選挙日程と歴代のケニア憲法
1-1 総選挙開催日

ケニアにおける総選挙日程に関わる法制度の整理にあたって、具体的に取り上げるのは、ケニアの歴代の憲法である。「適法性というものがとくに強調されるのを特徴」(Jackson and Rosberg 1982, 25)とするケニアでは、主として憲法改正を繰り返すことによって統治機構が整備されてきた歴史がある(Throup and Hornsby 1998、津田2007)。ケニアでは、独立直後の1960年代に行われた憲法改正によって、国会議員であることが大統領選挙への立候補の必要条件の一つとされて以来、国会議員の任期は大統領の任期に直結する重要性をもつこととなった。国会議員の任期は、大統領の任期と並んで常に憲法上に書き込まれてきたのであり、歴代の憲法の規定と憲法改正の歴史をおさえることが、総選挙の開催日程をめぐる混乱の持つ意味を理解する第一歩となる。

1963年12月のケニア独立時に採用された憲法(以下、独立憲法)は、「キクユ(Kikuyu/Gikuyu)」、「ルオ(Luo)」という主要な2大民族には属さない農耕民や、牧畜系の人々、そしてヨーロッパ系住民などからなっていた、ケニアにおける「少数派」の権益保護の観点に立って地方分権制を採用し、上下二院制、議員の互選により首相を選出する議院内閣制をとっていた。

少数派寄りの独立憲法が採用されたのには理由があった。これに先立つ植民地期に行われた1961年の総選挙で最多議席を獲得したのは、後の初代ケニア大統領J・ケニヤッタ(Jomo Kenyatta。農耕適地出身、キクユ人)が率いた政党だった。しかしケニヤッタらは植民地支配への抗議を理由に政権担当をボイコットし、独立憲法を決めるイギリスで開催された憲法制定会議には野党代表として参加した。一方、1961年当時の与党代表は、乾燥地域を主な支持基盤とする小規模な民族政党を糾合した政党とヨーロッパ系入植者を基盤とする小政党の連立で構成されていた。独立憲法は、ケニヤッタらが野党側だった時代に決められたものだったのである。

中央集権制を望んでいたケニヤッタらにとってはこの独立憲法は不満であった。制憲会議に参加したケニヤッタが「望まない憲法を受け入れることを強制されたとしても、一旦政権を取れば、憲法を改正することができる」と述べたことはよく知られている。

地方分権制を敷いた独立憲法の寿命は短期に終わった。独立を視野に入れた1963年の総選挙ではケニヤッタの政党が7割の議席を獲得して国会の最大勢力となり、初代のケニア政権を担当することになった。ケニヤッタ政権下では、野党議員の与党への移籍が呼びかける一方、自発的な移籍に応じない議員の所属する野党については弾圧と非合法化が行われ、1969年までにケニア国会は全議員をケニヤッタの与党が占めるに至った。与党が国会を独占するなか国会の議決により憲法改正が繰り返され、ケニヤッタはその「予言」のとおり中央集権化を進めていった。

こうした1960年代の大規模な憲法改正を踏まえて制定し直されたのが1969年の新憲法だった(以下、1969年憲法)。1969年憲法は、大統領への極端な権力集中をその特徴としていた。そこでは国会の解散権は大統領一人に付与された(第59条(2))。国会の任期こそ5年と定められていたものの(第59条(4))、総選挙の開催日が憲法やその他の法律にあらかじめ書き込まれることはなかった。国会議員の就任後5年以内については大統領の一存で国会が解散できるこの仕組みは、運用面でも幾度となく大統領に利用され、1969年憲法の下での歴代の総選挙はいずれも国会議員の任期が5年で満了する前に大統領が国会を解散することで実施されてきた。

一方で国会は大統領の弾劾決議を行うことはできず、可能なのは内閣不信任決議のみであった。ただし、内閣不信任決議が可決された場合でも、大統領は内閣総辞職するかまたは国会を解散するかを選択することができた。解散によって任期途中で議席を喪失する事態を避けたい国会議員にとって、内閣不信任決議は不利となる。独立ケニアには長らく国会による内閣不信任決議の制度が存在したが、実際に採択されたことはなかった。大統領が国会に優越するこの仕組みの問題点は、1990年代以後の民主化の取り組みの中で繰り返し指摘されることとなった。

こうした民主化の流れに加え、大統領選挙での不正疑惑に端を発した大規模な国内紛争、いわゆる「選挙後暴力」(Post Election Violence: PEV)が2007年12月から数カ月にわたって続いたことを背景として2010年になって制定されたのが、抜本的に新しいケニア憲法(以下、2010年憲法)だった。2010年憲法では、大統領一人に付与されていた国会の解散権が廃止される一方で、国会(上下二院制が復活された)が大統領を弾劾できる仕組みが採用されたほか、上述のように総選挙日程が日付のレベルまで――具体的には、「国会の総選挙は、5年おきの8月第2火曜日に開催する」とされた(第101条)――あらかじめ明記された。また国会議員の任期は「次回総選挙の実施日まで」とされた(第102条)。加えて、大統領選挙――1969年憲法下と同様、全有権者による直接選挙――の実施も死亡などの場合を除いて国会議員の総選挙と同日とし(第136条)、次期大統領の就任日を前期大統領の任期切れの日と定めた(第142条)。つまり、2010年憲法は、国会総選挙と大統領選挙を、5年おきの8月第2火曜日に開催すると規定したのである。

1-2 憲法改正の手続き

このように国会総選挙や大統領選挙の方法と日程が各種の選挙法などではなく憲法に書き込まれた理由は、端的に言えば、1960年代の事実上の一党制化にみられたような、与党主導によるコンセンサスを経ない恣意的な制度変更を予防するためであった。通常の法律の制定や改廃は、2010年憲法下、1969年憲法下を問わず、基本的に出席議員の過半数の賛成で成立する上、国会の審議が成立するための最低出席者数が少なく定められているのがここで鍵となる。具体的には、独立憲法では、国会での通常議決は「出席議員」の「過半数」によるとされた(第56条)。これはそのまま1969年憲法(第54条)、2010年憲法(第109条)に引き継がれた。一方、国会の審議に必要な定足数について独立憲法は、下院で20(全議席110~130の15~18%)、上院で10(全47議席の21%)とし(第35、49、54条)、1969憲法でもわずか30(全議席177~222の14~17%)とした(第51条)。民主化後の1990年代には議席数は222に増え、法律の制定や改廃には、最少出席議員30人の過半数16人の賛成、すなわち全議席のわずか7%の賛成しか必要とされなかった。加えて、定足数に関わる指摘は議員の申告制だったため、出席議員数が30を下回っていてもたびたび議決が行われてきた。また、2010年憲法でも割合で見ると大きな変更はなく、下院での採択に必要な賛成が50議席(全議席数349の14%)、上院では15議席(全議席数67の22%)と、多くはない(第121条)。

他方、ケニア憲法では、こうした通常の議決と異なって、憲法改正には相対的に多数の賛成を必須とする仕組みがとられてきた。独立憲法は、憲法の改正には出席議員でなく上下両院それぞれ「全議席」を母数とし、さらに過半数ではなく「4分の3」以上の賛成が必要と定めた(第71条)。また、否決された場合に国民投票に付すオプションも設けていた(第71条)。独立憲法ではさらに、地方分権に関わる条項を特定した上で、それら特定条項の改正については上院――地方代表で構成されていた――の議決で、全議席の10分の9以上の賛成が必要と、厳しいハードルを設けていた(第71条)。

これに対し初代ケニヤッタ政権での中央集権化と大統領への権力一極集中が目指された1960年代の憲法改正では、憲法改正をより少数の賛成だけで可能とする改革が断行された。具体的には、1965年の憲法改正では下院での憲法改正案の議決は全議席の「65%」以上のみの賛成で成立するとされた。1967年の第7回憲法改正では、上院が廃止され一院制に移行した。これにより、地方分権に関して「10分の9」以上と決められたハードル自体が消失した。また地方分権に関わる条項の特別扱いが段階的に廃止され、全議席の4分の3ではなく65%の賛成のみで憲法改正できるものとした。これらの憲法改正を受けて制定された1969年憲法は、すべての条項について、国会(一院制)「全議席」の「65%」の賛成だけで成立するとした。憲法改正に関する国民投票の規定は外され、代わりに国会全議席の65%の賛成には到達しなかったものの出席者の過半数の賛成は得た場合は、国会で再議決することができるという規定が盛り込まれた(第47条)。

2010年憲法では、地方代表からなる上院が復活した上、両院それぞれで「全議席」を母数とし、65%ではなく、それをわずかに上回る「3分の2」――割合でいえば、66.67%である――以上の賛成が憲法改正に必要とされた(第256条)1。2010年憲法はまた、独立憲法と同様に特定事項を指定し、それらに関わる憲法改正については国会両院で全議席の3分の2以上の賛成による可決に加えて国民投票での承認を必要条件と定めた2。ここでは、この特定事項に「大統領の任期」が含まれていることにここでは留意しておこう(第3節で詳述する)。

2.2012年の控訴審判断
2-1 PEVの勃発と暫定憲法体制への移行

では、こうした法的枠組みのもとで発生した第10次国会(2008年1月~2013年2月)における「次回総選挙日程」をめぐる議論とは、一体どのようなものだったのだろうか。2010年憲法が施行された年号からも分かるように、第10次国会の任期は、1969年憲法から2010年憲法への移行期にあたっていた。自分たちの任期は5年なのか。それとも、上述の2010年憲法第101条の規定――「5年おき8月第2火曜日」――に従って5年を待たずに2012年8月の時点で総選挙を開催しなければならないのか。議論はすぐれて憲法解釈をめぐるものとなった。決着は司法判断に任された。具体的に見ていこう。

ばらばらな時期に大統領が国会を解散してきた一党制時代とは異なって、1991年の複数政党制回復以来、歴代大統領は、慣例的に12月末に行われてきた5年おきの総選挙日程を見越して議員の就任5年目半ばに国会を解散してきた。同じタイミングでの総選挙実施であれば、第10次国会議員が選出された総選挙(2007年12月末実施)から5年目にあたる2012年半ばには国会解散、12月に総選挙という日程になるところだった。しかし、この2012年に限っては事情が異なった。

上で触れたように、ケニアは2007年末、複数政党制を回復して4回目にあたった大統領選挙での不正疑惑に端を発する国内紛争、PEVに突入した。PEVは、死者少なくとも千人、国内避難民は最大時で65万人に達する、ケニア史上最悪の国内紛争であった。以後、国民和解プロセスに入ったケニアでは、PEV後初となる総選挙・大統領選挙の日程の設定が大きな問題になった。平和裡に、そして成功裡に紛争勃発後初のその選挙を実施できるかどうか。PEV後初となるその選挙の行方は、紛争再発の防止という意味でも分水嶺となる重要性を有していた。

国際調停を経てPEVが2008年3月までにほぼ収束すると、以後のケニアは暫定憲法体制下に入った。暫定憲法の規定に基づき、和解のため、当時の2大政党だった「オレンジ民主運動」(Orange democratic Movement: ODM)と「挙国一致党」(Party of National Union: PNU)が連立政権を組み、大統領にはM・キバキ(Mwai Kibaki、PNU所属、キクユ人)、権力分有のために暫定的におかれた新設の首相ポストにはR・オディンガ(Raila Odinga。ODM所属、ルオ人)がそれぞれ就任した。一方で、紛争のために諸手続は遅れ、2007年12月末に行われた総選挙から10日以上遅れた2008年1月半ばになって第10次国会の議員の就任宣誓が行われた。

2008年にはまた、和解調停で結ばれた協定にもとづき「国民合意と和解法」(National Accord and Reconciliation Act, 2008)が制定されたが、次回総選挙日程との関連で、この法律は重要な意味を持った。「国民合意と和解法」のなかでは、大統領が専有していた国会解散権は停止され、ODMとPNUが書面で連立解消に合意――もしくは一方が書面で連立離脱を表明――した場合のみ、連立政権を解消できるとされたのである。「連立解消イコール国会解散・総選挙」とは明記されなかったものの、大統領の国会解散権の停止と抱き合わせの規定であり、連立解消があれば国会解散・総選挙が行われると解釈されうる枠組み(以下、「連立解消による解散・総選挙方式」)だった。

日程が争点化したもうひとつの主な原因となったのが、これもPEV後の国民和解プロセスの一環として制定された、抜本的に新しい2010年憲法だった。2010年憲法は、上でみたように1969年憲法に記されていた大統領の国会解散権をなくし、かわって総選挙日程を「5年おきの8月第2火曜日」と定めた(第101条)。ただし、付則は「新たな憲法の施行時点の現職国会議員については、任期を全うする」と過渡期の運用を定めた(付則第6章第10条)。ここが混乱の出発点となった。

2-2 司法判断による任期満了

国会議員の就任宣誓は、上でもみたとおり、2008年1月半ばだった。国会議員の任期切れが視野に入った2011年の後半に入って、次回総選挙は2012年8月なのか(第101条方式)、1969年憲法時代からの慣例に従った2012年12月末なのか(連立解消による解散・総選挙方式)、あるいは2013年1月にやってくる国会議員の5年間の任期満了を待っての解散なのか(付則第6章方式)で、とくに国会を舞台として鋭い論争が巻き起こった。当時の世論調査では、「2010年憲法に従って2012年8月第2火曜日に実施すべき」という選択肢に人気が集まっており、オディンガ首相をはじめ、国会議員の中にも2012年8月実施を支持する勢力が存在した。

一方、連立政権に参加しない、その他の野党国会議員の中から、「2012年8月総選挙であれば、国会解散はその数カ月前になる、2010年憲法には『任期を全うする』とあり、違憲だ」との説を唱える勢力があらわれ、裁判が起こされた。就任宣誓日から数えれば、2013年1月半ばが就任5年目だったため、2012年8月総選挙実施にあわせての解散では、任期満了よりかなり早期に議席を失うことになる。

国会議員にとっては選挙キャンペーン自体に費用がかかることに加え、議員の給与・手当が相当な高額であることなどが、この裁判の背景にはあった。国会議員の収入は、1969年憲法下では国会の議決で決定できたため、現職議員が自らの給与引き上げを議決することが1970年代から繰り返されてきた。とくに2003年の総選挙後の国会で決められた給与・手当の大幅増額により、国会議員の収入はついに月額85万シリング(当時のレートで約100万円。以下同)の高額に達し、人件費の高騰により国家の財政負担は増す一方となった。この反省に立ち、2010年憲法下では給与の決定権限が国会から独立の専門委員会に移管され、手当が大幅に減額された。しかしなお、国会議員の収入は給与と手当を合わせると毎月50万シリング(約70万円)を超え、国民の相当数が貧困ライン以下にあるといわれるケニアにおいて、議員の収入はかなり高い水準にあった(Daily Nation 2013年3月4日)。

2012年1月、憲法解釈にあたったケニア高等裁判所(High Court。以下、高裁)は、二つのオプション――(1)2012年中に総選挙を開催するオプション、(2)2013年1月15日の国会議員の任期満了を待って、その後60日以内に総選挙を実施するオプション――が並存するという玉虫色の判断を示した(Daily Nation 2012年1月14日)。高裁判決は、2012年8月第2火曜日開催(第101条方式)をまず否定したが、その上で、キバキ側とオディンガ側が連立を解消することによって2012年に総選挙を実施する方式(連立解消による解散・総選挙方式)を示し、一方でさらに2013年1月から60日以内開催、すなわち現職国会議員は任期5年を満了の上解散するとの規定に従った方式(付則第6章方式)を併記した。

これを受けた直後のケニア選挙管理委員会(以下、選管)は、「連立解消についての政治判断を注視している」旨をまずは表明したが、キバキ大統領とオディンガ首相の話し合いはその後進展しなかった。政治判断の示されないなかで選管は、2012年3月、「次回総選挙を2013年3月4日に実施する」(任期を満了させる付則第6章方式に適合している)と発表し、政治判断で連立を解消し解散・総選挙となった場合にも備え、「2012年12月実施も可能であるように準備する」とした(Daily Nation 2012年3月19日)。高裁の示した後者の「連立解消による解散・総選挙方式」オプションを実行に移せるのはキバキ大統領とオディンガ首相だけだが、両者に現時点で合意がないため、任期満了を待って国会を解散する「付則第6章方式」に即した総選挙実施日を決めた、という説明であった。

高裁判決が出る前の2011年段階でのキバキ大統領とオディンガ首相は、2012年12月の総選挙実施が望ましいとする点で共同歩調をとっていた。そのことは「5年おき8月第2火曜日」とした2010年憲法の条項を「5年おき12月第3月曜日」に変更しようとする憲法改正案「2011年ケニア憲法(改正)法案」(Constitution of Kenya (Amendment) Bill, 2011)が、閣議決定を経て国会に提出されていたことにもみてとれる。選管による2013年3月4日という日程発表の翌日、オディンガ首相は引き続き「2012年12月の実施が望ましい」との意向を表明した。声明では、12月オプションを主張する根拠として、(1)国民の多数が2012年中の総選挙実施を支持している、(2)学校の平常授業期間中であり学事の妨げになる、(3)農業の繁忙期にあたる、(4)6月に予算案を承認するとした憲法の定めに適合しないなどが挙げられた(Momanyi 2012)。

しかし、高裁判決後のキバキ大統領は立場を変え、次回総選挙の実施は2012年中ではなく、翌2013年が望ましいと発言するようになった(Daily Nation 2012年3月10日)。3選禁止条項により再選可能性のなかったキバキ大統領にとっては2013年3月の選挙実施が自己の在任期間を最大化するオプションであったことに加え、翻意の背景には大統領法律顧問からの「和解法の定めた連立解消が、自動的に国会解散を意味するとはいえない」として暫定連立政権の安定性を損なうだけである旨の助言もあったとされる(Sunday Nation 2014年3月18日)。両者の立場はその後も位置せず、政治判断による解散・総選挙は行われなかった。

一方、2012年中の総選挙実施を義務化しなかったとして高裁判決を不服とし、複数のNGOが控訴したため、裁判はケニア控訴裁判所(Court of Appeal)で争われることとなった。2012年7月に下された控訴審判断は、「次回総選挙は、2013年3月に開催されるべき」というものであった。5人の裁判官で構成された控訴審のうち、ひとりは「2013年1月半ば以前の総選挙実施が必要」とし、残る4人の裁判官がいずれも「2013年3月実施」としたことによる多数決判断であった。この控訴審判決ではあわせて、「国民合意と和解法」で規定された「連立解消による解散・総選挙」方式は、2010年に新たな憲法が施行されたことによってすでに無効になったとの判断が、5人の裁判官の全員一致で示された(Daily Nation 2012年8月1日)。

つまり、2012年の控訴審判決は、高裁判決がオプションに入れた「連立解消による解散・総選挙方式」を違憲として退ける一方で、「付則第6章方式」を支持して選管の決めた2013年3月実施を肯定するものであった。すなわちこの2012年の控訴審判断は、1969年憲法と2010年憲法の移行期にあたった第10次国会の国会議員については2010年憲法の付則第6章第10条を遵守して5年の任期を満了させるというものだった。この判決を不服とする訴えは上位裁判所である最高裁判所(Supreme Court)に起こされることはなかった。控訴審の判断に沿い、2010年憲法の下での初の国会総選挙は、第10次国会議員の就任(2008年1月)から数えて5年間の任期満了(2013年1月)を待ち、選挙準備期間を経て2013年3月に開催された。

3.国会任期「延長」の試みとその頓挫
3-1 オチエング法案

2012年の控訴審判決によって当時の現職国会議員の任期に関する憲法解釈論争が決着したことを背景に、第11次国会で今度は、憲法に書かれた国会の総選挙日程そのものを変更し、現職の第11次国会議員の任期を事実上延長しようとする憲法改正が試みられた。結果を先取りすれば、2015年の国会は、当該憲法改正案を採択することができず、自らの任期を後倒しすることに失敗した。経緯を振り返ってみよう。

予定どおり2013年3月に総選挙が開催されたため、第11次国会の国会議員の就任は、2013年3月(28日)となった。2012年の控訴審判断により、第10次国会議員は「5年おき8月第2火曜日」の規定は適用されず、移行期に限定した例外として5年の任期を満了したのであった。ところがこれにより、移行期にあたらない第11次国会は、5年とされた任期を満了できるなら2018年3月まであったはず任期よりも1年近く早い2017年8月以前の段階で、総選挙のために解散する見込みになった(Kilonzo 2014)。

これが、国会を舞台とする国会議員自身の憲法改正提案による任期「延長」の試みの契機となった。総選挙日程を後倒ししようとするこの試みは、2013年総選挙の翌年にあたる2014年前半にはやくも開始した。2014年5月、野党ODM3の下院議員が、次回の総選挙の実施日程に関する憲法改正の法案を下院に提出した。法案の正式名称は、「ケニア憲法(改正)法案、2015年」(Constitution of Kenya (Amendment) Bill, 2015)といい、提案したオチエング(David Ochieng)議員の名前にちなんで「オチエング法案」(Ochieng Bill)と呼び慣わされていった。オチエング法案は、「下院司法委員会」(National Assembly Justice and Legal Affairs committee)の承認を経て、2015年1月に国会に提出された。

オチエング法案は、5年おきに開催される国政選挙の日程を8月ではなく4カ月後の12月に変更することのみに限定した、5項目からなる短い法案であった。国会議員総選挙(第101条)、大統領選挙(第136条)、カウンティ議会議員選挙(第177条)、カウンティ知事・副知事選挙(第180条)の実施日についてそれぞれ「8月第2火曜日」を削除して「12月第3月曜日」を挿入する、というのが内容の骨子である。オチエング議員は、法案に添付して「ケニアの事情に鑑みて、より好ましい選挙実施日を導入することが目的である」とし、「この憲法改正は、現在の国会議員の任期と次回総選挙を明確化し、関連の疑念を解決する」と述べて、2012年の控訴審判断を経てなお、次回総選挙をいつにするかについて議論があったことを明らかにしていた(Constitution of Kenya (Amendment) Bill, 2015, 2)。

3-2 国会下院での否決

前項でも触れたように、任期の延長は国会議員にとっては給与・手当の面で大きな恩恵につながる。またケニアの国会議員選挙はその再選率の低さで知られ、少なくない現職議員にとって次回選挙の実施は議席の喪失を意味していた(Throup and Hornsby  1998)。成立すれば任期延長をもたらすこのオチエング法案は、所属する政党、政党連合の垣根を越えて数多くの議員から支持された。下院司法委員会の委員長は与党連合だったジュビリー・コアリション(Jubilee Coalition)に属しており、オチエングの属するODMは野党側の政治連合に参加していたが、この法案について下院司法委員会の委員長は、早期の成立が望ましいとの見解を示し、下院司法委員会も速やかにオチエング法案を承認し、国会における審議に道を開いた(Mwere 2015)。2015年3月には、国会各種委員会の委員長らが与野党の垣根を越えて非公式会合を開催し、オチエング法案を成立させることで合意した(Daily Nation 2015年3月8日)。

一方、オチエング法案の目指した12月の総選挙実施に対する懸念も表明された。下院司法委員会の委員長と同じジュビリー・コアリションの一議員は、「選管の現コミッショナーの任期切れは2017年11月だが新コミッショナーの選定と承認には最短でも40日必要だ」と分析し、オチエング法案の示す12月第1月曜日は選管が不在の状態にあたると問題を指摘した。2015年8月にオチエング法案についての国会審議が始まると、同法案に基本的に賛成する旨の発言が多数を占めた一方で、この憲法改正が大統領の任期に関わるため、国民投票にかけることを義務づけた憲法の規定(第255条。本稿第1節参照)にあたるとの議論もあげられた。国会での憲法改正案可決による選挙日程の変更は必然的に大統領の任期の延長をもたらすものであるから、この憲法改正は議会での採決だけでは成立せず、国民投票を通じた国民の意思決定参加が必要であるとの指摘であった(ケニア下院議事録 a.m., 5 August 2015, 42)。

この国会審議後に、ウフル・ケニヤッタ大統領(Uhuru Kenyatta。初代大統領の実子、キクユ人)を擁するジュビリー・コアリション側からは、ジュビリー政権と大統領の任期延長をもたらす憲法改正には賛成だとの意向が議員14人の共同声明の形で出された(Daily Nation, 2015年8月11日)。しかしその一方で、野党となったODMを率いるオディンガ元首相は、W・オピヨ(Wandayi Opiyo)政務担当書記とともに、オチエング法案に賛成しない意向を明らかにし、さらに党の幹部会合を開催して、ODMとしてオチエング法案を支持しない旨を決議した(Daily Nation, 2015年8月21日)。加えて、国民投票が必要か否かという問題について、J・ムトゥリ(Justin Muturi)下院議長(下院議員の投票で選出される)からも憲法改正に対して抑制を求める意向が表明された。ムトゥリ下院議長は、オチエング法案の裁決を控えた同8月、「国民投票に付すかどうかの判断は、国会で行うのではなく憲法解釈を担当する高裁に判断を仰ぐ」として国民投票が必要である可能性を示唆した上でさらに「憲法の起草者たちが、国民の集団的意思を国会議員が薄めたり傷つけたりすることを意図していたはずがない」とも述べて、下院の採決のみで総選挙の実施日を後倒しするような憲法改正は成立しないだけでなく望ましくもないとの判断を示した(n. a. 2015)。

少数とはいえ、国会議員の任期延長を主たる目的とする憲法改正をよしとしないこうした勢力の存在が、結果として改正を抑止することとなった。オチエング法案は、2015年8月25日の国会下院で記名投票による採決にかけられた。出席議員数は、第11次国会で最大となり、少なくとも271議席を超えた。結果は、賛成216(全349議席の62%)、反対28、棄権4だった。賛成は下院全議席の3分の2にあたる233にとどかず、オチエング法案は一旦否決となった。ただし僅差で否決となった場合の再度の採決条件――賛成が可決に必要な議員数に達しないものの、賛成が過半に達しており、かつ反対が全議員の3分の1を越えない場合(国会法62条)――にあてはまったため、休会をはさみ再採決の実施締切「最初の採決から5日以内」にあたる2015年10月1日に再び採決にかけられたが、結果は、賛成216(前回と同じ人数。全議席の62%。ただし顔ぶれは同一ではない)、反対24、棄権4でやはり否決となった(ケニア下院議事録 p.m., 1 October 2015, 13-15)。

8月25日の採決では、全議席349のうち、最大時でも出席議員は271人であり、残る80議席近くは議場に入らなかった。10月1日の採決でも出席議員は最大で248人にとどまった。第1節でみたように、憲法改正の採決では、母数は出席議員ではなく、全議席である。採決する国会への欠席理由は多様たり得るが、少なくとも一部には憲法改正に反対する意思表示としての欠席者がいたとみてよかろう。第11次国会で2014年に開始された国会議員の任期「延長」の試みは、採決に反対、棄権した20~30議席に、議場に入らなかった80~100議席が加わり、成功せずに一旦終了となった。恣意的な憲法改正を予防するために2010憲法で採用された憲法改正のハードルを上げる仕組みがここで奏功したのであった。

おわりにかえて:総選挙日程をめぐる混乱とケニアの立憲主義

2007年末にPEVが勃発したことで、ケニアは長い国民和解のプロセスに入った。和解調停の一環として制定されたのが、大統領権力の縮小を目指した2010年憲法であった。この憲法が、大統領から国会の解散権を剥奪するものであり、かつ第10次国会(2008-2013年)の任期中途で施行されたものだったため、当時の現職国会議員の任期と次の総選挙日程がその後議論の的となった。論争は控訴審まで持ち込まれ、第11次国会の国会議員任期を短縮する形で第10次国会の国会議員は5年の任期を満了することになった。2010年憲法では、総選挙は5年おき8月に開催されると決められているが、同憲法下での最初の総選挙は、8月より7カ月遅い2013年3月に開催されたのだった。

司法判断により短縮された第11次国会の任期をめぐり、同国会では総選挙実施日程を4カ月間後倒しして12月開催にするという憲法改正案が議員立法で下院に提出され、採択直前まで進んだ。しかし、任期延長のための憲法改正に賛成しない議員が数十人の規模で常に存在した。下院での採決は二度行われたが、憲法改正に必要な「全議席」の「3分の2」の賛成に一度も届くことなく、憲法改正の試みは下院の採決段階で頓挫することとなった。

そうした任期延長のための憲法改正の試みが奏功せずに終わった経緯には、わずかながらも立憲主義に似た何かを見いだすこともできる。採決直前になって、与党寄りの政治的背景をもつ国会下院議長が「恣意的な改憲は望ましくない」旨発言したことも特筆に値するだろう。国民和解プロセスの成果のひとつとして制定された2010年憲法は、恣意的な憲法改正を予防するべく特定事項を新たに指定し、それらについては国会の議決だけではなく国民投票による承認を義務づけることに成功している。また、任期延長を目指した憲法改正案の採決にあたっては、二度とも下院議席349のうち100人を超える議員が反対、棄権、または議場入りしなかったことで憲法改正が妨げられたことにも注目したい。

しかし、2015年の下院で否決されたとはいっても、出席議員だけでみれば与野党の垣根を越えて9割近くが憲法改正による自分たち国会議員の任期延長に賛成したのは上で見たとおりである。「望ましくない憲法を強制されたとしても、政権を取れば憲法を改正することができる」とケニアの初代大統領が発言してから、ほぼ50年がたった。憲法が、権力の行使を制限するものでなく、権力行使のために改変する対象にすぎないものにおとしめられていた時代が長らく続いてきたのであり、その傾向はケニアの法学者、故オコス=オゲンドが「立憲主義なき憲法」と呼んだように、1990年代の民主化以降も続いた(Okoth-Ogendo 1991, 4-5)。本稿でみた2010年憲法の下で起こった国会議員の任期「延長」の試みは、2010年憲法がその「立憲主義なき憲法」であり続けている証左の一つであるかもしれない。

国会議員の給与・手当は高額であり、数カ月の任期延長/短縮でも国会議員の収入に及ぼす影響は多大である。選管が選挙日程を発表した直後には早くも、6カ月の再提案禁止期間の終了を待って同種の提案を国会行う動きや、2012年の司法判断との連続性を期待して再び高等裁判所の判断を仰ごうとする動きが出た(Gaitho 2015)。

実際には2015年12月に国会議員の総選挙について、ケニアの独立選挙管理・境界画定委員会(Independent Electoral and Boundaries Commission)が、日程を2017年8月8日であると発表し、総選挙は2017年8月に開催(大統領選挙、地方議会議員選挙、知事選挙も同日開催)された。この2017年8月の各種選挙実施により、2010年憲法の「5年おき8月」の規定は運用面で定着していくかに見えた。ところがその後、大統領選挙が司法判断により無効化され、大統領選挙のみ再選挙という流れになったことで、事態はまた流動化することとなった。無効判決を受け、大統領選挙の再選挙が実施されれば、国会議員の就任宣誓(2017年8月)と大統領の就任宣誓(早くても2017年11月とみられる)は自ずと時期的に前後することになる。これから5年後に2010年憲法の選挙実施日の規定どおり国会総選挙とその他選挙を同日選挙の形で行うのであれば、今度は大統領の任期が5年より短くなることになる。第10次国会、第11次国会での議論から推測できるように、政治家の間に任期5年が「権利」だという意識があるのであれば、今後も引き続き、各レベルで「任期5年」を達成しようとする動きが出る可能性がある4

加えて、本稿の射程を超えるため詳述できないが、ウフル・ケニヤッタ政権においては、こうした任期をめぐる憲法改正の動きとはまた別の側面でも立憲主義に逆行する動きが見られることもまた別の懸念材料としてある。「憲法に妨げられて効率的な統治ができない」とするケニヤッタ側近らの発言がつとに報じられてきたことに始まり、大統領権力縮小のために2010年憲法に盛り込まれた様々な工夫――閣僚を国会議員外からのみ任命すること、司法の独立のため政府から独立の専門委員会が判事を選定すること、行政の中立化のための警察改革など――が人事面、法制度面で政権発足の初期からなし崩しにされてきたのである(たとえばKanyinga 2015)。

大統領選挙の無効化、再選挙という大きな激変の前では相対的に小さいといってよい国会総選挙、大統領選挙日程をめぐる議論であるが、その行方は、ケニアにおける立憲主義の行方を探る一つの窓でもある。今後の動きに引き続き注目したい。

(2017年9月1日脱稿)

参考文献


  • Gaitho, Macharia 2015 Kenyan MPs plot to extend term to 2018, EastAfrican, 26 December 2015- 1 January 2016, 12.
  • Jackson, Robert H. and Carl G. Rosberg 1982 Personal Rule in Black Africa: Prince, Autocrat, Prophet Tyrant, Berkeley, Los Angeles, and London: University of California Press.
  • Kanyinga, Karuti 2015 Under Jubilee, the older order made a magor come back and is thriving, Sunday Nation, 27 December, 18.
  • Kilonzo, Kethi 2014 What’s the exact date of next General Election?, オンライン版 The Standard, 4 May、アクセス日2017年9月1日、https://www.standardmedia.co.ke/article/2000110887/what-s-the-exact-date-of-next-general-election
  • Momanyi, Bernard 2012 Kibaki, PM meeting that never was, オンライン版Capital News, アクセス日2017年9月1日、http://www.capitalfm.co.ke/news/2012/03/kibaki-pm-meeting-that-never-was/
  • Mwere, David 2015 Kenya: New Bill moves General Election to December, オンライン版The Star、アクセス日2017年9月1日、 http://allafrica.com/stories/201501160436.html
  • n.a. 2015 Speaker Rules out Amendment on Poll Date Bill, オンライン版The Standard, 21 August、アクセス日2017年9月1日、http://www.standardmedia.co.ke/m/story.php?articleID=2000173613&story_title=Speaker-rules-out-amendment-on-poll-date-bill
  • Okoth-Ogendo 1991 Constitutions without Constitutionalism: Reflections on an African Independence, 1963-1969, African Affairs, 71(282), 9-34.
  • Throup, David and Charles Hornsby 1998, Multi- Party Politics in Kenya: The Kenyatta and Moi States and the Triumph of the System in the 1992 Election, Oxford: James Currey, Nairobi: E.A.E.P, Athens: Ohio University Press.
  • 津田みわ2007「個人名の『裏書きされた』憲法:ケニアにおける憲法見直しプロセスの頓挫と権力抗争」佐藤章編『統治者と国家:アフリカの個人支配再考』アジア経済研究所、85-126頁。

〈ウェブサイト〉

脚注


  1. このほか、国民による憲法改正発議のオプションも追加された(第257条)。
  2. 特定事項とは具体的には、①憲法の優越、②ケニアの領土、③人民主権、④憲法第10条で定めた国家的価値やガバナンスに関わる原則、⑤基本的人権、⑥大統領の任期、⑦司法の独立およびその他憲法第15章が適用される委員会・組織の独立、⑧国会の諸機能、⑨地方政府の目的・原則・構造、⑩憲法改正手続きを定めた憲法第16章の条項、の10項目である。
  3. ODMは2013年総選挙では単独政党としては下院で最大の議席を獲得したが、ODMの加わった政党連合(Coalition。選挙協力組織。登録制)のレベルでは「改革と民主主義のための政党連合」(Coalition for Reforms and Democracy: CORD 大統領候補にオディンガを擁立、落選)は上下両院いずれにおいても最大議席を獲得できなかった。本稿ではわかりやすさのためODMについても野党と表記する。なお、上下両院で最大議席を獲得した政党連合は、ウフル・ケニヤッタ(Uhuru Kenyatta、初代大統領の実子)大統領の属する「ジュビリー・アライアンス」(Jubilee Alliance)だった。単独政党のレベルでの下院第2党は大統領の属する「国民連合」(The National Alliance: TNA)であり、上院ではTNAとODMの獲得議席数は同数だった。
  4. 実際に、最近の例としては、2013年大統領選挙の運営に不備、不正があったとして野党側からの辞任要求を受けた独立選挙管理・境界画定委員会のハッサン委員長以下全コミッショナーが、給与・手当の任期分の全額支払いがあれば辞任すると主張し、それを条件に2016年8月に辞任に合意するという経緯があった。任期満了の2017年11月と実際に辞任した2017年10月の間の給与・手当分としてコミッショナー9人に支払われた「差額」合計は2億シリング(約2億円)に達した(Daily Nation 2016年8月4日)。