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シリア情勢—7月爆破事件と新たな展開

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050902

2012年7月

シリアにおける反体制運動はこれまで17カ月間継続しているが、2012年7月の状況の変化はとりわけ重要なものである。シリアのアサド体制は、現在も大規模な軍を指揮しているが、軍や政治の中心人物の離反や殺害により、これまで研究者がアサド体制の存続の要因として議論してきた二つの重要な点を改めて考察することが必要となった。一つは支配エリートの結束であり、もう一つは体制の支持基盤である首都ダマスカスと商業都市アレッポをともに掌握する体制の能力である。

この7月の状況の変化は、これらの二点をもはや当然のこととして見なすことができなくなったことを示している。これまでの17カ月間でアサド体制は国の統制をますます失い、首都ダマスカスとアレッポに対する掌握は日々弱まってきている。しかし体制は、いかなる軍事力を使ってでもアレッポの掌握を維持しようとするだろう。なぜならアレッポが反体制武装勢力の手に落ちれば、反体制武装勢力がシリア北部全体をコントロールするようになり、首都ダマスカスから300キロの場所で反体制派の拠点をつくることが可能になるからである。また、シリア北部は、トルコからの反体制派への補給路に近いことにも注目する必要がある。

1. 7月18日の爆破事件と体制からの離反

7月18日に発生したダマスカスの国家治安維持本部における爆破事件は、体制側にとり大きな打撃となった。この爆破により治安機関の中核である内務相、国防相、そしてバッシャール・アサド大統領の義兄であるアースィフ・シャウカト副国防相が殺害された。これらの人物はアサドの側近グループの中心メンバーであり、この爆破事件は反対勢力が体制の諜報機関(ムハーバラート)にまで潜入できるようになったことを示している。ムハーバラートの中心的な機能は、敵対する国家、反体制勢力や軍などからの潜在的な脅威を監視し、それぞれの組織を牽制し合うことである。反対勢力がこのムハーバラートに潜入できるようになったことで、アサド大統領が全ての国家機関を監視するために作り上げた諜報機関内での相互不信が広まっているのである。この事件は体制に忠実な立場をとり続けている者に対し、自らも殺害される危険性があるという信号(シグナル)を送っている。体制内部での不信感の増長により、アサド大統領は政策決定をより小さな中心グループで行う必要性に迫られ、結果的に体制はいかなる妥協も行わないようになるかもしれない。

この事件が自由シリア軍(Free Syrian Army)によるものか、体制内の権力抗争によるものかは定かではないが、軍と治安機関から成る体制の基盤が揺るがされていることは明らかであり、この基盤の脆弱性と分裂の兆候を示すものである。これらの新しい動きは、アサド体制に対抗する機運を盛り上げ、離反を促進している。さらに重要なのは、この事件により中心的なエリート集団が体制に忠実であることが自明の事実として考えられなくなったことである。この事件が内部の権力抗争によるものであるならば、シリアの混乱が、体制側と反体制勢力の対立を超え、体制内部から生まれた反対勢力との抗争にまで広がる可能性も出てくる。

この事件は多数の政府と軍の高官が体制を去り、反対勢力に参加する後押しとなった。バッシャールの父である故ハーフィズ・アサド大統領下で130年間国防大臣を務めたムスタファー・トゥラースの息子マナーフ・トゥラースの離反は、17カ月間に及ぶ抗議運動の結果、体制の中心にいる人々のあいだでも体制への信用が失われつつあることを示している。ハーフィズ・アサドは、1970年にスンナ派の軍の将校とともに権力の座に就いた。トゥラース家のようなスンナ派の一族は、アサド体制が生まれた当初から体制の権力構造の中心にいた。トゥラースの離反により、シリアの混乱はもはや不満を持つ一般市民と体制の対立にとどまらず、上層部のエリートにまで及んでいることが明らかである。トゥラースの離反は個人の行為であるが、この離反によって体制の上層部は結束しているというイメージが損なわれており、上層部のさらなる離反をも促すことになるだろう。さらにシリア東部で有力な部族を率いる駐イラク大使のナウワーフ・ファーリスによる最近の離反は、体制内の同盟関係に生じた重大な亀裂を示している。

ファーリスの離反によってもまた他の外交官の離反が進み、他の部族のリーダーにとってもアサド体制に公然と対抗することへの励みとなるだろう。また特にイラクとの国境地帯に住む部族は国境に近いため以前から武器へのアクセスが可能であり、これらの部族が自由シリア軍による武力抗争を支援することにもつながるだろう。ファーリスの離反に先立ち、イラク、サウジアラビア、そしてシリアにまたがる有力な部族の長であるナウワーフ・バシールも体制から離反している。英仏のサイクス・ピコ協定で人工的に国境線が引かれたことにより、国境をまたがるこれらの部族の拡張は阻害されたが、これらの部族は今日まで国境を超えてつながっているのである。トゥラースとファーリスが体制から離れた後、シリアの化学兵器プログラムの長を務めたアドナーン・スィール准将も新たに離反し、自由シリア軍の指導者の地位に就いている。

ダマスカスとアレッポは少数派のキリスト教徒を抱えているが、この二大都市でも体制と反体制武装勢力の武力衝突が激化したことにより、キリスト教徒や他の少数派はどちら側につくかの決断を迫られている。キリスト教徒やドルーズなどの少数派は、多数派のスンナ派と同様に、体制の軍事攻撃のはざまで身動きが取れなくなっており、体制側はこれらの少数派からの支持を取り付けることがますます困難になっている。アサド体制は、少数派の支持に頼ることができなくなってきており、シリアにおいて宗派間の敵対意識が存在するとすれば、この敵対意識は、治安機関と体制側の傭兵組織シャッビーハを統制するアラウィー派に向けられるようになっている。

アサド体制は、武力を使うこと無しにダマスカスを統制下におくことが次第に困難になっており、アレッポでは反体制派が勢力を増している。アレッポを再び統制下におくために、体制側は国境に配備した部隊をダマスカスとアレッポに再配備している。このことは反体制武装勢力がイラクとトルコとの国境にあるポストを攻撃し、占拠することを可能にした理由の一部を説明している。しかし状況が反政府勢力側にとって有利に動いたとしても、これはアサド体制が近い将来に倒れることを直接に意味するものではない。アサド体制は今なお忠実な将官たちに囲まれており、体制と命運をともにするこれらの将官たちは反体制運動を引き続き武力で鎮圧しようとするだろう。体制側の強力な諜報機関と、バッシャールの弟マーヘルが率いる精鋭部隊の第4師団および首都防衛を担う共和国防衛隊(Republican Guard)は、反政府武装勢力との衝突に直接関わることが増えてきている。体制の存続に最も影響するのは、政府や軍からの離反よりも、これらの精鋭部隊の強弱である。だがこれらの精鋭部隊がシリア全土で活動する能力は、次第に疑問視されるようになってきている。

武力衝突が以前よりも激化し、状況をコントロールすることが困難になってきたことで、アサド大統領は生物化学兵器の所有を公に認め、自国民には使用しないが、攻撃を受けた際にはこれらの兵器を使用する用意があると自ら宣言した。アサド体制が崩壊すれば、これらの生物化学兵器が使用されたり、武装勢力の手に落ちたりすることで、近隣諸国や西欧諸国の利益を脅かし、中東地域全体の安全保障に対する脅威となるというメッセージを発信したかったものと考えられる。

2. 自由シリア軍

シリアの抗議運動は、2011年の3月半ばにシリア南西部のダラアから始まり、4月には運動の中心はホムスとハマーへと移行した。ホムスやハマーでは大規模な抗議運動が起こり、体制から激しく弾圧され、結果として最も強固な武力的抵抗が発生している。体制はハマーにおいても、ダラアと同様に抗議運動を鎮圧することができた。しかしホムスにおいては、体制の暴力的な攻撃は、逆に武力による抵抗運動を激化させることにつながっている。そしてハマーとホムスにおける混乱は、体制にとって最も重要なダマスカスとアレッポの間をつなぐ通信や輸送などの全てのコミュニケーションをも脅かす結果となっている。

自由シリア軍は、当初はシリア軍からの離反者から成り立っていた。シリア軍からの離反は、暴力によるデモ参加者の抑圧が拡大したことから始まった。離反した兵士たちの当初の任務は、デモ参加者の護衛といった防衛的なものであった。しかし、2011年7月の終わりに、離反したリヤード・アスアド大佐がトルコのアンタキアの難民キャンプから自由シリア軍の設立を公式に宣言した際、自由シリア軍はさらに進んで攻撃的な立場をとることを選択した。アスアド大佐は一般市民を殺害するアサド体制の治安機関に所属する者は、自由シリア軍の標的になると述べている。トルコに拠点を置く自由シリア軍の司令本部は、シリア国内の反体制武装勢力を直接指揮しているわけではない。しかしシリア国内の反政府武装勢力にとって、安全が確保されたトルコに自由シリア軍の司令部があるということは、象徴的な指導部が存在するという意味で重要なのである。

これらの武装勢力はその多くが分散した組織であり、それぞれの地域で個別に組織されている。これらのローカルな武装勢力を構成するのは、一部は軍からの離反者であり、他の多くは地方部出身の若者である。これらの武装勢力は自由シリア軍を名乗ってはいるが、全てがトルコにある司令部の指示を仰いでいるわけではない。しかし、これらの武装勢力は、ある程度組織化が進み、より効率的な軍事作戦を実行できるようになってきている。これは自由シリア軍と体制との衝突が増える中で、自由シリア軍の傘下で大隊が構成されていることからも明らかである。自由シリア軍の傘下にある武装勢力は着実に進化しており、体制側との対立も変化してきている。カタールとサウジアラビアの資金援助およびトルコと米国の助けにより、反政府武装勢力に武器が大量に流れたことで、武装勢力は体制側に対するプレッシャーを強め、彼らの被害を拡大することに成功している。また自由シリア軍は、兵士やシリア軍からの離反者を訓練し、大衆からの支持をも取り付け、公式な宣言を発するためにインターネットなどのソーシャル・メディアを活用している。

シリア国内における軍事的バランスがシフトしたことで、シリア軍は主要な都市を掌握することに力を注ぐようになった。その結果反政府武装勢力はより小さな都市や村を掌握することに成功し、武装勢力は日に日に拡大し、より組織的になりつつある。

自由シリア軍は、地方から都市部へ、特にダマスカスとアレッポへと徐々に活動を移動しつつある。これは自由シリア軍の志気の高まりに加えて、シリア全土で司令部を立ち上げることができたことに起因している。装備が充実し組織されたシリア軍に対抗するため、自由シリア軍は都市部においてはゲリラ攻撃と戦略的な撤退を組織的に行う戦略をとっている。反政府武装勢力は日々成熟しつつ勢力を拡大し、他方で外部からの支援も増えている。

シリア情勢の最近の動向として注目すべきことは、ダマスカスとアレッポにおける体制側と反体制武装勢力との衝突である。もはやこの衝突を免れる場所はなく、体制側は戦車などの重火器を使っても反体制武装勢力から主導権を取り戻すことができなくなっている。しかしダマスカスとアレッポで大規模な抗議運動が発生しなければ、体制はあらゆる武力を用いて完全ではなくてもこれらの都市の掌握を続けることだろう。

3. シリア問題の地域的・国際的影響

シリアの民衆蜂起は抗議運動参加者に対する暴力的な弾圧から始まり、体制側と武装勢力の間の武力対立へと発展している。シリアの混乱は、体制側と反対勢力間の対立という国内的なものから、シリアを通じて中東地域の政治情勢に影響を及ぼそうとする地域的・国際的なアクターの対立へと拡大した。国連安全保障理事会がシリアに関する決議を採決できずにいるのも、この変化に一因がある。

生物化学兵器の保持を公式に認め、外的な脅威に対してこれらの兵器を使用するという体制側の最近の表明は、シリア問題の国際化の一面を示している。また、シリアからの大量の難民が近隣諸国に流出すれば、中東地域がさらに不安定化する新たな要因になるであろう。国際社会がシリアにおける暴力を止めることが出来ないとしても、地域の安定を保つために少なくともこれらの難民を支援する必要がある。

さらに注目しなければならないのは、武力衝突の激化とシリア国内における軍と政治権力の関係の変化が、特にレバノンにどのように影響するかという点である。アサド体制の崩壊は、ヒズブッラーに対抗する派閥の登場を誘発することにつながる可能性がある。つまり、シリアの体制変化は、いずれレバノンにも変化をもたらすように作用するのである。シリアでの反体制抗議運動の勃発後アサド体制と決別したハマースと違い、ヒズブッラーにとってシリアの体制との関係は絶対的なものである。シリアの体制が崩壊すれば、ヒズブッラーは国内でも地域内でも四面楚歌の状況になるからである。

4. おわりに

アサド体制は、軍事的手段が裏目に出るというジレンマにさらされている。体制の攻撃部隊であるはずの治安部隊が、今や攻撃の的になっている。さらに軍事的手段をとったことで、自由シリア軍の結成をはじめ反政府勢力を強める結果となり、他のアラブ諸国、イランそしてトルコをもこの紛争へと引きずり込んでいる。シリア問題の政治的解決が見えないことで、この混乱はシリア一国にとどまらず、近隣諸国をも巻き込んだあらゆるシナリオが想定される状況となりつつあるのである。


  1. ハーフィズ・アサドがクーデターによって権力の座についた1970年以前、シリアはアラブ世界で最もクーデターが頻発していた国だった。ハーフィズ・アサドの30年にわたる支配の後、その体制は2000年に息子バッシャールに引き継がれた。