2008年6月 遠けれど、より近い国へ

月間ブラジル・レポート

ブラジル

地域研究センター 近田 亮平

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2008年6月
経済
GDP:

2008年第1四半期のGDP(速報値)が発表され、前期比では0.7%、前年同期比では5.8%となり、四半期GDPは25期連続のプラス成長を記録した。この数値は市場関係者の事前予想を若干上回るとともに、1996年以降では最も高いものであったことから、インフレ懸念や世界経済の先行き不透明感の増大などから昨年ほどの経済成長(5.4%)は期待できないものの、ブラジル経済は安定して成長するであろうとの楽観的な見方につながったといえる。

第1四半期GDPの内訳を見ると、為替相場におけるレアル高の影響から輸入が継続的な伸びを記録する一方、輸出は前期および前年同期比ともにマイナス成長となった。輸出の伸び悩みは最近の経常収支の悪化につながっており、今後の経済成長を確実なものとするためには、行き過ぎたレアル高の是正が一つの鍵になるとの見方がされている。また、家計支出と投資を示す総固定資本形成が継続的な伸びを示す中、最近、低調に推移していた政府支出の伸びが顕著となった。これは主に今年10月に全国統一地方選挙が行われる関係から、地方政府(ムニシピオ)の支出が増加していることが主な要因だとされる。

一方、部門別では工業が顕著な伸びを記録した。これは、前年同期比で見ると住宅金融の24.6%増により住宅建設が増え、土木建築業が8.8%伸びたことや、加工業が7.3%の成長と好調だったことが主な要因となった。また、サービス業も金融保険業(15.2%)や情報サービス業(9.5%)に牽引されるかたちで堅調な伸びを記録した。一方、農牧畜業は前期比でマイナス成長となったが、これは第1四半期が端境期に当たることや、主要作物である大豆の生産性の伸びが作付面積の増加よりも低く、同要素が算出方法へ新たに加えられたことなどが影響したとされる(グラフ1~3)。

グラフ1 内訳および部門別第1四半期GDP

グラフ1 内訳および部門別第1四半期GDP
(出所)IBGE

グラフ2 四半期GDPの内訳および部門別推移:前年同期比

グラフ2 四半期GDPの内訳および部門別推移:前年同期比
(出所)IBGE

グラフ3 四半期GDPの推移

グラフ3 四半期GDPの推移
(出所)IBGE
貿易収支:

6月の貿易収支は、輸出額がUS$185.94億(前月比▲3.7%、前年同月比41.7%増)、輸入額がUS$158.75億(同4.2%、70.8%増)となり、輸出は先月に次ぐ過去2番目、輸入は過去最高の額を記録した。輸入額が大幅に増加した結果、貿易黒字額はUS$ 27.19億(同▲33.3%、▲28.8%)、前月および前年同月比でマイナスとなった。また、年初からの累計額は輸出額がUS$906.45億(前年同期比23.8%増)、輸入額がUS$792.75億(同50.6%増)、貿易黒字額がUS$113.70億(同▲44.7%)となった。

輸出に関しては、一次産品がUS$75.86億(1日平均額の前年同月比80.8%増)、半製品がUS$21.90億(同13.2%増)、完成品がUS$83.18億(同12.9%増)となった。輸出額の増加が顕著だった主な品目は、原油(US$18.00億、同250.9%増)、鉄鉱石(US$16.26億、同110.4%増)、エタノール(US$1.98億、同118.1%増)、溶解鉄(US$2.68億、同91.2%増)などであった。また、主要輸出先は1位が米国(US$27.53億、同18.7%)、2位が中国(US$16.84億、同49.5%増)、3位がアルゼンチン(US$16.07億、同30.7%増)、4位がオランダ(US$9.65億)、5位がドイツ(US$8.41億)であった。

輸入に関しては、資本財がUS$30.66億(同49.1%増)、原料・中間財がUS$74.77億(同51.9%増)、非耐久消費財がUS$ 8.70億(同50.6%増)、耐久消費財がUS$10.71億(同54.8%増)、原油・燃料がUS$33.91億(同123.8%増)となった。輸入額の増加が顕著だった主な品目は、その他の原料・中間財(US$16.82億、同136.5%増)、自動車(US$4.55億、同74.0%増)、家具・家庭用品(US$0.54億、同73.8%増)などであった。また、主要輸入元は1位が米国(US$21.11億、同30.1%増)、2位が中国(US$17.66億、同76.1%増)、3位がドイツ(US$10.27億)、4位がアルゼンチン(US$9.41億、同8.6%増)で、5位にはアンゴラ(US$6.83億)が入った。

輸出入ともに米国の1位は変わらなかったものの、米国経済の景気悪化により同国の増加率が鈍化する傾向にある。その一方で、中国との貿易は依然として拡大傾向にあり、さらに増加率に関しては、輸出では東欧諸国(US$6.76億、同75.4%増)、輸入では中東諸国(US$8.50億、同379.0%増)やアフリカ諸国(US$18.47億、同168.6%増)との取引が活発化している。

物価:

発表された5月の IPCA(広範囲消費者物価指数)は前月比で0.24%ポイント、前年同月比で0.51%ポイント高い0.79%となり、食糧や原油などの世界的な価格上昇の影響を受け、国内の物価が上昇傾向にあることを裏付けるかたちとなった。

5月は食料品全体の価格上昇が1.95%と著しく、IPCA上昇分の54%を占めた。価格上昇幅が大きかった食料品は、一部の野菜類(ニンジン:24.84%、ジャガイモ:19.39%、トマト:13.56%)、コメ(19.75%)、小麦粉(10.11%)などの基礎食料品であり、所得の低い層への影響がより大きい状況となっている。また、今まで比較的安定的に推移していた非食料品全体の価格も、0.46%(前月比1.2%、前年同月比1.5%ポイント高)の上昇を記録した。

金利:

Copom(通貨政策委員会)は6月4日、政策金利のSelic金利(短期金利誘導目標)を前回に引き続き0.50%引き上げ、12.25%にすることを全会一致で決定した。今回の金利引き上げも、世界的な物価上昇の影響により高まっている国内のインフレ懸念に対処するものであり、産業界や労組から反発の声が上がったものの、市場関係者の予想通りの決定となった。国内物価の上昇傾向はIPCAだけでなく他の物価指標からも明らかであり、中央銀行は今後もSelic金利の漸次引き上げを行っていくとの見方が強まっている。

為替市場:

6月の為替相場は、株価下落などの影響から11日にUS$1=R$ 1.64を上回るレベルまでドルが強含む場面が見られたものの、月の前半はUS$1=R$ 1.63を挟んだ狭いレンジでの取引に終始した。しかし、米国経済の景気後退懸念から世界的なドル安傾向が強まる一方、金利が引き上げられたことや、発表されたGDPがブラジル経済の堅調さを示すものであったことなどからレアルを買う動きが強まり、ドル・レアル相場は25日に1999年1月以来初めてとなるUS$1=R$ 1.5(買値)台へと突入した。そして、月末にUS$1=R$ 1.5911(買値)のレアル最高値を付け6月の取引を終えた。

株式市場:

6月は米国のサブプライム・ローン問題を背景とした金融不安、同国の住宅市場や消費の縮小、世界的な原油価格の高騰や穀物価格の上昇によるインフレ懸念など、様々な連鎖的なマイナス要因から世界経済の先行き不透明感が高まり、米国をはじめとする世界の株式市場が大幅に下落した影響を受け、ブラジルの株式相場(Bovespa指数)は大きく値を下げる展開となった。6月初めに70,000ポイントを超えていたBovespa指数は、26日には63,947ポイントまで下落し、月末に65,018ポイントまで回復したものの、月間でマイナス10.43%の大幅な下落となった。月央には先月に引き続き新たな油ガス田がサントス沖で発見されたことなどを好感し、株価は一時下げ止まる場面も見られたが、4日に176まで低下していたブラジルのカントリー・リスクが月末には230まで上昇するなど、6月のブラジルの株式市場はグローバル化した世界経済の動向に大きく左右される結果となった。

政治
PACの母の危機:

Dilma文民官は「PAC(成長加速プログラム)の母」とも呼ばれ、Lula政権の中枢人物の1人であるが、今年のはじめに明るみに出たコーポレート・カード汚職疑惑への関与が取り沙汰され(3月レポート政治欄参照)、同氏の責任を問う政治的な圧力が強まっていた。このような状況下で、PACの資金が横領されていた疑惑、PACを推進する上で重要な港湾局のポストに汚職疑惑のあるPT(労働者党)の人物が任命された件、2007年に行われたVARIG航空の売却に際して不正な取引や政治的圧力があったとする疑惑などが新たに発覚したが、これらの事件にDilma文民官が関与していた可能性が高まり、同氏への政治的な攻撃がますます強まることになった。一時は次期大統領選挙へのPTの有力候補と目された同文民官であるが、同氏の出馬は絶望視されており、PTは現在、ポストLulaにおける方向性を明確化できない状態に陥っているといえる。

その一方で、Lula政権は依然として高い支持率を維持している。6月末に行われた世論調査(IBOPE)によると、Lula政権を「非常に良い/良い」と評価する割合は前回(3月)と同様の58%に達し、2003年の政権発足以来の最も高い支持率を維持している。また、Lula大統領個人の政権運営に関しても72%が「評価する」と答えており、政権発足時の75%とほぼ同じ水準に達している。

社会
日本移民100周年:

1908年6月18日、ブラジルへの最初の日本移民165家族781人を乗せた笠戸丸がサントス港に到着した。その時からちょうど100年目となる今年、日本移民100周年を記念する様々な行事やイベントなどが、ブラジルと日本の双方において、両国政府や日系社会のほか、地方自治体や様々な民間および市民団体などによって数多く開催されている。そして、100年前に笠戸丸がブラジルに到着した6月には、日本から皇太子様がブラジルを訪問され、ブラジル各地で開催された記念行事に出席された。

このブラジルへの日本移民100周年は、両国の政府レベルにおいては「世界最大の日系社会を有するまでになった日本人のブラジル移住の100周年を祝うことはもちろん、これに留まらず、より幅広い両国国民の間で交流事業を行なうことで、未来に向かって日伯両国の結びつきを強めること」を目的として、「日本ブラジル交流年」と位置づけられている。そして、今年1年を通して「社会、文化、芸術、学術、観光、スポーツなど幅広い分野での交流」が行われており、日本ブラジル交流年についての情報が 日本の外務省のホームページ で公開されている。

【ブラジルへの日本移民の歴史】20世紀初頭に始まったブラジルへの日本移民は、その目的などによって、第2次世界大戦の前と後で大きく分けることができる。

戦前の移民は、主にコーヒー農園での就労により短期間で貯蓄を果たした後、日本に帰国することを意図していた、いわゆる“出稼ぎ”移民であった。戦前移民の数は約19万人で、94%が農業移民であり、そのうちの92%が当時コーヒーの一大生産地であったサンパウロ州奥地へと入って行った。しかし、当時のコーヒー農園への外国移民は、ブラジルで1888年に廃止された奴隷制に代わる労働力として導入された側面が強かったこともあり、移民の人たちが直面した現実は非常に厳しいものであった。そして、短期間での貯蓄が不可能なため、ブラジル滞在を長期化せざるを得ない状況が続き、やがて第2次世界大戦を迎えることになった。

当時の日本移民の多くは戦前の日本の教育を精神的な柱とし、日本への帰国を目的にブラジルに“仮住まい”していたことから、ブラジルの母国語であるポルトガル語や現地の事情に疎く、このような状況下で戦争が勃発したため、日本移民社会は極端な情報不足と孤立状態に陥ってしまい、大混乱の時期を迎えることになった。特に戦争終結後、日本の戦勝を信じて疑わなかった「勝ち組」という人々が、敗戦を認識していた「負け組」という人々に対し、今で言うテロ行為を行うという事態となり、当時の日本移民社会のみならずブラジル社会全体でも大きな問題となった。

戦後には約7万人がブラジルへ移民したが、その多くは海外への移民がほぼ途絶える1964年までに集中している。戦後移民の主な特徴として、戦前とは異なり多くの人がブラジルへの定住を目的としており、農業移民も多かったが、技術移民や結婚を目的とした花嫁移民など、戦前に比べ移住形態が多様化したことが挙げられる。また、先述の日本移民社会の混乱は、戦後の移民が増えるにつれ正しい情報が伝わるようになり、次第に沈静化していった。なお、ブラジルへの日本移民の歴史を描いたドラマやドキュメンタリー番組はいくつかあるが、最近では2005年にNHKが5夜連続で放映した『ハルとナツ—届かなかった手紙』というドラマがある。ブラジルでもNHK衛星放送により放映され、ドラマ的な要素や演出が散見されはしたが、現地の日系社会でも大きな反響を呼ぶとともに、好意的に捉える意見が多かった。

【現在のブラジルの日系社会】現在、日系ブラジル人の人口はおよそ150万人といわれ、海外の日系人社会としては最大である。今でもサンパウロ州を中心とした南東部に多くの日系人が住んでいるが、農村部ではなく都市部で生活する人が多く、その職業も多様化している。また、1世で健在の方もいらっしゃるが、そのほとんどが戦後移民であるとともに高齢化が進んでいる。少し話が逸れるが、笠戸丸で移民した中川トミさんという方が2006年までブラジルでご健在だったが、同年10月に他界された。中川トミさんはブラジル移民当時1歳半で、亡くなられた時は100歳を迎えられたばかりだったそうである。現在のブラジルの日系社会の中核を担っているのは2世や3世の世代であり、既に6世も誕生している。しかし、一言に“日系ブラジル人”といっても、非日系人との混血化が進んでおり、誰が日系人なのかという問題もあり、ブラジルにおいて日系人に関する大規模かつ定量的な調査は1980年代後半を最後に行われていない。

日系人が多く住むサンパウロ市の中心部には、ポルトガル語で「自由」を意味する「Liberdade」という名の東洋人街がある。このLiberdadeは、昔は“日本人街”と言われていたが、主に戦後になるとブラジルに移民してきた中国系や韓国系の人たちも多く集まってきたため、現在は“東洋人街”と呼ばれている。ここでは日本だけでなく中国や韓国のレストランや食料品店が軒を並べており、現在でも道を歩くとポルトガル語以外の日本語、中国語、韓国語が耳に入ってくる。また、今でもブラジル各地の日系人の多い所には日系の団体が存在し、日本語学校を経営したり、スポーツや文化交流を行ったりしている。しかし、日系人のブラジル社会との融合や日系コミュニティ離れなどが進み、これらの日本語学校では生徒数の減少や日本語能力の低下、団体の会員減少などの問題を抱えている。

【日本の日系ブラジル人社会】先述の約150万人にのぼる日系ブラジル人のうち、日本国籍を有している人も含め、現在、約30万人の人たちが日本で就労および生活をしている。国内で人口が最も多いのは愛知県で、次いで静岡、三重、群馬となっており、東海工業地帯において就労している人が多い。日系ブラジル人の人が多く住む所では、日系人を対象にブラジルの食品や日用品を販売する店やレストランなどがあり、ポルトガル語の新聞なども日本国内でいくつか発行されている。

日本に在住および就労する日系ブラジル人の現象はブラジルでも“デカセギ”と呼ばれ、1980年代後半から始まった。しかし、1990年に日本の「出入国管理及び難民認定法」が改正され、3世までの日系人は日本での定住および就労が可能になったことから、日本でのデカセギが90年代以降に急増した。日本でデカセギとして就労および生活している日系ブラジル人の多くが、「お金を貯めて、いつかはブラジルに帰る」ことを考えていると言われている。しかし、彼らの日本滞在は長期化するとともに、来日回数も増える傾向にあり、子供たちの教育の問題をはじめ、将来的な日本滞在資格や日本だけでなくブラジル社会への適応の問題などが深刻化している。ブラジルへの日本移民が、短期の出稼ぎ目的からブラジル定住へと変化していったのと同じようなことが再び起きており、まさに歴史は繰り返すといえる。

【今後の日本とブラジル】ブラジルは国土面積が日本の約23倍でオーストラリア大陸よりも広く、世界第5位の広大な国土には資源が豊富にある。現在、人口は約2億人で1,000万人を超える大都市サンパウロをはじめ、200万人以上の都市が10もあり(2000年)、GDPは世界10番目(2005,6年)で、BRICsの一角に数えられるなど経済的なポテンシャルは非常に大きい。また、多人種多民族で形成され、文化や歴史も地方によって多様であるとともに、美しい自然が多く残る、非常に魅力的な国である。さらに、2014年にはサッカーのワールドカップの開催が決定し、2016年のオリンピックにもリオデジャネイロが立候補している。そして何より、ブラジルには海外最大の日系社会が存在するとともに、日本でも多くの日系ブラジル人の人たちが私たちと共存しており、彼ら日系人をはじめブラジルの多くの人たちが、日本に強い関心を抱いている。

その一方で、依然として日本の人が「ブラジル」と聞いて連想するものは、サンバ、サッカー、コーヒー、そして(残念ながら)治安の悪さなどが一般的であり、ブラジルは「遠くて遠い国」というイメージが強いといえよう。しかし、日本とブラジルの結びつきは日本の人たちが考えるよりも実際には歴史的、文化的、経済的など、様々な意味においてもっと長く深いものなのである。ブラジルという国の魅力と世界における重要性、そして、そこには日系社会という日本人にとって架け橋となる存在があることを、日本の人たちはもっと認識するべきだと思う。ブラジルへの日本移民100周年である来年の「日本ブラジル交流年」をきっかけに、日本とブラジルの交流がより活発化し、日本の人がブラジルを「遠けれど、より近い国」として感じるようになることを願っている。