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世界を見る眼

アフリカ情勢 新国家南スーダンの命運を握る米中の連携

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00050860

平野 克己

2011年7月

アフリカにまたひとつ国ができた。南スーダン共和国。イスラム化を進めてきたハルツームのスーダン政府に弾圧され、ながいあいだ内戦を戦いぬいた末の独立である。

スーダンにある油田の多くは南スーダンに位置する。油田をめぐる権益争いが、とくに米中のあいだでこれからくりひろげられるだろうとする観測もある。これまで投資が許されなかった南スーダンで石油開発の動きが活発化し企業競争がおこるのは当然予想されるが、だからといって米中が南スーダンをめぐって対立しているとみるのは、おそらく正しくない。もしそうなら、ハルツーム政府にもっとも影響力をもつ中国が南スーダンの独立を阻止すればよかったのである。ゼロから新しい国をつくるよりも、そのほうがはるかに容易だった。

スーダンはアフリカでは珍しく古代に遡る国家史をもつ。紀元前にはエジプトを支配していたこともあり、ピラミッド遺跡も存在する。エジプト同様ここも「ナイルの賜物」なのだ。近代になるとオスマン帝国麾下のエジプトに支配され、そこにイギリスがわりこんだ。空洞化したオスマン帝国のなかでエジプトという隠れ蓑を被ったイギリスの支配下におかれたが、それに反抗して一時は大英帝国軍をうちやぶり、独立政府を建てたこともある。マフディー運動というのだが、これをおさえこもうとする戦いがどんどん拡大して、結局イギリスはアフリカ大陸を縦断することになった。つまりスーダンは、ヨーロッパによるアフリカ実効支配の歴史的出発点であった。

イスラム圏の北アフリカと黒人アフリカの境界線を「スーダニーズ・ベルト」という。サハラ砂漠のほぼ中央をはしる民族と文化の境界線だ。スーダンとは「黒い」という意味で、その昔フランスはスーダニーズ・ベルトの南側をビラ・ド・スーダン、「黒人の国」と呼んでいた。ビラ・ド・スーダンには無限の富があるという幻想がフランスをアフリカ侵略にかりたてたのである。

いまでもスーダニーズ・ベルトは紛争絡みだ。その最大最長の紛争がスーダン南北内戦であり、これに決着をつけたのが2005年の南北和平合意だった。この合意にもとづいて2011年1月に独立の是非を問う住民投票がおこなわれ、7月9日の独立にむすびついたのだが、これで戦火が消えたとは断言できない。南北境界に位置する油田の収益をどうわけあうかの結論は出ていない。つい先日もスーダン軍が境界地帯を爆撃している。

そもそも、和平合意は南スーダンの独立ありきではなかった。独立は選択肢のひとつにすぎなかったのである。和平合意の成立後に謎の死を遂げた南部スーダン解放運動のリーダー、ジョン・ガランは、ほんらいは新しい大統領になるべき人間だったが、統一スーダン論者だった。多民族からなる非宗教国家を構想していたのである。もしこの構想が実現していればトルコの政体のさらに先をいくことになったかもしれない。しかし、ガランの死が象徴しているように、新たな統一スーダンをつくりだそうという熱意は北にも南にもなかった。

南スーダンの独立を後押ししたのはアメリカである。ハルツーム政府にテロ支援国家指定の解除をちらつかせて独立を認めさせた。国家としてのインフラがなにもない、道路すらない南スーダンに国家づくり支援を提供しているのはアメリカと、そして中国である。

中国のアフリカ攻勢は1995年にスーダン油田の権益を獲得したことから始まった。イスラム強硬派のバシール政権が1989年に誕生し、オサマ・ビンラディンもスーダンに拠点を構えていたが、1993年にアメリカによってテロ支援国家に指定され欧米企業が撤退、その空白に中国、インド、マレーシアが進出して油田開発が進められた。

アフリカのなかでもっとも危ない地域が南スーダンをとりかこむ一帯だ。海賊で有名なソマリア、オガデン地方の独立運動を抱えるエチオピア、流血が止まらないスーダン・チャド国境、反政府ゲリラが暗躍するウガンダ北部、超不安定国家の中央アフリカ共和国—この辺一帯はイスラム過激派にとって絶好の温床となっているというのがアメリカの認識である。

アフリカへの経済攻勢を進める中国も、エチオピアではシノペックの石油探査現場をオガデン解放運動組織に襲われて多数の死者を出し、ダルフール紛争ではスーダン政府への軍事支援が糾弾の的になって、北京オリンピックのボイコット運動までおこった。不得意なイスラム圏では中国もそうとう手を焼いている。

波乱含みの南スーダン独立ではあるが、このように錯綜しきった紛争構図に安全保障の網を構築する最初の一手としようというのがアメリカの意図だろう。それに中国も頷いたということだと思われる。安全保障が確保されなければ資源開発どころではない。米中のアフリカにおける利害はここで一致する。植民地時代、スーダンを支配したイギリスは南部にキリスト教を普及して、できれば南部を切り離し、英領東アフリカに編入しようという構想をもっていた。その構想が米中によって21世紀に甦ったのである。

リーマンショックが起こるまで、中国に次いでスーダンの原油を買っていたのはじつは日本だった。発電用の生炊き原油としてである。スーダンをはじめアフリカ産原油は硫黄分が少ない。とはいえ、日本の製油施設は重質の中東原油用につくられているので、アフリカの良質な軽質油をあまり必要としていない。だから日本はアフリカでそれほど中国とバッティングしてこなかった。だが、震災後に火力発電の需要が高まれば事情はかわる。

国連は南スーダンPKOに自衛隊の参加を要請した。しかし自衛隊の多くはいまだ東北各地で震災対応に従事している。派遣余力を回復するには時間がいる。

経済成長を続けるアフリカの焦点は資源開発と安全保障の確立にある。南スーダンはその象徴的な例で、これから軍と企業の同時関与が始まるだろう。それができる国はどこか。南スーダンでこれから試されるのは米中二大強国の連携である。