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ミャンマー新政権の行方(1) 民主化勢力との対話

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049567

2011年9月

2011年3月30日、テインセイン大統領を首班とするミャンマー新政権が誕生した。翌日の施政方針演説において、大統領は「新政権の最重要の課題は、良い統治(good governance)と汚職のない政府(clean government)をつくるために共に働くことである。そのために、連邦政府、州・地域政府は透明で(transparent)、説明責任を有し(accountable)、憲法と法律に基づいた仕事をしなくてはならない。国民の声を尊重し、全ての国民が参加できるようにしなければならない。政府の仕事は迅速、かつ効果的でなければならない」(ミャンマー国営紙 Myanma Alin、2011年4月1日付)と述べた。新大統領の演説には、良い統治、汚職のない政府、説明責任、国民の声、国民参加など、軍政時代には使われなかった民主的な言葉が踊った。その演説は軍政時代のプロパガンダ的表現に慣れていた我々にとって、少なくとも新鮮ではあった。

しかし、その当時の内外の評価は、大統領はただ言っただけであり、改革が本当に実行に移されるかはまだ分からない、という懐疑的なものが多かった。実際、その後、改革への動きは鈍く、最初の3カ月間は目に見える変化はなかった。それでも、いくつかの動きはあった。テインセイン大統領は4月11日にアウンサンスーチー氏(以下、スーチー氏)と親交のあるミン博士を経済顧問に任命し、5月16日には全ての受刑者に恩赦を実施した。この恩赦は死刑を終身刑に、その他の受刑者の刑期を1年減刑するという内容で、これにより約1万4600人が解放された。しかし、解放された受刑者のうち、政治犯は100人程度に過ぎなかった。ミャンマーには政治犯が約2000人いるとされており、スーチー氏は「とても恩赦と言えるものではない」とこれを評価しなかった。また、6月上旬には中国大唐集団公司とミャンマー政府が共同で建設しているタペイン・ダムをめぐって、カチン独立軍(KIA)と国軍が戦闘を始めた。さらに、同月28日には内務省がスーチー氏とNLDに政治活動を止めるよう警告する書簡を発出した。この頃までは、新政権のスーチー氏をはじめとする民主化勢力や少数民族武装勢力などに対する姿勢は、軍政時代と大きな相違がなかった。

新政権の柔軟姿勢が顕著になったのは、7月以降である。まず、スーチー氏は7月19日の殉難者の日の政府主催の式典に、9年ぶりに参加が許された。この式典は1947年のこの日に暗殺されたスーチー氏の父アウンサン将軍らを悼むものである。スーチー氏は軍政下では自宅軟禁下にあり、長いこと式典に参加できなかった。次に、7月25日にスーチー氏とアウンチー労働相(軍政下ではスーチー氏と軍政との連絡担当相であった)がヤンゴンで会談した。会談後、両者は共同声明を発表し、記者の質問にも答えた。これまで両者は軍政時代に9回会っているものの、共同で声明を発し、記者会見を開いたことはなかった。共同声明の場でのスーチー氏はやや不機嫌に見えたものの、軍政時代との会談とは様相を異にしたことは間違いない。会談から3日後、スーチー氏はテインセイン大統領と少数民族武装勢力に停戦を求める書簡を発出した。これは会談での合意に基づく仲介の試みであったと思われる。

8月12日に再び両者の会談が行われ、両者が国の安定と発展のために協力していくこと、両者は対立姿勢をとらないこと、そして両者が話し合いを続けていくことを確認するプレス・リリースが出された。同月14日、スーチー氏はヤンゴンから北方に約80キロ離れたバゴーに、2010年11月13日に自宅軟禁から解放されて以来、初めての地方遊説に出かけた。バゴーではスーチー氏は演説においても政府批判を慎重に避け、治安当局とのトラブルもなかった。この地方遊説が、新政権との合意に基づくものであったことは間違いない。

8月17日、テインセイン大統領はネーピードーの国際会議場に政府関係者、実業界、NGO団体などを一堂に集め、新政権発足後の5ヵ月の実績を説明すると同時に、海外亡命ミャンマー人に対して(罪を犯していないのであれば)帰国するように呼びかけた。また、仮に罪を犯してしまった場合であっても、国内で罪を償う意思があるのであれば政府は寛大な態度をとるとした。18日には、政府は少数民族武装勢力に対して和平を呼びかける声明を出した。そして、翌19日には大統領経済顧問のミン博士が主催した「経済発展のための改革に関する国民ワークショップ」に参加するため、初めてネーピードーを訪問したスーチー氏とテインセイン大統領の会談が実現した。会談が行われた部屋には、アウンサン将軍の写真が飾られていた。テインセイン大統領からスーチー氏へのメッセージであった。その後、スーチー氏は「大統領は本気で改革をしようとしている」と語った。スーチー氏はその後も折りに触れて、「大統領が進めようとしている改革を後押しすべきだ」という発言を繰り返すようになった。

政府はメディアに対する規制も緩和してきている。まず、報道検閲登録局(PSRD)は6月に入ってから、政治以外の芸術やスポーツなどの分野の定期刊行物について事前検閲を廃止した。8月16日以降は、それまで国営新聞に必ず掲載されていたボイスオブアメリカ(VOA)、英国放送協会(BBC)、ラジオフリーアジア(RFA)、ビルマ民主の声(DVB)などの反政府(反軍政)的な報道スタンスをとる海外メディアを非難する文言や、国民の4つの願望(騒動や暴力は要らない! など)と題するスローガンなどの掲載が停止された。8月中旬から下旬以降は、上記のメディアやイラワディ(Irrawaddy)などの反政府系サイトへの接続が可能となり、動画投稿サイトのユーチューブも見られるようになった。

また、8月10日にチョーサン情報相をトップとする報道官・情報チーム(Spokespersons and Information Team)が設置され、12日には新政権下で最初の記者会見が開かれた。さらには、8月22日から始まった第1回通常国会の第2会期の模様は国内外のメディアに公開され、これまでビザが取れずにミャンマーへ入れなかった多くの海外メディアが取材に入って来るようになった。日本でもミャンマー関連の新聞記事やテレビ番組が増えているが、それはこうした海外メディアに対する取材規制の緩和によるものである。9月8日には現地週刊誌の人民時代( The People’s Age )に、毎日新聞に掲載されたスーチー氏の手記「ビルマからの手紙2011」(2011年7月19日付)がビルマ語に訳されて掲載された。

こうして、新政権発足から半年を経たミャンマーでは、テインセイン大統領のイニシアティブの下、スーチー氏を初めとする民主化勢力との対話が着実に進みつつある。

(2011年9月26日)