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ムシャラフ辞任後のパキスタン混迷化

PDF版ダウンロードページ:http://hdl.handle.net/2344/00049674

 鈴木 均

2008年10月

パキスタンのムシャラフ大統領(本名パルヴェーズ・ムシャッラフ)がこの8月18日に辞任し、2001年の9.11米国同時テロ以降においてパキスタン周辺地域の政治的な構図を規定してきた幾つかの原則が過去のものとなりつつある。この地域の政治的様相は今後加速度的に変化していくことであろう。

2001年以降これまでムシャラフ大統領が堅持してきた政治的原則は、主に以下の諸点であったと考えられる。

  1. ムシャラフ大統領の出身母体である軍関係の影響力を最大限活用し、また大統領権限を強化することによって国内的な対抗勢力を抑え、政権を安定化すること。
  2. 9.11米国同時テロ以降は基本的に米国ブッシュ政権の「対テロ戦争」に同調し、(国内的にも潜在的支持勢力の多い)ターリバーンやアル・カーイダへの武力行使を含む強硬な姿勢を可能な限り堅持すること。
  3. 1947年の分離独立後長期間にわたって対立関係にあったインドとの緊張緩和を進め、パキスタンの安全保障を高めること。

しかしながらこのような政治的選択にたったムシャラフ体制は、米国のブッシュ政権が終幕を迎えようとする国際政治上の大きな転換点を超えることは出来なかった。米国としてはブッシュ大統領の「対テロ戦争」を最前線で支えたムシャラフ大統領の名誉ある退場にあたり最大限の配慮を与えたというのが実際であろう。

実際ムシャラフ大統領の政治的な影響力は、昨2007年7月の首都イスラーマーバードにおけるラール・マスジドへのパキスタン軍特殊部隊の強行突入を命じて以降、大きく揺らぎ始めていた。この時軍事攻撃で殺害された正確な人数は明らかにされていないが、パシュトゥーン人が多く居住しターリバーンの根拠地である北西辺境州出身の婦女子が中心といわれている。さらに突入の際に投降しようとしていたモスクの指導者アブドゥルラシード・ガーズィー師を騙まし討ちのようにして殺害したことも大統領への批判を大きくした。特にその急先鋒に立ったのは、軍籍にありながら大統領職を務めるムシャラフの強権政治を違憲として批判する司法界であった。

その後2007年8月にアフガニスタンの首都カーブルで開催されたアフガニスタン・パキスタン両国合同和平ジルガにムシャラフ大統領は出席したものの、この会議もさしたる成果を挙げることができなかった。最近のターリバーンの復活の責任をパキスタンに追及するアフガニスタン側と、逆にアフガニスタンのターリバーン攻撃の不徹底さがパキスタン領内の治安を悪化させていると主張するパキスタン側の対立は埋まらなかったのである。

その後パキスタン初の女性首相であったが汚職問題から国外に亡命していたベナズィール・ブットー元首相(PPP=パキスタン人民党総裁)が10月18日に帰国するものの、相次ぐテロの攻撃に晒された末、12月27日にPPPの政治集会で演説直後に自爆テロによって殺害された。ブットー元首相の帰国はパキスタン国内でのムシャラフ政権の脆弱化を憂慮した米国ブッシュ政権の意向を受けて、ムシャラフとの「二頭体制」を模索しようとしたものだが、この計画がブットーの死去で脆くも潰えたことによってムシャラフ体制はさらに影響力を失った。

こうした中で2008年2月18日のパキスタン総選挙ではムシャラフ大統領批判を掲げたPPPなどが大きな勝利を収め、3月24日には同党のユースフ・ギーラーニー首相が選出されてムシャラフ大統領への退陣に向けての圧力は決定的なものとなった。

その後7月にはギーラーニー首相が訪米してブッシュ大統領と会談、席上ギーラーニー首相はパキスタン領内のターリバーン武装勢力との対話路線を断念することを表明し、その直後から北西辺境州スワットで2万の軍を投入して本格的な武装組織掃討作戦を開始している。この時点で既に米国側の認識においてもパキスタンの政治的主導権がムシャラフ大統領からギーラーニー首相に移行したことは明らかであった。

8月に入るとPPPのザルダーリー共同総裁とイスラーム教徒連盟シャリーフ派のナザーリ・シャリーフ元首相がムシャラフ大統領の辞任要求で共闘することで合意し、15日には米『ワシントン・ポスト』紙がムシャラフ辞任の見通しを伝えている。一部報道によればこの間米国・英国・サウジアラビアの各国がムシャラフ大統領の辞任のためナワーズ・シャリーフらとの調整を行なったとのことで、ムシャラフのサウジへの亡命も打診されていたという。

ここで注目すべきはパキスタンの旧宗主国であった英国やムシャラフ政権を支えてきた米国と並んでサウジアラビアが調整に加わっていたことで、これは同国のパキスタン政治への影響力の強さを物語るものである。サウジアラビアは1990年代中葉にターリバーンが組織化された際にもパキスタンを通じて莫大な資金の提供を行なった。また現在アフガニスタン政府とターリバーンの間の交渉をサウジアラビアが仲介しているとの報道もある。

パキスタンの新大統領を選ぶ選挙は9月6日に予定どおり実施され、サルダーリーが第12代大統領となったものの、選挙前にナワーズ・シャリーフとの共闘関係は解消しており、その後もパキスタンの政情は不安定な状態が続いている。しかしこの段階で以下のことは言えるのではないだろうか。

  1. 現在パキスタン領内からアフガニスタンに大きく影響力を伸張しているパシュトゥーン居住地域のターリバーン勢力に対し、米国などの批判を受けて現在パキスタン軍が軍事作戦を展開しているが、これの帰趨は不明である。
  2. これまでブッシュ政権の「対テロ戦争」に対応してムシャラフが掲げてきた親米的な路線の維持は、パキスタン国内の反米的な世論の圧力もあり不透明になっている。
  3. ムシャラフ政権のもとで大きく改善してきていた対インド関係は、すぐに大きく崩れることまではないにしても若干の後退は否めないであろう。

ムシャラフ大統領の辞任後、既にターリバーンはアフガニスタン領内において新たな軍事的攻勢に出ている。首都カーブルの近郊では8月にNATO軍のフランス部隊が10人の死者と21人の負傷者を出した。また同月22日にはカーブル近郊の軍需工場の2発の自爆テロによる爆破で少なくとも46人が死亡しているが、これもターリバーンが犯行を表明している。

ターリバーンおよびアルカーイダのこうした攻勢の背景にはムシャラフ辞任を米ブッシュ政権の「対テロ戦争」の決定的なほころびと位置づけ、将来的な交渉を見通して戦局を有利に展開しようとして軍事的攻勢に出ているターリバーン側の動きがあったと思われる。だがその後米英軍を中心に現在アフガニスタン南部での相当大規模なターリバーン掃討作戦が進行中であり、戦果の発表がある一方でターリバーンと一般市民の識別が極めて困難な状況で市民の空爆等による死傷者数も急増しているようである。

最後にパキスタン周辺主要国におけるムシャラフ辞任後現在までの受け止め方と今後の対パキスタン関係の展望を概観してみよう。

  1. アフガニスタンのカルザイ大統領は近年非難を応酬してきたムシャラフ大統領の辞任を基本的に歓迎したものと思われるが、同国内ターリバーンの勢力伸張はむしろ加速する可能性がある。またフランス部隊への攻撃を行なったのはターリバーンと同盟関係にあるヘクマティヤールであるともいわれており、対ソ連戦時代からの旧軍閥勢力が今後影響力を増大させていく可能性も否定できない。
  2. インドは現状ではムシャラフ辞任後の動向を静観しているものと思われるが、ムシャラフ政権下での関係改善への動きがある程度減速することは見通しているのではないか。
  3. イランはこれまで米国との対決姿勢を表面に出しつつもIPIパイプライン計画の推進などでパキスタン・インド関係の仲介役を演じてきた経緯がある。現状においてターリバーンの勢力伸張は望んでいないであろうが、他方でパキスタン・インドとの良好な関係は維持することを希望しているものと思われる。
  4. 米国は仮に今年11月の大統領選挙の結果オバマ大統領が誕生した場合、対アフガニスタン政策(「対テロ戦争」の収拾への努力)との関連で対パキスタン関係が大きく見直されていくものと思われる。
  5. 「対テロ戦争」全体に対するパキスタンの重要な位置からも、米国の新政権が場合によってはザルダーリー政権の運営に大きく関与していく可能性も少なくない。