論考:ケニアにおけるテロ関連暴力とその影響 ——2014年6月のコースト・ンペケトニ事件を中心に——

アフリカレポート

No.52

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■ 論考:ケニアにおけるテロ関連暴力とその影響 
■ 津田 みわ
■ 『アフリカレポート』2014年 No.52、pp.64-77
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要 約

2011年10月のケニア国軍による南部ソマリアへの越境攻撃開始後、ケニアではアッシャバーブの報復攻撃とみられるテロが多発している。そのケニアで、2014年6月、ソマリア国境に近いンペケトニと呼ばれる一帯において大規模な住民襲撃事件が発生した。アッシャバーブがすぐに犯行声明を出したものの、ケニアのケニヤッタ大統領はアッシャバーブの犯行を否定し、「特定コミュニティを標的にしたエスニック・バイオレンス」だとの見解を表明した。ンペケトニ事件は、「悪化するテロ対ケニア政府による治安強化」というこれまでの図式に、いかなる波紋を投じたものだったのだろうか。本稿では、このンペケトニ事件を整理し、ケニア政府側の対応を追いながら、ンペケトニ周辺の土地問題と民族的分布との関係、与野党対立の現状、そしてケニアのインド洋沿岸を舞台に今も続く分離主義運動を中心に事件の背景を探り、今後の影響を考察する。

はじめに

ソマリア由来とみられる海賊行為や民間人誘拐によって北東地域の著しい治安悪化に直面していたケニア政府は、2011年10月、ソマリア暫定連邦政府(当時)からの要請に応じ、国軍による南部ソマリアへの越境攻撃を開始した。攻撃の目的は、「アッシャバーブ(al-Shabaab)の掃討」とされた。アッシャバーブとは、ソマリアの主要な反政府武装勢力であり、ソマリアとその周辺国でテロ、身代金目的の誘拐などを繰り返してきた過激なイスラーム主義勢力である[遠藤 2012]。アッシャバーブは、ケニアによる越境攻撃開始の翌日、ケニアへの報復を宣言した。その直後からケニア国内では、今日まで数多くのテロとみられる事件が発生し、合わせて数百人以上が犠牲になってきた(詳細は津田[2012])。ケニア国軍はその後、「アフリカ連合ソマリアミッション」に合流し、アッシャバーブ掃討作戦を現在もまだ継続中である。

そのケニアで、2014年6月15日の晩から翌16日未明にかけて、数十人もの住民が銃などで武装した集団に殺害される事件が発生した。場所は、世界遺産にも指定されたケニア有数の観光地ラム島の本土側南西部にある農村と小さな市街地からなる一帯であった(図1)。行政区分では、ラム・カウンティ(Lamu County。ソマリア国境に接するインド洋沿岸のカウンティ)西部にあたるが、一帯は、正式な行政区分とは別に「ンペケトニ(Mpeketoni)」と呼び慣らわされている。これにちなみ、この襲撃事件を本稿ではンペケトニ事件と呼ぶことにする。

ンペケトニ事件については、襲撃2日目に、アッシャバーブが犯行声明を出した。これにより、ケニア政府はンペケトニ事件についてこれまで発生してきた多数のアッシャバーブ関連テロ事件のひとつとして対応していくかと思われた。

しかし、事態はやや異なる方向へと進んだ。ケニヤッタ(Uhuru Kenyatta。旧中央州出身。キクユ人)大統領が、アッシャバーブの犯行声明を否定し、「特定コミュニティを標的にしたエスニック・バイオレンス」だとの見解を表明したのである。

ンペケトニ事件は、「悪化するテロ対ケニア政府による治安強化」というこれまでの図式に、いかなる波紋を投じたものだったのだろうか。結論を先取りすると、ンペケトニ事件は、アッシャバーブによるテロの問題がケニアの重要な複数の対立軸と結びつく契機になった/なっていく可能性を孕んだ事件であった。

以下、ンペケトニ事件を整理し、ケニア政府側の対応を追いながら、ンペケトニ周辺の土地問題と民族的分布との関係、そしてケニアのインド洋沿岸を舞台に今も続く分離主義運動を中心に事件の背景を探り、今後の影響を考察したい。

なお、本稿では、独立から2010年の新憲法制定まで「コースト州(Coast Province)」とされてきたインド洋沿岸部を、以下、「コースト」と総称する 1 。コースト(旧コースト州)の領域にあたるのは、現在の行政区分でいうと、ソマリアと国境を接する北部から順に上述のラム、そしてタナ・リバー(Tana River)、キリフィ(Kilifi)、モンバサ(Mombasa)、クワレ(Kwale)、内陸のタイタ/タヴェタ(Taita/ Taveta)の6カウンティである。
図1 ケニア・ンペケトニの位置
図1 ケニア・ンペケトニの位置
(出所)津田[2012](一部加筆、修正)。
1.ンペケトニ事件

(1)事件の概要
2014年6月15日、日曜日の夜9時頃、ラム・カウンティ西部のンペケトニが、銃などで武装した集団によって襲撃され、住民に多数の死傷者が発生した。当初50人近いとされた死亡者は、誘拐され行方不明になっていた9人が近隣の村で遺体となって見つかるなど、合計60人を超えた。ンペケトニの市街地では、銀行、飲食店、地方行政官事務所、車両なども襲撃され、放火された。

被害者の多くは、頭部への銃撃や、喉を切り裂かれることによって殺害されていた。襲撃者の正確な人数は不明だが、20名ほどとみられており、14人乗りの小型バスをハイジャックして銃撃しながら走行した。襲撃は、半径3キロメートルほどの領域にひろがり、6時間ほどにわたって続いた。報道された目撃者の話を総合すると、襲撃者たちは高度に組織化され、AK47ライフルで武装していた。また、襲撃にあたっては、女性、子ども、ムスリムが逃亡を許され、男性かつ非ムスリムの住民が選び出されて次々と殺害されたことが、多くの証言から浮かび上がる[DN 17 June 2014, 2, 9]。

たとえば、ンペケトニの市街地で事件に遭遇した女性の証言によれば、襲撃者たちは、ホテルなどを焼き払う前に、建物内の全員に対し外に出るよう命じ、名前を名乗らせた。最初の男性が「ポール」(キリスト教の洗礼名である)と名乗ったところ、引き出されて射殺されたという。女性は、「彼らがポールに『ソマリアでわれわれが苦しんでいるのはお前たちのせいだ』と言っているのが聞こえました。そのあと彼らは『アッラー・アクバル(神は偉大なり)』と叫び、至近距離からポールを撃ちました。」と話した[DN 18 June 2014, 5]。

(2)ンペケトニの歴史と社会的特徴
ンペケトニ事件については、メディアにあらわれた被害者名から、被害者のほとんど全員が実際に非ムスリムの男性であることがわかるが、さらに特徴的なのは、その多くが民族的にキクユ人とみられる点である 2

ケニア全国での宗教別人口は、クリスチャン約8割に対し、ムスリムは約1割と少ないが、ソマリアに隣接する旧北東部州とコーストではムスリム人口が多数を占めるとみてよい(地域別の宗教別人口は公表されていない)。

一方、ケニア全国での民族別人口は、多い順にキクユ人が2割弱、ルイヤ人、カレンジン人、ルオ人、カンバ人がそれぞれ約1割を占め、この5大民族で総人口の6割強に達する。一方コーストでは、多い順にミジケンダ人が6割弱(全国では5%)、タイタ人が1割(全国では1%未満)、3位はカンバ人7%となり、全国では1位のキクユ人は、コーストではわずか3%にとどまる。つまり全国では人口で1位のキクユ人は、コーストでは圧倒的少数派である。キクユ人は基本的にクリスチャンとみてよいが、コーストではこのクリスチャンも少数派となる。

それらがいずれも逆転するのが、このンペケトニという地域の特徴である。ンペケトニについてのみ、クリスチャンかつキクユ人人口が住民の多数を占めているとみられるのである。たとえば、現在は地域別の民族構成が公開されていないため確認できないものの、コーストではモンバサも含めて唯一このンペケトニを含む選挙区(ラム・ウェスト[Lamu West])においてのみ、2013年総選挙でキクユ人が下院議員に当選しており、有権者の多くをキクユ人が占めていることが推測される[Beja 2014a; Standard Digital 2013]。

この「逆転」が自然に発生したものではないことも、ンペケトニ事件を考える上で大事なポイントである。

ケニアに関心を寄せている人の中には、ラムのンペケトニ、そしてケニヤッタ大統領という組み合わせに既視感を覚えた方も多いのではないだろうか。ンペケトニは、現ケニヤッタ大統領の実父で初代ケニア大統領のジョモ・ケニヤッタ(Jomo Kenyatta。旧中央州出身、キクユ人)が、入植計画のもとで自身と同じキクユ人を大量に入植させたことで、ケニア国内ではつとに知られる土地なのである。

計画の名は、「ケニヤッタ湖入植計画(Lake Kenyatta Settlement Scheme)」といい、中央州(当時)出身で東アフリカ共同体の崩壊によってタンザニアから退避させられた土地無しのケニア国民を入植させることが主な目的とされた。ここでの「土地無しのケニア国民」は、ジョモ・ケニヤッタ初代大統領と民族を同じくするキクユ人の土地無しとほぼ同義だった。入植区画数は3480、総面積1万4224ヘクタール、ひとりあたりの土地面積は平均10エーカー(約4ヘクタール)にのぼった。この入植計画によって1960年代末から1970年代初頭にかけて生まれたのが、「ンペケトニ」なのである[Sanga 2014]。

Sanga[2014]によれば、「ンペケトニ入植地は、大統領にちなんで名付けられた淡水湖(入植計画名にもなっているケニヤッタ湖のこと。津田)の周囲に設置された。…入植者の人数はすぐに(地元の人びとを)上回った。その他の移入者は、ルオ人、カンバ人」だった。ミジケンダ人ら「地元」の人びとに入植の機会がなかったわけではないが、ンペケトニ住民の多くはコースト出身でない人びと、とりわけキクユ人(これにルオ人、カンバ人が加わる)に偏る構成になった。「キクユ人大統領」のもとで、コーストの最北端、ラム島の内陸側の土地に1970年代になって生まれたこのキクユ人入植者の社会は、ミジケンダ人ら多くの「地元民」が貧困にあえぐコーストにおいて、例外的存在となってきたのだった。

コーストには、土地に関する権利について、イギリス植民地期にとどまらず独立後も現地の住民が不当に取り扱われてきたとする、根強い不満と歴代政権への不信感がある 3 。ンペケトニは、コーストにくすぶる土地問題が典型的に表れた場所でもあった。

ンペケトニを抱えるラム・カウンティでは、この入植により、キクユ人人口がコーストでは例外的に多く、これは国勢調査結果で確認できる。1989年時点で、ミジケンダ人がやはり1位(52%)を占めたが、2位はキクユ人であり、27%にのぼった。ケニア第2の都市モンバサを抱えるモンバサ・カウンティでもキクユ人人口は13%にとどまっており、ラム・カウンティの民族構成がコーストの他の領域とは異質だと分かるのである。

ラムで非ムスリムの男性が選び出されて殺害されたという時、被害者にキクユ人男性が多くなる背景はここにある。
2.アッシャバーブの犯行声明とケニヤッタ大統領演説

(1)内務大臣の答弁
では、このンペケトニ事件について、ケニア政府はどう対応しただろうか。ここで注目されるのは、この事件に対するケニア政府の見解が、与野党の関係に大きな波紋を投げかけたことである。以下、具体的にみていこう。

事件発生2日目にあたる2014年6月16日には、警察と機動隊が現地に派遣され、北部の森林地帯を含めた容疑者の捜索を開始した。一方、首都ナイロビでは、大統領の主催する国家安全保障諮問委員会(National Security Advisory Committee)が緊急で開かれた。犯行声明が出る前のタイミングで開かれたこの諮問委員会のあとの記者会見が、まずは発端であった。

ムスリムでない男性が狙われ、女性と子どもの逃亡が許されたという証言や、襲撃が高度に組織化されているとの情報がメディアを通して流されていたことから、アッシャバーブなど過激なイスラーム主義勢力によるテロが疑われるかと思われたが、記者会見において、治安を担当するレンク(Joseph ole Lenku)内務・中央政府調整大臣(Cabinet Secretary for Interior and Co-Ordination of National Government。以下、内務大臣)は、大方の予想に反して「テロ」という単語を質疑応答も含めて一度も使用しなかった。かわりに内務大臣が言及したのは、ンペケトニ事件の背後には「政治家による煽動がある」との疑惑であった。

集まった記者団から「政治家とは野党党首のことか」との質問が上がると、内務大臣は否定することなく、野党党首による煽動があったことがまるで周知の事実であるかのように「彼のこれまでの政治活動に関する情報は公開されており、私が言及する必要はない」などと述べた。これは、直前の国家安全保障諮問委員会で野党側がンペケトニ事件に関与しているとされた、ととられてもおかしくない答弁にほかならなかった(レンク内務大臣による記者会見動画はKTN[2014a])。

(2)高まっていた与野党対立
ここで、この内務大臣答弁、並びにこのあとでみるケニヤッタ大統領発言の意味を理解するために、現在のケニアでの与野党対立の構図を整理しておこう。

ケニアでは、2007年大統領選挙と2007/08年国内紛争後の2013年大統領選挙を経て、前キバキ大統領(Mwai Kibaki。旧中央州出身。キクユ人)および現ケニヤッタ大統領(上述したように、旧中央州出身。キクユ人)を支持するか、あるいは両方の大統領選挙でいずれも落選したとされたオディンガ元首相(Raila Odinga。旧ニャンザ州出身。ルオ人)を支持するのかをめぐって、国内をほぼ二分する政治的対立が形成されてきた。その対立は、各派閥の領袖たちの属する民族的属性に沿った社会的対立の様相を日増しに深めてもいる。

現在一方の極の中心にいるのは、ケニヤッタ大統領と、そして今はケニヤッタと政治協力している副大統領ルト(William Ruto。旧リフトバレー州出身。カレンジン人)である。ケニヤッタとルトは、「ジュビリー連合(Jubilee Alliance)」を形成して2013年総選挙で勝利し、現在に至っている。

他方の極の中心にいるのは、オディンガ元首相である。現在は、旧東部州出身の前副大統領(カンバ人)、旧西部州出身の元閣僚(ルイヤ人)とともに、野党側で最大の政治連合「改革と民主主義のための政党連合(The Coalition for Reforms and Democracy: CORD)」を組織している。なお、今回の事件の舞台となったコーストは、2007年大統領選挙の時からオディンガの中心的支持基盤のひとつとなってきた。

オディンガらは、僅差だった2013年大統領選挙での敗北を公式には受け入れているものの、2014年にはいってオディンガ自らが「大統領選挙で勝ったのは自分だ」と初めて発言するなど、ケニヤッタ政権に対する不承認の姿勢を強めていた。CORD側は「ジュビリー連合側が数の力で押し切り、キクユ人、カレンジン人を中心に高官に任命している」「2010年制定の新憲法の目玉だったはずの地方分権を抑圧し、中央集権化を進めている」と主張し、5月にはオディンガがケニヤッタに「国民対話(national dialogue)」を呼び掛けたが実現せず、与野党の対立が深まっていた。

折しもンペケトニ事件が発生した初日にあたる2014年6月15日には、オディンガ率いるCORDが、コーストのモンバサにあるトノノカ・グラウンド(Tononoka Ground。重要な政治集会が開かれてきたことで名高い歴史的な広場)を会場に、大規模な政治集会を開催し、ケニヤッタ政権への対決姿勢を強めていた。

(3)犯行声明とその「否定」
さて、ンペケトニ事件に話を戻すと、上述したアッシャバーブによる犯行声明は内務大臣の会見のすぐあとに出され、そこでは、ンペケトニでの攻撃はソマリア国内でのケニア軍駐留に対する復讐であり、またイスラーム聖職者の射殺 4 に対する復讐だ、とされた[DN 17 June 2014, 5] 5

注目されるのは、この犯行声明のあとのケニア政府の動きであった。アッシャバーブが犯行声明を出したにもかかわらず、今度はケニヤッタ大統領が自ら、この事件が国内政治家の煽動によるものだとの見解をむしろより強く発信したのである。

ケニヤッタ大統領がンペケトニ事件について最初に公の場で演説したのは、2日間にわたる犯行から1夜明けた6月17日であった。ケニヤッタは、ンペケトニ事件は「入念に準備され、組織だっている」とした上で、「政治的動機付けの元に、ケニアのコミュニティ(the Kenyan community。単数形であることに注意。津田)に対して行われたエスニック・バイオレンスだ」と断定し、事件は無差別攻撃ではなく、犠牲者の属性に対する知識があった上で行われたとした。

続けてケニヤッタは「これは、それ故、アッシャバーブのテロリストによる攻撃ではない」として、すでにアッシャバーブによって出されていた犯行声明を否定した。では、攻撃に携わったのは誰か。それについてケニヤッタが言及したのは、「現地の政治的ネットワーク(local political networks)」であった。ネットワークの具体名は出さなかったものの、ケニヤッタは、「この凶悪犯罪には、現地の政治的ネットワークが計画段階と実施に深く関与していると証拠は示している」と指摘した。

さらに詳しくケニヤッタ演説についてみてみよう。

ケニヤッタはつづいて、「危険なリーダーたち(reckless leaders)や憎悪をかき立てる人たち(hate mongers)」が一部の国民を排斥するよう煽動していると指摘し、そうした煽動者たちが「テロリストがわれわれの中に混じって快適に活動することを容易にする」と述べて、煽動とテロが相互に関連するとの認識を示した。その上でケニヤッタは、「ケニア国民は、とくにケニア政府は、 この数週間の間、熱狂的な政治的レトリックを耳にしてきた。 これは…不法状態、そして暴力の可能性を志向する、明確な煽動行為である(太字津田)」と述べたのである。この演説箇所での「この数週間の間」にわたる「熱狂的な政治的レトリック」は、名指しはしなかったとはいえ、明らかに最近の野党側勢力による政治活動への言及であると理解され得るものだった(ケニヤッタ大統領演説動画フルバージョンはNTV Kenya[2014a])。

この日のケニヤッタ演説は、要約すれば、このンペケトニ事件についてテロ攻撃であったとの認識は示しつつも、ただしそのテロはアッシャバーブによるものではないと否定し、その一方で、煽動演説を繰り返しているとして野党側を糾弾したに等しいものだったのであった。

この大統領演説に、野党側は即座に反応した。オディンガ側は、ケニヤッタ演説で名指しされているのが自分たちCORDであり、支持を拡げようとする自分たちの政治活動が「一部の国民を排斥する煽動」だとされたという理解で、このケニヤッタ演説を批判し、反論した。オディンガらは犯行への関与を16日のレンク記者会見の時点で否定し、その立場をその後も堅持した。ケニヤッタ演説の後に開いた記者会見においてもオディンガは、法を犯したというなら逮捕せよと呼びかけ、政治集会はこれまでどおり開催するとも言明した[KTN 2014b]。

(4)テロ対策の変化
実は、ケニア政府が、テロが疑われるような住民襲撃事件について、これまで野党側の煽動を指摘する傾向にあったかといえば、答えはむしろ逆であった。アッシャバーブが犯行声明を出した攻撃についてはもちろん、犯行声明はないもののテロとみられた攻撃についても、それまでケニア政府側は基本的にこれを与野党の対立には結びつけず、もっぱら治安問題として処理にあたってきた(詳細は津田[2012])。

2013年3月の総選挙で誕生した現ケニヤッタ政権によるアッシャバーブ対応にも、基本的に変化はなかった。ここでは2013年9月の大規模テロ事件に対する、ケニヤッタ政権の対応をみてみよう。これは、ケニア国内でアッシャバーブが犯行声明を出したテロ事件としては、ンペケトニ事件の直前にあたる事件である。

2013年9月21日、ナイロビのウェストランド(Westland)地区にある高級ショッピング・モール、「ウェストゲート・モール(Westgate Mall)」が、銃や爆発物で武装した集団に襲撃された。子ども、妊婦を含む客・店員への近距離からの発砲、爆発物の使用によるモール床の大規模崩落など大惨事となり、襲撃による死者は最終的に少なくとも67人を超え、負傷者は175人以上となった。アッシャバーブの犯行声明が出たのは、事件発生当日の夜8時頃だった。

その翌日、ケニヤッタ大統領は、やはり記者会見を開いている。ただしこの時の記者会見には、CORDを率いる政敵のオディンガと、国会第3の野党側政党連合の代表も並んで登壇した。野党党首と大統領が順に演題に立ったこの共同記者会見は、与野党の対立を超えてテロに対応するという姿勢の宣伝だったとみてよい。

この時、テロリストたちがケニアの分断を図っているとまず発言したのは、野党側のオディンガのほうであった。オディンガはCORDが当面すべての政治活動を延期し、リーダーレベルで危機を解決することに協力するとの方針を発表し、アッシャバーブのねらいは、ケニアを宗教的亀裂に沿って分断し、「ケニア人としての精神を殺すことにある」旨発言した。

ケニヤッタ大統領も、アッシャバーブの犯行声明が出ていることへの認識を明らかにした上で、「われわれの団結により、テロリストに勝利しよう」と国民の団結を呼びかけた[DN 23 September 2013, 4; NTV Kenya 2013]。数日後にウェストゲート・モール襲撃事件の制圧を宣言した際も、ケニヤッタ大統領は、「一体化して立ち上がり、ともにこの国を守り、発展させよう」と述べて、国としての一体性を強調し、テロとの戦いを呼びかけた(ケニヤッタ大統領のフル・スピーチ[KTN 2013])。ウェストゲート・モール事件では、ケニヤッタ大統領はケニア人の団結を称揚し、団結を保つことこそがテロリズムに対する勝利だと鼓舞していたのであった。

しかしその約1年後、ンペケトニ事件の惨劇を前に、ケニヤッタは自ら「ケニアの一体性」を否定し、ケニア国民の一部がテロに関与していると疑っていると発言した。ケニヤッタ大統領としては、ンペケトニが襲撃され、コースト全体では少数派にあたるはずのキクユ人が主な犠牲になっている状況下で、「アッシャバーブによるテロ」という図式でのみ事件を理解し、国民とくにラム・カウンティと旧中央州を中心に居住する自分と同じキクユ人——将来の大統領選挙における主要な支持基盤と期待できる選挙民でもある——に説明することに困難があった可能性はある。ただし、それ以上の意図は未だ明らかでない。

本稿を執筆している現段階では、ンペケトニ事件に関して、このように発生直後こそ政府側と野党CORD側との非難合戦ともいうべき事態がみられたものの、事件に関する与野党間の非難の応酬はその後幸いエスカレートしていない。CORD関係者が煽動の疑いで逮捕されるようなことも起こっていない。しかし政府側は、事件直後にCORD側の関与に暗に言及したことについて訂正も謝罪も行っていないし、政府、治安当局が野党側関与説を否定したとの情報もない。政府、治安当局は、CORD関与説をグレーな状態にとどめたままだといってよい。

50人以上が武装集団に殺害された事件について、ケニア国内の諸勢力の関与が疑われるとケニヤッタ大統領が明言したことのインパクトについては、今後も観察が必要であろう。ンペケトニ事件への政府側の対応から明らかなのは、「ケニア人としての団結」——ケニヤッタ大統領自身がウェストゲート・モール事件まではテロとの戦いにおいて最重要だと強調していた要素——に打撃を加えることに、この事件が、少なくとも結果としては、大いに成功しているということである[Gaitho 2014]。
3.モンバサ共和制評議会をめぐって

(1)分離主義組織への注目
事件発生の当初時期を過ぎて具体的に捜査が進んでいく中で、CORDの代わりに俎上に載っていったのは、コーストで活動を続ける分離主義運動の「モンバサ共和制評議会(Mombasa Republic Council: MRC)」であった。

MRCとは、1990年代頃にコーストで組織化され「プワニ・シ・ケニア(Pwani si Kenya。スワヒリ語で、沿岸部はケニアにあらずの意)」をスローガンに、インド洋沿岸部のケニアからの分離独立を求めて活動してきた団体 6 である。MRC創設の背景には、第1節で触れたように、特に土地問題において現地の住民が歴史的に不当に取り扱われてきたとする強い不満と中央の歴代政権への不信がある(たとえばEACLJ[2011])。ケニア政府側は2010年、犯罪組織であるとしてアッシャバーブと同時にMRCを非合法化している[ROK 2010]。

MRC側はこの非合法化を不服として提訴、ケニア高等裁判所(当時)はMRC側の訴えを2012年7月に認め、非合法化は違憲との判断を下したが、非合法化は解除されないまま現在に至っている。ケニアでは唯一、分離独立を主張して継続的に活動している団体でもあり、また少なくともメンバーの一部は武装闘争を手段のひとつとしており、その点でも注目すべき団体である。

ケニア警察はMRCに対し繰り返し摘発を試みており、とくに総選挙のせまった2012年に、MRCと頻繁に衝突した。この頃MRCは、2013年ケニア総選挙をボイコットするようコーストの人びとに呼びかけていた。2012年3月にケニア独立選挙管理委員会が電子投票導入のための模擬選挙を試みた際も、コーストでは投票所が武装勢力に襲撃され、国内で唯一、この地域では模擬選挙を実施することができなかった。MRC側は襲撃への関与を否定し、襲撃そのものが政府側の計略であると述べたが、その一方で、ケニアからの独立を主張しているコーストで模擬選挙を行うことは、MRCの主張に対する冒とくだとの見解も同時に表明した。

他方でMRCは、非合法化解除の要求とは別に、沿岸部独立のための住民投票の実施を求める訴えをこの頃までに起こしていた(提訴日付不明)。2012年12月、高裁はMRCが制度上は引きつづき非合法団体であるとして、MRCによる住民投票実施の訴えを認めない判決を下したが、MRCは、この判決に対しても不服だとして上訴する方針を発表し、裁判では決着のつかないまま、総選挙の日程は迫っていった。

2013年3月初めには、モンバサ各地の警察署が襲撃され、あわせて警官9人が死亡、襲撃側も合計10人が死亡、3人の市民が犠牲になる事件が起こった。警察は襲撃にMRCが関与しているとし、襲撃者の集団が一部では400人以上に達したと発表した。

総選挙(2014年3月4日実施)は無事に終了したものの、3月末になるとコーストでは別の警官殺害事件が発生し、警察はMRCメンバーだとして6人を射殺した[DN 29 March 2013, 10]。MRCのンザイ(Randu Nzai)書記長は、MRCはその警官殺害事件に無関係であると述べ、あわせて、2012年7月の高裁による非合法化違憲判決によりMRCは合法化されたと主張した。

警察側は、コーストで発生する様々な襲撃事件についてMRCの関与を疑うことをやめなかった。2013年4月後半、モンバサで、警察署が5人に山刀で襲撃され、警官1人が重傷を負ったほか、ライフルや弾丸が強奪された際も、警察はMRCが関与した疑いがあるとした。MRC側は関与していないとして警察を批判したが、モンバサ警察はMRCへの取り締まりを強化し、2013年5月半ばには、MRCに関連する誓いの儀式(oath)をおこなっていたとして1日で13人を逮捕 7 した。

暴力と批判の応酬がエスカレートする中、2013年9月前半、ケニヤッタ大統領は、MRCに対し「暴力を否定するのであれば交渉のテーブルにつく」と呼びかけた。ケニヤッタ大統領は、この時コースト各地を訪問中であり、モンバサの大統領官邸でミジケンダ人9グループ代表と非公開交渉を持った。

一方、2012年から2014年にかけては、上で触れたように幾人もの著名なイスラーム聖職者が何者かに殺害される事件がコーストで発生していた。抗議の暴動も繰り返して発生し、コーストの治安は不安定さを増していった。

(2)アッシャバーブとMRC
2014年6月のンペケトニ事件は、その最中に発生した大規模な住民襲撃事件だった。事件発生から2週間ほどが経った2014年6月29日、レンク内務大臣は、「元リーダーたちが、MRCを使ってカオスを引き起こしている」「アッシャバーブに資金提供している」と述べた。内務大臣は「元リーダーたち」という曖昧な表現でコースト出身の地元政治家たち一般に言及し、ンペケトニ事件が彼らコースト出身の地元政治家たち、アッシャバーブ、そしてMRCらが連携する形で引き起こされたとの見解を示したのであった 8 [DN 30 June 2014]。

2014年7月時点での逮捕者は69人にのぼった。いずれも「地元」出身のムスリムであり、その中には一時、現職のラム・カウンティ知事(governor)イッサ・ティマミィ(Issa Timamy)も名を連ねた(その後釈放された)。知事は、ラムの「地元民」の土地問題の解決を訴える急進的な言動で知られる人物であった[Beja 2014a]。さらに2014年9月には、警察長官(Inspector General of Police)が、「MRCはアッシャバーブと協力関係にある」との見解を公にするに至った[DN 7 September 2014, 2]。

ケニアではついに、ソマリアへの越境攻撃に端を発するアッシャバーブの活動が、植民地支配以来のケニア国内での土地問題に端を発する分離主義運動MRCの活動に——少なくとも警察の公式見解のレベルで——結びつけられる事態が発生したのであった。テロは単なる治安問題を超え、ケニアの与野党対立を激化させただけでなく、ケニア国内の重要な政治的対立軸と結びつきつつあるようにみえる。
おわりに——事件の影響と今後——

はたして、ンペケトニ事件は誰が、なんのために起こしたのか。ソマリア領内への越境攻撃に抗議するアッシャバーブによるテロなのか、CORDほか野党側の「煽動」が原因なのか、MRCら「地元ネットワーク」によるキクユ人入植者の排斥なのか、あるいはそれらのいくつかが結びついたものなのか。

多くの論者が指摘しているように、考えられるシナリオには複数あり、真相は明らかでない 9 。ただし、ひとつ指摘できるのは、アッシャバーブがケニア国内の政治勢力と結びつき/結びついたとされてテロと国民統合の問題が交錯しはじめていること、そして、実際に国内勢力と結びついているか否かに関わりなく、アッシャバーブをめぐる問題がケニア国内の様々な亀裂を増幅させ、「テロとの戦い」を治安問題としてだけでは処理できなくなる事態が起こりつつある点であろう。ケニアは2007/08年に大統領選挙をきっかけに大きな国内紛争を経験している国である。こうした展開は、2011年にアッシャバーブのテロが始まって以来もっとも恐れられていた事態のひとつにほかならない。

もちろん、ンペケトニ事件が浮かび上がらせたのは政治的な課題だけではない。事件そのものによる経済的なマイナス影響は、いうまでもなく大きい。

ラム・カウンティは、上述したように観光名所のラム島を擁しており、ケニアの中心的観光地のひとつである。しかし、事件を受けて2014年7月以後は、内陸側だけでなく島嶼部を含むラム・カウンティ全体を対象に、ケニア警察は夕方6時半から朝6時半までの夜間外出禁止令を出さざるを得なくなった。ケニア観光局によれば、前年同期に比して観光ホテルの予約は1万7000減という大幅な落ち込みを記録した[Mutambo and Leftie 2014]。

影響は観光にとどまらない。「ラム港・南スーダン・エチオピア・トランスポート(Lamu Port and South Sudan Ethiopia Transport : LAPSSET)」という、ラム・カウンティを起点としケニア北部の低開発地域を縦断して周辺諸国に到達するパイプライン、鉄道、道路、コンテナ港などの大規模開発事業の今後も心配される[OoPM 2012]。また、現時点ではまだ、ンペケトニ事件によって避難を余儀なくされた国内避難民の人権状況の悪化も伝えられる[Daily Nation online 2014b]。

救いは、警察による取り締まりだけではなく、ケニア政府も多角的にコーストの不安定化に対処しようとしていることだろう。

2014年7月末、ケニヤッタ大統領は、ラム・カウンティを対象に、くすぶる土地問題に対して大胆な施策を打った。前述のLAPSSETに関連してラム・カウンティ全面積の70%にのぼる不正な土地取得がおこなわれたとして、22の法人が近年に取得した土地登記書(Title Deeds)をすべて無効化するよう指示したのである[Star 2014]。

2014年8月には、土地大臣がラム・カウンティ住民に土地登記書を配る予定だと発表した。すでにケニヤッタ政権は、コーストのミジケンダ人住民らを対象に、数万通という規模で無償で土地登記書を配付する事業に着手していた。コーストにおける土地問題の抜本解決策のひとつとみられてきたのが、コースト「地元民」の土地無し問題の解決であり、そのための土地権付与である。その重要性は言をまたない。発表の中で土地大臣は、測量士を現地派遣して測量にあたり、2014年10月までに総計で10万件におよぶ土地登記書を発行する見込みだと述べた[NTV Kenya 2014b]。

2011年の越境攻撃以後、テロとみられる事件によるケニア国内での死者は現在すでに300人を超え、千人以上が負傷している[Wafula 2014]。その犠牲の規模そのものがすでに深刻ではあるが、ンペケトニ事件は、テロが、内政のそして国民統合上の問題と結びつくのが極めて容易だと気づかされる一件であった。いまも2007/08年紛争後の国民和解の過程にあるケニアにおいて、問題の重要性は明らかである。今後の行方に注目したい。


(つだ・みわ/アジア経済研究所)
参考文献
〈日本語文献〉
遠藤貢 2012「ソマリア問題の歴史と現状」『アジ研ワールド・トレンド』205: 26-29.
津田みわ 2012「ケニアからみたソマリア問題」『アジ研ワールド・トレンド』205: 30-32.
津田みわ 2014「植民地化初期のケニアにおける土地制度とその変遷」武内進一編『アフリカの土地と国家に関する中間成果報告』アジア経済研究所 42-65.
〈外国語文献〉
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Beja, Patrick 2014b. "Renewed Coast violence blamed on historical injustices outlined by Akiwumi, TJRC reports." Standard Digital 29 June. (2014年7月31日アクセス)
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Daily Nation online 2014b. "Victims of Mpeketoni raids facing starvation." 24 August.
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Wafula, Paul 2014. "370 killed in terror attacks in Kenya since 2011." Standard Digital 17 August.
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脚 注
  1. ケニアでは、2007/08年の国内紛争とその後の国際調停を経て、2010年に抜本的に新しい憲法が制定された。新憲法では大統領権力の縮小が図られ、大統領府直轄だった州県制も廃止された。このため、現在コースト州は公式には存在しない。新たに採用された地方分権制では、旧州・県の代わりに、ケニア全土を1990年代初頭の県境に近い47の「カウンティ」に分割する方式が取られている。
  2. DN[17 June 2014, 9]、DN[18 June 2014, 5]。その他たとえば「ケニア-トゥデイ」ウェブサイトによる被害者リストでは、名前からキクユ人と判断できる男性が49人中30人を占めている[Kenya-Today 2014]。
  3. 植民地期から続く土地問題について、詳細は津田[2014]を参照されたい。
  4. 2012~14年にかけて、著名なイスラーム聖職者がコーストで殺害される事件が相次いでいた。犠牲者には、アッシャバーブやアル=カーイダ(Al-Qaeda)への関与が疑われていたサミール・カーン(Samir Khan)、シェイク・ロゴ(Sheikh Aboud Mohammed Rogo)、シェイク・アブバカール・シャリフ(Sheikh Abubakar Shariff、通称マカブリ[Makaburi])らが含まれた。ケニア警察は関与を否定しており、真相は未解明のままである。
  5. ケニア時間2014年6月16日午後8時過ぎには、オンライン版のデイリー・ネーションが、アッシャバーブによる犯行声明が出た旨の記事を掲載しており、犯行声明は16日のうちに出されたことが確認できる[ Daily Nation online 2014a]。
  6. 「プワニ」の境界線は、本稿のコースト(旧コースト州)の境界とは必ずしも一致せず、英領植民地期に「ケニア保護領(Kenya Protectorate)」とされたインド洋沿岸部の幅10マイル(約16キロメートル)の帯状の地域が想定されている可能性がある。ケニア保護領について詳細は、津田[2014]を参照。
  7. ケニアには、2010年制定の「組織犯罪防止法(Prevention of Organised Crimes)」という法律があり、その中に、誓いの儀式を取り締まる規定が盛り込まれている。
  8. 内務大臣は、第1節でみたように、事件直後の会見ではCORDの煽動を疑っているかのような発言をしていた。CORDとくにオディンガは、コーストに強い支持基盤を築いており、各種のイスラーム主義組織との対話のチャンネルも維持してはいたが、オディンガもそしてコーストの穏健なイスラーム諸勢力も、MRCの分離独立要求に対しては共に反対の立場を貫いてきたのであり、CORDとMRCの組織としての重なりを観察することは困難である。内務大臣がCORDからMRCへと疑いの力点を移行させたことは小さな変更とはいえないが、上でみたように、その点に関しても政府側からの釈明は未だなされていない。
  9. アッシャバーブの手法そのものに変化がみられ、現地の社会的分断を助長するよう工作しているという分析が複数あらわれているほか、ケニア国内の識者の見方も、アッシャバーブの関与を否定する立場から、MRCほか現地の勢力とアッシャバーブが協力しているとするもの、あるいはMRCなど現地勢力がアッシャバーブと関連せずに犯罪行為に従事しているとするものまで、大きく分かれている。たとえば、Analo[2014]、Beja[2014b]、BBC[2014]、Okari[2014]を参照。