レポート・報告書
アジ研ポリシー・ブリーフ
No.249 新興国の海事人材戦略:フィリピンの事例
PDF (455KB)
- 日本の海上貿易の99.5%は海運依存だが、外航船員は1974年から96.5%減少した。
- この人的空白を埋めるフィリピン人船員が、日本商船隊外国人船員の約7割を占める。
- 本稿は2024年に制定されたフィリピン人船員のマグナカルタ(共和国法12021号)が日比海事労働関係に与える影響についてアンビュランス・チェイシング問題をふまえて検討する。
日本の海上貿易は99.5%が海運に依存しており、海運は日本経済を支える重要なインフラである(日本海事センター2026)。しかし、日本の外航船員数は1974年の56,833人から2023年には2,017人へと96.5%減少した。この空白を埋めるフィリピン人船員が日本商船隊外国人船員の約7割を占める。本稿では、日本の海事労働市場の外国人依存化、フィリピンの市場支配、2024年制定のフィリピン人船員のマグナカルタ(共和国法12021号)が日比関係に与える影響を検討する。
日本の外国人船員雇用政策の展開と背景
日本の外国人船員雇用政策は四段階で展開した。1960—70年代は原則禁止、1980年代は限定的自由化で日本人職員と外国人部員の混乗が導入された。1990年代は本格実施期、2000年代以降は依存深化期で便宜置籍船活用により日本商船隊の95%が外国籍となり、完全外国人乗組が可能となった。この政策転換の背景には、日本とフィリピンの顕著な人口動態的対比がある。
表1: 日本とフィリピンの人口指標比較(2020年)
(出所)総務省統計局『世界の統計2025』
フィリピンの国家戦略としての労働輸出
1970年代以降、フィリピンは海外労働者派遣を国家経済戦略の柱として据えてきた。送金額はGDPの8~9%を占め(2022年8.9%、2023年8.5%、Bangko Sentral ng Pilipinas 2024)、船員派遣はこの戦略の中核をなす。移住労働者省、海事産業庁などの行政機関により管理され、英語力、西洋的労働文化への適応性、高品質な海事教育を基盤とした競争優位を確立した。
フィリピン人船員の日本市場参入は段階的に進展した。1980年代の初期参入後、1990年代には日比船員政策協議会の設立や技能認証の相互承認を含む制度的枠組み構築が議論された。2000年代は市場の深化期となり、K-Line海事アカデミー等日本企業による専門訓練センターが設立され、直接的な契約関係の構築が進んだ。商船三井や日本郵船はMOLマグサイサイ海事アカデミー、NYK-TDG海事訓練アカデミーといった合弁校を現地に設立し、奨学金制度、訓練施設への投資、卒業生の優先採用を通じて質の高い人材確保を図った。国際船員労務協会や全日本海員組合もフィリピンのアジア太平洋海事大学への訓練船寄贈など大きく貢献している。
マグナカルタ制定とアンビュランス・チェイシング対策
フィリピン人船員のマグナカルタは2024年に制定された。本法は海員組合などによる30年にわたる提唱活動の結実であり、パンデミックで露呈した船員保護の脆弱性が制定の契機となった。その意義は、フィリピン人船員に特化した初の包括的労働保護法である点にある。本法の主要規定は3点に集約される。第一に、標準雇用契約の法的地位強化と国際労働機関基準に準拠した最低賃金保証である。第二に、社会保障制度、国民健康保険、住宅開発積立基金への加入の義務化である。第三に、30日以内の調停、60日以内の仲裁、司法審査という三段階の迅速な紛争解決メカニズムにより、従来2~3年を要した紛争解決を最大90日までに短縮する。
マグナカルタ制定の背景には、長年船主側を悩ませてきたアンビュランス・チェイシング(過度な訴訟追行)問題がある。これは船員の労災事故や賠償請求を専門とする弁護士・法律事務所が過剰な損害賠償請求を追及する行為を指す。一部の弁護士は船員の脆弱な立場を利用して高額の成功報酬を徴収し、過剰な請求は船主の負担を増大させ、最終的にフィリピン人船員全体の雇用リスクを高めていた。マグナカルタの核心である紛争解決メカニズムは、迅速化と専門性の強化を謳う一方、実質的には司法アクセスを制限し、船主側の負担軽減につながる側面を持つ。船主にとっては予測可能性の向上とコスト管理の改善を意味するが、船員にとっては航海中の証拠収集や複雑な医学的・法的論点への対処が求められるという手続的不利益が生じる。
日本の海事労働市場への影響:コストと予測可能性のトレードオフ
本法の施行により、日本の船主および海運企業は制度的対応を迫られる。本法による社会保険機構への加入義務を含む社会保障負担の拡大は、短期的にはコスト増をもたらすが、中長期的には紛争解決費用の削減と法的不確実性の縮小という便益が期待できる。アンビュランス・チェイシングの抑制は賠償請求リスクを軽減し、紛争解決期間の短縮は事業運営の予測可能性を高める。ただし、この安定化は船員の権利制約を代償とする。しかし、日本企業にとって、マグナカルタによるコスト増は、長期的な教育投資とフィリピン人船員が約7割を占める現状をふまえれば、船員供給の安定化への投資として位置づけられる。ただし、本法が船員の就労意欲や人材の質に及ぼす潜在的影響には留意が必要である。競争環境への影響としては、社会保障費用の負担増と権利制限の相乗効果によって船主は高品質・高コストとなるフィリピン人船員と、低コストで雇用の柔軟性に優れたインドやインドネシアなどの新興供給国船員との間で戦略的な選択を迫られることになる。
まとめ
日本とフィリピンの海事労働関係は相互依存の新たな段階に入った。日本は少子高齢化で外航船員が激減する中、フィリピン人船員に依存してきた。一方、フィリピンは労働輸出を国家戦略の柱とし、体系的な海事教育で世界最大の船員供給国となった(BIMCO/ICS 2021)。2024年制定のマグナカルタは30年にわたる提唱活動の結実であり、アンビュランス・チェイシング対策という船主側の要請も反映する。迅速な紛争解決は船主のコスト管理向上をもたらすが、船員の司法アクセス制限という代償を伴う。日系海運企業は社会保障費用の増加と紛争解決の安定化というトレードオフに直面するが、約7割というシェアと従来の教育投資を考慮すれば戦略的投資と位置づけられる。ただし、権利制約が船員の士気や人材の質に及ぼす影響、またインドやインドネシアなど新興船員供給国との競争環境の変化には、継続的注視が必要である。
(ちばな いづみ/新領域研究センター)
参考文献
-
Bangko Sentral ng Pilipinas (2024) 2024 Beyond Boundaries : Annual Report
https://www.bsp.gov.ph/Media_And_Research/Annual%20Report/AnnRep_2024.pdf (2026年1月26日アクセス). - BIMCO and International Chamber of Shipping (BIMCO/ICS) (2021) Seafarer Workforce Report: The global supply and demand for seafarers 2021, Livingston: Witherby Publishing Group.
- 総務省統計局(2025)『世界の統計2025』https://www.stat.go.jp/data/sekai/pdf/2025al.pdf (2026年1月26日アクセス).
- 日本海事センター (2026)『日本の海運 SHIPPING NOW 2025-2026』日本海事広報協会.
本報告の内容や意見は執筆者個人に属し、日本貿易振興機構あるいはアジア経済研究所の公式見解を示すものではありません
©2026 執筆者
